単語記事: モンゴルの歴史

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モンゴルの歴史では、現代のモンゴル歴史だけでなくモンゴル高原全体の歴史を述べる。

概要

モンゴル高原現在モンゴル南モンゴル(中国内モンゴル自治区)・ブリヤート共和(ロシア)の三つに大きく分割されているが、かつてはこれを統一支配する遊牧国家が存在していた。モンゴル高原は北をパイカル、西をアルタイ山脈、南を万里の長城、東をヒンガン山脈を大まかなとする地域で、遊牧に非常に適した土地である(というよりは、遊牧以外適さない土地である)。

モンゴル満洲といった地域の歴史の多くは史料の制約上、漢文史料に頼ったものとなる。しかし歴史を片方の視点からのみ見た場合、それがいかに独りよがりなものとなりやすいか、現代日本人のご存じの通りである。漢文史料のみによって伝えられたモンゴル高原の諸民族に対する知識は時に大きな誤解や偏見をみ、誤ったイメージを与えてきた。

この記事ではモンゴル人自身の歴史観を尊重して(外古・内古→北モンゴル南モンゴルなど)モンゴル高原歴史を解説する。

匈奴単于国と遊牧国家の誕生(前2世紀〜後2世紀)

モンゴルの歴史は遊牧文明の到来とともに始まる。初めて記録に残されたキンメリア人以来、遊牧文明は短い期間で中央ユーラシアに広まり、紀元前にはモンゴル高原にも到来した。同じ頃、中国では春秋戦国時代が始まっており、中原の諸の敵対者として、あるいは同盟者として北方の騎民族が登場するようになる。

時代に記録された北方民族の勢は小さかったが、しだいにモンゴル高原西方氏、中央の匈奴東方の東の三大勢分割されるようになる。これらの遊牧騎民族を脅威に思った戦国時代の諸はそれぞれを築いてこれに対抗したが、始皇帝はさらに各を繋ぐことで「万里の長城」を建設、そして将軍恬を匈奴遠征に使わすことで高原の勢を封じ込めた。

しかし、始皇帝の死によって混乱したことで、モンゴル高原に権空白が生ずる。その間隙を突いて台頭したのが匈奴冒頓単于(バガトル)である。彼は東の東を滅ばし、西の氏を中央アジアにおいやって史上初めてモンゴル高原を統一。大勢を築いた。同時期、末の戦乱を制してを建した劉邦とも対立、彼を頭山の戦いで破ることによって匈奴アジア随一の大に成長した。冒頓単于匈奴の軍制・国家体制を整備、モンゴル帝国時代にまで続く国家基盤を作った。冒頓はまたジュンガル地の孫、チベット東部のなども征し、匈奴匈奴帝国とでも呼ぶべき強に成長させた。匈奴全盛期は彼の跡を継いだ老上単、軍臣単まで続く。

頭山の敗戦から毎年匈奴に贈り物を贈るという実質的な属状態にあったが、文の時代にを蓄え、武帝の時代には匈奴との全面戦争を始めた。焦点となったのはオルドス地方である。オルドス地方は遊牧に適した土でありながら行する河の存在によって農耕もできる土地であり、この後も長く華北の政権と高原の政権の争点となった。長期にわたって準備を整え、またにまさるが最終的に勝利をおさめ、オルドス地方に河西四群を設置したもののこの戦争は両に深刻な被害をもたらした。匈奴では単の死後何人もの単立する混乱期に入り、邪単(この妻がかの王昭君)がの後ろを得ることでようやく高原を再統一させることに成功するが、ここに至って匈奴関係は全に逆転した。

匈奴の単は自身の権確立するためにに協を仰がるを得ず、匈奴の属同然となった。一方のでも匈奴との戦争が衰退したこと、王莽の簒奪が起こったことなどによって匈奴に直接手を出すことはなかった。しかし、48年に匈奴は南北に分裂、南匈奴(後漢)の領土下に入って護を受け、北匈奴は新鮮卑の攻撃を受けて西方に逃れたため、かつての匈奴帝国全に瓦解した。潰走した北匈奴フン族になったという説があるが、未だ確はない。

