上杉顕定単語

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上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)とは、日本の武将である。

  1. 南北朝時代の武将。扇上杉
  2. 戦国時代の武将。山内上杉

1.上杉顕定(1351~1380 南北朝時代)

上杉初代当千秋上杉上杉成の子。

従兄弟にあたる上杉朝定の養子となるが、2歳の時に養が死去している。誕生まもなく養子に出されたか、定死後に形式的に養子とされたかと思われるが詳細は不明。定には実子である上杉顕もおり、養子となった経緯も不明瞭である。

貞治年間(1362~1368)に関東に下向して、鎌倉方・足利氏満に仕えて鎌倉・扇(おうぎがやつ)を居住地とし、扇上杉を立てた。扇上杉はその後、武蔵を中心とした一大勢へと成長していく。なお義兄弟顕は京都に残り続け、こちらは八条上杉として続いていく。

わずか30歳の若さで病し、督は甥・上杉氏定(兄弟である上杉頼顕の子)が継いだ。

2.上杉顕定(1454~1510 戦国時代)

山内上杉11代当越後上杉氏上杉房定の次男。

関東地方の乱世の始まりである享徳の乱長享の乱永正の乱の時代における関東管領。その職を44年の長きに渡って務めて、西関東における一大勢を築いた。

しかし、実家である越後上杉氏において守護代・長尾為景下克上を起こし、実上杉が死に追いやられた。その仇討ちの為に越後へと出するも、為景の反撃により彼もまた自害する。

その生涯は戦国時代初期そのものであったと言える。余談ながら、南総里見八伝にも登場する。

前半生

1455年、関東管領(山内上杉)と古河方(はじめ鎌倉方)の対立が化して、享徳の乱が発生。山内上杉氏の当であった上杉房顕は、古河方・足利成氏を中心とした勢と、武蔵五十子(いかっこ/いらこ)での睨み合いを続けていた。

その房顕が1466年に五十にて病したため、8代将軍・足利義政宰・長尾景信白井長尾)の推挙より13歳で督を継いだ。血縁としては養・房顕と実・房定は従兄弟にあたる。

幼少の頃は実上杉房定長尾景信らのを借りて、古河方軍と戦っていた。

足利成氏との戦い(享徳の乱)・長尾景春の乱

1471年にが越後に帰し、代わって上杉関東を任され、兄弟古河方軍に立ち向かうこととなった。同年には信が古河御所を落とすなど有利な展開で押していたが、翌年に奪還され、更にその翌年には信が病死してしまう。

この時、後継の宰に信の子・長尾景春ではなく、信の長尾を任命したことが、後々に繋がる失策となってしまった。

自体は決して無能ではなく有能な人物であり、白井戚にあたる総社長尾氏の督を継ぎ、うまく立ち回っていた。また白井長尾氏の督を継いだが、宰とすると白井が三代続けて宰を務めることになり、あまりにを持ちすぎてしまうために宰になれなかったとも言われる。

ともかく、後継者人事に不満を抱いた長尾景春1475年に叛旗を翻し、五十の顕定はこれを迎え撃つも敗戦する。この時、顕定の山内上杉に協して活躍したのが、扇上杉宰の太田道灌である。

古河方軍と手を結ぶなどしたため情勢は不利となり、の奔走により1482年に古河方との和が成立した。

両上杉氏の戦い(長享の乱・前半)

しかし古河方との和の直後、今度はそれまで協していた扇上杉と対立するようになる。

上杉氏分のひとつ・扇上杉は当初は武蔵の一勢であった。それが、太田資清・太田資長(のちの太田道灌子の活躍により勢を拡大しており、の上のたんこぶのような存在であった。

1486年、扇上杉の当である上杉定正が太田道灌謀反の疑いをかけて暗殺すると、これを好機と見た顕定は翌年に攻め込み、開戦。これが長享の乱の幕開けとなる。

特に1488年に行われた実原・須賀原・高見原の三つの合戦は「長享三戦」「関東三戦」と言われる戦となった。が、どれも山内軍の敗北に終わっている。

実蒔原の戦い

2月5日に顕定が定正の本拠地・相模糟屋を襲う。

山内軍1千余、扇軍2余の戦いであったが、扇軍が勝利した。地の利を用いたのであろうか。足利成氏長尾景春が扇方に味方していたので気楽になったのであろう。

須賀谷原の戦い

定正に敗れた顕定であったが、態勢を整えて養子・上杉憲房と共に定正に立ち向かう。一方定正も足利政氏(成氏の子)と長尾景春を味方につけた状態で養子・上杉朝良と共に河越城を出した。山内軍2千余、扇軍7余の戦いであり、6月18日に衝突した。当初は数の利で押すが、の奮闘で敗れてしまった。

