一休宗純とは、室町時代の臨済宗の僧侶、大徳寺の元住職である。
概要
とんち話などで書籍やアニメで知られるが、これらは江戸時代の作り話である。
しかし、実際の一休は風狂の精神の下で、奇行をしつつ室町時代中期の政治や形骸化した仏教を風刺していた。
その中で様々なエピソードを生んでいた。
こうした形式にとらわれない行動と人間らしい生き方が庶民の評判を呼び、とんち話を生み出すきっかけになったともいえる。
しかし大徳寺派の高僧でもあったため、貴族や武家との交友もあり、寺の復興、再建も行っている。
一方でいくつもの詩集を出し、また書家(能筆)としていくつもの墨蹟が珍重されていた。
生涯
1394年京都生まれ。母は藤原氏の一族で、一説には後小松天皇の落胤だと言われる。幼名は千菊丸。
6歳の時に安国寺に入り受戒、周建という戒名をいただく。このときに漢詩の才能が開花し、いくつもの作品が評判を呼んだ。
1410年に安国寺を出て、西金寺の謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改める。しかし1414年に謙翁が亡くなってしまう。悲しみのあまり入水自殺を試みるが失敗に終わる。
1415年、大徳寺の出身で近江国堅田の祥瑞庵に住む華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、道号として一休の名をいただく。
1420年に大悟し、華叟は一休に印可状(悟りに達したことを証明する卒業証書のようなもの)を与えようとするが、一休は辞退し、寺に入らず風狂の生活を長らく送ることとなる。印可状は華叟の弟子が持っていたが、持ち込んだ際に一休は火にくべてしまった。
1456年には、戦災で妙勝寺を復興し、酬恩庵(一休寺)と改め、ここを住まいとした。
1474年、後土御門天皇の勅命により、大徳寺の住持(住職)に任ぜられた。しかし寺に住むのは断り、酬恩庵から通っていた。大徳寺は応仁の乱で荒れ果てていたが、一休の努力によって復興していった。
1481年に病に倒れ、酬恩庵で亡くなる。享年88。死の間際に「死にとうない」と言ったとされる。
人物像
風狂の生活に入ると、見た目には髪やひげを剃らずに伸ばしたまま、袈裟もぼろぼろだった。また、当時の戒律で禁じられている肉食、飲酒、性行為(女性だけでなく男性も)も行っていた。実際、実の子もいたと言われている。
- 朱の鞘に木刀を差して歩いていた。「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、体面を飾ることしかできない当時の世相を批判した。
- 正月には杖の頭に頭蓋骨をつけ、「ご用心、ご用心」と練り歩いた。
詩集においては、当時の足利義政や日野富子による悪政を風刺、糾弾する内容も含まれていた。
酬恩庵や大徳寺においては、一休の手で「一休寺納豆」「大徳寺納豆」が伝えられている。
これは現在の納豆とは異なり、大豆に麹と塩をまぶして発酵させ、乾燥の後熟成させたものである。中華料理に使われる豆豉(トウチ)と製法は同じで、これが日本に伝わったものといえる。
アニメ「一休さん」との違い
とんちを行うことは異なっているものの、それ以外にも違いは存在する。
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関連項目
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