五胡の華北侵入と柔然可汗国(2世紀〜6世紀)

かつて冒頓単于によって滅ぼされた東の残党は、鮮卑(サルビ)・烏丸(ウラン)の二つに分けられた。ヒンガン山脈付近で遊牧する鮮卑は匈奴が衰退する中で勢を拡大、英檀石槐が登場すると匈奴西方へと追いやってモンゴル高原を統一した。しかし檀石槐は冒頓と違って確乎とした国家体制を築くことができず、彼の死後鮮卑は有力部族が割拠する分裂状態に陥った。

同じ頃中原では黄巾の乱に始まる長い戦乱時代に入っており、鮮卑の諸部族を初め、烏丸といった周辺の異民族傭兵として華北に流入。南匈奴の末裔たる劉淵が西を打倒してを建てると、華北に流入していた他の民族も独自の国家を建てるようになった。いわゆる五胡十六国時代である。諸勢の合従連衡はモンゴル高原まで及び、拓跋部・文部といった鮮卑の一高原で争った。しかし拓跋部が南下して代(後の北)を建てると華北南モンゴルに割拠する諸を征華北南モンゴルにまたがる北が誕生した。

一方、拓跋部などの有力部族が南下したことで北モンゴルで台頭したのが柔然である。柔然は「禿頭」を意味する“ムクル”とあだ名された拓跋部の奴隷を始祖とし、ムクルの子孫社崙はモンゴル高原を統一した後にキュテレブリ・カガンを称した。以後モンゴルの君はカガン/ハーンを称するようになる。

柔然は南モンゴル地帯を奪おうとして北と対立、南満洲の高句麗と協して北包囲網を作り上げた。この事態に対し、北は柔然と敵対する、パイカル畔に居住する丁と同盟を組む。高とも呼ばれる丁は勢を拡大、北の狙い通り柔然は丁と敵対して弱体化した。しかし、その丁属する突厥部が反乱を起こして急速に台頭、最終的に丁・柔然を支配下において突厥が年にモンゴル高原を制覇した。この際、西方に敗走した柔然の残党はヨーロッパヴァール可汗となったとする説が有である。

突厥可汗国(ギョクテュルク帝国)とソグド民族の登場(6世紀〜8世紀)

・突厥ともにテュルク(=トルコ)の音写といわれており、これ以降テュルク民族中央ユーラシアで活躍するようになる。丁属していた突厥はアセナ氏族のブミンの導によって勢を拡大、突厥が高原を統一するとブミンはイルリグ・カガンを称した。次代のカン・カガン東方では全に柔然を滅ぼし、西方では叔父イステミササン朝と協してエフタルを征し、モンゴル高原・トルキスタンにまたがる大帝国を築いた。この時期の突厥の軍事は卓越しており、北の後継国家である北周・北斉を全に属扱いしていた。しかし、あまりにが大きくなってしまったことに加え隋の文(楊堅)の離間策によって582年に東西分裂するも、なお突厥の勢は強大であった。

隋を経て唐の時代に入ると両の勢は拮抗するが、太宗李世民は万全の準備を整えた上で名将靖を派遣して突厥を征した。太宗は突厥人にテングリ・カガンと呼ばれて史上初めてモンゴル高原中国大陸を一元支配した人物となった。しかし唐の羈縻政策によるモンゴル高原支配は長く続かず、王族の一人クトゥルグが唐から独立イルテリシュ・カガンを称して第二突厥可汗を建てた。次代のカプガン・カガンは唐に敵対的だったが、それ以降のカガンは概ね唐とは協調路線をとり、モンゴル高原は一時的に安定する。

この時代で特筆すべきはオアシス都市に住む商業民族ソグド人との結びつきである。匈奴時代にもオアシス都市との結びつきはあったがあくまで間接的なもので、ソグド人は突厥の政に参加して突厥の公用語事実上ソグドとなる程であった。ソグド文字を参考にして作られた突厥文字(テュルクルーン文字とも)は遊牧民の作った最初の独自の文字であり、画期的な発明であった。突厥文字重な遊牧民自身の世界観を残し、突厥文字に由来する文字はるかハンガリーまで伝わった。

