ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦とは、イタリアの本気にして高い戦闘力を誇る戦艦である。
1930年ごろのイタリア戦艦の状況
第1次世界大戦が起きなければ15インチ(=38.1cm)砲8門を持った高速戦艦を4隻保有できる予定だったイタリア海軍であるが、第一次世界大戦の影響でその高速戦艦は手に入らず、弩級戦艦4隻と骨董品の装甲巡洋艦2隻だけが主力として残っていた。
イタリアの仮想敵国はフランスであった。
そのフランス海軍も英米日の戦艦と比べると明らかに弱い戦艦しかもっていなかったが、イタリア海軍にとっては超弩級戦艦というだけで十分脅威であった。
そんな状況でフランスが本腰を入れて戦艦を建造するきっかけとなる艦がドイツに登場する。
ドイッチュラント級装甲艦は額面上は重巡洋艦を圧倒する攻撃力と戦艦からは逃げれる速力を実現した。(レナウン級やフッドを擁するイギリスには特に脅威でもなかったが)
この対策にフランスは高速戦艦ダンケルク級を2隻建造開始し、次いで主力戦艦のリシュリュー級の建造を計画した。
これを受けイタリアは新型戦艦の設計を進めることにした。しかし、イタリアの工業力では4隻の新型戦艦の建造には時間がかかるため、旧式戦艦4隻を魔改造してしばらく凌ぐことにした。
新型戦艦がヴィットリオ・ヴェネト級である。
イタリア戦艦に求められるもの
一言で言うと負けないことである。
砲撃で敵戦艦を牽制しつつ、水雷戦隊を敵戦艦に突撃させれればそれでいいのである。
イタリアの軍備において勝つことを求められたのは航空兵力と水雷戦隊であった。
空軍が制空権を確保(あるいは敵艦の撃破や撃沈までも狙う)し、高速な主力艦を展開し、小型高速艦艇で勝利をつかむ。
これがイタリアという国の海上戦闘の理想であった。
(ただし、陸上航空隊や遠くの空母が艦隊防空を行い続けることは難しい)
水雷戦隊が上位の艦を撃沈可能な戦力であることは史実が証明している。(有名なのはスリガオ海峡夜戦での米駆逐艦による日本戦艦2隻の撃沈)
イタリア軍の軍備は全て地中海での戦闘しか考えてないものであったが、それは非常に高度なもので現実的であった。
あとどこぞの帝国海軍も割と似た考えである。(その国の場合は南洋の島々での艦隊決戦での勝利を考えていた)
バカみたいにでかい戦艦のせいでそれが艦隊の目玉と思いたくなるのだが、そのバカみたいにでかい戦艦を撃沈するための駆逐艦は長年の軍備で用意していたし、同じ時代にも作っていた。
新型戦艦の性能は如何に?
ヴィットリオ・ヴェネト級は1934年から建造がはじまった。
15インチ砲9門の火力は15インチ砲を持つ戦艦としては最大のものであり、攻撃力は砲の性能もあって16インチ(40.6cm)砲装備のネルソン級戦艦にも匹敵、交戦距離によってはそれ以上の攻撃力を実現した。
その攻撃力は近距離戦に持ち込まれると大和すら危ないほど。(その前にこっちがやられるだろうけど)
…これでも役目は一応牽制。
速度も水雷戦隊命のイタリア軍らしく、約30ノットを発揮可能である。(旧式戦艦も27か8ノット以上を発揮可能)
27ノットの戦艦8隻の艦隊を正面から撃破するのは実に難しいものである。
うち4隻が攻防力で劣る旧式戦艦としてもである。(お前は何を言ってるんだと言う人は27ノット以上の速力を発揮可能な戦艦を国ごとにまとめてみると良いだろう)
防御も新型戦艦として期待するに十分な位厚いものとなっている。
本級の最大の特徴と言うかイタリア戦艦の特徴であるプリエーゼ式をどう見るかで評価は大きく分かれる。
これは船体に筒を仕込んで衝撃を拡散させて、うまいこと和らげることを狙ったものであった。
欠陥防御とよく言われるが、その根拠をタラント空襲に求めれていればそれは正しい評価とは言い難い。
軍港と言うのは基本的に浅く、僅かな浸水で着底するし、爆弾や魚雷の威力も外洋よりも跳ねあがってしまう。(その代わりに攻撃を行うこと自体の難易度も跳ね上がる)
