単語記事: ローマ帝国

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ローマ帝国は、都市国家ローマが地中の大半あるいは全域にまで領域を拡大した姿。また、共和政ローマの領域拡大期や紀元前27年からのローマす用でもある。

翻訳前の「Imperium Romanum」はローマの支配権や支配領域を示すであり、本来ならば、「ローマ皇帝が統治する」という意味ではない。したがって、本項では共和政の領域拡大期についても記述する。

概要

基本データ
正式名称 ローマ帝国
Imperium Romanum (ラテン語)
Βασιλεία τνωμαίων (ギリシア語)
Roman Empire
国旗

ローマ帝国国旗
元老院とローマ市民
国家ローマ権者と栄を表す

公用語 ラテン語
(395年 - 629年)
ギリシア語
(629年 - 1453年)
首都 ローマ
(紀元前27年 - 紀元後330年)
コンスタンティノポリス
(330年 - 1204年 / 1261年 - 1453年)
メディオラヌム
(395年 - 402年)
ラヴェンナ
(402年 - 476年)
カイ
(1204年 - 1261年)
政治 元首政
(紀元前27年 - 紀元後284年)
専制君主制
(285年 - 1453年)
人口 88,000,000人(117年)

都市国家であったローマが、しだいに他地域にまで拡大し、地中を統一した姿である。

この古代ローマがいわゆる「帝国」になるのは、一般に、オクタウィアヌスが内乱を制し「アウグストゥス(尊厳者)」となった紀元前27年とされる(ローマ)。しかしそれは狭義の帝国像であり、帝国とは本来、「多文化・多民族を支配する国家」である。その限りでいえば、古代ローマは紀元前242年にシチリ属州(非イタリアの領土)として支配した段階で帝国化したといえる

しかし「ローマは一日にして成らず」である。

509年にエトルリア人の王をしたローマだったが、前390年にはガリア人(現フランスに位置した)に大敗し、イタリア南部のサムニウム人とも死闘を繰り広げていた。そんな中で、内では重装歩兵として活躍した民が政治の一を担うようになり、ローマ民主政へと変質。前272年にはとうとうイタリア統一を果たし、同盟による連合国家になった。

264年にカルタゴ(現チュニジア)との間に起こったポエニ戦争を機に、ローマの「地中帝国」としての方向性は決定的となった。戦争の過程で初の属州を獲得し、コルシカサルデーニャ両を併合、さらには現スペインにまで版図を広げた。
一方ローマ内では相次ぐ戦役により農民が没落、富裕層はその際に生まれたき地を次々と買い取った上、海外からもたらされる捕虜を使った大土地所有を進めていった。没落した市民生活保護のため、富裕層は更なる利益のために戦争をなおめていく。

そういった背景により、戦後、西地中覇者となったローマ東方への拡大をし、古代ギリシアマケドニアをはじめとするヘレニズム圏(東地中)を下していき、前1世紀の中頃には、地中のほぼ全域を統一した。

帝政の概略

このようにローマは「帝国化」したが、内の階級間では利潤を巡り腐敗と闘争が繰り返された。前31年になってようやく、内乱に終止符が打たれたが、それにより共和政の皮を被った元首政、すなわちローマが始まるのである。

以後、後180年までの約200年間、ローマ帝国前の繁栄を謳歌する。後9年にゲルマン人に大敗したため、現ドイツ方面への拡大は断念せざるを得なくなったが、1世紀の末ごろからは名君が続き(五賢の時代)、117年には最大版図を実現した。その際の領土は西欧イタリア半島バルカン半島アナトリア半島シリアパレスチナ、そして北アフリカにおける地中沿の全域に至る

しかし絶頂とはすなわち衰退の始まりである。

2世紀末以降、ローマ帝国は内乱、暗君、財政、外敵、敗戦など様々な要因に苦しめられ、そのを大幅に低下させた。260年にもなると、帝国内部ではガリ帝国とパルミラ王独立し、領土の大半を事実上喪失する。274年になってようやくこれら失地を回復するが、外敵は健在であった。中でも現イランイラクあたりに栄えていたパルティアの後継ササン朝ペルシアは脅威であり、必然的にローマ帝国は重点を東方へと移すことになる。

それゆえ東方からの影が強まり、285年には独裁制である専制君主制へと移行した。また広大過ぎる土と多方面からくる様々な外的に時に対応するべく、複数の皇帝帝国の防衛を担わざるをえない状況へと追い込まれていく(テトラルキア)。この時点でローマは首府ではなくなり、各皇帝が軍と共に構える拠点都市がそれぞれ首府とされた。

324年にはコンスタンティヌスにより再び一人の皇帝による帝国支配の時代となり、またキリスト教に対しては従来の迫路線から一転、帝国の支配機構として受け入れ利用していった。くわえて、東方の重要性から都はバルカン半島の東端・コンスタンティノポリスへと遷っていた(330年)。

しかし、やはり広過ぎる帝国の統治と防衛は単独皇帝だけでは不可能であった。それ故再び複数の皇帝が出現、最終的には395年にて東西に二分された。以後、東西の帝国はひとつの「ローマ帝国」として苦に耐えるが、5世紀に入ると異民族を制御できず、西ローマ帝国が滅亡。残る東ローマ帝国6世紀に大ローマ帝国を一時再現するが、7世紀をシリアからエジプト東方を失い、ギリシア化していき、じわじわと衰退していった。

東ローマ帝国要な土はバルカン半島の東部とアナトリア半島に限られていき、またイタリア南部や地中々を除き大半の旧西ローマ帝国領域を喪失。800年にはフランク王国西ローマ帝国を僭称したため「ローマ」としての権威を西欧にて失ってしまう。

9世紀後半~11世紀半ばにはを回復させ地中最大の強に返り咲き、東欧および東地中において政治的にも文化的にも類なき覇権として君臨した。また周辺諸や特に現在ウクライナロシアに当たる々を文化的下に加えるなど、大としての存在感を堂々と放っていた。

が、1071年、ついに最後のイタリアにおける領地を失い、12世紀に奪還を試みるも頓挫したばかりか、多くの西欧を敵に回してしまう。1202年になると元は属であったはずのローマ教皇庁やヴェネツィア共和国らによって、第四回十字軍が起こされ、その2年後にコンスタンティノポリスが陥落、東ローマ帝国は実質滅亡した。その後1261年に亡命政権によって帝国首都コンスタンティノポリスを奪還し一度だけ復権するが、売国奴とも言うべき暗愚な皇帝らの内紛と諸外の介入を多々招くにいたり、凋落の一途を辿った。西欧に助を請うも実らず、1453年、元々は東ローマ帝国の辺にいたテュルク民族とするオスマン帝国により、とうとうとどめを刺された。

この国の特徴

政治社会における特徴としては、エトルリア人や古代ギリシアから受け継ぎ、独自に発展させたものや、今日の西洋にまで遺ったものが見受けられる。全体的にヘレニズム(ギリシア文明圏)寄りで、エトルリア人から影を受けた建築技術にさえギリシア色彩を確認できる。そのほか、政治宗教、そして文化もまた古代ギリシアからの影が強いみたいだ。ところどころが後の西洋の体となっている点にはお気付きだろうか。

領土や軍事面においても、古代地中の諸国家と共通点が多い。ローマ帝国の場合は、それらをかにえている点が大きいといえよう。こちらも、後の西洋へ、おもに歴史的に強く影している部分がある。

共和制から元首政にかけて、ローマでは執政官(コンスル)などの官職が設けられたが、これらの多くは軍務との兼ね合いであり、元老院貴族もまた同様だった。つまり古代ローマでは、統治の以前に、軍事上の栄誉が重要視されたのである。
そしてその傾向は、執政官の究極系である「皇帝インペラトル)」にも強く表れている。ローマ皇帝(後述)には男性の健全性がめられたが、その由来が、執政官がもつ「軍の最高令官」としての役割だったのである。元首政が崩壊し、専制君主制が始まりつつあった軍人皇帝の時代においても、皇帝の「軍の最高令官」としての像は鮮に表れていた。

ローマ皇帝の権限

そのローマ皇帝についてだが、これは紀元前27年に、オクタウィアヌスが「アウグストゥス」の尊称を元老院から贈られたことにより誕生したとされる。

といっても元首政の冒頭で後述するように、オクタウィアヌス本人は「ローマ皇帝」ではなく「市民の中の第一人者プリンケプス」と自称するにとどまった。つまり当時、ローマ皇帝という役職は存在しなかったのである。よくオクタウィアヌスからのローマの元首は「ローマ皇帝」と呼称されるが、これは、共和政期から続く様々な要職を独占し事実トップになったから、「ローマ皇帝」と呼ばれているだけのことである。だからこそ(元首政期の)ローマ皇帝は、共和制の役職を一手に引き受けた、合法的な半独裁者という位置にある。

ローマ市民はエトルリア人による王政を打倒した頃(前509年)より、自分達が勝ち取った誇りとして「共和政」を重んじ、独裁を嫌ったが、それ故にオクタウィアヌスは「あくまで共和政の一元首」という形でトップに立ったのだと推測できよう。

つまり、社会主義にみられる独裁者よりも、現代の大統領の方がこれに近いのである(ただし元首政に限る)。

権力

絶対権で何でも好き放題、というわけではなかった。カリグラネロにコンモドゥス、カラカラヘリガバルスをご覧いただければ分かる通り、元老院、ひいてはローマ帝国を軽んじる皇帝は皆あんな感じで終わっている。

ローマ皇帝の権限は

が挙げられる。

一番最後の最高官だが、これはローマ々に対する祭のような官職である。ユリウス・カエサルは大枚をはたいてでもこの官職を政治的権威に利用した。彼の後継者であるオクタウィアヌスも、事実この官職を政治的に利用した。もっとも、キリスト教教となったテオドシウス1世以降、この官職はローマ皇帝の権限に含まれなくなったが、代わりにローマ教皇の称号となった。

皇帝にとって最大の副産物は、穀倉地帯であるエジプトの私有化であろう。エジプト中とすることにより、皇帝市民から人気を得るため穀物をばら撒くことが可だった。

元老院

「元老院」とは書くが年寄りの集まりというわけではない。30歳以上の優秀な成人男性らによる機関である。

共和政ローマにおいて、元老院は執政官の諮問機関であったが、実際は財政や外交上の決定権を有する統治機関であった。また戦地に赴く精が非常に強いものが多く、この点が後世のローマの後継国家における上院と違う。

内乱の1世紀では、ルキウス・コルネリウス・スッラ(通称スッラ)により実質的な権限を得た上、騎士階級を取り込むことにより、300人の定員が600人にまで膨れ上がった。その後ユリウス・カエサルが独裁官として元老院体制の打破を試みるが、彼の養子オクタウィアヌスはその遺志を継ぎつつも、元老院を存続させた。

帝政期

政期に入ると、元老院の立場は皇帝の支配下に含まれた。

元老院は「皇帝に対し承認を行う機関」という性質を強め、それが五賢の時代まで続いた。皇帝の即位も皇帝の決議も、元老院の承認がなければ非正統とされた。ローマ史上「正」とされる皇帝は皆、この元老院の承認を受けたものばかりである。

また、元老院は属州総督の任命も行い、とくに経済のある属州を統治した。このため政期前半の元老院は、しばしば利潤を得るおいしい立場にいたのである。

軍人皇帝の時代になると、各地で自称皇帝が元老院の承認もなしに僭称したため、元老院の皇帝位に対する影は低下した。一方で、内乱のせいで皇帝らが首都ローマに不在になると、かえって首都ローマアフリカ属州における支配は向上したとされる。

ディオレティヌスが専制君主制(ドミナートゥス)を開始して以来は、元老院の影は再び低下した。ディオレティヌス属州総督の元老院議員の権限をバッサバッサと切っていったからである。コンスタンティヌス1世の時代には定員が2,000名にまで膨れ上がったが、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)のローマ奪還事業を機に、都市ローマが荒したため、ローマの元老院は7世紀に消滅した。