現代のトルコ(テュルク)人は突厥の建を持ってトルコの建とし、突厥を敬意を持ってギョクテュルクと呼ぶ。

トグズ・オグズ(ウイグル可汗国)とテュルク民族の西進(8世紀〜9世紀)

突厥の西に住むテュルク民族勒と総称されていたが、そのなかでトグズ・オグズ(九姓勒)と呼ばれる集団が台頭、ビルゲ・キョル・カガンに率いられて突厥を滅ぼしモンゴル高原を統一した。トグズ・オグズの中心部族の名を取ってこれをウイグル可汗と呼ぶ。ウイグルは唐での安史の乱に出兵することで勢を拡大したが、同時期に吐蕃王(古チベット帝国)が台頭してきたことによって吐蕃と東トルキスタンを巡って抗争を繰り広げることとなる。

ブグ・カガンの時代には原の中にオルドゥ・バリクと呼ばれる事実上の首都が築かれ、ソグド人の信仰するマニ教を導入するなど第二突厥可汗以上ソグド化が進んだ。しかしトン・バガ・タルカンクーデターを起こしてカガンとなると、彼はブグ・カガンとソグド人官僚を殺して親唐路線をとった。この政変の陰にはウイグル宮廷の中での親唐官僚と親ソグド官僚のせめぎ合いがあったと考えられている。

795年にはそれまでカガンを輩出してきたヤグラカル氏の王統が途絶え、代わってエディズ氏トゥルグ・センギュンがカガンに即位した。これ以降をエディズ政権(擬ヤグラカル政権)ともいう。だが、による大飢饉が起こったことでウイグルは急速に衰退、西北のキルギスの攻撃を受けたことでトグズ・オグズは解体した。

しかし商人との強い結びつきを持っていたウイグル人はこれまでの遊牧民と違い、進んでオアシス都市の住人となった。オアシス都市に移住したウイグル人の国家ウイグルと呼ばれ、これが現在新疆ウイグル自治区ウイグル人の祖先となった。これによって中央アジアに大規模な民族移動が生じ、多くのテュルク民族が西へ移動を始め西アジアイスラーム社会は大きな変容を強いられることとなる。一方でモンゴル高原ではモンゴル民族に連なる集団が活躍するようになる。

キタイ帝国の成立と長期和平(9世紀〜12世紀)

突厥可汗が滅びた頃、南モンゴル東部にはタタル(室)・キタイ(契丹)・タタビ(奚)といったモンゴル系の諸部族が割拠していた。ウイグルが存在した頃はこれらの部族は半独立状態にあったが、ウイグルが滅びるとキタイのヤリュートアブーチ(耶保機)がこれらの諸部族を統一し、ハーンとなった。

一方、華北では突厥出身の(サダ)部華北を制圧しつつあった(後唐)ため、両者は対立、抗争に入る。しかし沙軍閥内の内部抗争から石敬瑭キタイの応援を仰ぐと、耶(ヤオグゥ)は長以南の土地の割譲(十六州)・沙軍閥の属化(後)を得る。石敬瑭への反発から沙軍閥のキタイへの臣従は終わった(後漢・後周)が、十六州はキタイの元に留まった。後周を継ぎ、「五代十国」を統一した(北)は十六州の奪還にこだわったためにキタイと対立した。

しかし軍事にまさるキタイ軍に軍はおされ首都開封のと鼻の先である澶淵で両は和約をかわした。これを澶淵の盟と呼び、実質的な平和条約であったがこれによって両の関係が安定したため、キタイは今までにない経済発展をとげる。は毎年キタイにを送ったものの、キタイはそのの物産を買いめたので経済はかえって発展した。キタイでも経済に従属しがちだったが文化面で発達、キタイ人独自の文字である契丹文字が発明された。

遊牧国家でありながら十六州という農耕地帯を領土に加えたキタ帝国は、遊牧民と農耕民をそれぞれ異なる方法で統治する二重統治体制を施行した。これに加え、「五」の制度などキタ帝国が農耕民を統治するために生み出した制度の多くは後のモンゴル帝国に引き継がれることとなる。