停泊中に被弾し、大ダメージを負った艦が多いのはそのためである。
明確な欠点として、この艦はよその戦艦と比べると確実に航続距離が短かったし、波への対策も不十分であった。
地中海では最強というか地中海でしか戦力足りえないとも言えた。
しかし、イタリア戦艦はそれで良いのである。必要もない航続力よりは戦闘力を充実させた方が実用的であったのである。
もう1つの欠点は15インチ砲で16インチ砲以上の攻撃力を実現したため、砲身の寿命がかなり短くなったこと。
航空艤装はRo.43水上偵察機を3機搭載し、カタパルトと揚収用クレーンを1基ずつ搭載している。
当初はカタパルトは2基搭載する案もあったが、大型のカタパルト1基に変更された。
この変更は一説にはCa.316双発水上偵察機を運用することも視野に入れてのものともされる。
1943年以降は防空などを目的に、カタパルトでの運用ができるようにするなどの改修をした陸上戦闘機Re.2000も搭載し運用していた。
艦歴
1940年4月に1番艦ヴィットリオ・ヴェネトが竣工し、翌月に2番艦リットリオが続いた。
その年の6月、イタリアはフランスに対して宣戦布告し、そのまま枢軸国としてイギリスとも戦うことになった。
海軍戦力はともかく、空軍の制空力、工業力、何より燃料に事欠く状態での参戦であった。
しかし、高速戦艦5隻以上の有力な艦隊は英軍も無視できるものではなかった。
有力な艦隊に出撃されて輸送船団を襲われるとひとたまりもない…。
こう思わせることで敵を牽制するのは現存艦隊主義と言うが、第2次世界大戦においても極めて有効に働いた。(昔からある海上戦力の運用方法の1つ)
1940年の後半から実戦投入された。
1940年11月、イギリスは約20機の雷撃機を用いてイタリア海軍の母港ターラントを奇襲した。
空軍は海軍艦艇を航空攻撃から守れず、戦艦3隻が大破・着底し、修理完了まで戦列から離れることとなった。
その3隻の中には竣工したばかりのリットリオも含まれていた。
この時点までにイギリスはイタリア空軍がイタリア海軍の防空を満足に行えないことを確信し、これ以降より活発的に行動するようになる。
一方のイタリア海軍はターラントから不便なナポリに撤退し、以後の作戦でもイギリスの航空攻撃に悩まされることになる。
1940年11月下旬、ターラント空襲で無傷だったヴィットリオ・ヴェネトは旧式戦艦ジュリオ・チェーザレを率いイギリスの船団攻撃に出撃した。
この出撃でヴィットリオ・ヴェネトはイギリス戦艦ラミリーズや巡洋艦多数との砲撃戦を行う。(スパルティヴェント岬沖海戦)
この海戦は巡洋艦同士の戦闘となり、イギリス側艦隊にいたラミリーズは強力な火力を持ちながらも低速故に落伍してしまった。(ただし、高速な巡洋戦艦のレナウンがいた)
一方のヴィットリオ・ヴェネトは巡洋艦同士の高速な戦闘に追従出来、巡洋艦同士の戦いに攻防共に充実した戦艦を送り込むことが出来た。
1941年3月、再びヴィットリオ・ヴェネトはクレタ島方面の船団攻撃に出撃する。
3月28日、巡洋艦を中心とする艦隊を発見し、砲撃行うものの逃げられてしまう。
その後、空母艦載機からの攻撃を受けるも、全て回避しきった。
敵空母の存在を確信した艦隊司令のイアキーノ提督は撤退を決意した。
午後になると再び空母艦載機からの攻撃を受け、今度は1本の魚雷が命中した。
ヴィットリオ・ヴェネトは無事に帰還できたが、イタリア海軍では大変なことが起きていた。
重巡洋艦ポーラが航空攻撃で航行不能となり、救援に重巡2隻と駆逐艦4隻を差し向けたが、駆逐艦2隻を残してイギリス戦艦とその護衛によりなすすべもなく撃沈されていた。
重巡3隻の犠牲は余りに大きかった。
元々イタリア海軍には7隻(トレント級3隻にザラ級4隻)しか重巡が存在しなかった。
撃沈されたのはザラ級3隻であるが、このザラ級は攻防力に優れており、数で勝るイギリスの軽巡洋艦と正面から有利に戦える数少ない艦であった。