高見原の戦い

1度相模、2度武蔵舞台であったが、3度武蔵舞台となる。合戦は11月15日に行われた。

定正は足利政氏長尾景春の援軍を再び得て顕定に対峙する。顕定も・房定に援軍を請い、兵を出してもらった。山内軍3千余、扇軍2千余の戦いであったが、三度定正の勝利となり顕定は鉢形へと逃亡した。

後半生

・・・ここまで見ると顕定はただの戦下手のようにも見えてしまう。また、須賀原の戦いの直前には・定上野白井にて扇方により自害に追い込まれている。

しかし、根本的な関係は山内方が扇方を圧倒しており、越後のの援軍もあることから、全体の戦局としてはじわじわと扇を追い込んでいった。

伊勢氏の乱入(長享の乱・後半)

ところが、ここで思いもよらぬ方向で事件が勃発する。1493年に伊勢盛時北条早雲伊豆へと討ち入りし、深根の関戸吉信を攻めて皆殺しにしたのである。

伊豆は元々山内上杉氏の領であったが、足利義政の要望で義政の足利政知関東入部する際に伊豆1を譲った経緯がある。これを堀越方と呼ぶが、早雲によってそのまま滅亡に追い込まれてしまった。

翌1494年には上杉定正が落事故死するという事件も起こり、対立していた古河方を味方に引き込むことに成功した。ただ、同年には越後のも病死している。

定正の跡を継いだ上杉朝良にはそれほどの量がなく、次第に河越城に閉じ込められる形となり、扇方の滅亡は時間の問題であった。そこで、駿河の今川氏や伊豆伊勢氏と同盟を結び、対抗を図るようになった。

1496年、顕定は伊勢伊勢二郎北条早雲)の拠る小田原城を攻めて降させている。

1504年には当時扇上杉氏と同盟を結んでいた今川氏親良救援で伊勢盛時と共に出兵してきた。ここにおいて武蔵の立河原において、上杉顕定 対 上杉朝良今川氏親伊勢盛時の合戦が勃発した。

名将いの敵に対して顕定も負けじと量を発揮するも、双方死を尽くした戦いとなり、顕定は多数の有臣と2千余の戦死者を出す大敗を喫した。が、敵にも相当な損を与える事に成功した。

また、の跡を継いだ上杉は立河原の戦いでの敗戦を聞くと守護代・長尾関東派遣し、合戦で手薄になっていた扇軍に大打撃を与えた。翌1505年には良を降追い込み、20年弱に及んだ長享の乱山内上杉勝利で終結した。

晩年

不幸突然訪れた。

1507年、越後の・房が突如養子・上杉定実と守護代・長尾為景の子)に襲われ、自害に追い込まれる事件が勃発する(永正の乱)。

これに激怒した顕定は、1509年に仇討ちの軍を派遣し、定実と為景の両者を佐渡へと追放した。

こうして山内上杉上野武蔵相模に加え越後の4ヶを領する大大名となったが、翌1510年、再び挙兵した為景らと長原で合戦となる。当初は8千という兵で有利な展開を見せていたものの、敵の援軍である高梨政盛の横もあり、衆寡敵せず自害した。享年57歳。

死後

越後は守護代である長尾為景が実権を握り、上杉定実を傀儡として操るようになった。

相模には、伊豆へ撤退していた伊勢盛時相模統一の野望のために再進出、西相模を支配下に置き始める。

また領内では養子・上杉顕実(足利成氏の子で足利政氏)が督を継ぐが、同じ養子である上杉憲房と内乱を起こして大きくを削いでしまう。

上杉顕定の死によって盛を極めた山内上杉、そして上杉氏そのものが急速に衰退していくこととなった。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける上杉顕定(2)の力一覧。 

1510年のため、蒼天録のPKのみ登場。

関東管領の政治足利成氏や扇上杉氏との戦闘が評価されてシビアなばかりの蒼天録の中で70台となっている。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 72 知略 36 政治 71
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治

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上杉顕定

1 ななしのよっしん
2021/01/06(水) 12:36:18 ID: d+Fe+W/U0J
長尾景春北条早雲長尾為景面倒くさいらを相手に戦いながら混沌とした関東情勢を切り盛りし続けたのは凄いよなー
この時期の関東情勢の中心軸と言える人物
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2 ななしのよっしん
2021/07/11(日) 16:36:05 ID: V7p9cLXaLT
享徳、長享の両乱を乗り越えて関東の西半分を支配したってのになんでこんなことに…
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3 ななしのよっしん
2021/11/06(土) 22:06:24 ID: u+S1SG6b41
かなり有能だったと思われるが最期はあっけない
殺した為景も越後を安定させられないまま
浦上村宗とかもだがこの人前後ぐらいの時代は、結構な大物っぽい武将もふとした拍子にあっさり死んでしまう
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