中岡慎太郎単語

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中岡慎太郎とは、めっさいい笑顔定評のある幕末武士である。

概要

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保9年(1838年)4月13日、土佐安芸北川柏木で、大屋である中岡小伝次の長男として生まれる。幼名は福太郎(もしくは福五郎)、3歳ごろに次と名している。中岡は、地元の有屋で、名字を許された郷士身分である。

幼少の頃から利発かつ胆で、物心のつく頃よりから厳しい躾けを受け、4歳の頃には寺の住職から教えを受ける。7歳の頃には四書の講義を受ける為、二里(約8キロメートル)離れた隣の塾へ片2時間かけて通いつめ、14歳の頃には塾の講師代役を勤めるほどの童ぶりだったという。

少年時代中岡に関する逸話として、友人達とに遊びに行った際、20メートルもある崖からに飛び込んだというものがあり、その度胸に周りの大人達から「末恐ろしい」と畏怖された。

15歳の頃、後に土佐勤王党の同志となる間崎滄浪に師事し、17歳武市瑞山剣術場に入門

後年共に活躍する事になる坂本龍馬とはこの時期に知り合ったと思われる。

大庄屋見習い

安政4年(1857年)20歳のころ、実家屋見習いとして地元を取り仕切るようになる。同時に隣屋の長女かねと結婚

翌年正月々に安政の大地震が発生すると、南北45キロ、東西12キロ、14カ広大な区域の被害調を自分の足で行った。二次被害飢饉が発生したため、実家が所有していた山林田を抵当にして食料を買い込み、村民に分け与えた。それでも足りない為、他の屋達と協してから800両を借り受ける事に成功する。更に高地まで赴いて、家老の屋敷の前に一夜座り込んで陳情し、中岡の態度に感心した家老によって非常用の貯蓄が開放される事になった。

この時の飢饉を教訓として、田畑善や優良品種の作物を配布して栽培導を行った他、の代用品として柚子一帯に植えるなど、覚ましい活躍ぶりを見せた。

なお、柚子現在北川の特産品となっており、当時木が植えられた場所は「次の並木」と呼ばれている。

土佐勤王党

文久元年(1861年)8月、転機が訪れる。剣術場時代の師範だった武市瑞山が、郷士を中心とする政治結社「土佐勤王党」を結成し、これに中岡も参加。血盟書には192名のうち17番に名を連ねている。

文久2年(1862年)4月武市示の下、勤王党員数名によって佐幕の参政・吉田東洋が暗殺された。これにより、吉田の政敵だった内の門閥を味方につけることに成功し、以後山内容堂による弾圧が開始されるまで勤王党が土佐内の導権を握る事になった。

五十人組

10月、勤王党有志は、隠居・山内容堂の身辺警護を理由に江戸出府の願いを出すが、庁から許可が下りなかったため、五十人組なる組織を結成して、嘆願書を庁に届けたまま許可を待たずに自費による江戸行きを決行した。この五十人組の中で8人いた伍長のうちの1人に中岡が名を連ねている。

江戸へ向かう途上、10月京都に滞留していた際に、中岡退助(後の板垣退助)をろうとしていた。は土佐の上士で、山内容堂の側用人を務める重臣であり、五十人組に対抗して臨時組なる組織を結成し、脱同然でやって来た五十人組を罪に処すべしなどと唱えていたためだったが、結局双方矛を収めている。

11月16日江戸に到着し、12月3日に容堂に謁見。この頃に名前次から慎太郎めた。

長州久坂玄瑞や山県半蔵と共に諸を歴訪し、途上で信州佐久間山と会談している。当時佐久間は、かつての吉田松陰密航未遂事件に連座しての居から解放されたばかりで、中岡からの内命によって佐久間を土佐に招聘する的で赴いたとされる。

「幕府が築造してる品川台場台、あれ全然役立たねーよ(´,_ゝ`)プッ
トルコ上に台作ったことあるけど、面に立ててどーすんだよってエゲレス人に笑われてっぞ(´,_ゝ`)プッ」
「この形弾丸、これに回転付けて発射することで火縄銃なんぞ較にならん遠距離まで弾を発射できるんだぜ、知ってっか?知らねーだろ(´,_ゝ`)プッ」
「まあオマイラも漏れみたいな偉人になりたきゃ、西洋の芸術と東洋の道徳を兼ね備えるこった(´,_ゝ`)プップッ」

と、イヤミったらしい知識自慢を披露された中岡達は、門の外へ出ると「参ったな」と顔を合わせて苦笑したという。

「久坂を顧みてく、山の気魄に圧せられたりと。
久坂苦笑しく、其の感ありと。
然れども中岡は、是れより疾払ふが如く、気頓に快活を覚えたりとふ」
(『維新土佐勤王史』)