貴族の暮らし

公衆浴場(後述)を私有するほどに裕福な貴族たち。彼らにとって財産を労費することは、一種のステータスだった。彼らは贅の限りを尽くしたが、とくに奴隷の使用においてはある意味で退していた。また食事と恋愛についても、退的といえる様相を呈する者もいた。

奴隷

貴族は出かけるとき、最低でも2人のお付きの奴隷を連れていた。

それならばまだ(古代ということもあって)理解されうるだろう。しかし大貴族奴隷ともなると意味不明の領域に達する。例えば人が靴を脱ぐとき専用の奴隷持ちにもなると、帰宅後「右脚用の奴隷」に右足の靴を脱がさせ、「左脚用の奴隷」に左足の靴を脱がさせた。また後述する「宴会用の奴隷」も今から考えれば奇妙なもので、いくら下とはいえ中々に大変な玄人であった。

食生活

※食事中の方は読まないでください

ローマ貴族たちはしばしば宴会を開き、ひたすらに味を仕入れ、食卓に並べた。

宴会において、催者と招かれた客は食事用のを着る。これは1回限りの使い捨てのだが、貴族の中にはそのようなものにも大を使う者がいた。食事のマナーは「横たわってだらだらと素手で食べる」。だから手がすぐに汚れ、食事用ので拭く。それ故に食事用のは1度限りの消耗品なのだが、それでもなるべくろうとした。貴族の中には、その食事用のを何度も着替えた、つまり財産を労費したものもいたのだった。

一部の貴族の中には、食事を延々と楽しむために嘔吐してでも空腹になろうとした者もいた。

連れている奴隷を呼び、孔雀羽根を持たせ、貴族自身は口を大きく開ける。すると奴隷は、人である貴族の口へ孔雀の羽を突っ込み、喉でそのままかき回す。こうなると満のその貴族は食べていたものを汚物として戻し、再び空腹になるのである。ちなみに吐かれた汚物は別の奴隷が処理してくれた。

夫婦生活

男女ともに浮気はしいことではなかった。また節度ある性欲の発散は必要悪としてある程度許容されていた。

夫にとっては、生まれてくる子供が「の子」か分からない。だからこそ、自分の全財産を子にささげるのがもったいない。理由はこれだけではないだろうが、何にせよ、こうした背景のもとローマの出生率は下がる一方だった。ゆえに元老院貴族系はどんどん断絶していき、欠員を補充すべく地方の属州から新手が呼ばれていった。ローマ帝国の新陳代謝に繋がったかもしれないが、なにぶん、お粗末な話である。

首都ローマの生活

ユリウス・カエサルから五賢時代までのおおよそ200年間、首都ローマは「パンサーカスの都」と呼ばれた。ローマ市民はどんなに貧しくとも、穀物や娯楽をタダで享受できたのである。また、物乞いとしてを向けられる点を慢すれば、食料品もタダで受給できた。

首都ローマには属州から搾り取りまくった穀物などの財産が一極集中したため、市民には穀物(注:パンになる前の小麦粉無料で支給された。首都ローマ市民はたとえ一文であっても、「ローマ市民」というだけで定期的に穀物を受け取れたのである。

無料供給という点においてはカリグラもまた有名で、彼は、貨をローマ市民に対しこれでもかとばら撒いた。またネロも、裕福な市民から財産を没収し、貧しいものへ分配した。どちらも人気取りである。暴君とされる彼らは、そういった経緯から市民からの人気があったが、ローマ市民はこうした皇帝人気取りがあればあるほど、楽しい生活が送れたのである。

娯楽面でも古代とは思えぬほどに充実していた。フラウィウス・ウェスパシアヌスの時代から建設が始まったコロッセウムは、およそ50,000人を収容でき、祭日には戦車競走などが催された。こうした祭日は、ローマ市民人気を得たい皇帝らによってどんどん増やされていった。すると市民はさらに狂喜するわけである。ローマ市民はほかにも、闘士奴隷(いわゆるグラディエーターや猛獣の戦いを観戦したり、闘技場の一面を浸しにした模擬(今で例えると東京ドームを入れて船を漕ぐようなもの)が行われたり、演劇が披露されたりと、充実した時間が提供されていた。これらもみなタダである

公衆浴場

ローマ内には実に1,000件以上もの浴場があった。

なお「浴場」とはいうが、現代の銭湯とは少々違う。あえて現代のものにたとえるならば、スポーツクラブフィットネスクラブになるだろう。どちらかといえば、共の運動場や水泳場に近い

入場料は今の日本円で換算すると10円くらいで、おそらくほとんどタダ。玄関にトレーニングルームがあり、レスリングや球技、投げや円盤投げを楽しめた。汗を流した後はマッサージルームに行き、体をほぐす。お次は低温のサウナへ向かい、慣れていれば高温サウナへ行く。そして最後に、プールにつかって体を洗った。

ローマ共施設の充実度を物語るのがここからで、プールをあがった人は、そのまま帰るのではなく、なんと遊戯室や談話室があるのでそこにも寄る。ほどよい疲労感と清感の中で、ローマ市民は友人たちと会話を楽しむのである。おがすけば食堂があるのでそちらへ向かい、最悪でも6皿の料理を頂けた。そのうち2皿は肉料理であったという。もちろんこれらもサービスの一環で、食べても別料は一切取られない

共和政期

さて、肝心のローマ帝国史についてだが、冒頭にもあるように、ローマ帝国化は厳密には共和制期から始まっていた。そのためここでは、ローマ政となるまでののりを、駆け足でおさらいしておく。

ローマの覇道

紀元前1000年ごろ、古代イタリア人は北方からイタリア半島へと南下し定住した。その中の一であるラテン人が都市国家ローマ」を建設する。
はじめは先住民であるエトルリア人の王を戴くローマであったが、前509年には王を追放。王政を止するとともに、共和政ローマを開始した(前509年 - 前27年)。

都市国家に過ぎなかったローマだが、相次ぐ征活動により前3世紀前半には全イタリア半島を支配。征された諸都市にはそれぞれ同盟を結び異なる権利と義務をあたえた(分割統治)。属した者にはローマ市民権を与えるなどして、事前に反乱を抑えることで、ローマはその勢図を盤石なものとしていく。

あの有名なローマ最大の強敵ハンニバルで知られる、3度のポエニ戦争(前264年 - 前146年)をスキピオの活躍によりなんとか勝利すると、ギリシアマケドニアなどのバルカン半島にも積極的に侵攻し、全地中を制するに至る。

身分差と元老院

ローマには身分性が存在した。

身分による権差は歴然であったが、中でも執政官をも導する貴族会議、元老院の権は絶大であった。立法に影を与え、外交面でも財政面でも決定権を握するなど、ローマの実質的な統治は彼ら元老院によるものといってもよい。元老院はローマの伝統にして徴であり、後に続く東ローマ帝国(後395年 - 1453年)も「ローマらしさ」であるとし継承した。

さて、そんな貴族中心で運営されたローマであるが、領土を拡大、または防衛する上では、やはり民の強が不可欠であった。そこで民による重装歩兵が活躍するのだが、防を果たした民はついに権利を。これを皮きりに、民が貴族の政権独占に不満を抱く。

民による諸革は以下の通り。

  • 貴族の決定に拒否できる護民官
  • 民だけの民会である民会
  • 法律を文章にした十二表法を制定

こうして着実に民の立場が善されゆく中、「執政官の1人は民!」というリキニウス・セクスティウス法(前367年)や、「民の決議はの決定!」とするホルテンシウス法(前287年)の制定により、貴族民の政治上の権利は同等となった。

しかし民の中でも貧富の格差が生じ、また既存の貴族の中にも「民の分際でっ」という輩が現れ始め、裕福な民と貴族からなる新たな閥が誕生する。元老院の絶対権は相も変わらず、非常時には独裁官(ディクタトル)が現れる始末。

共和政ローマは古代ギリシアとは違い、政治への参加には常に貧富の格差が付きまとったのだ。 

戦争の陰

264年、ローマ最大の危機であるポエニ戦争が勃発した。ホルテンシウス法の制定(前287年)より少し後の出来事である。先にも述べた通り、スキピオの活躍により最悪の結果だけはなんとか脱した。そしてローマは破の勢いで地中を制していったのである。

が、正念場となるのはここからである。

相次ぐ征事業により、内の農地は荒の一途を辿り、それゆえ中小農民は没落していくがままであった。落ちぶれた農民たちは都市ローマに流入し、属州戦争で勝ち取った地域)からもたらされる穀物を搾取した。こうした無産市民(ド貧乏)はよりいっそうの恩恵を望み、「さらなる征戦争を!」と高に要した。征地が増えればより楽な生活が待っていたからだ。たまげたなあ

無産市民らがローマから穀物を搾り取る一方、元老院は属州統治の任を負い、また騎士階層は属州からの徴税請負を行ったため、「地拡大=元老院・騎士の富が増加」を意味していた。

支配階級である彼らは無産市民たちがローマに流入した隙に、手放された土地を買い集めた。そして戦争で得た有地を利用し、捕虜や奴隷を用いた大土地所有(ラティフンディア)を営んだ。

元老院や騎士などの支配階級はさらなる富のために、無産市民らは生活補助のために、征戦争を要望していった。

かくしてローマの征事業はますます拡大していく。そしてそれにより、支配階級の富は膨らみ、民との貧富の差も、また拡大していくのであった。ここに、かつて理想と思われた貴族民の政治的な等は、崩壊を始めていったのである。

ローマ内乱

貧富の差が顕著になると、身分差による対立も化していった。

グラックス兄弟が大土地所有者の土地を無産市民らに分配しようと試みるものの、大地の反発にあい、失脚する。

これを機に有者は論述ではなく暴力で訴えるようになりマリウスと閥族のスッラが相争うようになる(内乱の一世紀)。双方ともに私兵を率い、凄惨なの争いを展開した。

またこの頃(前91年 - 前88年)、イタリア半島の同盟都市は、各々がローマ市民権をめ反乱を起こした。さらなるローマの「妥協」の始まりである。(より詳しくは『同盟市戦争』の項を参照)

他にも「パンサーカス」で有名な見せ物、闘士奴隷らがスパルタクスによってローマに反旗を翻す(前73年 - 前71年)。外的には拡大を続ける大帝国として君臨するローマだが、この頃の内部はとても見れたものではなかった。

三頭政治

カエサル時代のローマ領この内乱を治めるべく立ち上がったのが、ポンペイウスクラッスス、そして同盟市戦争終結を加速させたルキウスを伯父にもつ、ユリウス・カエサルである。前60年、彼らは元老院と閥族に対立し、私的な政治同盟を結んだ(第一回三頭政治)。

カエサルガリア地方(ほぼ今日フランス)を遠征しこれを見事成功させると、圧倒的な支持を得る。そして政敵となったポンペイウスをも倒し、前46年、その勢全なものとした。

しかし元老院が彼の独裁と市民の圧倒的な支持を危惧すると、前44年、カエサルは元老院寄りのブルートゥスらにより刺殺される。

翌年、あとを継ぐ部下のアントニウスとレピドゥス、そしてのカエサルの養子オクタウィアヌスらが政治同盟を結び閥族を圧する(第二回三頭政治)。しかしこの同盟も長続きはせず、前31年、エジプトクレオパトラと結託したアントニウス対オクタウィアヌスという構図に。大ローマ帝国を二分する勢の衝突、アクティウムのが勃発。

結果的に元老院に対し穏健なオクタウィアヌスが勝利し、彼は尊厳者(アウグストゥス)称号を得る。共和政は静かに終焉し、元老院は残り、そうしてローマが産を上げた。

共和政ローマ略年表

帝政期について

ローマ帝国化はカエサルの代で始まりつつあり、これを元老院が恐れ、彼を暗殺するという形で一時収束したかに見えた。ところがカエサルの養子オクタウィアヌスが彼の意思を継ぐと、ローマ帝国化はいよいよ実現したというわけである。皮にもオクタウィアヌスを「アウグストゥス」とし権者にしたのは、ローマ帝国化に反対し彼の義カエサルを殺した、元老院自身であった。さらに奇しくもこの時代、カエサルはアウグストゥスにより格化され奉られるようになる。