キタイ・の関係はこれまでにないほど安定していたが、耶保機の時代に征した渤の旧領からジュシェン(女)人が台頭、キタ帝国を滅ぼしたことでキタイ・安寧の時代は終わった。ジュシェン人は南モンゴル華北を制圧し(アルチュフ)を自称したが、北モンゴルを制圧することはできず北モンゴルでは複数の遊牧部族が独立行動をとるようになる。

金国とモンゴル部の登場(12世紀〜13世紀)

ウイグルが滅びた後、南モンゴル出身のキタイが東部・南部モンゴルを制圧したことはすでに述べたが、北モンゴルではどうだったのか。突厥文字碑文ではウイグル東方にオトゥズ・タタル(三十姓タタル)が存在し、キルギスウイグルを滅ぼした後にはトグズ・タタル(九姓タタル)がこれを撃退したことがられている。両者の関係は明らかではないが、位置関係から後者が後のケレイト部、前者がそのままタタル部になったと考えられる。このタタルと呼ばれた部族はキタイが勢を強めるとその配下についたが、アルチュングルンが南モンゴルを制圧するとそれには従わず割拠した。

上述のオトゥズ・タタル漢文史料に現れる「室」に推定されているが、その室の一部として記されるこそがモンゴルの先祖であると考えられている。モンゴルは次第に勢を強め、カブル・ハンの統一によって初めて部族国家としてのまとまりを持つようになる。こうしてモンゴル高原では前述のケレイト部・タタル部・モンゴル部に加え、メルキト部やナイマン部などが強勢となり、「元秘史」の世界観に近づいてゆくこととなる。

アルチュングルンはモンゴル高原の諸部族に対し「夷を持って夷を打つ」政策をとり、部族間の離間を謀って高原に統一勢が現れないように心がけた。モンゴル高原戦国時代だといっていい状態にあったが、やがてモンゴル部にテムジンが登場したことでモンゴル高原の戦乱は収束してゆく。

テムジンは当初ケレイト部のトオリル(オンカン)と同盟を組んでタタル部などの有力部族を滅ぼし、オンカンと仲違いするとこれを滅ぼしてモンゴル高原最大の勢となった。最後の有力部族ナイマンを滅ぼしモンゴル高原を統一したテムジン1206年にチンギス・カンを名のり、イェケ・モンゴルウル(大モンゴル)の成立を宣言した。モンゴル帝国の時代の始まりである。

大モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)の時代(13世紀〜14世紀)

モンゴル帝国も参照。

チンギス・カンモンゴル高原を統一した後、冒頓以来の伝統に従って領域を右翼(ジュチ・オゴデイ・チャガタイらチンギスの子供達のウルス)、左翼(カサル・カチウン・テムゲらチンギスの達のウルス)、中央(チンギスの直轄領)に分割した。チンギス・カン時代には左翼の三ウルス(通称東方三王)が他の征を行っている際にモンゴル高原の守備を担当した。第二代のオゴデイ・カーンの時代にはモンゴル高原の中央部に首都カラコルムが造営され、カラコルムは世界中から人と物の集まる都市となった。

第四代皇帝モンケが死ぬと、そのフビライアリク・ブケの間で位継承戦争が勃発した。フビライが最終的に勝利を収め皇帝となったものの、それまでクリタイ(集会)によって帝国の総意として撰ばれてきたカーン(皇帝)が武によって決められたという事実カーンの権威を失落させた。このため、帝国はジョチ・ウルス、フレグウルス、チャガタイウルス、大元ウルスの四つに大きく分割されていくが、モンゴル高原フビライの大元の下に残った。

フビライカーンとなると、新しく大都(カン・バリク)と呼ばれる首都モンゴル高原中国大陸界地帯に建造した。このためモンゴル高原帝国の中心地から外れてしまうが、第七代カーンカイシャン高原の勢の支持によって位につくなど、なお帝国の重要地であり続けた。

