三好政長(みよし・まさなが 1508 ~ 1549)とは、畿内の戦国武将である。出家後の号から三好宗三(そうざ)とも呼ばれる。
概要
なにかと刀の方が有名な感のある三好一族のひとり。三好政康・三好政勝(三好為三)兄弟の父。
両細川の乱では細川晴元ら阿波細川家に仕え、同族の三好元長らと共に堺公方を成立させた。元長が細川晴元と対立を深める一方で、政長は晴元に急接近し、元長の追い落としに関わる。以後は晴元の腹心の部下として権勢をふるった。
やがて元長の遺児・三好長慶が台頭すると、彼とも対立する。遂に長慶が挙兵すると、政長の専横に不満を持っていた者達もそれに次々と続き、孤立した末に江口の戦いにて討死した。そのまま細川晴元も失脚、三好政権の時代へと移る。晴元と共に一つの時代を築いたキーマンである。
その名の通り、名刀「宗三左文字」の(確認できる)最初の所有者。また天下三肩衝のひとつである茶器・新田肩衝を所有していた茶人でもある。
生涯
雌伏から権勢へ
三好長尚(越後守)の子。長尚の兄が三好之長で、之長の孫が三好元長。
つまり三好政長は、三好元長から見ると父の従兄弟、三好四兄弟から見ると祖父の従兄弟にあたる。(ただし年齢的には元長より年下)
1520年に三好之長が細川高国派に捕らえられて処刑された時、政長の兄も共に処刑されている。これ以降、畿内の権力は細川高国の手に握られ、対抗馬の細川澄元は病死、澄元の幼い遺児・細川晴元を支えながら三好一族は阿波でひっそりと力を溜めていた。
1526年、讒言を信じた細川高国が無実の家臣を殺害した事から高国政権は動揺。この隙を突いて、細川晴元および足利義維を旗頭に掲げる阿波の軍勢が挙兵する。政長は父・三好長尚、次兄・三好長家らと共に堺へと上陸して橋頭堡を築いた。更に翌年の桂川原の戦いで長家・政長は「樊噲張良もかくや」(細川両家記より)という奮戦を見せ高国軍を敗走させ、堺に疑似幕府・堺公方を成立させる。
ここからは晴元と高国の一進一退の攻防が続くが、その中で活躍したのが三好宗家当主・三好元長だった。元長は高国との和睦を模索するが、政長ら他の内衆はそれに猛反発し、讒言して失脚させたという。
それが災いして戦況が不利になったために結局元長が復帰し、1531年に高国は討ち取られた。
…当然ながら、高国という共通の大敵が消えた事で、元長と反元長派の対立は再び燃え上がる事になる。
元より政長らが高国との和睦には反対していたのは、高国を倒した上で現将軍・足利義晴と和解することを目的していたようで、
当初の予定通り足利義維を将軍に据えることを望んでいた元長は孤立、復帰後に柳本・木沢らライバルに何度も攻撃を仕掛けた結果、遂に晴元から切り捨てられ、晴元側から煽動された一向一揆に攻め込まれ討ち取られた。
こうして政長たちは晴元の腹心の部下として、政権の中枢に座るのである。
なお政長が謀略によって積極的に元長を死に追いやったような印象があるかもしれないが、当時の資料では一連の流れにおける政長の関与は柳本・木沢らに比べてほとんど見受けられない。
ちなみに父・長尚は天文9年まで存命であり、兄・長家は桂川原で追った傷が原因で死去した。
栄光から没落へ
1532年に元長が死んだ時点で、その遺児・三好長慶はまだ10歳だった。やがて成人した長慶は晴元の下で数々の武功を挙げていく。政長と長慶は対立する事もあったが、基本的には同じ三好一族として細川政権軍の一翼を担っており、反乱を企てた木沢長政を討ったり、高国の養子である細川氏綱と戦うなどしている。
長年に渡って権勢を振るい続ける政長は、徐々に周囲の反感を買っていた。晴元もそうした状況を察したのか隠居を奨め、政長は半隠軒宗三と号して出家、子・三好政勝に家督を譲るが、結局実態は何も変わらなかった。
1548年、摂津国人・池田信正(宗三の娘婿)が、晴元に謀反した罪で切腹させられるという事件が起こる。更に池田家中に宗三一派が介入した事から、溜まっていた鬱憤が遂に爆発。長慶は摂津国人を率い、敵だった細川氏綱の側についてしまった。
こうなるとドミノのように周囲の挙兵は止まらず、政康が守る摂津・榎並城は完全に孤立して包囲されてしまう。守りの堅い榎並城は幸いにも持ちこたえたが、籠城戦は翌年の夏まで8か月も続くことになる。
山城国にいた宗三は、伊丹城や三宅城といった数少ない味方の城を転戦しつつ、近江の六角軍が援軍に来るのを待っていた。ところが、江口城へ移った所を長慶軍に包囲されてしまい、六角の援軍が到着するのを前に江口城は落城、宗三は討死した。(なお榎並の政勝は脱出に成功した)
この江口の戦いにより細川晴元は失脚し、三好長慶が中央政権を握る事になる。息子・政勝はしばらくは長慶との対立を続けるが、帰参した後は三好三人衆の一人となり、長慶没後の三好家中を牛耳っていく。
宗三左文字
彼の名を冠した有名な刀「宗三左文字」。刀自体は南北朝時代に作られた物である。宗三から武田信虎へ、信虎から今川義元へと贈られ、桶狭間の戦いで織田信長が手に入れる。やがて豊臣秀吉・豊臣秀頼親子の所持品となり、大坂の陣の後は徳川将軍家の持ち物となった事から「天下人の持つ刀」として名高い。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける三好政長(三好宗三)の能力一覧。
1549年という絶妙な没年のため、信長の家督相続(1551年)から始まる作品には出てこない。でも彼がいなくても左文字の方は天翔記以来皆勤賞の家宝である。古い作品では宗三が所持している事もあったが、嵐世記あたりからは1534年時点で信虎に贈呈された設定になっていて、彼の下に戻ってくることはまず無いだろう。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 67 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 48 | 政治 | 64 | 野望 | 41 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 120(B) | 智才 | 140(B) | 政才 | 128(B) | 魅力 | 62 | 野望 | 42 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 50 | 戦闘 | 54 | 智謀 | 44 | 政治 | 43 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 47 | 智謀 | 23 | 政治 | 36 | 野望 | 63 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 42 | 知略 | 23 | 政治 | 34 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | 36 | 武勇 | 28 | 知略 | 57 | 政治 | 58 | ||||||||
創造 | 統率 | 46 | 武勇 | 41 | 知略 | 57 | 政治 | 55 | ||||||||
戦国立志伝 | 統率 | 46 | 武勇 | 41 | 知略 | 57 | 政治 | 55 | ||||||||
大志 | 統率 | 45 | 武勇 | 41 | 知略 | 57 | 内政 | 55 | 外政 | 56 |
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