ルーカス・ポドルスキ単語

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ルーカス・ポドルスキLukas Josef Podolski, 1985年6月4日 - )とは、ドイツサッカー選手である。称は「ポルディ」。ポーランドグールニク・サブジェ所属。

180cm80kg。利き足は左足。ポジションはFW、MF(攻撃的MFサイドハーフ)。

概要

ポーランド移民であり、ドイツポーランドの二重籍を取得している。左足から放たれる強シュートが持ち味のストライカーであり、ドイツ代表として130試合に出場し、49得点という記録を残した2000年代ドイツを代表するサッカー選手の1人である。ちなみに出場試合数も得点数も、ドイツ代表で歴代3位の記録となっている。FIFAワールドカップには3度出場しており、自開催となった2006年大会では3得点をあげ、FIFAワールドカップ最優秀若手選手に選ばれている。

下部組織の頃から所属していた1FC.ケルンではクラブアイコンとされており、自身も心のクラブとして常に気をかけている。2017年から2019年までJリーグヴィッセル神戸に所属していたため日本でも染み深い。神戸では、アンドレス・イニエスタダビド・ビジャといった世界的なスター選手と共演し、クラブ史上初タイトル獲得にも貢献している。

経歴

生い立ち

ポーランドグリヴィツェ出身。両ともにポーランド人であり、父親サッカー選手母親ポーランド女子代表に選出された経験のあるハンドボール選手だった。2歳の頃に、一家ドイツへ移住し、ケルン近郊のベルクハイムで住むようになる。

ドイツポーランドの二重籍を持っているが、本人はサッカードイツを選択したものの、自身のパーソナリティポーランドにあるという意識が高く、日常生活ではポーランド語を使い、食事音楽ポーランドのものを好んでいる。

6歳のときに、ユーゲント07ベルクハイムに入団し、サッカーを始める。

ケルン時代

1995年1.FCケルンの下部組織に入団。世代別のドイツ代表に選ばれるなど、実をつけていくと、18歳になった2003年トップチームに昇格し、11月23日ハンブルガーSV戦でブンデスリーガデビューを果たす。12月13日ハンザ・ロストック戦ではプロゴール記録。これによって出場機会を増やしていき、ゴールを決めていく。2003-04シーズンプロ1年にして19試合に出場して10得点という18歳の選手としての歴代最高得点記録を残したが、チームは17位と低迷し、2部への降格となる。

2004-05シーズンツヴァイテリーガ(2部)で戦うこととなったケルンにとって、ポドルスキの存在はクラブ希望となっていた。地元メディアからは「プリンツ・ポルディ」「1.FCポドルスキ」と称されるようになり、サポーターからも絶大な人気を得るようになる。この年から背番号「10」を背負うようになり、19歳にしてチームの浮沈を背負う存在となってしまったが、この期待に応えてエースとしてチームを牽引。30試合に出場して24得点記録し、1年でのブンデスリーガ復帰とツヴァイテリーガをもたらす。

ブンデスリーガ復帰となった2005-06シーズンには、32試合に出場して12ゴールと3シーズン連続で二桁得点記録する活躍を見せ、エースとしての役割を全うするものの、チームはまたしても低迷して17位と沈み、わずか1年で2部へ降格することになる。

バイエルン時代

2006年6月1日ブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンへの移籍が発表される。4年契約で移籍1000ユーロ背番号は「11」。2006年ワールドカップでの活躍もあり期待をされたが、フェリックス・マガト監督からの評価は低く、10月練習中に右足首を負傷して1か離脱したこともあって大半が控えという扱いだった。シーズン後半戦はオットマー・ヒッツフルト監督が就任するが、2007年4月25日に今度は左膝の軟損傷により2度の離脱。また、初挑戦となったUEFAチャンピオンズリーグでも、インテル戦の1得点のみと不発に終わり、2006-07シーズンは失意の1年となった。

2006-07シーズン、前年冠に終わったことからバイエルンルカ・トーニ、ミロスラフ・クローゼフランク・リベリらを獲得する大補強を敢行。彼らとのポジション争いで敗れてしまい、ベンチを温めることが多くなる。UEFAカップでは12試合に出場し5得点と活躍したが、リーグ戦では25試合5得点という成績に終わり、チーム内二冠を達成するが、またも悔しさの残るシーズンとなった。