第九カーンのシデバラの死後、大元はカーンが頻繁に変わる混乱期に入った。第十五代カーンのトゴン・テムルの時代にようやくカーンの位は安定するが、すでに大元の政治は腐敗し度重なる災もあって人民は大元を見限りつつあった。1348年の方の反乱を皮切りに華南では反乱が頻発し、華南の反乱勢をまとめあげた朱元璋は軍を率いて大都に迫った。トゴン・テムルを中心とする大元政府は中国大陸を手放す決断をし、モンゴル高原に退却した。これによってモンゴル帝国中国支配は終わりをつげる。

オイラート部の活躍(14世紀〜15世紀)

中国大陸を放棄したトゴン・テムルだったが、南モンゴルまで退いた所でモンゴル・明の戦線は一旦停滞する。トゴン・テムルの次のハーン、アユルシリダラは明軍を撃退したが、その次のトグス・テムル高原東方において明に大敗し反乱にあって殺される。トグス・テムルを殺してハーンとなったのはかつてフビライ位を争ったアリク・ブケの子孫であるイェスデルであり、その支持体がオイラート部であった。

元来反フビライの色が強かったオイラートはこれを皮切りにモンゴルから独立して行動するようになり、旧ケレイト部・ナイマン部などと連合を組んでドルベン・オイラー(四部オイラート)と称する部族連合を建設した。対して残るモンゴルウルスはドチン・モンゴル(四十部モンゴル)と呼ばれ、ここにオイラートとモンゴルの二大勢時代に入る。

イェスデルの血統はまもなく断絶したが、オイラートの導者は代わる代わる傀儡のハーンを擁立してモンゴル、そして永楽帝率いる明と抗争を繰り広げた。永楽帝が死んで明の圧が弱まるとオイラートのトゴンタイシがタイスン・ハーンを傀儡として高原で勢を強め、子のエセンタイシの時代にオイラートはついに高原統一を果たす。

エセンはさらに東トルキスタン満洲も征して大帝国を築くが、「チンギスの子孫以外はハーンを名のってはならない」という慣習を破ってハーンを自称したために反乱が頻発、エセンは殺されて「オイラー帝国」はあっけなく瓦解した。この後もオイラートは高原西方の大勢として残るが、次第にモンゴル圧迫されるようになる。

モンゴルの再統一(15世紀〜16世紀)

エセンはハーンを称するにあたってモンゴル高原のチンギスの子孫を殺戮しており、その数は非常に少なくなっていた。その中でエセンを祖としたために難を逃れたバト・モンケモンゴルのハーンとなり、ダヤン・ハーンを名のった。

ダヤン・ハーンはモンゴルを六大部族に分割し、これに自身の子供を婿入りさせることでモンゴルの統一を果たした。その構成は左翼にチャハルハルハ・ウリヤンハンの三部族、右翼にオルドス・トメト・ヨンシエブの三部族という形で、この部族編成は現代モンゴルまで続くこととなる。ダヤン・ハーンの死後モンゴル導権を巡って抗争が起こるが、ダヤン・ハーンの次に強いを示したのはトメト部のアルタンであった。

アルタンはモンゴルの実権を握ると積極的に外征を行い、弱体化したオイラートから高原をほぼ取り戻す一方で明を威嚇して明とモンゴルの交易を拡大させることに成功した。明との交易が増えるとアルタンは交易の拠点として南モンゴルフフホトを築き、これが現代に至るまでの南モンゴルの中心地となる。

一方、アルタンはチベット仏教の高僧ソェナム・ギャツォを招いてダライ・ラマ三世の称号を与えた(一世・二世は諡された)。これによって大元ウルス時代以来途絶えていたチベット仏教が再びモンゴル人の間に広まり、モンゴルチベットの関係は強化された。これらのアルタンの政策はその後のモンゴル民族の生活・文化の方向を決定づけるほどの大きい影をもたらした。

帝政ロシアとダイチン・グルンによる分割(16世紀〜17世紀)