紀元前1世紀の当時、元老院が政治を独占するローマの政局は、広い領土に対応できなかった。そんな強いリーダーを欲したローマの決断こそが、アウグストゥスの台頭だったのである。

一般にローマ帝国というとこの時代からを連想される。そして日本では、その終焉は紀元後476年に起きた西ローマ帝国の滅亡をもってしてられることが多い。

ところがローマ帝国そのものは、西ローマ帝国が滅亡した476年にも、まだまだ存続していたのである。それが395年の帝国の東西分割から生じた、東ローマ帝国395年 - 1453年)であった。7世紀を東ローマ帝国は著しくギリシア化し、また常に都市ローマを領有していなかったことから、後世とくに西欧からはビザンツ帝国と称され、まるでローマ帝国とは別の国家のようにられるが(実質そうではあるが)、「ローマ帝国の生き残り」として存在していたのもまた事実であった。

すなわちローマ帝国、もっといえばローマ政期は東ローマ帝国の滅亡(1453年)まで続いたことになる。もちろん先述した「西ローマ帝国の滅亡(476年)をもってローマ帝国は滅亡した」とする意見も根強く、この辺りは人それぞれの見解となるだろう。

元首政期

ユリウス・クラウディウス朝 (B.C. 27 - A.D. 68)

さて、アクティウムの戦を経てローマ政へと移行するが、その最初の王となるのがユリウス・クラウディウスであった。

もっとも、王とはいえ「親から子」といったように位を継承していったわけではなく、「大甥・大叔父」といった関係が多く、甥や伯父といった関係も多かった。つまりどの皇帝も直系の嫡男を後継者としなかったのである。ここにカエサルの養子であり初代皇帝となった、アウグストゥスの思惑が見て取れよう。

アウグストゥスと初期の帝国

こそは尊厳者(アウグストゥス)!」

というのは半分で、

彼アウグストゥスはカエサルとは違い元老院などの共和政の制度を尊重した。そして自身は「朕は市民の中の第一人者(プリンケプス)に過ぎませんよ(キリッ」などと述べた。つまりあまり独裁的な政治取りはしなかったのである。

というのは全くので、

実際にはほぼすべての要職を兼任し、全権を手中におさめていた。またアウグストゥス(オクタウィアヌス)はカエサル格化したと既に記載したが、彼もまた自らを「神の子」と称したのだった。カエサルをたたえ、また自らをその正統な家族とすることで、権を盤石なものとしたかったのだろう。

これは実質的には(というかどう考えても)皇帝独裁であり、元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。広大すぎる帝国領を統治するには、もはや元来の共和制では限界であったから、このように政体が変化したのだ。

アウグストゥスの治世期には、ローマは人口が100万人をえる大都市へと発展、多くの共事業がされた。また戦争ではアウグストゥスの友アグリッパが大活躍し、内外問わず帝国は安定化していった。後世の々は、このアウグストゥスからの約200年間の時代を「ローマ平和(パックス・ロマーナ)」と呼ぶ。

後継者問題

後は帝国の将来であった。しかしアウグストゥスには実子がいない。これをアウグストゥスは、友アグリッパがせ、彼を実質的な共同統治者とすることで筋を通した。さらにアウグストゥスはアグリッパ夫妻が生んだ2人の子らを孫とし、後継者問題をも解決する。

ところが前12年、アウグストゥスよりも先にアグリッパがこの世を去る。ここでアウグストゥスはを妻の連れ子ティベリウスと強引に再婚させ、2人の孫(=亡きアグリッパ息子)の後見人とし、ことなきを得ようとしたが、孫の1人は後2年に、もう一方の子も後4年に亡くなってしまう。

後継者という後継者すべてが他界した今、アウグストゥスを継ぐものはいなかった。そこで、アウグストゥスは叔父カエサルが彼をそうしたように、の再婚相手であるティベリウスを養子とし、新たなる後継者とすることで、この問題を解決。後14年にアウグストゥスは亡くなるが、元老院は初代皇帝の思惑通り、2代目皇帝をそのティベリウスとするのだった。

名君続く

そんなわけで2代目皇帝にはティベリウスが即位するが、その途端にラインオランダからスイスに流れる沿いの軍とドナウドイツからルーマニアに流れるの軍団がストライキを起こした。当時、ローマ帝国では退役の不足により除隊できない兵が多く、これが直接の原因になったのである。反乱はティベリウスの養子ゲルマニクスと実子を送ることで、なんとか鎮圧された。また、さに拘り法に熱心なティベリウスのおかげで、兵は満期であれば除隊できるようになった。

後の暴君時代とは正反対に、ティベリウスの治世期には皇帝人気取りが行われず、修正と節制に重きが置かれた。当時のローマ帝国の財政はじょじょに圧迫していったが、ティベリウスは増税という手段はとらず、代わりに戦車競走を減らすことで修正したのである。当然ながら時のローマ市民らは退屈し、ティベリウスを評価しなかったが、皇帝ローマの元老院と市民からの人気など気にせずに、施設のメンテナンスなどを滞りなく行った。

一方で押さえておくべき点はしっかりとおさえられており、ドナウ防衛の要所であるパンニア(現オーストリアハンガリー)ではインフラ整備が徹底されている。どこぞの国家元首よりもよほど友愛に満ちていたといえよう。

ティベリウスの治世期は領域の面でも安定し、後16年にはラインとドナウ定されたうえ、後18年には彼の養子ゲルマニクスにより対パルティア(現イラン)方面の東方が制定された。

凶兆

ティベリウスにより東方派遣された養子ゲルマニクスだったが、独断専行が祟ったのか、後20年に急遽、の死を遂げる(殺説あり)。ティベリウスは後継者を実子のドルススにしようと考えたが、近衛隊長と妻の裏切りにより、23年に実子のドルススを失った。

以来、ティベリウス疑心にとらわれた老となり、その死(37年)まで元老院と不仲となる。ティベリウスはまた先述のとおり元老院にも民衆にも人気がなく、カエサルやアウグストゥスとは違い、死後に格化されることはなかった。その最期は一説によるとゲルマニクスの子ガイウス(カリグラ)に謀殺されたとのこと。

偉大なるカエサル、卓越したアウグストゥス、堅実なティベリウス、と名君が続いたローマ帝国だったが、そんな帝国にもとうとう、暗い時代が訪れつつあった。

狂帝の時代

ゲルマニクスの子ガイウスは、ゲルマニクスが英雄であったことから、元老院にも民衆にも将来を嘱望されていた。ガイウスは兵士たちにもされ、子供用の軍靴に由来する「カリグラ」の渾名で呼ばれるようになる。この時、ローマ帝国臣民もが栄あるローマの時代を強く意識したであろう。

しかしアウグストゥスに始まる「ローマ平和」、その例外となる時代がこれより始まるのであった。

37年、ゲルマニクスの子ガイウスは「カリグラ」の名とともに即位した。カリグラである。即位当初善政をしくものの、同年、大きな病を患うようになる。

それが決定的だった。
カリグラは大病を患って以降、狂気という他はない奇行を繰り返した。有名なものは以下の通り。

元老院と近衛隊は見かねたのか、41年にカリグラを暗殺した。

一時の名君時代

カリグラの没後、元老院らは共和制ローマの復活を望んだ。あんな狂った皇帝を見れば納得もいくだろう。

しかし近衛隊は病弱で体に障のあるクラウディウスを「最高令官」と称し、担ぎあげた。当時の元老院はこれに逆らえず、結果、4代皇帝クラウディウスとなった(41年)。ちなみにクラウディウスは、ゲルマニクスのカリグラ叔父にあたる、ユリウス・カエサルの一員である。

当時のローマ皇帝とはすなわち軍の最高令官であったから、屈強で軍事に優れる男性こそが皇帝に相応しいという潮が帝国にはあった。この点において哲学歴史が大好きで病弱クラウディウス50代)は蔑まれ、事実民衆からの評判はあまり芳しくなかった。

しかし学識に優れるが故に、その頭は極めて明晰であった。言歴史に精通し、ギリシア語で『エトルリア史』や『カルタゴ史』を著した。行政の長としても申し分なく、ローマ帝国は彼のもと、官僚機構の整備の他、などの治共事業など、内政が安定化された。

クラウディウスの治世期はまた、ローマ帝国軍事面の栄をももたらした。43年、ブリタニア遠征が敢行されたのである。実際は将軍の活躍によるところが大きいが、何にせよ、このドーバー峡を渡った進軍はローマ帝国に一定の成果をもたらし、属州ブリタニアの拡大に成功した。

ところが彼にも、ひいてはローマ帝国にも転落の時が訪れる。
48年、クラウディウスは姪のアグリッピナと再婚する。そして彼はアグリッピナの連れ子ネロを養子とした。
かしこれがいけなかった。54年、再婚相手のアグリッピナは息子ネロ位に就けるべく、夫のクラウディウス殺した。カリグラ治世期の混乱を拡大させなかったばかりか、ローマ帝国を整頓し内政で活躍した名君クラウディウスは、あまりに報われぬ最期を遂げたのである。

暴君の時代へ

かくしてアグリッピナの策略により、西暦54年、16歳少年ネロ5代目皇帝となった。
類の鳥類マニア」ことネロの誕生である。

ネロはまったくと言ってよいほど政治軍事に関心がなく、芸術を自称した。ときに円形闘技場をかしきり、元老院貴族らを招集して自作を詠った。く「将来の夢は芸術」とのこと。の大会はおろか戦車競走の競技会にも積極的に参加し、優勝を繰り返して栄誉に酔いしれもした。ブルタニア遠征では居眠りをし、期待の新人されるフラウィウス・ウェスパシアヌスはそのネロの態度に失望し1度引退したという。

ネロの治世期は反乱の時代でもあった。61年には北西のブリタニアで重税に対する反乱がおき、東方アルメニアではペルシャ帝国(パルティア)に寝返るものが現れた(第4次パルティア戦争)。前者はローマ正規軍が、後者は名将コルブロらの活躍が、それぞれ事態を収束に導いた。一方66年にはパレスチナの地でユダヤ教徒の反乱が勃発した。

首都ローマでは64年に大火災が発生。首都は速やかに再建・救済されたが、ネロは民衆の「ネロ放火した」という実しやかな噂に苛立ったのか、放火の罪をすべてキリスト教徒になすり付け、徹底的な虐殺・処刑を行った。

ネロはまた、義理のアグリッピナ、そして妻をも殺していた。まさに暴君、いや暴である。65年、ネロは元老院が自らを打倒するよう企ていることを知ると、多くの元老院貴族を処刑していった。さらに、自身の教師東方を鎮圧した名将コルブロらには自殺を強要したのである。

このようにローマ帝国ネロのもと末期ともいえる様相を呈したが、ネロは依然として政治関心で、ギリシアでのバカンスに酔っていた。

帝国臣民らは慢ならなくなったのか、68年、ガリア総督ウィンデクスが反乱を起こす。反旗のく間にローマ帝国中に波及。すると首都ローマへの穀物輸送も滞り、民衆も不満を高めていく。ネロエジプトへ逃れようとするが、もが彼を見限り、あまつさえ元老院から「国家の敵」と宣告された。その後ネロローマ郊外に逃れるが、騎兵の近づく音を聞き、すべてを諦め自害するに至った。

彼の評価の見直しもいわけではないが、それでも「暴君」の異名は覆らない。しかし他方、当時の民衆からは慕われていたようである。死後、しばらくの間、彼の墓標は常に民衆からの束で埋めつくされていた。

四皇帝の年 (A.D. 68 - A.D. 70)

68年に元老院貴族の1人、ガリア総督ウィンデクスがネロの圧政に対し反乱を起こすと、10万に及ぶガリア兵が彼の下に集まった。またウィンデクスはヒスパニア総督のガルバに導者となるようをかけ、新たなローマ皇帝として推戴した。この時代を「四皇の年」と呼ぶが、その1人の「皇帝」が、ウィンデクスに担がれた、ヒスパニア総督のガルバである。

