ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Atatürk)とは、トルコ革命の指導者、トルコ共和国建国の父である。
「ケマル」は幼年兵学校時代に数学教官から与えられたあだ名で、「完全な」を意味する。
生涯
1881年、オスマン帝国のセラーニク(現・ギリシャ共和国テッサロニキ)に生まれる。
1901年に士官学校を、1905年に参謀学校(陸軍大学)を卒業。オスマン帝国軍人として、イタリア-トルコ戦争(1911)、バルカン戦争(1912-13)、第一次世界大戦(1914-18)などに参加する。第一次世界大戦では英仏軍のガリポリ上陸作戦を迎え撃ってイギリス軍の進軍を食い止めるなどの活躍を見せ、「アナファルタラルの英雄」と呼ばれた。ちなみに、英国側でガリポリ上陸作戦失敗の責任を取って辞任した海軍大臣は言わずと知れた後の英首相ウィンストン・チャーチルである。
大戦終結後のオスマン帝国は連合国によって分割占領され、各地で抵抗運動が勃発。ケマルは指導者として運動に加わる。連合軍が抵抗運動を抑えようと当時の首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出した帝国議会議員たちはケマルが結成した「アナトリア権利擁護委員会」のもと大国民議会を開く。ケマルはここで議長に選出され、新しく結成されたアンカラ政府のトップとなる。
また西方から英国の援助を受けたギリシャ軍が攻め込んできたが、ケマルは自ら軍を率いてこれサカイア川でを撃退。そのまま逆転攻勢に転じ、地中海沿岸までを奪回した。この快進撃により有利な条件での休戦交渉が開かれ、トルコは分割の危機を回避することに成功する。
ローザンヌ講和会議後、ケマルは大国民議会に帝政を廃止させる。1923年に総選挙を実施、共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
大統領となったケマルは怒濤のような改革に着手。政教分離、欧州を手本にした法整備、女性の権利拡大、トルコ語の文字改革(アラビア文字からラテン文字に)、姓の創始(この際議会から「トルコの父」を意味するアタテュルクの姓を送られる)、農業改革など、脱イスラムおよび西欧化・近代化を目指した。
急進的な改革ゆえに抵抗や反乱もあり、1926年にはケマル暗殺未遂事件が発覚。この際ケマルは反対派を一斉逮捕し、結果議会はケマルが党首を務める共和人民党の一党独裁体制となる。
1938年、執務中に倒れ死去。激務と過度の飲酒による肝硬変と診断された。
功績
- 農産物の品種改良、農業機械化などに率先して取り組んだ結果、トルコを農業後進国から食料輸出国にまで変えることに成功した。日本のスーパーにもトルコ産パスタが並んでいるのを見たことがある人は多いはずである。
- トプカプ宮殿、アヤソフィアといった世界でも一級の文化遺産の一般開放を決定。現在イスタンブルが世界有数の観光都市となる礎を築く(特にキリストイスラムの争奪の的になったアヤソフィアを無宗教の「博物館」としたことは、無駄な争いを回避したという点で特筆モノ)。
- 英仏伊といった列強の利害対立を巧みに利用しながら、第一次世界大戦で失った領土の回復、不平等条約(カピチュレーション)の解消をローザンヌ会議で成功させた(もっともこれは全権となった次代大統領イスメット・イノニュの努力も大きいが)。
- 文字改革
- 義務教育の推進
- その他(ry
言ってみれば、「一人で明治維新やっちゃいました」。要するにリアルチート。
冗談でも何でもなく、この人物が現れなかったら、今のトルコ、いや中東・バルカン半島はまったく別の姿になっていたと思われる。これでは国父として崇拝されるのも仕方ない気がする。
トルコの国父
ケマルは反対派を徹底的に排除し独裁者として君臨しながらも、国の基礎を築き安定した政権を達成した稀有な例である。これによりケマルはその死後から現在に至るまで、国父として変わらぬ敬愛を国民から受け続けている。トルコ各地にケマルの像が建てられ、彼にちなんだ名前のついた空港や大学、通りなどが見られる。
なおその敬愛は時に個人崇拝の様相を呈し、「行き過ぎた神格化」などと見られる場合もある。
批判
ケマルの行き過ぎたトルコの民族主義はクルド人の迫害に繋がっているとの指摘もある。また、政教分離や西洋化政策はイスラム主義者からは背教者と非難され現在のトルコではイスラム主義政党が復活しつつある。
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