アルタン・ハーンの死後、16世紀末頃からロシア満洲という新モンゴルと接触するようになる。ロシア人は東方シベリアに進出するにあたって、当初は遊牧民を避けてシベリア北部を進んでいたが、やがてモンゴル導者とも接触を持つようになる。高原東部に位置するハルハ部は解体されたウリヤンハン部を吸収し、アルタンに従ってオイラートと戦ったことから北モンゴルにおける最大部族へと成長していた。北モンゴルハルハの導者は次第にロシア交を持つようになり、モンゴルの中でも重要な地位を占めるようになる。

一方モンゴル全体の名上の盟たるチャハル部はヒンガン山脈の東方に位置していたが、満洲人がヌルハチの下団結してマンジュ・グルン(満洲国)を建設するとこれに圧迫され、西方への移動を余儀なくされた。時にチャハル部はリンダン・ハーンに率いられており、リンダンは満洲人に対抗するため自らの下でモンゴルを再統一しようと試みたがうまくゆかず、失意の内に病死した。残されたリンダン・ハーンの遺児エジェイは大元ウルスの玉璽を差し渡すことで降伏し、モンゴル人の歴史ではここにおいて「モンゴル帝国」が滅亡したとする。時に満洲人の導者はヌルハチからホンタイジに替わっていたが、ホンタイジはこれを期に号をダイチン・グルン(大清国)めた。

モンゴルハルハはこの後もしばらく中立を保つが、ジューンガルガルダン・ハーンの攻撃(後述)を機に清朝に下り、南北モンゴル清朝によって統一されることとなる。一方ロシア帝国も南下を続けた結果、ハルハより北方に住むブリヤート人を支配下に置いた。露清のモンゴル高原におけるはキャフタ条約で決められ、モンゴル人は満洲人とロシア人によって二分されることとなる。

清朝の支配(17世紀〜20世紀)

清朝の支配下に入ったモンゴル人統治は古衙門(後の理院)が担当することとなる。モンゴル人はウイグル人、チベット人とともに「部」として間接的支配しか受けず、自治が残された。

清代モンゴル

ねこのように分割されて統治され、現代の内モンゴルではこの時の区分が今でも一部残っている。それまでなかった「内古」「外古」の概念が生まれるのもこの時からである。

モンゴル人にとっての清朝支配の転機は1840年のアヘン戦争ではなく、それから20年後の西北ムスリムの反乱にあった。この反乱は人の左宗棠の強いによって鎮圧され、鎮圧後には新疆が設置されて民族が辺統治に関わるようになる。この事件をに「満洲人・モンゴル人連合政権」という面の強かった清朝は変化をとげ、「満一家」という言葉が示すように民族が重きを成すようになる。

清朝自体の変化と行して、モンゴル人の実生活にも変化が訪れる。清朝初期においては満洲モンゴル高原民族が流入することは禁じられていたのが、人口増加・モンゴル人の影低下といった条件が重なってこれらの地に違法流入する農民が増する。

もはや貴族化していた南モンゴルの王侯の中には進んで民族を引き入れて地化する者もいたが、多くのモンゴル人はこの事態を憂慮し、清朝からの独立を画策することとなる。また、満洲モンゴル民族の流入によって土地を失った一般のモンゴル人の一部は「賊」となって民族農民を襲撃し、影から独立運動を支えた。

独立運動とボグド・ハーン政権

起をきっかけに辛革命が起こると、北モンゴル(外古四部)のハルハ族は活ジェブツンダンバ八世を元首に独立を宣言した。この独立は全モンゴル人に強く支持され、南モンゴルの大部分の王侯・反運動を行う大規模なモンゴル賊・匪賊が合流を宣言した。ジェブツンダンバ八世がボグド・ハーン(なる皇帝)と呼ばれたことから、これを後世ボグド・ハーン政権と呼ぶ。

モンゴル人はロシア帝国からの援助を期待していたが、既に日露協約によって東部内古を日本の勢圏、それより西をロシアの勢圏と分け合ったロシアは南北モンゴルの統一を認めず、南北モンゴルの統一独立は挫折した。モンゴル人はチベットと相互に独立を承認し、日本を始め列強にモンゴル独立を訴えたが、どは失敗に終わった。挙げ句に1914年の中露によるキャフタ会議では「中華民国を宗とする高度な自治」のみが認められ、モンゴル独立は遠のいた。