政権の腐敗

首都ローマで元老院がガルバを支持すると、各地の総督もガルバを支持するようになる。ちょうどこの頃にネロ自害し、ユリウス=クラウディウスが断絶したのである。

ガルバの理念はずばり「自由の尊重」であった。彼は凋落した元首政を本来あるべき姿へと戻そうとし、ローマ帝国共和制へと修正しようとしたのである。

らしき思想といえただろうが、なにぶん彼の周囲が腐敗しきっていた。ネロから政権を交代したわけだが、政治は何も変わらなかったのである。ガルバは陰謀を恐れるあまり、ネロと同様、反対の元老院や騎士階級(エクィテス)を裁判もしに処刑していった。

民衆はネロの時代をめるようになる。また、兵士たちは、与えられるの給与がいつまでも支払われないことに不満を抱きはじめる。

すると69年の1月ライン軍の長ファビウス・ウァレンスがゲルマニア総督ウィテリウスを「皇帝」とし推戴、反乱を起こした。この報を受けたガルバは名門貴族の1人を後継者とし、「門ではなく相応しい人物を選んだ」と演説。大貴族を選んでおいてはこれはどういうことなのか、というわけで元老院以外の人心は得られず、結局彼はオトーに襲撃され、他界した。

軍対軍の戦いへ

オトーは亡きネロの悪友であったが、妻を彼に取られ、地方総督へと左遷されていた。ガルバが反ネロとして反乱を起こした際、これを積極的に支持したから、「ガルバの後継者は自らである」と自負していた。そんな矢先、ガルバが自分以外の貴族を後継者にしたものだから、不満に思い反乱したのである。まるでドラ

はじめは僅か23人のオトーの反乱であったが、これが多くの支持を得、最終的には首都ローマガルバとその後継者を殺するに至る。元老院はオトーに諸権限を委託し、皇帝とした。

さて、先ほどライン軍の長ファビウス・ウァレンスが、ゲルマニア総督ウィテリウスを「皇帝」として担ぎ反乱を起こしたと述べたが、このオトー政権でもそれは続いていた。ライン軍にとっては相手がガルバであろうがオトーであろうが関係なく、「ローマ皇帝らが担ぎしウィテリウス!」と依然としてしていた。

オトーは軍をイタリア北部へと上らせ件のライン軍と突。現政権のオトー軍と、ウィテリウスライン軍の対決である。オトー軍にはドナウ軍からの加勢が到着する予定であったが、その前に戦いは始まっていた。結果、オトー軍は窮地に立たされ敗走するが、まだ挽回の余地はあった。

しかしオトーはこれ以上の犠牲は望まず、潔くこの世を発ったのだった。オトーは部下の戦死を未然に防ぐべく、諦めて自害したのである。こうして2人皇帝が世を去ったのだった。

時代は軍事力

そのころ首都ローマではウィテリウス歓迎の式典が催されていた。元老院は今度はこの男に諸権限を譲渡する、というのである。強大な軍事背景に進軍するウィテリウス率いるライン軍に、元老院は屈する他なかった。

帝国の西側で新皇帝ウィテリウスが即位したが、他方、東側ではシリア軍、エジプト軍、そして亡きネロの命によりユダヤ反乱を鎮圧したフラウィウス・ウェスパシアヌスユダヤ軍が動き始めていた。これら軍隊が総を挙げれば、ウィテリウスのライン軍にも匹敵しうる。

当時のローマ帝国内では、軍隊はそれぞれプライドを持ち、自身以外の軍をライバル視していた。その導火線に火をつけたのが、まったくもって皇帝に相応しくないと東方の軍隊にされていたウィテリウスである。またウィテリウスによるオトー軍隊長の処刑も顰蹙を買った。

決着

69年7月1日、とうとうシリアエジプトユダヤの軍隊が動き出した。フラウィウス・ウェスパシアヌスを「皇帝」として担ぎ挙げ、フラウィウス本人が率いる軍はエジプトへ入り、そこからアフリカを制圧して首都ローマへの、つまり皇帝ウィテリウスのライン軍への穀物供給を遮断する。一方シリア軍はアナトリア半島を経由し、ギリシャで知られるバルカン半島へ上陸、イタリアを北から攻める予定であった。つまり挟み撃ちというわけである。

しかし意外にもイタリアを攻めたのはシリア軍ではなかった。シリア軍はバルカン半島の異民族の攻撃に遭い、一時進軍を止めたのである。ではイタリアを攻めたのかというと、それはドナウ軍のアントニウス・プリムスだった。

プリムスのドナウ軍もまたフラウィウス・ウェスパシアヌスを支持し、現政権のウィテリウスに対抗した。ドナウ軍はその後もベドリアクムで勝利すると、カエサル以来といわれる快進撃を続け、とうとう首都ローマ門に迫った。

この際ウィテリウスは反乱軍の最高導者フラウィウスを認め、位を譲るよう述べたが、もはや後の祭りだった。まもなくウィテリウスのドナウ軍とプリムス率いる反乱軍戦を展開し、最終的にプリムスの軍、すなわち反乱のフラウィウス側が勝利した。

興味深いのはこのローマ戦の際に、民衆は屋根から見世物でも見ているかのように楽しんだという点である。彼らローマ市民からすれば、これらのまつりごとは「サーカス」だったのかもしれない。民衆は今の今まで「ウィテリウス万歳」と采していたが、反乱軍が勝利した後は、ウィテリウスをなぶり殺しにした。

かくして70年の、フラウィウス・ウェスパシアヌスローマへと血入した。ガルバ、オトー、ウィテリウスときてフラウィウス。この四皇の年が終わる頃、ローマ帝国はフラウィウス・ウェスパシアヌスに始まるフラウィウスが胎動していたが、他方で、この内戦の結果、多くの名門貴族は没落していたのだった。

フラウィウス朝 (A.D. 70 - A.D. 96)

この王カエサルあるいはアウグストゥスに始まるユリウス・クラウディウスとの血縁関係がなく、要するに「ユリウス・カエサル」の縁者によるものではなかった。しかし初代皇帝のフラウィウス・ウェスパシアヌスが善政をしいたことから、民衆の支持は厚かったようである。

諸改革

いわゆるコロッセオ。初代皇帝ウェスパシアヌスは簡素な生活をしつつも、新税を導入して財政再建に尽した。都市再建にも腐心し、内戦で焼失したカピトリウム殿や民衆のための巨大闘技場を再建・新築していった。75年から工事され始めたこの巨大円形闘技場こそが、かの有名な「コロッセウム(コロッセオ)」である。正式名称は「フラウィウス闘技場」とあり、このことからもフラウィウス都市再建がうかがえよう。

ウェスパシアヌス革は属州ヒスパニアにも見られた。彼はヒスパニアの住民にラテン権を与え、さらにイタリア式の自治制度を導入した。このウェスパシアヌスの英断は、後に有能な元老院議員たちを生むという形で実を結ぶ。

ウェスパシアヌスは後に元老院決議により格化された。彼の最後の言葉は「皇帝は立って死なねばならぬ」。

鎮圧と災厄

79年、初代皇帝ウェスパシアヌスが死去すると、その長氏ティトゥスが後を継ぎ、第2代皇帝として即位した。70年の頃からユダヤ反乱の再鎮圧に加わっていたティトゥスは、すでにエルサレムを陥落させるという武勲を有していた。

ポンペイ遺跡の神殿跡彼が即位して間もない798月、ウェスウィウス山が大噴火を起こし、ポンペイやヘルクラネウムの町が焼失した。とくにポンペイのそれは有名である。すかさずティトゥスは被災地の救援にあたった。

しかし81年、ティトゥスは皇帝となってからこれといった功績を残すことなくこの世を去った。民衆は有能な彼の死を嘆いたという。ティトゥスの威は、今もなおく「ローマの凱旋門」として後世に形を残した。

ちなみにから子へと位を継承させたのはウェスパシアヌスと彼が初めてである。

対ゲルマニア

3代皇帝には、ティトゥスのであるドミティアヌスが就いた。

この辺りのローマ帝国は、対外的に見て攻勢に転じていた。83年にはカレドニア人とカッティ人に勝利し、とくに後者皇帝自らが軍を揮していた。85年にはダキア人が猛攻し苦戦、しかし88年のタパエの戦いの戦勝により講和に持ち込んだ。89年にはまたもカッティ人に対し勝利し、この際もドミティアヌス自身が軍を率いていた。

しかしローマ帝国といえど何事もうまくいくわけではない。89年はまたゲルマニア総督アントニウス・サトゥルヌス皇帝として担がれ、反乱が勃発した。ゲルマニアといえば現在ドイツ、すなわちローマの北であったから、ドミティアヌスはこれを鎮圧すべく北上する必要があった。サトゥルヌスはお膝元のゲルマニア活用し、ゲルマン諸部族を従えドミティアヌスと連戦した。反乱の代表者サトゥルヌスは元老院貴族であったが、それ故にドミティアヌスは元老院と溝を深めるようになったのだった。

96年、その元老院との対立が災いし、ドミティアヌスは暗殺された。これによりローマ帝国に再び安定期をもたらしたフラウィウスが断絶するが、奇しくも、その直後に前の最盛期が帝国に訪れる。

ネルウァ・アントニヌス朝 (A.D. 96 - A.D. 192)

元老院が政敵であるドミティアヌスを打倒すると、マルクス・コッケイウス・ネルウァが彼らによって次期皇帝名され、即位した。ネルウァは元老院貴族の一人であり、軍務経歴のない老いた法学者であったが、それ故に元老院を第一に尊重する姿勢であった。

最盛期――偉大なる五賢帝の時代

96年から180年を一般に五賢時代と呼ぶ。これはローマ帝国が最もいた時代であり、地中璧に、欧州をほぼ全に支配(ないし勢圏下)した時期である。

五人の皇帝は以下の通り。

最初のネルウァ帝国全盛期を開始させた重要人物。しかしそれ以外はあんまり取り上げられない。先のネロと友人関係にあったという。また先代の皇帝とはゲイ友。

トラヌスは「至高の皇帝」と称され、帝国領の最大を実現した。その領域は地中、北アフリカはもちろん、西欧中欧シリアにも達し、現イギリスであるブリタニアにも及んだ。ローマ都市が各地に建設され、文化もまた各地に波及した。現在ロンドンパリウィーンなどは、彼の業績を視できない。

ハドリアヌスの長城ドリアヌスブリタニアに「ドリアヌスの長」を立てた。彼もまた異を放つ存在で、具体的には、男色でに長けており、ギリシャ文化への傾斜も強かった、といったところ。ローマ全体の統合を果たし、防衛面についても尽した。さんが大好き。

アントニヌス=ピウスは軍事上の功績はこれといってかったものの、政治上においては辣腕を誇り、に財政での活躍が見られた。実は一番名前が長い人

最後のマルクス・アウレ(ryは「哲人皇帝」と称され、『』を著した。彼の時代には帝国にも陰りが生じていたためか、その著書もどこか暗く重いものがある。名前の長さからか、高校生などに悪い意味でよくネタにされる。

斜陽の前兆

180年、マルクス・アウレリウスが亡くなると、その実子コンモドゥスが位を継ぐ。ウェスパシアヌスティトゥスを後継者して以来、実に約1世紀ぶりの「から子」の継承であった。

コンモドゥスはアントニヌス=ピウスを祖にもち、哲人皇帝マルクス・アウレリウスにもつ上、トラヌスやハドリアヌスとの血縁上の繋がりをも有していた。ゆえにコンモドゥスは、軍隊からの厚い忠を受けることとなる。

亡きマルクス・アウレリウスの意思を継ぐコンモドゥスのもと、ローマ帝国マルコマンニ族との闘争にを注ぐ。帝国は制していった異民族を講和条約のもと統合していき、較的寛容な方法で防衛と拡大が促された。

