一条房冬単語

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一条房冬(いちじょう・ふさふゆ 1498~1541)とは、戦国時代戦国大名である。

土佐一条3代当一条の嫡男。

一条房通、一条房忠、一条教行(一条法行、東小路教行)、一条などがいる。

子に一条房基、大内持(大内義房)。

持に関しては一条の四男という記述もあります。

 

概要

詳しい事績はわかっていない。

1539年に・房の跡を継ぐ。

1540年、重臣であり岳である敷地安を重臣の讒言により自害させるという失態を犯した。後に安の実を知った房しく後悔したという。

翌年、病死した。督は子・房基が継いだ。

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一条房冬

1 ななしのよっしん
2016/02/07(日) 15:32:47 ID: /7LNv0uah2
1524年に上、37年に土佐に帰還。
1535年、房が正二位左近衛大将に任命された、
は、事前に一万の献約束していた。
約に従い、払おうとしたところ、後奈良天皇がそれを知ってしまい、つき返されてしまった。
な売官行為に激怒した、という。
また、これは房か房微妙なところだが、帰した37年、本願寺如に話をつけ、渡唐を作るのに協を要請していた。
この渡唐は、翌年の正月完成12月に回航され、如がおびで見に来るほど巨大なだったという。
また、この時の渡唐かどうかはわからないが、商人で冒険のメンデスピントが記した『東洋遍歴記』によれば、1540年、ポルトガル人たちはカンボジア合の停泊地で、琉球に乗ってシャムに行く「土佐の大使」と出合ったとされる。
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