ラ・ムーとは、
- 伝説上の大陸「ムー大陸」を統治されていたとされる皇帝の名前。
- 流星のロックマン2のラスボス。 →ラ・ムー(流星のロックマン)
- ラ・ムー(LA MU)。岡山県倉敷市に本社を置く大黒天物産が経営する、複合型ディスカウントストア。単独型店舗は、ディオという名前で展開。
- ラ・ムー(RA MU)。1988年に菊池桃子をボーカルに迎えて結成されたバンド。本項で解説。
概要
1984年に歌手デビューし、7作のオリコンNO.1ヒットなどトップアイドルとして活躍していた菊池桃子だったが、1988年初頭に突如、「『ロック』バンド、ラ・ムー」を結成しデビューシングルを2月に発売すると発表した。活動期間は実質1年強とごく短期間だったものの、結果的に菊池桃子の人気に大きなダメージを与えることとなった。また、別項で示す数多くのミスマッチとあいまって「伝説の自称ロックバンド」とさえ呼ぶ向きもあるようだ。
ヒットチャートのサウンドがフルオーケストラによるアレンジからエレキギターを中心としたバンドサウンドに移行しつつあった1980年代後半において、「ロック」といえばメンバー自作による楽曲を声量あるハードなヴォーカルで表現し、サウンドはエレキギター中心で音数の多いもの、という認識が一般的であった。当初のプロモーション活動においてもラ・ムーは「ロック・バンド」であることを特に強調していたが、レコード上の菊池桃子のヴォーカルスタイルは以前と変わりない、キーが高く線の細いもので[1]、当時のロックのイメージとは真逆のものであった。また、サウンドも実際にはシンセサイザーとパーカッションが強調され黒人女性メンバーのファンキーなコーラスが印象的な、ブラック・コンテンポラリー志向であったこともミスマッチの印象に拍車をかけた。
さらに、結成の理由を「事務所の社長に『やってみるか』と言われたため」と正直に発言し主体性の無さを問われたり、TV出演時に小さい範囲でステップを踏むだけで息切れしてしまったり、さらには根本要がラジオ番組で「野外ライブで一緒になったんだけど、炎天下なのにラ・ムー汗かかねぇんだよ!」とネタにしたり[2]、、あげくには大槻ケンヂにも楽曲でネタに使われるまでに至った。
このように、桃子ファンやロックファン、さらには音楽業界の現場にまで困惑を与えた「ラ・ムー」の活動は1989年初頭のシングル発売を最後に事実上終了。菊池はラ・ムーと平行して続けていた女優業に本格的にシフトチェンジしていくことになった。
しかしながら、Jerry Heyなどの著名ミュージシャンを起用するなど、「女性Vo.版1986オメガトライブ」ともいえる独特のサウンドコンセプトや完成度に対しては高く評価する声もおおく、最近でも宇多丸がTV番組でそのサウンドを評価する発言をしている[3]。
筋肉少女帯「パンクでポン」より
本当のロッカーとは! 本当の、ロッカーとはなァ!
「ラ・ムー」のボーカリスト!!
菊池ィ! 桃子さんだァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
という大槻ケンヂの魂の叫びにより、筋肉少女帯ファンの間では「菊池桃子」=「本当のロッカー」は定説となっている。(アルバム「筋少の大車輪」に収録)
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入手が容易なベストアルバムには、シングルのタイトル曲および唯一のオリジナルアルバム全曲が
収録されており、ラ・ムーの全体像をつかむならこれで充分。
加えて、発売した全曲が音楽配信されている。
関連項目
脚注
- *レコードでは変わり映えしなかった声量も、TV出演時においては1987年ごろから明らかに変化しており、ブラックコンテンポラリー色を帯びてきたソロ歌手時代のシングル「Nile in Blue」(アレンジが"Isley/Jasper/Isley"の"8th wonder of the world"のモロパクとして一部で有名)や「ガラスの草原」では安定したヴォーカルをすでに披露していた。このころすでにプロデューサーの藤田浩一のもとでレッスンを重ねていたものと思われる。
- *「アイドルは絶対汗をかかないらしい」ことをメンバー間でたびたび話題にしていたというスターダスト・レビューは、1988年夏に熊本県菊池市で行われた野外イヴェント「'88 サマーブリーズ in 菊池」に出演。中村あゆみに加え、杉山清貴や池田政典、ラ・ムーという藤田浩一プロデュースのアーティストと共演した。先にステージを降りた菊池桃子が炎天下にもかかわらずまったく汗をかいていない様子に、根本要は「今日は大して暑くないんだな」と思い込み、前半から飛ばした結果終演後にダウン。その時に前出の言葉が間違いでなかったことを実感したという。
- *TOKYOMX「5時に夢中サタデー」2013年6月1日放送。
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