一方、内政では、腐敗する寸前の軍を縮小させ、後のセウェルスで起こる革の土台を作られていた。

暴君の再来

このようにコンモドゥスの治世は特別狂おしいわけではなかったが、の一人ルキッラがその野心のゆえにコンモドゥスの暗殺を試みるようになると、ローマ帝国の軌は一変した。による暗殺未遂により、コンモドゥスは友人であり執事長でもあるクレアンデルを重用、帝国は汚職と賄賂で腐敗する。

190年、首都ローマにて穀物供給が停滞し、暴動が勃発。後に民衆の憤はコンモドゥスから腐敗したクレアンデルに移ると、コンモドゥスは手のを返し、クレアンデルが処刑された。以後、ローマ帝国ではクレアンデルに関係するものの多くが処刑され、また数の要人、とくにコンモドゥスを咎めるものが粛清されていった。

コンモドゥスはときにギリシャ神話英雄ヘラクレスを自称した(その際の名はルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥス・アウグストゥス・ヘラクレスロムルス・エクスペラトリスアマゾニウス・インウィクトクス・フェリクス・ピウス)。趣味と娯楽に溺れに溺れ、自らの剣術に陶酔し、あろうことか闘士として闘技場に出場ヘラクレスを模すべく、の毛皮をって棍棒を振り回したという。

191年には、首都ローマが落による大火災に苛まれたが、その際コンモドゥスは帝国の再建を計画し「新たなるロムルス(ローマを建した伝説上の人物)」と自称。さらに再建予定地のほか、各の呼び名、軍隊の名称、元老院、全ローマ人の名は、コンモドゥスに由来する名称へめるよう強要された。

これが最後の引き金となったのか、192年、コンモドゥスが暗殺された。闘士による。闘士皇帝闘士にやられるとは当然なのかもしれないし、皮なのかもしれない。しかし何にせよ、帝国史の絶頂期を体現したネルウァ・アントニヌスが、これを機に断絶したのである。

五皇帝の年 (A.D. 192 - A.D. 197)

外敵の脅威が和らぐ中、常備軍と政治の肥大化は深刻な問題としてローマ帝国に近づいていた。そんな折、ネルウァ・アントニヌスの第6代皇帝コンモドゥスが死したことで、同王の断絶が避けられぬようになった。第4の王を打ち立てるべく、諸侯が軍事背景に相争うようになり、ローマ帝国は再び内乱期に陥った。

帝位は巡る

1931月騎士階級から昇格した将軍ペルティナクスが次期皇帝となる。しかし彼は立場を安全なものとすべく軍縮を行ったため、近衛隊と盟友ラエトゥスの不評を買い、結果、反乱が勃発し、即位して83に亡くなった。

次期皇帝に名門貴族のディディウスが選ばれる。ペルティナクス亡き後、近衛隊は「給与を保するものを皇帝としよう」と考えていたため、ディディウスはこれを利用し即位したのである。

ところが、この、近衛隊による物理的な即位は、元老院と民衆のよしとするところではなく、すぐさま彼らの離反を誘発した。この不安定な政局に統治の稚拙さが加わり、結果としてニゲルアルヌスセプティミウス・セウェルス将軍の反乱を呼ぶに至る。ディディウス本人もさることながら、彼の軍隊もまた腐敗していたため、将軍セプティミウス・セウェルスの軍により徹底的に叩きめされ、最終的に近衛隊の裏切りにより没する。193年。元老院は次期皇帝をセプティミウス・セウェルスとした。

帝権死守

すると、「ニゲル)」と渾名されるシリア総督が皇帝を僭称する。先のディディウスが没した時、元老院は彼を追いやったセプティミウス・セウェルスを新皇帝とした(193年)が、このニゲルは依然として「こそが皇帝である」としたのである。

もちろん正統な皇帝位に就いたセプティミウス・セウェルスからすれば、皇帝と僭称するニゲルは逆賊に他ならない。というわけでセプティミウス・セウェルスは同僚のアルヌスと結託し、193年、ニゲルを攻撃。一進一退の攻防が続いたが、194年、ニゲルは徐々に追いやられていくに至り、戦死した。

こうしてセウェルスは権を固持したが、まだ問題は残されていた。先ほどセウェルスに味方した同僚のアルヌスである。彼はセウェルスの味方となる代償に、副の地位を得ていた。

結局アルヌスの野心はそこで収まらず、正セウェルスが権勢を振るうようになると、これに危機感を覚える。ついに196年、副アルヌスは正の位を請した。彼は軍をガリアへ進めたが、ルグドゥヌムの戦いでセウェルス軍に敗れ、自決した。

これにて五皇帝の年、ローマ内乱が決着。セプティミウス・セウェルスは正の座をみごと護りきったのである。

セウェルス朝 (A.D. 193 - A.D. 235)

初代皇帝のセウェルスは長男アントニヌスの養子とし、位を正統化した。形式上はネルウァ・アントニヌスが続いている、と言外にしていたのである。

軍拡

二の正統な皇帝となったセプティミウス・セウェルスは、対外的に攻勢に出、パルティアの深くへ侵攻した。また北アフリカブリタニアにおける帝国領も拡大させた。

セウェルスは軍事の拡大に腐心した。腐敗した近衛隊を解体し、ドナウ軍から選抜して新たな近衛隊を編成。首都ローマ付近に1個軍団を増設し、皇帝の常備軍を配置した上、さらに2個の軍団を増設した。

それら3個軍団の揮と、拡大した北アフリカブリタニア揮は騎士将校に任せる。これは元老院ではなく騎士階級が軍政を握り始める、明確なローマ帝国の変化だった。

暴虐帝登場

211年にセウェルスがこの世を去ると、息子マルクス・アウレリウスアントニヌスカエサルとプブリウス・セプティミウス・ゲタ兄弟2人が皇帝になった。

ところが同年、セウェルスの息子2人は首都ローマに着いてからというものの、非常な仲違いを起こした。マルクス・アウレリウスアントニヌスカエサル、通称(渾名)カラカラは、ゲタと統治方法やその価値観で轢を生んだのである。二人はローマ帝国分割統治しようかと画策したが、の反対によりそれは実行されなかった。

はまた和解させようと二人を呼ぶが、なんとこの時カラカラゲタを殺する。信じられないことに、カラカラは和解の場でを殺したのであるゲタにとりそれは不意打ちに他ならなかった。しかも、この時カラカラは「から身を守った」と正当防衛したのである。どう見てもカラカラから仕掛けたのに、である。

それを皮切りにカラカラ粛清が始まった。彼のプライドゲタを殺すだけでは納得せず、ゲタ記録殺刑(ダムティオメモリアエ)に処し、あらゆる像や貨幣からゲタの姿を削り取らせた。さらに、ゲタと友好のあったものたちを徹底的に殺してさえいる。

では統治はどうであったかといえば、それもまさしく暴政であった。貨の含有量を下げ、結果としてインフレーションを誘発した。また「アントニヌス勅令」で知られる全属州民へのローマ市民権の付与により、属州税を失う。この勅令の結果、「庫収益を期待したのに、むしろ臨時税収を頻発させる」ほどに後世のローマ帝国は苦しむこととなる。ただし愚というわけではなく、軍からは絶大の信頼を得ていた。

213年からは帝国東方で略奪と虐殺を繰り返した。とくにエジプトアレクサンドリアにおけるそれは凄まじく、「油断して集まった2万人を殺す。飽き足りないからまだまだ殺す」というものだった。狂気の沙汰。

暴君の例に漏れず、彼もまた暗殺された。217年のことである。これにて1度、セウェルスが断絶した。

1年皇帝

同年4月カラカラを暗殺した近衛隊長、マクリヌスが次期皇帝となった。セウェルスの特色か、マクリヌスは元老院議員ではなく騎士から正統な皇帝になった、初めての人物である。

しかし題にもあるように、マクリヌスの治世は短かった。

パルティアに勝てず貢納を支払い講和したために、軍の信頼を喪失。それを見たセウェルスの妻のマエサが、14歳の孫バシアヌスをセウェルスとして担ぎ、反乱を起こした。少年シアヌスは、兵士人気のあったカラカラの落胤として宣伝されたため、熱狂的な支持を得る。

闘争に敗れたマクリヌスは逃亡するが、後に捕らえられ処刑された。

最低最悪の暗君

218年、少年シアヌスヘリガバルスエラガバルス)の渾名とともに即位した。少年とある通り、彼は男である

しかし即位当初からその問題性は発露していたという。彼の暗君っぷりは以下の通りである。

  • 教師の提言「自制心をもって慎重に生きなさい」に対し「殺」で応じる
  • くも仲間ヘリガバルスの味方についたことを後悔
  • 愛人(※男)の奴隷を共同皇帝にしようと企てる
    • しかも彼(※男)に自分を「妻」として婚した
  • 別の愛人(※男)を執事長に任命
    • 彼にもちゃっかり
  • 貨の含有量を下げる
  • 処女信仰を否定し巫女と再婚
  • (男なのに)巫女を自称、自らの舞を元老院のお爺様方に見るよう強制する
  • 徹底した女装
  • 男を漁る為に場に入り浸る
  • 化粧金髪の鬘をつけて売(※相手は男)、これに夢中になる
  • 殿を売宿に(悪)築
  • 性転換を行える医者を募集

( ゚д゚)

というわけで暗殺されました。221年。よくそれまでもったな……。

元首政の臨界点

222年、わずか13歳の少年アレクサンデル・セウェルスが即位。

以後、軍との対立を抱えつつも穏やかな時代がローマ帝国に訪れた。アレクサンデルはいわゆる優等生で、元老院を尊重する、穏健な皇帝だった。そしてそんな君を戴くからこそ、帝国は緩やかな時代を享受できたのかもしれない。実権はが握っていたが、先代のアレよりはかにマシであろう。

しかしペルシャ帝国との対決を機に、アレクサンデルにも、そしてローマ帝国にも凋落の兆しが見え始める。

226年当時のペルシャ帝国は、アルシール王によってパルティアから取って代わった、重装騎兵とする中央集権国家ササン朝であった。その戦は強で、時のローマ帝国が相対するには苦戦必至の相手であった。

少年皇帝の苦悩はそこに限らない。東方ではササン朝厄介なのだが、西方でも、実に陶しい勢が形成されていた。ゲルマン戦士団である。彼らゲルマン民族はすでに帝国領内に侵入を繰り返しており、アレクサンデルは貢納で講和する他なかった。
そこで軍との決別が決定的となる。アレクサンデルの対外的屈に不満を抱いた軍は、しだいに強い将軍揮されることを望むようになる。それが235年、騎士将校マクシミヌスを推戴した反乱、そして少年皇帝の死に繋がった。

ローマ第4王、セウェルスが断絶したのである。
これは単に一つの王が途絶えたという話ではなく、元首政(プリンキパトゥス)の限界と終焉を意味し、軍人皇帝時代、すなわち帝国の内乱期を迎えることをも意味していた。そしてその混乱期こそ、ローマ帝国衰退の直接的な原因となるのである。

軍人皇帝の時代

世は波乱の世紀末! こそローマ皇帝、自称皇帝死すべし!