ここに至り、航空戦力の問題に加えて重要な水上艦戦力も失ってしまった。
この海戦はマタパン岬沖海戦と呼ばれ、この敗戦によりイタリア海軍は著しく行動力を失った。
これ以降も燃料に悩まされつつもヴィットリオ・ヴェネトとリットリオは可能な限りの出撃を行ったが、帰還命令に振り回されるなどもあり戦果をあげることはできなかった。
1942年6月には4番艦のローマが完成するも、すでに戦艦をまともに動かすだけの燃料もなかった。
人員は旧式戦艦から引き抜いて確保した。
3番艦のインペロは工事が遅れに遅れ、イタリアにとっての終戦である1943年までに完成することはなかった。
この時期になるとイタリア軍は小型艦艇が奮戦し、奇跡の様な戦果をあげている。
イタリア海軍が大型艦ほど弱いなどとネタにされるのはこの辺が理由であると思われる。
そして地中海の戦いが枢軸国の敗北で終わろうとしているころ、イタリア本土に連合国軍上陸が迫った。
一方、イタリア国内ではムッソリーニが失脚し、新政権が誕生していた。
と同時にリットリオは艦名をイタリアと改めた。リットリオこと3本の斧はファシスト党のシンボルだったためである。
イタリア海軍は最後の意地を見せんとヴィットリオ・ヴェネト級3隻で最後の戦いを挑もうとしていた。日本でいうところの坊ノ岬沖海戦をやろうとしていたのである。
しかし、新政権の意向で無駄な戦いはせず、大人しく降伏することとなった。
ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦は強力な戦闘力を持ちながらも敵だけでなく自国の上層部との戦いも強いられ、結果として戦果をあげる機会を失ったのである。
戦後の艦歴
降伏したイタリア海軍の戦艦はエジプトで抑留されることとなった。
監視にはイギリス戦艦ウォースパイトなどが付いていた。
しかし、戦争から解放されるはずであったイタリア戦艦に最後の戦闘が強いられることとなった。
その相手はついこの間まで同盟国であったドイツである。
ドイツは有力なイタリア海軍艦艇が連合国に合流することを恐れ、航空攻撃を行うことにしたのである。
誘導爆弾フリッツXを装備したDo217爆撃機は眼下の敵戦艦を次々に爆撃した。
このフリッツXはイタリアに1発、イタリア艦隊の旗艦であるローマに2発命中した。
フリッツXによるダメージは大きかった。
イタリアはなんとか耐えたものの、火災を鎮火できなかったローマは弾薬庫に引火、艦隊司令・艦長を含む多数とともに地中海に飲み込まれた。
フリッツXは強力な爆弾であるが、当っても撃沈出来なかったケースの方が多い。
ローマの場合、最初に機関を潰されて(それでも這うようには航行を続けている)、それから弾薬庫付近に被弾した。
装甲を抜かれて大変なことになったのはフリッツXが命中した艦全てに共通しており、あとは当りどころにもよった。
残った2隻はそのままエジプトまでたどり着き、第2次世界大戦が終結するまでここで余生を送った。
第2次世界大戦終結後、再びヴィットリオ・ヴェネト級は政治に振り回されることとなった。
第2次世界大戦後、戦艦を欲しがった国は2つしかない。
1つは1945年にもなって大型空母の建造を中止してまでライオン級戦艦を作ろうとしたイギリス。
もう1つは戦争がなければ戦艦を自国で建造してたはずのソ連であった。
ソ連はヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の引き渡しを要求した。
しかし、敵となった…というより元々敵であるソ連に有力な戦艦をアメリカもイギリスも渡したくはなかった。
ヴィットリオ・ヴェネトはイギリスへの、イタリアはアメリカへの賠償艦となった。
ソ連には旧式戦艦のジュリオ・チェーザレが引き渡された。
さらに元々の持ち主のイタリア政府も本級の保有を続けたかったようだが、それは叶わず、イタリア国内での解体となった。
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