ロシア革命が勃発すると中華民国モンゴル高原握を論見、1919年には段瑞の部下徐箏がフレー(現ウランバートル)に軍隊を率いて訪れてモンゴル人に「屈辱的な」自治権撤回を行わせた。中国軍の圧が強まる中、翌1920年にはモンゴル人民党が結成され、極東共和に援助を要請した。一方、1920年には軍を率いるウンゲル男爵モンゴルに侵攻して中国軍を追い払ったが、男爵は残な男で傍若人に振る舞ったため、男爵に対しても反感が起こった。

ここに登場するのがスフバートル、チョイバルサンといった英雄達である。彼らは極東共和側で義勇兵を募り、ソ連の援軍とともにウンゲルンの率いる軍、中国軍を打ち破って北モンゴルを統一した。彼らはボグド・ハーン政権から政を委任されモンゴル人民政府を設立し、ボグド・ハーンが亡くなると新しくハーンを立てることなくモンゴル人民共和立を宣言した。

満州国と第二次世界大戦・ハルハ河戦争(20世紀)

モンゴルにおいて独立戦争が行われていた頃、満洲では日本が勢を拡大し中国と対立を深めつつあった。1931年には満州事変が勃発し、東部内古も領土の一部とする満州国が誕生した。日ソ両大モンゴル人が民族運動によって独立を企てることをおそれ、隣モンゴル人と接触しようとしたモンゴル人の多くをスパイ容疑で処刑した。

新しく誕生した満州国モンゴル人民共和との間で行われた戦争モンハン事件であり、これをモンゴル人はハルハ河戦争と呼ぶ。ハルハ河戦争と並行してモンゴル人民共和内では前述の「日本スパイ容疑」による大粛清が始まり、ソ連への属化が進む。ソ連による粛清の過程でモンゴル独立英雄の多くは姿を消し、チョイバルサンのみがモンゴル独裁者として残ることとなる。

一方、日中戦争が拡大する中で西部古でも日本軍工作が行われ、デムチクドンロブ(徳王)を中心とする古聯合自治政府が誕生した。日本は統一モンゴル独立運動こそ認めなかったものの、日中ソの中ではモンゴルの伝統文化(遊牧生活)に理解を示し、中国支配の打破を信じて東西内古のモンゴル人の多くは日本軍に協した。

第二次世界大戦末期、連合の間でヤルタ会談が行われるとスターリンは「外古の現状維持」をした。このヤルタ協定によって初めて( 北)モンゴル独立際的に認められることとなったが、このことは同時に南モンゴル中国の影下に入ると認められたということも意味した。

モンゴル人民共和ソ連に従って対日参戦を行い、満州国古聯合自治政府に攻め込んだ。東西内古を占領したモンゴル人民軍は南北モンゴルの統一独立を望み、各地で南モンゴル独立運動との協議も行われたが、最終的にソ連の圧によってモンゴル人民軍は撤退を余儀なくされた。南北モンゴル統一の最後のチャンスはこのようにして失われたのである。

モンゴル人民共和国と内モンゴル自治区(20世紀)

モンゴル人民軍の撤退後も南モンゴルでは独立運動は続けられ、旧満州国領の東部内古ではボインマンドを中心とするモンゴル人民政府が成立した。一方旧古聯合自治邦では中国共産党の下で古自治運動連合会が組織され、中国共産党に属するウラーンフーが席とされた。1946年の東西内古統一会議によって両者は合同するが、実権はウラーンフーに握られ内古は全に中国共産党揮下に入ることとなる。

一方、モンゴル人民共和ではソ連領で広く行われた日本人捕虜の強勢労働によって首都ウラーバートルの整備が行われ、近代国家としての体裁を整えていった。モンゴル人民共和独立として東欧を初めとする各と外交関係を立していったが、ソ連の政策に忠実に従う姿は時に「ソ連衛星」「ソ連の16番の共和」とも揶揄された。1962年にはコメコンに参加し、政治的にも経済的にもソ連に従属する国家となった。