3年となる2007-08シーズンにはドイツ代表での恩師でもあるユルゲン・クリンスマン監督が就任するが、トーニ、クローゼに次ぐ3番手のFWという序列には変わりがく、の移籍市場解禁と共に移籍を希望し、2008年1月19日に翌シーズンからの古巣ケルンへの復帰が発表される。

ケルン時代(第2次)

2009年6月25日に入団会見をおこない、3シーズンぶりに古巣のケルンへの復帰が決定する。背番号はかつてと同じ「10」。ケルンバイエルンに支払った1000ユーロの移籍は、F1ドライバーミハエル・シューマッハが資援助したとも言われている。かつてのエースの復帰にケルンサポーターから大きな期待を背負うが、2009-10シーズンは、バイエルン時代の不遇の3年間を引きずるかのように27試合でわずか2得点と大ブレーキになってしまう。さすがに期待を大きく裏切ったことで批判を浴び、「最も怠慢な選手。彼は何もしていない」とまで言われてしまう。

2010-11シーズンには、下部組織の時代に導を受けたフランクシェーファー監督が就任。シーズン途中からポジショントップ下(セカンドストライカー)で固定されるようになり、守備の負担をある程度免除されるようになったことで復調。加えて、ウィンターブレイク明けからキャプテンに任命されたことでモチベーションも上がり、リーグ戦後半の16試合で9得点をあげ、5年ぶりの二桁得点となる13得点マーク復活を印付けたシーズンとなった。

2011-12シーズンキャプテンから外れるが、クラブ王様としての立場は揺るがず、エースとしてゴールを量産。怪のために離脱した時期はあったが、29試合に出場し、ブンデスリーガでは自身のキャリアハイとなる18ゴールをあげ、アシストも7記録している。しかし、個人としてはキャリアハイの出来だったが、チームの成績に例せず低迷。17位という成績で2部に降格となる。自身がケルンに所属したシーズンでは3度となる降格となった。

アーセナル時代

2012年4月30日イングランドプレミアリーグの名門アーセナルFCへの移籍が発表される。移籍1300万ユーロ背番号は「9」。8月18日おこなわれたサンダーランドAFC戦でプレミアリーグデビューを果たすと、9月2日リヴァプール戦で初ゴール記録アーセン・ヴェンゲル監督からは左サイドで起用されることが多かったが、同じく新加入組のオリヴィエ・ジルー、サンティ・カソルラとの連携が機し、1シーズンで11得点記録CLでも、グループリーグ第5節のモンペリエ戦で快な左足ボレーシュートを決めるなど活躍。初の外でのプレーとなった2012-13シーズンは、公式戦42試合に出場し16得点9アシストという好成績となった。

2年となった2013-14シーズンは、2013年8月27日おこなわれたCLプレーオフ、フェネルバフチェSK戦でハムストリングを負傷し、長期離脱を強いられる。スタートで躓くシーズンとなったが、復帰戦となった12月26日ウェストハム・ユナイテッド戦でゴールを決めている。シーズン後半戦はレギュラーに復帰し、最終的に公式戦27試合12得点という結果を残す。また、2013年おこなわれたFAカップ決勝のハル・シティ戦に出場し、アーセナルにとって実に9シーズンぶり、自身にとってはプレミアリーグでの初となるタイトルを獲得している。

2014-15シーズンFCバルセロナからアレクシス・サンチェスが加入したことで出場機会が減。CLでは、ガラタサライSK戦で2ゴールを決めるなど、グループリーグで3得点と活躍するが、プレミアリーグではシーズン前半戦の間にスタメンで出場した試合が1試合もく、7試合に途中出場したのみとなった。

インテル時代

2015年1月5日、出場機会をめてイタリアセリエAインテル・ミラノへのレンタル移籍が決定する。背番号は「11」。発表翌日のユヴェントス戦で速試合に出場するなど、出場機会は得られるが、ロベルト・マンチーニ監督の戦術にフィットできず、期待外れという出来でシーズンを終え、イタリアでの挑戦はわずか半年で終了。自身も後に「インテルへの移籍は失敗だった」と認めている。

ガラタサライ時代

2015年7月4日トルコスュペル・リグガラタサライSK全移籍することが発表される。背番号は「11」。ガラタサライでは、1トップとしての起用が多く、ウェズレイ・スナイデルという相棒を得たこともあってストライカーとしての仕事に専念でき、きを取り戻す。リーグ戦6位とチームは低迷したが、2015-16シーズンリーグ戦では13得点記録5月26日おこなわれたテュルキエ・クエバス決勝のフェネルバフチェSK戦では、決勝点を決め、チームタイトル獲得に貢献している。

