ヨークタウン級航空母艦とは、アメリカ海軍が運用していた航空母艦である。
概要
1930年代に3隻が起工され太平洋戦争に従軍、2隻が戦没、1隻が戦後解体された。
背景
1921年のワシントン海軍軍縮条約の結果、試験艦として改造した『ラングレー』を凌駕するレキシントン級航空母艦2隻を配備したアメリカ海軍だったが条約内での制限排水量枠は13万5000t(1937年まで)もありレキシントン級を後2隻程度配備する程度の余裕があったが空母の運用が始まったばかりで実力が未知数だった事からそれ以上の建造は行われなかった。
そして1930年代、アメリカ海軍は純粋な新造空母『レンジャー』を建造することになるが枠内で5隻を揃える事を目指して基準排水量1万4000t級に絞った事が災いして機能に制約が出た事から1隻のみとなり改めて満載2万5000t級2隻が建造され軍縮条約失効後に小改良を施した1隻がエセックス級充足までの繋ぎとして建造されたのが本級である。
船体構造・能力
全長250m、全幅37mの船体は縦248m、横30m弱の飛行甲板上の右舷にアイランド式艦橋を備えた手堅い外観である。
機関は12万馬力の蒸気タービンを採用し最高速力32㏏、15㏏で1万2500海里の航続距離を発揮できた。
格納庫の構造はそれまでの運用実績から艦首や艦尾側に開口部が設けられ、エレベーターは飛行甲板上に3か所設けられ最大98機の艦載機を迅速に発艦させることを目指したが被弾時に破壊されやすいデメリットもあった。なお、艦載機を発艦しやすくする油圧式カタパルトを3基を備えたが飛行甲板上に配置されたのは2基で残り1基は戦闘機の緊急発進用に格納庫の開口部に配置されていた(後に撤去)。
艦自体の兵装は単装式127㎜両用砲を舷側に分散配置で8門、近接戦闘用に当初28㎜4連装機関砲と12.7㎜機関銃用銃座を複数装備したが戦争中に40㎜機関砲と20㎜機関砲に換装・増設が行われた。
なお、建造当初から対魚雷防御が不足している指摘があったが後述の通り沈没までに時間を要していることからダメージコントロールはし易く・打たれ強い艦であった。
経歴
ヨークタウン
1937年に就役後、大西洋を中心に活動していたが、真珠湾攻撃直後に太平洋に移動し翌年2月、日本が制圧したばかりのマーシャル諸島を艦載機で攻撃、3月にはニューギニア・ラエに上陸した日本軍を輸送してきた船団を攻撃している。尤もこの頃は米側は戦力不足の為正面から日本主力部隊との対決を避けていた事に加え、艦載機に使っていた燃料が劣悪なことに由来する故障でトラブルが頻発していた。
そして5月、日本が反対側のポートモレスビー制圧を狙っている事を掴んだアメリカ側は近くにいた『ヨークタウン』、『レキシントン』を中心とする艦隊を珊瑚海に展開させた。
5月4日、ソロモン諸島・ツラギに上陸した日本軍を攻撃し駆逐艦『菊月』を沈めた3日後には上陸部隊の護衛に付いていた軽空母『祥鳳』を沈め、夕方には本命の第五航空戦隊から出撃した攻撃隊を返り討ちにした。因みにその際、方向を見失った日本機が誤って着艦しかける珍事が起きている。
そして5月8日、日米正規空母同士の対決となりアメリカ側は『レキシントン』を失い『ヨークタウン』は飛行甲板に急降下爆撃1発が直撃、至近弾3発の被害で機関部を中心に大きな損傷を受けた。
日本側は『翔鶴』に直撃弾3発、『瑞鶴』は無傷だったが艦載機の被害は日本側が97機、アメリカ側69機に加えポートモレスビー攻略を断念させることに成功した。
しかし、『ヨークタウン』の損傷は大きく、通常なら修理に3か月程度かかる程度だったが戦況はそれを許さず、真珠湾に帰投すると突貫工事での修理[1]、艦載機[2]と物資の補給を行った結果、5月27日にドック入りして30日に真珠湾を出港した。ミッドウェー島に向かう日本の艦隊を邀撃するためである。なお、艦載機パイロットの中には戦没した『レキシントン』航空隊の一員であったジョン・S・サッチ少佐がいた。