冷戦期のモンゴル人にとってとりわけ不幸な出来事は1960年に始まる中ソ対立と文化大革命であった。モンゴル人民共和は自の保全のためにより深くソ連に従属せざるを得ず、 内蒙古自治区は対ソ連の前線基地化して一層人化が進んだ。文化大革命が起こるとそれまで中国共産党に忠実だったウラーンフーは失脚し、多くのモンゴル人が「分裂義者」「地域義者」として投・処刑された。モンゴル人は数十万人が殺されたと推定され、多くの伝統文化が破壊されたがこれに対する中国政府からの謝罪は未だない。

70年代から80年代にかけて、モンゴル人民共和ではツェデンバル書記長として長期政権を担っていたが、ソ連ゴルバチョフ書記長となったのと前後してモンゴルでもトムンフが新しく書記長に就任した。バトムンフはゴルバチョフに従ってモンゴル版のペレストロイカである「シネチレル」政策を行い、モンゴルにおいても民運動が広がる。1992年には民革命によってモンゴル人民共和モンゴル(モンゴルウルス)とめられ、北モンゴルにおける共産主義の時代は終わりを告げる。

モンゴルの民主化(20世紀〜21世紀)

モンゴルの民化においては一滴の血も流れなかった。これは民化を担ったモンゴル化同盟の導者の多くが人民革命党の子だったからである。そのため、「モンゴルの民化」といっても実質的には世代交代の面が強かった。

市場経済への移行は多くの旧共産圏同様、大きな混乱と失業をもたらした。日本を初めとする各から援助が行われているが、モンゴル経済は未だに安定していない。すでに、GDPでは人が多数となった南モンゴルに抜かれてしまっている。現代のモンゴルの状況は、二大DQN国に挟まれた不幸な国という言葉がよく表しているだろう。

しかし、民化はそれまで共産主義によって抑圧されたていたモンゴル人のナショナリズムを生んだ。現代モンゴルではチンギス・カンの再評価、チベット仏教モンゴル文字の復活などが行われ、「モンゴル人とは何か、どうあるべきか」がめて議論されている。

周知の通り、モンゴル人民共和時代はソ連の圧によってチンギス・カンを賞賛することが禁じられていた。ハルハ河戦争前後のソ連によるモンゴル導者の粛清然とれるようになったのも、つい最近の話である。「モンゴルの歴史」をることはまだ始まったばかりと言える。

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読み:モンゴルノレキシ
初版作成日: 13/07/11 17:18 ◆ 最終更新日: 17/08/25 21:43
編集内容についての説明/コメント: 「関連項目」に「冒頓単于」「耶律楚材」「モンケ」を追加しました。
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モンゴルの歴史について語るスレ

1 : ななしのよっしん :2013/08/09(金) 15:32:23 ID: DExyyltryB
タタールのくびき」によるロシア人のモンゴルへの恨みから、スターリン率いるソ連モンゴルNKVDに命じて、チンギス・ハーンの子孫を虐殺しまくって系図を大量に破棄させたのと、
http://tanakanews.com/a0720mongolia.htm

日本古聯合自治政府と協したというけれども、その実日本軍の縄り争い、土地革による入植などの勝手な都合で領域を拡大させられて、統治下の人が多数になってしまい、その後の外モンゴルとの統一の芽が全に摘み取られる一因となってしまったことも追記希望
http://www.geocities.jp/keropero2003/syometsu/innermongolia.html
2 : ななしのよっしん :2013/08/26(月) 21:31:22 ID: EA2i2Kwd9C
モンゴル最初の統一国家の成立は前200年頃、独自の文字(突厥文字)を持ったのは五世紀と地味歴史が深い地域なんだよな。

やっぱり自分たちの歴史書をなかなか持たなかったのが惜しかったな…
3 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 12:35:05 ID: dCZoXwy3CP
侵略者である騎民族中華文明に染まるのは日本含めた発展途上が洋着たような物なのかね
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