2016-17シーズンの前半は膝や太ももの負傷によって出遅れることとなるが、復帰後の後半戦は好調ぶりを見せ、最終的に25試合7得点記録。一方、カップ戦ではハットトリックや1試合5ゴールを決めるなど、5試合で10得点というリーグ戦以上の活躍を見せる。2016年12月あたりからガラタサライからの退団が報じられるようになり、一時は中国への移籍が確実視されるが、2017年3月2日トルコシーズン終了後にJリーグヴィッセル神戸へ移籍することが発表される。

ヴィッセル神戸時代

2017年7月6日J1リーグヴィッセル神戸へ正式に加入。後に大物選手を次々と獲得する神戸の大補強の第一弾となり、背番号は「10」となる。7月30日大宮アルディージャ戦でJ1リーグデビューすると、その試合で2ゴールの活躍を見せ、センセーショナルなデビューを果たす。しかし、当時低迷期にあった神戸の中で浮いた存在となってしまい、15試合5得点日本での1年満足のいくものとならなかった。

2018年からはチームキャプテンに就任する。チーム事情もあって、低い位置までゲームメイクに参加することが多くなり、これまでと違うプレースタイルを披露していた。しかし、6月28日練習中に足を骨折して離脱。復帰戦となった8月11日ジュビロ磐田戦で、神戸に加入したアンドレス・イニエスタとの共演を果たし、イニエスタの初ゴールアシストする。しかし、バルセロナ化を掲げたチームは生みの苦しみを味わうこととなり、シーズン終盤でJ1残留を確定する不満の残るシーズンとなった。

3年となった2019年シーズンも開幕からチームは不安定な戦いが続き、4月17日にマヌエル・リージョ監督が突如契約を解除したことでキャプテンの辞任を自身のツイッターで発表。イニエスタが後任となる。6月に入ると体調不良のためにドイツへ一時帰し、手術を受けたこともあって8月までの間チームから離脱。混迷を極めていたチームは、トルスティン・フィン監督が就任して以降は安定するようになり、一時は運動量の少なさを摘されていたポドルスキもごろから調子が上がり始め、12月8日ジュビロ磐田戦で来日して初のハットトリック記録2020年1月1日おこなわれた天皇杯決勝・鹿島アントラーズ戦では、鋭いクロスで先制ゴールを演出するなど、チーム創設以来初となるタイトル獲得に貢献。1月18日契約満了により退団を表明する。

アンタルヤスポル時代

神戸を退団した後は、心のクラブであるケルンへの3度の復帰が噂されていたが、2020年1月23日トルコスュペル・リグアンタヤスポルへ加入することが発表される。背番号は「11」。2月23日マラティヤスポル戦に途中出場し、投入から2分後に移籍後初ゴールを決めている。

2シーズンとなった2020-2021シーズンは、キャプテンマークを巻いて出場したこともあったが、クラブとの関係が悪化し、次第に出場機会が減っていく。ついにはトルコサッカーへの不満をに口にするほどストレスを溜めこんでいた。公式戦36試合に出場し、5得点2アシストという物足りない成績に終わり、2021年6月3日に退団を自身のツイッターで発表する。その際にも、クラブからのねぎらいの言葉がかったと発言しており、クラブとの不和を匂わせている。

グールニク・サブジェ時代

2021年7月5日、生まれ故郷であるポーランドエクストラクラサのグールニク・サブジェと契約を結んだことが発表される。

ドイツ代表

2001年にUー17ドイツ代表に選ばれたのを皮切りに、U-18、U-19、U-21と各カテゴリーアンダー世代の代表に選出されている。2004年には、UEFA U-21欧州選手権に出場。当時のチームメイトにはバスティアン・シュヴァインシュタイガーがいたが、グループリーグで敗退している。

2004年6月UEFA EURO2004を控えたドイツ代表のメンバーに初めて招集され、6月6日ハンガリーとのテストマッチに途中出場し、19歳と2日という若さで代表デビューを果たす。そのまま本大会の登録メンバーにも選出される。出場はグループリーグ第3戦のチェコ戦に途中出場をしたのみで、チームはこの試合に敗れたことでグループリーグ敗退が決定する。