哲人皇帝マルクス・アウレリウスの治世期末期ごろから、財政上での行き詰まりはすでに見え始めていた。「ローマ皇帝」の選出は共和制期の執政官と違い明確な規定がなかったが、そこにセウェルスの断絶が加わることで、内乱の引き金が引かれたのである。

各地では数多くの皇帝が乱立した。彼らは軍事によって元老院と対立し、出てきては死に立補しては退位、の繰り返しを体現した。この間登場した皇帝は26人といわれる。

この時期には北方ゲルマン人やササン朝ペルシャ帝国の侵入も立ち始め、帝国は分裂の危機に陥った。内憂外患の絶体絶命に陥ったこの時代を、後世の々は「3世紀の危機」と呼ぶ。

六皇帝の年 (A.D.235 - A.D. 244)

235年、マクシミヌストラクスはセウェルス最後の皇帝アレクサンデルを暗殺し、この内乱期で最初の軍人皇帝となった。初の兵卒上がりの皇帝である。

マクシミヌスのもとローマ帝国マルコマンニ人に戦勝し、サルティア人やカルピ人とも対決する。しかしマクシミヌスが1度も首都ローマに行くことがなかったために、元老院、そして戦費として穀物を供給する大土地所有者は、マクシミヌスに反発するようになる。

238年、大土地所有者らが反乱を起こす。反乱軍アフリカ総督マルクスアントニヌス・ゴルディアヌスとその息子皇帝として推戴、首都の元老院もこれを支持。ところがアフリカ正規軍は軍人皇帝マクシミヌスに忠実であったことから、反乱のゴルディアヌス子を逆に死に追いやった。皇帝マクシミヌスは首の皮一枚が繋がったわけである。

激化する内乱

元老院のプライド軍事皇帝への敗北を許さなかった。ただちに2人の元老院議員、プピエヌスバルディヌス皇帝とする。そして、亡きゴルディアヌスの孫に「カエサル」と名付け、後継者まで用意したのだった。

軍人皇帝マクシミヌスはこの新皇帝らを認めるわけにもいかず、イタリアへと南下を開始。しかしアクィレイアの要塞を陥落させることができず、包囲戦を続行するも補給の不足からジリ貧となり、兵士たちは飢えに苦しんだ。そしてあろうことか、空腹兵士たちは、自ら選んだはずの軍人皇帝マクシミヌスを裏切り、殺したのだった。

これで、先述の元老院に選ばれたプピエヌスバルディヌスが名実ともに皇帝となった。元老院が軍に勝利したかと思われたが、しかしここでバルディヌスを失ったことを皮切りに、新の2人は近衛隊に殺されてしまう。

元老院は軍に対し妥協するしかなく、次の皇帝を13歳のゴルディアヌス3世とした。

ところが241年、ティメシテウスが近衛隊長になると、ゴルディアヌス3世に代わり実権を握し始める。実質帝国を支配するティメシテウスだったが、ペルシャ軍を撃退し遠征を続けていくうちに、戦死したのだった。

再び実権を得たゴルディアヌス3世はペルシャ遠征で快進撃を成し遂げ、首都クテシフォンにまで迫るも、244年、遠征の途中で戦死した。これにて6人の正の時代、「六皇帝の年」が終焉を迎えた。

ウァレリアヌス捕囚

しかし混乱期は終わらない。

ゴルディアヌス3世の没後、位簒奪者も含め5人の正が続いた。その5人皇帝が、253年に即位したウァレリアヌスである。彼は息子ガリヌスを共同統治者に選び、自らは東方領域を治めることとした。259年、ウァレリアヌスペルシャへ侵攻。しかしエデッサの戦いでシャープール1世率いるペルシャ軍に敗れ、ローマ史上初の捕虜となるローマ帝国の権威は失墜し、の低下を外部にすこととなった。

ガリア帝国とパルミラ王国 (A.D. 260 - A.D. 274)

260年ごろにウァレリアヌスが皮剥ぎの刑に処されると、共治者であった息子ガリヌス一の皇帝となった。

フランスの世界遺産、ポンデュガール。しかし時を同じくして、実ポストゥムスガリヌス息子を殺し、さらに、あろうことかローマ帝国中にガリ帝国260年 - 274年、現在イングランドフランススペインポルトガルに相当)を建した。

一方ガリヌスはパルミラ(現シリア)の実者オダエナトゥスと結託し、ペルシャ帝国の拠点アンティオキアを制し、僭称皇帝を討伐した。その後もパルミラのオダエナトゥスはアナトリア半島で活躍するも、甥に暗殺されてしまう。

オダエナトゥスの妻、ゼノビアは夫を殺した彼の甥を処刑し、すぐさま実権を握した。するとパルミラの方針を転換し、堂々とローマ帝国から離反した。ルミラ王260年 - 273年、現在トルコシリアパレスチナエジプトに相当)の成立である。こうしてローマ帝国から二つの国家が(半)独立し、地中世界ローマ帝国ガリ帝国・パルミラ王に分裂したのだった。

帝国の変質

帝国が最悪の危機していた中、正ガリヌスは蛮族対策のため、騎士階級から重装騎兵を登用し、軍のとした。しかしこれは、ローマの軍と市民層の変質をもたらした。また彼は、多忙に対処すべくゲルマニアを破棄し、現地の住民にそこを防衛するよう申請した。が、防の喪失は後世に多大な負担を背負わせことになる。

分裂と多方向からの攻撃を受け、ローマ帝国四面楚歌に陥った。ローマ皇帝防のため元老院よりも軍と親密になり、結果として軍人の台頭を促したガリヌスはさらに、軍人と文官を分離したとされるが、これが軍人台頭に強く影した。その筆頭がリュリア人で、すぐ後に皇帝として何名かが現れている。

268年ごろ、ガリヌスは反乱に遭いこの世を去った。軍人皇帝の時代は、まだしばらくは続くこととなる。

イリュリア人の時代へ

ガリヌスの後に位に就いたのは、269年ごろにゴート族を討ち破り「ゴティクス」の名を得た、クラウディウス・ゴティクスだった。

ティクスのもとローマ帝国は外敵と戦い続ける。ゲルマンのアラマンニ族がアルプス山脈を越え強襲するとこれを迎え撃ち、ガリ帝国にも攻撃し、ヴァンダル族にも反撃した。しかしガリ帝国は陥落せず、ヴァンダル遠征中には皇帝ティクスが疫病にかかり、270年、没してしまう。

ティクスの後は彼のが継ぐが、軍が強き皇帝を望んだため、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスを推戴した反乱が勃発。位は軍に担がれたアウレリアヌスに移った。

帝国再編

ティクス存命中は彼のゴート族討伐で鎮静化していた北方民族だったが、271年、アラマンニ族のイタリア侵入でそれは破られた。アラマンニ族は40,000の騎兵80,000の歩兵という大軍をもってして襲いかかる。ヴァンダル遠征中のアウレリアヌスアフリカにいたため、急いでイタリアへと向かった。

アウレリアヌスはパヴィアまで進軍し、アラマンニ族を1度撃破した。その後も戦いは続き、とうとう三度の戦いでローマ帝国はアラマンニ族を撃退することに成功する。

さらにバルカン半島のゴート族討伐も成し遂げ、またドナウ河北方のダキア築し、異民族を牽制した。

ローマ帝国の逆襲はそこで終わらず、273年、アウレリアヌスはパルミラ王に対し2度戦いこれに勝利する。籠した摂政ゼノビアを捕らえ、ついにパルミラ王を滅ぼしたのである。次は西方。アウレリアヌスガリ帝国の統合をも望み、274年、みごとそれに成功した。これら武勲によりアウレリアヌスは、元老院より「世界の修復者」の称号を与えられた。かくしてローマ帝国は本来の領土を取り戻したのである。パルミラ遺跡

275年、アウレリアヌスペルシャ遠征の最中、秘書官の1人エロスに暗殺された。理由は叱責されたから、だそうだ。帝国危機から救った英雄にしては、実に報われぬ最期である。

専制君主制期

テトラルキア (A.D. 286 - A.D. 324)

軍人皇帝の時代、そしてその混乱期を制したのがディオレティヌス(在位:284年 - 305年)である。

内乱を経た280年代当時、ローマは荒首都を失っていた。そして外敵も単体というわけではなく、北や西の異民族ササン朝ペルシャ帝国と、ローマ帝国四面楚歌に通ずる困難に陥っていた。

これらをうけて、ディオレティヌスは「皇帝1人では限界がある」とし、286年、かつての同僚マクシミアヌスを「共治」とし「西方」とした。ディオレティヌス本人はアナトリア半島(現トルコ)の西端、ニコメディア首都とする帝国東方を統治し、一方のマクシミアヌスは、メディオラヌム(現ミラノ)を首都とする帝国西方を治めた。ディオレティヌス東方を取ったことからも分かるように、当時のローマ帝国の重点は東に移っていたのである。

293年、2人の皇帝は各々「正(アウグストゥス)」として新たに「副カエサル)」を任命した。つまり、これで東方西方に2人づつ、計4人の皇帝が置かれたわけである。これがいわゆる四分統治(テトラルキア)になる。帝国に正と副が2人づつ置かれたことにより、同時に各方面での敵に対処できるようになった。

トルコのローマ遺跡、アフロディシアス293年から305年までのテトラルキア

このようになる。どの皇帝ローマ首都にしていない点には留意しておきたい。

4人の皇帝がほぼ対等に統治しているように見えるが、それはディオレティヌスの巧みな政治的手腕によるところが大きい。事実ディオレティヌス引退した305年以降、四分統治は回りし始める(後述)。付け加えておくと、四人の序列は「ディオレティヌス東方西方」である。


なお、本来、ローマ史におけるテトラルキアとはディオレティヌスによる分割統治をす用であり、厳密には四分統治に限らない。したがって、本項ではその始まりをマクシミアヌスが共治者となった286年としている。

元首政からの脱皮

ディオレティヌス革はテトラルキアに限らない。行政、税制、軍制をも大革し、中央集権化、属州細分化、軍事強化を進めた。また官僚制が整備されたことにより、軍政と民政が分かれ、属州の反乱が小康化した。なお、この軍政と民政の分離は東ローマ帝国にも受け継がれ、テマ制(軍管区制)になった。

ディオレティヌスオリエント的な儀礼をも導入した。このため、ローマ皇帝は「市民の中の第一人者(プリンケプス)」ではなく「専制君」となった。

こういった変化によって、ローマ帝国政体は、元首政から、絶大な権集中からなる専制君主制(ドミナートゥス)へと変質した。いわゆる「I am God」である。以後のローマ皇帝、とくに東ローマ帝国皇帝はこの傾向が強くなる。東方の専制が明確に始まったため、この時代を中世の始まりということもできよう。

また303年、ディオレティヌスキリスト教徒の大迫も敢行した。しかしこれは失敗し、僅か一割されど一割のキリスト教徒を黙らせることができず、結局これが最後の迫となる。ここに、拡大し続けるキリスト教の勢を見ることができよう。

以上のように、軍人皇帝の時代、テトラルキアを経て、ローマ帝国は決定的に変質したのだった。

四分統治の崩壊

305年、ディオレティヌスが体調の変化を理由に隠居の身になると、四分統治のバランスが一斉に崩壊した。

ディオレティヌスの友、西方マクシミアヌスも「引退するならディオレティヌスと一緒」と決めていたため、引退。すると東西の副レリウスコンスタンティウス・クロルスがそれぞれ正へと昇格した。そうなると、今度は副の席が二つく。東方にはマクシミヌスダイアが、西方にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスが就いた。

しかし306年、西方コンスタンティウス・クロルスが没する。

すると、東方レリウスは、次期西方の座に、西方のセウェルスを就けようとした。つまりそのまま昇格させようと。ところがややこしいことに、亡くなったコンスタンティウス・クロルスの息子コンスタンティヌスが軍に担がれると、コンスタンティヌスもまた「こそ西方なり!」と高々に宣言した。

つまり、西方の座を巡って

が相争う形となったのである。

さらにさらにディオレティヌスの友マクシミアヌス(元西方)の息子、マクセンティウスもまた「ちゃんが元西方なら息子こそ西方!」と言い始め、307年、西方セウェルス(上のコンスタンティヌスと争ってた)を殺西方の位を要した。

さらにさらに息子位僭称を正統化すべく、元西方マクシミアヌスディオレティヌスの友)が現役復帰、再び正を宣言した。

内乱勃発

西方マクシミアヌスは、息子マクセンティウスの実権獲得の大義名分として、正を称した。東方レリウスに一度勝利していたマクシミアヌスは、同じく自称西方コンスタンティヌスがせることで、味方とすることに成功。

しかし308年、何を思ったか元西方マクシミアヌス息子マクセンティウスへ向けて挙兵。息子の飾り物、というのが気に食わなかったのだろう。が、ローマへと進軍するも、あえなく敗れた。

それをうけ、同年、東方レリウスと先ディオレティヌス、そして元西方マクシミアヌス会議を開いた。
結果、東西の位は次のようになる。

しかしマクシミアヌス息子マクセンティウスは、依然としてイタリア、すなわちイタリアアフリカを支配していた。また、東西の副であるマクシミヌスダイアとコンスタンティヌスは、新たに西方となったリキニウスより下、という処遇に納得がいかなかった。結果、東西の副は「正」と自称する。