そして6月5日、『ヨークタウン』の航空隊は空母『蒼龍』を撃沈することに成功、更にサッチ少佐は対零戦戦術『サッチウィーブ』を実戦使用している。
だが、『ヨークタウン』には攻撃を免れた空母『飛龍』から2度に渡って航空隊が襲い掛かり直撃弾3発、魚雷2発を受けた結果、機関が完全に停止し遂に総員退艦が発令された。
しかし退艦から丸1日経っても沈まなかったことから改めて復旧作業が開始された矢先、潜水艦『伊168』が雷撃を実施、『ヨークタウン』に2本が命中した事に加え随伴の駆逐艦『ハムマン』にも1本が命中して轟沈、その際の爆発も影響して再び総員対艦が発令された後に沈没した。
エンタープライズ
1938年に就役、日本本土初空襲、ミッドウェー海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦などの主要な海戦に参加した『ビックE』の愛称を持つ。終戦まで唯一生き残るも1947年に除籍、1960年に解体完了。
詳細は個別記事を参照
ホーネット
太平洋戦争開戦まで2ヶ月を切った1941年10月に就役し、翌年2月に大西洋での慣熟訓練終了直後、艦載機ではないB-25双発爆撃機を飛行甲板上に積載・発艦する実験を行った後サンフランシスコへ移動した。
そして3月中旬から4月1日にかけて、本来の艦載機を格納庫に入れた後、飛行甲板上にB-25を16機積載、その乗員である陸軍航空隊員を搭乗させて4月2日に出港後、『日本本土空襲』が任務である事を全乗員に公表した。日本本土400海里まで接近、夜間空襲で東京(12機)、名古屋、大阪、神戸(各1機)を空爆し攻撃後は中国本土へ着陸する作戦である。当然、B-25を積載状態では本来の艦載機は発艦できない事から姉の『エンタープライズ』が重巡洋艦3、軽巡洋艦1、駆逐艦8隻と共に護衛に付いた。
ところが決行当日である18日早朝、日本本土600海里の地点で艦隊は日本の特設監視艇隊と遭遇、直ちに艦載機と艦艇の攻撃で『第二十三日東丸』を始めとする5隻を撃沈、7隻を損傷させたが「敵空母2隻接近」が日本側の知るところとなってしまう[3]。
このため予定を繰り上げ午前8時16分から1時間をかけてB-25を全機発艦させた後、25日に真珠湾へ帰還、5日後には珊瑚海海戦に参加するため出港したが間に合わなかった。
ミッドウェー海戦では『ホーネット』の艦載機は日本の空母部隊に触接出来ず、零戦隊との戦闘や燃料不足での消耗が多かった。それでも『エンタープライズ』の艦載機と合同で重巡洋艦『三隈』を沈め『最上』を大破させている。その後は改修と艦載機部隊の補充を行っていたがガダルカナル島の攻防戦が激化した9月にソロモン諸島に出撃、10月26日、運命の南太平洋海戦を迎えた。
朝から出撃した『ホーネット』の艦載機は空母『翔鶴』、重巡洋艦『筑摩』双方を攻撃し戦闘離脱に追い込んだ。
しかし『ホーネット』にも日本艦載機が襲い掛かり魚雷2発、直撃弾3発に加え部隊を指揮していた村田重治少佐搭乗機を含む2機が体当たりした結果、航行不能に追い込まれてしまう。
それでも曳航することで戦線離脱を図ったが3度に渡る日本艦載機の攻撃で直撃弾2発、至近弾1発、魚雷1発のダメージを受け万策尽き、総員退艦+撃沈処分となってしまう。
ところが駆逐艦部隊が魚雷と艦砲射撃による攻撃を行っても沈没せず手間取っているうちに日本艦隊が接近、駆逐艦部隊は離脱した。
こうして『ホーネット』は日本駆逐艦『秋雲』、『巻雲』の魚雷で止めを刺され沈没した[4]。
関連作品
動画
静画
関連コミュニティ・チャンネル
関連項目
脚注
- *艦内の隔壁の損傷は修理しきれていなかった
- *戦力を揃えるため戦没した『レキシントン』、修理中の『サラトガ』の艦載機をパイロット付きで載せた
- *警戒態勢はとったが艦載機の航続距離から翌日以降の攻撃と判断した
- *雷撃前に臨検部隊が艦内を調査してニュース映画用のフィルムを確保し、自国のニュース映画で使用した
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