代表監督がルディ・フェラーからユルゲン・クリンスマンに交代になると、EURO2004での惨敗を受けてドイツ代表は自開催のワールドカップに向けて世代交代が進められるようになり、ポドルスキはクローゼとの2トップとして起用されるようになる。2004年12月21日おこなわれたタイとの善試合で代表初ゴールを決めると、2005年に入りコンスタントゴールを決めるようになる。6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場し、準決勝のブラジル戦と3位決定戦のメキシコ戦で連続ゴールを決めるなど、3位入賞に貢献。2005年の代表戦では8得点記録している。

地元ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは、同じポーランド系のクローゼとの2トップで活躍。グループリーグ第2戦では自身のルーツでもあるポーランドと大舞台で対戦。しかし、気負いすぎたのかこの試合では不発に終わり、後半24分に交代を告げられている。第3戦のエクアドル戦では、後半12分にチーム3点となるワールドカップゴールを決めている。ラウンド16のスウェーデン戦では、前半の4分と12分に連続ゴールを決め、チーム勝利に大きく貢献。その後も、クローゼとのコンビチームの中での重要な役割を担い、ドイツの3位入賞の立役者となる。大会後、FIFAが選ぶ最優秀若手選手賞を受賞。21歳で迎えた初のワールドカップでの活躍で、際的な知名度も増すのであった。

クリンスマン監督の後任として就任したヨアヒム・レーヴ監督のもとでも引き続き代表の一員としてプレーしていた。2006年9月26日おこなわれたサンマリノとのEUER2008予選では1試合で4得点記録2006年の代表戦でのゴール数は前年を上回る12得点記録。しかし、この時期所属するバイエルンで出場機会が減っていたことに加え、マリオゴメスが台頭してきたことにより、クローゼパートナーの座が以前ほど不動なものでなくなっていた。それでも、EURO2008予選では9試合で8得点をあげ、本大会出場権獲得に貢献している。

2008年6月スイスオーストリアで開催されたUEFA EURO2008では、2トップの一の座こそマリオゴメスに譲ったが、左サイドハーフとして出場する。グループリーグ初戦では、自身のルーツであるポーランドを相手に2ゴールの活躍を見せ、第2戦のクロアチア戦でもチームは敗れはしたが、後半34分にチーム一のゴールを決めている。準々決勝のポルトガル戦と準決勝のトルコ戦では、いずれも左サイドでの仕掛けからユース時代からの盟友であるシュヴァインシュタイガーゴールアシスト。決勝でスペインに敗れ準優勝となったものの、UEFAが選定する大会の優秀選手に選ばれ、ロマン・パブリチェンコと共にシルバーシューを受賞する。

2008年9月りスタートした南アフリカワールドカップ予選では、9月6日リヒテンシュタイン戦でドイツ代表として史上最年少となる23歳3かでの通算30得点到達を果たすなど、クローゼに次ぐ6得点記録し、ワールドカップ出場権獲得に貢献。一方で、2009年4月1日ウェールズ戦の試合中にキャプテンミヒャエルバラックに戦術的な注意を受けたことに立し、手打ちを見舞う騒動を起こしてしまう。ポドルスキは過剰な反応をしたとし、バラックに謝罪している。DFBはこの問題に対して当初は処分を見送る方針だったが、ドイツ内のメディア批判を受け、500ユーロの罰を科す。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。背番号はこれまでの「20」ではなく、「10」を背負うことになる。この頃のドイツは、トーマス・ミュラーやメフメトエジルといった若手が台頭し、ブンデスリーガではスランプに陥っていた時期でもあるが、レーヴ監督からは引き続き2列の左サイドで起用され、チームを担い続けていた。グループリーグ初戦のオーストラリア戦では、前半8分に先制ゴールを決めると、後半23分にはミュラーゴールアシスト。1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献し、MOMに選出される。しかし、第2戦のセルビア戦では決定機をことごとく外し、後半25分にはPKを外してしまい、ブレーキとなってしまい、チームも0-1で敗れる。ラウンド16のイングランド戦では、前半32分に大会2得点となるゴールを決める。準々決勝のアルゼンチン戦では、後半23分にクローゼゴールアシストし、4-0の大勝に貢献。準決勝では、EURO2008決勝で敗れたスペインにまたしても敗れ、3位決定戦のウルグアイ戦は風邪のため欠場。準決勝までの6試合全てにフル出場し、2得点2アシストドイツの2大会連続での3位入賞に貢献する。