かくして壮絶な位の奪い合いが始まる。310年、自称西方コンスタンティヌスは、元西方マクシミアヌスを反逆の罪で処刑。さらに311年には東方レリウスが亡くなり、312年にはイタリアを支配していたマクセンティウスがコンスタンティヌスと対決するも、敗れ戦死した。一方313年、東方マクシミヌスダイアは西方リキニウスと対峙し敗れ、この世を去った。

結果として、コンスタンティヌスリキニウスだけが残った。

324年、コンスタンティヌスは最後にして因縁であった敵リキニウスを倒し、「一の正」を宣言。こうしてローマ帝国は、再び1人の皇帝が統治する国家となった。

コンスタンティヌス朝 (A.D. 324 - A.D. 363)

アウグストゥスから五賢の時代にかけて、かしい姿を見せていたローマ帝国。しかしセウェルス末期に元首政の限界を露呈し、軍人皇帝の時代に決定的に弱体化、テトラルキアの時期には東方色彩に染まってしまう。

元首政はまだ共和制の延長線上に存在したが、この頃のローマ帝国にはもはや、中央集権化された専制君主制がしっかりと根付いていた。帝国の変質は続くのだが、その決定打となるのが、この第五王たるコンスタンティヌスである。ローマ帝国幾度の内乱、それを制したコンスタンティヌスにより、ローマ帝国はどんどん新しくなっていく。

帝国再編

ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1世324年 - 337年)により、再び1つの王による時代が幕を開けた。

コンスタンティヌスは、ディオレティヌス革路線を継承し、専制君主制をより強固なものとした。

その結果、ローマ帝国は4、12管区、多数の属州という行政区に再編され、めて軍政と民政が分離された。軍は皇帝直属の軍(コミタテンセス)と軍(リミタネイ)に二分された。この頃ゲルマン人の入隊者が増加していたが、彼らはしだいに、揮系統の頂点にある軍務長官(マギステルミリトゥム)に就くようになる

キリスト教公認とその背景

しかし何もかもがディオレティヌス治世期と同じというわけではない。特にキリスト教徒への待遇がそれである。
この頃、帝国各地の街道では償で手当てをしてくれる施設――キリスト教の教会が増えていた。見返りもなく治療をしてくれるキリスト教の教会は話題となり、そこに立ち寄った者や、その話を聞き訪れた者の多くは感謝からキリスト教徒へと宗していった。

そうした背景もあり、コンスタンティヌス内秩序を安定させるために、313年、ミラノ勅令でキリスト教した。さらに、キリスト教の教会に多くの免許状を与え、財政上でも援助し、ローマ帝国キリスト教化を推し進めた。

このキリスト教化こそが、とくに非キリスト教圏で物議を醸す点である。様々な意見があるだろうが、ここではキリスト教化のメリットを挙げておく。

  • 教と皇帝権を結びつけることで、専制君主制の安定化が期待できる
  • 教をすことで、軍務で出世できなくなった有者にもチャンスが与えられる
    • 上述したように、この頃の軍人はゲルマン人が流となっていったため、軍の雇用・出世状況はあまり芳しくなかった。そのため一種の社会保障といえるだろう。

キリスト教帝国認の教えとなった以上、秩序のためにもその教義は統一された方が望ましい。そういった事情から、コンスタンティヌス325年にカイ会議で教義を再確認し、「は子と霊の性質も併せ持つ」という、三位一体説のアタナシウスを正統とした。否定されたアリウスについてはもはや何も言うまい。

遷都――「新たなローマ」

トルコのアヤ・ソフィアコンスタンティヌスはまた、バルカン半島の東端であり、と地中を、そしてアジアヨーロッパを繋ぐゆえ貿易がおいしい都市ビザンティウムを新たなローマとし、遷都した(330年。もちろん帝国の中心が東方へと偏っていたためである)。その都市の名称は自分の名前にしたかったのでコンスタンティノポリスコンスタンティノープル)名した。コンスタンティノポリスキリスト教認後の新都市であったため、必然的にキリスト教の最初の都市ともなる。

キリスト教化に遷都、とローマ帝国全に別物へと変えたコンスタンティヌス1世。
専制君主制キリスト教認、そしてコンスタンティノポリスへの遷都という3つの要素が全に出ったことから、この時代からの東方を中心としたローマ帝国を、ビザンツ帝国東ローマ帝国)と呼ぶことができる。

再び分割へ

337年にコンスタンティヌス1世が亡くなると、ローマ帝国は彼の息子3人に分割統治された。

しかしそれも長続きせず、長男コンスタンティヌス2世は三男コンスタンス1世に殺される。350年にはガリ将軍の反乱が起こり、三男コンスタンス1世も殺される。351年、最後に残った次男コンスタンティウス2世は、の敵討ちとしてその反乱を鎮圧し、件のガリ将軍自決に追い込んだ。

単独皇帝となったコンスタンティウス2世は、例の如く帝国の単独統治に限界を感じ、甥のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(通称ユリアヌス)を副カエサル)に任命、西方の統治を任せた。

異民族撃滅戦

357年、副ユリアヌスゲルマン人の一であるアラマンニ族討伐のため、ガリア軍を率いて東進した。すは現ドイツゲルマニアユリアヌスイタリア軍と連携をとり、自身が動かすガリア軍でゲルマニアを西から、イタリア軍北上させ南から、つまり挟み撃ちをしかける積もりであった。

しかしイタリア軍は途中で敗北し、ユリアヌスガリア軍と合流できなかった。これで30,000ものアラマンニ族に対し、ユリアヌスは13,000のガリア軍で戦わなければならなくなった。

357年の8月ユリアヌスガリア軍は現シュトラスブールのアルゲントラトゥムにてアラマンニ族と突した。

戦闘開始とともに、ローマ軍の右翼騎兵部隊が敵のゲルマン騎兵に撃退される。またローマ軍中央は楔形形のアラマンニ族歩兵にやられ、歩兵の第一戦列を喪失した。だがローマ軍の第二戦列はを構え奮闘、アラマンニ族歩兵の突撃を耐えた。一の時間を許されたユリアヌスは、開幕バラバラになった右翼騎兵隊を再編成し、反撃を揮。騎兵をそのまま、ローマ左翼が発見した敵の伏兵へと送り込み、撃退に成功する。アラマンニ族が敗走を始めると、ローマ軍の追撃が逃亡する彼らをライン河へと突き落としていった。

3世紀以降、ローマ帝国では騎兵が重視されてきたが、この圧倒的な勝利は歩兵によるものだった。

ユリアヌスはその後もフランク族の定に成功し、ローマの同盟軍(フォエデラティ)としてライン地方に定住させた。これは軍事の強化以外にも、農耕の開拓を推進するためであった。これにて一旦、ライン河方面の安が約束されたのである。

背教者ユリアヌス

そもそもユリアヌスは、ギリシア古典ばかりを勉強していた哲人であった。将来の夢もそのであったが、伯父コンスタンティウス2世の要望で、理やりに副とさせられたのである。しかし彼は意外な才を発揮し、異民族撃退に大きく貢献した。ローマ帝国にとりそれは、あまりに大きな副産物であろう。

いつしかユリアヌスは、正コンスタンティウス2世よりも兵士から信頼されていた。361年、ついに兵士たちはユリアヌスを「正」と宣言し担ぎ揚げた。が、コンスタンティウス2世が病死したため内乱は起こらない。正の座は藪から棒にユリアヌスへと移ったのである。

当時、ローマ帝国ではキリスト教化が本格化していたが、ユリアヌスは即位後、自身の著書でキリスト教批判し、ローマ々に対する信仰を取り戻そうと試みた。「背教者」誕生である。もっともユリアヌスは、急速に変わりゆくローマ帝国に対し、どこか悲しんでいただけなのかもしれない。

コンスタンティウス2世の病死により中断されたペルシャ遠征。敵の王はシャープール2世ユリアヌスはこれを引き継ぎ、60,000の大軍を二手に分け挙兵した。大軍はティグリス河とユーフラテス河に沿って進む。そしてタイミング良く合流する予定だった。……しかし363年、作戦は失敗し、ユリアヌスは志半ばで戦死してしまう。伝承によると、彼はこう言い残したという。

ガリラヤ人よ、は勝てり」

ローマ皇帝」フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス

コンスタンティヌスもそこで断絶した。

それにしても、キリスト教徒の皇帝に始まる王の最後が、アンチキリスト教皇帝とは、なんとも皮な話である。

ウァレンティニアヌス朝 (A.D. 363 - A.D. 392)

ユリアヌスが没すると、将校ヨウィアヌスが新皇帝に選出された。ヨウィアヌスのもと、ローマ帝国ササン朝ペルシャ帝国との間には平和条約が締結されるが、それは、ローマ側がティグリス以東の領土といくつかの都市を割譲するという、屈辱にほかならないものだった。ユリアヌスの努が報われぬ結果となったが、それでも、ローマ帝国には502年までの東方平和がもたらされた。

ゲルマン人の大移動

ヨウィアヌスがわずか在位8ヶで亡くなると、将校団の推戴により、ウァレンティニアヌスが新となった。彼はゲルマン人と本を入れて戦うべく、首都をアウグスタ・トレウェロルム(現トリーア)とした。ウァレンティニアヌスも例に漏れず、帝国統治を複数人で行おうと考える。そこで彼は、のウァレンスを共治として東方を任せた。また18歳息子ラティアヌスを、自身の統べる西方の副とした。

そこまでなら何も問題はなかったのだが、375年にウァレンティニアヌスが死去すると、トラキア軍がたった4歳の彼の息子ウァレンティニアヌス2世皇帝と宣言したのだった。

これでまたローマ帝国は3人の皇帝が治める国家となったが、奇しくもこの時代、ゲルマン人の大移動が始まろうとしていた。376年、西進するフン族の波に押され、西ゴート族がドナウ河付近に現れ、ローマ帝国へ保護をめた。西ゴート族は武器の引き渡しを条件に渡河を許された。

腐敗と失態

しかしローマ帝国の役人たちは腐りきっていた。役人は、フン族から避難してきた西ゴート族に対し、約束していた食糧などを勝手に横領、さらには高額で押し売った。

さすがの西ゴート族もそこで堪袋の緒が切れて、武器を再び手に取り起する。これに周辺の小作農や奴隷脱獄兵らが加わり、またアラン族など他のゲルマン人も同調し、乱が雪だるま式に膨らんでいく。東ウァレンスは慌てて鎮圧に向かい、西ラティアヌスも救援のため急いで駆け付ける。

しかし西ゴート族の導者フリティゲルが講和を申し出たにもかかわらず、東ウァレンスはこれを破棄。しかも西ラティアヌスの合流も待たず、単独で反乱の鎮圧に当たろうとしていた。

ハドリアノポリスの大敗

378年8月東方ウァレンスの軍はハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊で西ゴート軍を発見した。

を並べ円を組むゴート歩兵へ向けて、ウァレンスの軍は攻撃を始める。しかしウァレンスのさが露見し、不意打ちには失敗、ウァレンス軍は時間を大きく損失してしまう。その隙にゴート側に騎兵が戻り、ウァレンス軍の側面に大打撃を加えた。ウァレンス軍の騎兵と後衛部隊は四散し、残された軍は西ゴート軍に包囲された。まもなくウァレンス軍は四方八方から攻められ壊滅、兵数が3分の2にまで減少した。そして最後に、ウァレンスが逃亡するが、その先の小屋で火をかけられ焼死したのだった。まさしく惨敗である。

