上野頼兼(?~1351)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
上野氏は足利泰氏の六男・上野律師義弁に始まる足利氏の庶流である。
足利尊氏に当初から従い、建武政権からの離反後の打出浜の戦いでの敗走による九州落ちに従い、菊池武敏を黒木城に攻めて敗走させた。その後上野頼兼は尊氏の上洛軍には従わず石見の守護となり、山陰地方の南朝勢力との戦いに明け暮れた。
1339年には南朝方の内田致景を豊田城に攻め、1年間の長期戦を展開させた。上野頼兼は鷲頭氏、平子氏、三井氏、土屋氏ら周防・長門の諸将を味方につけ、石見の益田兼見や吉川経明も応じ有利に戦局を進めていった。しかし内田軍の援軍として日野邦光と新田義氏が来ると、高津氏、周布氏、三隅氏、福屋氏らが内田氏に加勢すると、一転して苦境に立たされる。しかし1340年に一揆に落城に成功させる。
その後も石見を中心に南朝と戦い1350年に丹波の守護に任命された。観応の擾乱では直義派につき足利直冬の長門探題赴任に力を貸したが、1351年に但馬での討伐軍との戦いで戦死した。
上野氏はその後室町幕府近衆として活動し、奉公衆三番番頭に任じられている。
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