2010年9月からのEURO2012予選では、9試合に出場、3得点記録し、34得点という破壊を見せてのドイツでの全勝での予選通過に貢献。2012年5月に開催されたUEFA EURO2012本大会では、グループリーグ3試合となるデンマーク戦で国際Aマッチ100試合出場を達成。記念すべき試合に前半19分に先制ゴールを決め、自らを添える。グループリーグ3試合ではスタメンとして起用されていたが、準々決勝のギリシャ戦ではアンドレシュールレに左サイドレギュラーを奪われ、出場機会がかった。準決勝のイタリア戦でスタメンに復帰するが、低調な出来に終わり前半45分で交代となる。チームベスト4で敗れ、大会を通して期待を下回るパフォーマンスだったことから戦犯として厳しい批判を受けることになる。

EURO2012以降の2014年ブラジルW杯予選では、マリオ・ゲッツェマルコ・ロイスシュールレが台頭してきたことで絶対的なレギュラーの座を失い、ドイツ内では不要論が巻き起こるようになる。それでも、レーヴ監督はポドルスキを「必要不可欠な選手」とって援護し、グループの一員として代表に招集し続けていた。

2014年6月には、自身3度の出場となる2014 FIFAワールドカップメンバーに選ばれる。大会直前のアルメリアとのテストマッチにおいて負傷したロイスとの交代で出場すると、1ゴール3アシストの活躍を見せる。本大会に入ると、グループリーグ第3戦のアメリカ戦でスタメンのチャンスを得るが、太もも筋肉を負傷する不運に見舞われ、前半のみで交代。その後は欠場となる。この大会でドイツは24年ぶりの優勝を果たすが、2試合で53分間の出場に終わる。

2014年ワールドカップを最後にクローゼフィリップ・ラームら共に戦ってきたメンバーが代表を引退するが、自身は引き続きドイツ代表としてプレーすることとし、2015年EURO2016を最後に代表から引退することを表明する。2016年フランスで開催されたUEFA EURO2016に出場するが、出場機会はラウンド16のスロバキア戦に途中出場したのみにとどまり、大会後約通り、盟友シュヴァインシュタイガーと共にドイツ代表から引退する。

2017年3月17日に代表引退試合として、イングランドとの善試合にスタメンとして出場し、後半24分にミドルシュートを決める。これが決勝点となって1-0の勝利に貢献し、13年間の代表でのキャリアを終える。ドイツ代表通算143試合49得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2003-04 ケルン ブンデスリーガ 19 10
2004-05 ケルン ツヴァイテリー 30 24
2005-06 ケルン ブンデスリーガ 32 12
2006-07 バイエルン ブンデスリーガ 22 4
2007-08 バイエルン ブンデスリーガ 25 5
2008-09 バイエルン ブンデスリーガ 24 6
2009-10 ケルン ブンデスリーガ 27 2
2010-11 ケルン ブンデスリーガ 32 13
2011-12 ケルン ブンデスリーガ 29 18
2012-13 アーセナル プレミアリーグ 33 11
2013-14 アーセナル プレミアリーグ 20 8
2014-15 アーセナル プレミアリーグ 7 0
インテルloan) セリエA 17 1
2015-16 ガラタサライ スュペル・リグ 30 13
2016-17 ガラタサライ スュペル・リグ 26 7
2017 ヴィッセル神戸 J1 15 5
2018 ヴィッセル神戸 J1 24 5
2019 ヴィッセル神戸 J1 13 5
2019-20 アンタヤスポル スュペル・リグ 9 2
2020-21 アンタヤスポル スュペル・リグ 31 4
2021-22 グールニク・サブジェ エクストラクラ

プレースタイル

最大の魅は左足から放たれるキック。左から放たれる強シュートは、ポドルスキの代名詞ともなっている。シュートレンジが広く、ボールを持てばゴールから遠い位置でも射程距離となる。シュートだけではなく、クロスサイドチェンジの精度も高く、本職のFWだけではなく、サイドアタッカーとしてもプレーが可スピードもあるが、それ以上にフィジカルの強さを活かしたパワーが持ち味。左サイドからドリブルで縦に仕掛けて、ライナー性のクロスアシストするのも得意としている。

一方で守備の意識が低いため、サイドで起用されたときは上下移動の少なさが問題になる。キープもさほど高くないため、ポストプレーでの貢献もさほど期待できない。FWとして起用されたときも、運動量もあまり多くないため、前線からの守備貢献が低くなる。オフ・ザ・ボールの動きも少ないため、後方からパスが出てこない展開になると試合から消えることが多い。ただ、神戸では前線から頻繁に列を落ちてプレーし、自らゲームメイクに参加することが多かった。

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