不意打ちを仕掛けてこの大敗――これを機にローマ正規軍は壊滅的損失を被り、ローマ帝国の没落はいよいよ決定的となった。

ゲルマン人の時代へ

西ラティアヌスは、ヒスパニア出身の名将テオドシウスを次の東とした。のちにキリスト教教とする、テオドシウス1世である。

382年、テオドシウスのもとローマ帝国は西ゴート族との講和に成功する。またテオドシウスは彼らをトラキアに定住させ、年金支給と引き換えに傭兵として雇った。当時、ローマ帝国では人口が減少していたので、徴兵し時間をかけて訓練するよりも、こうして即戦を得た方が、はるかに得策だったのである。この政策は、小作人を兵として取られたくない大土地所有者や、文官や教をす多くのローマ市民に広く受け入れられた。こうしてローマ軍のゲルマン人にとって代わられていくのである。

そして次世代へ……

395年度のローマ帝国領

領土を4つに分けたり、キリスト教を認めたり、と色々妥協をして生計を立ててきたローマ帝国だが、4世紀後半にもなると諸々のガタが来た。

帝国移民に荒れ狂い、古代ローマからの宗教も否定し、そうしてっ二つに分割された。

東ローマ帝国の初代皇帝アルカディウス。西ローマ帝国の初代皇帝はホノリウス。二人ともテオドシウスの息子共に父親頼みの無能

他方、東ローマ帝国はその後独自の文化を開させ、ギリシャチックローマ帝国として、1453年までの1000年間におよぶローマの栄を実現する。東ローマ帝国は9世紀に入るまでヨーロッパ一の「帝国」であり続け、先進文化圏としての地位にあり続けた。また、東欧世界の成立に深く関与し、その土台となる。

他にも800年のカールの戴冠や、962年のオットーの戴冠によって西ローマ帝国の後継者(という設定)である神聖ローマ帝国が現れた。神聖ローマ帝国ローマの権威や文化を継承し(たつもりらしい)、ローマ帝国とカトリック教会、そしてゲルマン民族による独自の文化圏を形成し、西欧の前身となった。

ローマ帝国は滅んでも、その遺産は欧州の財産として残り続けるのだろう。

ローマ帝国の後継者たち

ローマ帝国、ないしその後継者を自称した国家は少なくない。ここではその代表的な例をまとめることとする。

めちゃくちゃ多い……。
なお、この中でローマ帝国からの正統な連続性を有しているのは、すなわち正式な継承東ローマ帝国西ローマ帝国のみである(395年の分割統治)。神聖ローマ帝国西ローマ帝国を、ロシア帝国東ローマ帝国の後継をそれぞれ自称したが、当然ながらそれら2ローマ帝国からの連続性は皆無である。

このように後継を称するが多いのは、ひとえにローマ帝国が偉大であったからであろう。

帝政期の年表

出来事
241 第一次ポエニ戦争終了。ローマのシチリア支配が確定する
ローマ帝国化が始まる
44 ガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官就任
前27年 オクタウィアヌス、元老院から「アウグストゥス」の称号を得る
これにより、政が成立する(ユリウス=クラウディウス
19年 ヒスパニア(イベリア半島)遠征が
8年 ティベリウス(後の第2代皇帝)、ゲルマニア(現ドイツ)に遠征
6年 ティベリウスがスカブリ族を除く全ゲルマン人を征する
後6年 ユダヤを直接統治下に置く
14年 ティベリウス即位
41 カリグラが暗殺される
43年 ブリタニア遠征
54 クラウディウスが暗殺される
61 ブリタニアの反乱
64 首都ローマで大火災が勃発
66年 属州ユダヤで反乱勃発
68 ガリア総督ウィンデクスの反乱
ネロ自害し、ユリウス=クラウディウスが断絶する
69年 各地で軍団が起し、内乱へ突入(69年の内乱)
70 フラウィウス・ウェスパシアヌスが内乱を終息させる
フラウィウスの成立
79 ウェスウィウス火山噴火、ポンペイ大炎上
89 ゲルマニア総督サトゥルヌスの反乱
96 ドミティアヌスが暗殺され、フラウィウスが断絶する
ネルウァが元老院により即位し、ネルウァ=アントニヌス五賢の時代へ突入
101 キア戦争勃発(~106年)
106 トラヌス、ダキア戦争定する
114 トラヌス東方遠征を開始
116 トラヌスによりメソポタミア全土を獲得
122 ドリアヌスブリタニアに遠征し、長を建設する(ハドリアヌスの長
161 マルクス・アウレリウスが即位
192 コンモドゥスが暗殺され、ネルウァ=アントニヌスが断絶し、再び内乱期となる
193 セプティミウス・セウェルスが内乱に勝利し即位、セウェルスが成立する
217 カラカラが暗殺される
222 ヘリガバルスが暗殺される
235 マクシミヌストラクスの即位により、軍人皇帝の時代が始まる
259 ローマ皇帝ウァレリアヌスササン朝ペルシャ帝国捕虜になる(エデッサの戦い)
260 ローマ帝国領内でガリ帝国ルミラ王独立する形で成立
273 アウレリアヌスがパルミラ王を滅ぼし、ローマ帝国領に統合する
274 アウレリアヌスガリ帝国を滅ぼしローマ帝国の領土を全回復させる
284 ディオレティヌス即位、軍人皇帝の時代が収束し、政体が専制君主制(ドミナートゥス)に代わる
286 ディオレティヌス、マクシミアヌスを「共治」として西方とする
293 テトラルキアが本格的に始まる
313年 テトラルキアが瓦解し始める
西方コンスタンティヌスミラノ勅令によりキリスト教
324 コンスタンティヌスが単独皇帝となり、コンスタンティヌスが成立する
325年 カイ会議、アタナシウスが正統とされアリウス異端とされる
330 コンスタンティヌスコンスタンティノポリス遷都
332 ゴート族を降させる
363 「背教者」ことユリアヌスが没し、コンスタンティヌスが断絶する
364 ウァレンティニアヌス1世即位、ウァレンティニアヌスが成立
378年 ドリアノポリスの戦いでゴート族に敗れ、ウァレンが殺される
392年 ウァレンティニアヌス2世が没し、ウァレンティニアヌスが断絶する
テオドシウス1世により、キリスト教教になる
394年 テオドシウス1世、ローマを再統一 
395年 テオドシウス1世が死亡し、ローマ帝国が東西に分裂
西ローマ帝国東ローマ帝国に分かれる
410年 西ゴート王アラリックイタリアへ侵入しローマを荒らす
411年 ブルグント族がライン地域に王を建
415年 西ゴート族がイベリアに王が建
435 ヴァンダル族がアフリカに王を建
451年 アッティラ率いるフン族を撃退する
455年 ヴァンダル族のローマ占領
西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の死去により、西ローマのテオドシウスが断絶
457年 ローマでもテオドシウスが断絶する
476年 ゲルマン人の傭兵隊長ドアケルにより、西ローマ帝国が滅亡する
480年 最後の西ローマ皇帝ユリウス・ネポスが暗殺される
486年 最後の西ローマ帝国領域であったソワソン管区がクローヴィス率いるフランク族(後のフランク王国)により征
529年 ローマ法大全』の編纂(~533年)
532年 首都コンスタンティノポリスでニカの乱が勃発、ササン朝ペルシャ帝国と「恒久平和条約」を締結する
534年 ヴァンダルを滅ぼす
552年 イベリア半島南部へ進出
555 東ゴート王を滅ぼす
568 ランゴバルド族がイタリア半島に進出ユスティニアヌス大帝の再統一事業と合わせてイタリアは荒する
ローマの人口減少と元老院の消滅で、古代ローマの構成要素が失われる
628年 ヘラクレイオスササン朝ペルシャ帝国を破る
636年 イスラム軍に敗北
726年 レオン3世により像破壊運動が始まり、西方教会との対立が深まる
740 アクロイノンの戦いでイスラム軍に勝利
796年 初の女エイレーネーが即位
800年 フランクカールシャルルマーニュ)、西ローマ皇帝として戴冠
962年 ドイツオットー1世が即位し、神聖ローマ帝国全に成立する
1014年 第一次ブルガリア帝国を滅ぼす
1071年 セルジュークトルコ敗北
1095年 アレクシオス1世の要請により、教皇ウルヌス2世がクレルモンの会議を開く(十字軍の結成
1204年 第四回十字軍により、東ローマ帝国が滅亡する
1261年 亡命政権ニカイ帝国により、東ローマ帝国が復活
1453年 オスマン帝国敗北し、ローマ帝国全に滅亡する
1460年 東ローマ帝国の残存領域、ミストラ及びモレアス専制領がオスマン帝国に降伏
1461年 亡命政権トレビゾンド帝国オスマン帝国により滅亡
ローマに由来とする国家が全て滅亡

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読み:ローマテイコク
初版作成日: 11/06/05 19:39 ◆ 最終更新日: 17/11/20 20:38
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ローマ帝国について語るスレ

133 : ななしのよっしん :2017/07/09(日) 12:55:26 ID: X5RZTOsnZh
それは理だよ
ローマ帝国以前から存在して、ずっとそのまま続いてるんだから
134 : ななしのよっしん :2017/07/09(日) 13:09:43 ID: cT9AmXlJa1
日本列島が浮かんでたって意味なら確かにそうだな
135 : :2017/08/10(木) 12:45:19 ID: KaYvBCEeBN
この時代や中世の時代のロシアって名前が出てこないけど何してたんだろ
136 : ななしのよっしん :2017/08/10(木) 13:05:51 ID: mDI5/qPqHo
>>135
基本地中中東の文明世界から見たらド田舎の後進。古代〜中世日本における北海道みたいなもん。

ロシア人は絶対に認めないけど、ロシアが大として歴史に登場できるようになったのはモンゴル帝国の影が大きい。
137 : ななしのよっしん :2017/08/10(木) 23:02:37 ID: JZuBJwOkxq
モスクワモンゴル帝国ランドパワーを受け継ぐことでロシア帝国の礎が築かれたからな
138 : ななしのよっしん :2017/09/09(土) 21:39:36 ID: HlwqCeGPfy
イワン雷帝の時代にモンゴルの3ハンを滅ぼして版図に加えてから大化だな。
以後500年、いまだにタタールモンゴルロシア隷属下といっていい。
タタールのくびきは最大限見ても200年ぽっちなのに
139 : ななしのよっしん :2017/09/24(日) 22:00:29 ID: bh9KZXjzGn
>>138
勘違いしている人居るけどロシア本土である北ロシア(ノヴゴロドの領域)は征されてないんだよな
単に辺の極寒地帯だから支配するメリットが存在しなかったからかも知れないが
140 : ななしのよっしん :2017/10/04(水) 08:32:59 ID: HyNIBx6zAv
>>132
個人的に江戸時代江戸ミニローマ帝国だと思ってる。
生活様式が古代ローマに非常に似通ってるから。
141 : ななしのよっしん :2017/11/12(日) 17:13:47 ID: EC2bB635m4
まぁミニローマ都市)なら分かるが、江戸幕府とローマ帝国は特に似てないと思う。
ローマ帝国を特徴づけているのは、拡大していくローマ市民権と元老院と首都ローマの特権と、後は時代が下るにつれて東方に権威付けされていった皇帝だと思うんだけど、どれも江戸幕府に対応するようなものがあるとは思わないなぁ。
都市問題の解決方法とか娯楽?が、1600年の時を経て洋の東西でなんだか似通っているって見方は面いかもしれない。
142 : ななしのよっしん :2017/12/08(金) 08:28:57 ID: vMmpUtgfap
>>135-136
その辺りの点でローマ歴史ロシア帝国歴史は似ているところがあって、ロシアの場合スラブ人が中核を担っているが昔からアヴァール人などにレイプされて混血していた。
そして混血児が後々報復に向かうという流れになっていて、この辺りはローマガリア人の関係とかなり通じていると言える。
コサックタタール系も政期や共産期にしばしば「懲罰」されていたが、それは彼らがスラブ人に対して働いた往年の性暴力がその背景にある。
つまりタタール人は昔からスラブ人をレイプしてきていて、その度に報復の種をかの地に播いていたという話。
そういった歴史を当の古人達が「モンゴルのおかげでロシアは大成できた」と自慢に思っているのかどうかは知らないが、思っているとすればまさに歴史カルマが働いている事の左をまた一つ積み重ねているにすぎず、彼らの容貌にもそれが見事に映し出されているという事に他ならない。
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