なお、招聘に関しては佐久間が渋ったのか実現しなかった。

病狼睥睨

文久3年(1863年)2月7日中岡他同士数名が京都土佐邸にて上した山内容堂に謁見した。容堂が酔いながら大で威圧的な言動を繰り返すと、中岡が進み出て合体論を暗に諌めたが、更に絡んできたため手に負えないと感じてそのまま退出した。

合体の容堂は、自分の足元で政治に関与しようとする尊王攘夷、なかんづく郷士を疎んじており、いずれ一斉に始末しようと考えていたが、この時の中岡の態度を買ったのか、土佐への帰の間のみ郷士の最上級職である御徒付に登用している。

後、勤王党員で中岡の師でもあった間崎滄浪他数名が、院宮(朝彦親王)から旨を授かった事を身分を弁えない出すぎた真似として捕縛され、6月切腹の処分が下された。

これが皮切りとなり、同年に起きた八月十八日の政変を機に土佐勤王党員の一斉処断が始まり、中岡の身にも危険が迫っていた。

脱藩

土佐への帰後、中岡は一旦郷里北川に戻っていたが、8月京都で起きた政変について聞くと、京都の政情を探る為脱を決意。と妻に対して所用があるため高知に行ってくると告げて9月5日立つ。これが家族と故郷との今生の別れとなった。

また、この時期に高知に戻ってきていた退助と面会を果たしており、その席で中岡を割って話し合った結果和解した。後年板垣と姓をめたが、この時のことについて談話を残している。

  『「(上略)まず、あなたに尋ねたいことがある。あなたは京都で私を殺すつもりではなかったか?(^ω^)」
中岡「いや、そんなことはない(з)」
  「それはけしからん(`・ω・´)
   中岡ともあろうものがそのような女の如き態度であるとは、失望のキワミだ…(´・ω・`)
中岡「これは心外千万!如何にもその節はあなたを覚悟であった!(`・ω・´)
  「そうだろう。その心底はとくと見抜いていた。いや、それでこそ話が出来る(^ω^)」

(中略)

  「勤王の事についてはあなたなどに譲らぬ覚悟である!(`・ω・´)
    今あなたの同志と事を共にしている上士に何か事の出来るものがあるか?
    皆諸君にへつらって、そのくせ何事も出来ぬ俗物だ(´,_ゝ`)」

というと中岡は私に向かって

中岡「あなたはまこと男子と見込んだ!(`・ω・´)
    どうか将来々を引き立てて大いにやって頂きたい!」

って別れた。後日、中岡は何分自分の身上がもてぬから脱するが、いつかは心の現れるときが来るだろう、という手紙を私に寄越して脱してしまった』

9月19日三田に着き、三条実美ら都落ちした七卿が居留していた招賢閣にて面会。21日、三条の使者として土佐へ戻り、10月上旬に入するが、中で危険を知らせに来た同志と鉢合わせした。

の内情を聞くと、武市以下土佐勤王党員は既に一斉に投され、自身にも追っ手が迫っており、内での挽回が不可能と悟った中岡は、同志たちと別れの杯を交わして、路で大阪を経由して三田へ戻り、そのまま長州亡命した。

以後再び土佐の土を踏むことはく、生涯を事にげることになる。

禁門の変

10月19日三田到着後、三条らと面会し、土佐の状況を伝え同志として迎えられ、翌会議員に推薦される。

翌年文久4年(1864年)1月京都の状況を探る為に上薩摩の状況を探る為、西郷(従)や中村次郎が通っていた塾に偽名で入門している他、長州邸にて高杉晋作と共に、朝廷合体論でまとめようとする島津久光の暗殺計画を立てるが、警備が厳重なまま薩摩に帰した為中止し、5月一旦長州へ戻る。

この時、土佐に残った同志たちに対して決起を促す文を送っており、これが後に二十三士野根山屯集強訴事件の悲劇に繋がる。

元治元年(1864年)6月9日長州に兇変が知らされる。6月4日京都池田屋で新撰組による襲撃事件が起こり、宮部鼎蔵吉田稔麿他十数名が殺、あるいは捕縛されたと言う。

らせを受けた長州では和泉来島又兵衛過激派を抑えられなくなり、率兵しての上を開始した。中岡もこの中に加わっており、武衝突が起こる前日の7月18日には、死を覚悟した遺書を家族に宛てて送っている。

一筆呈上奉り

(中略)

去る八月十八日以後、恐れながらの御所置・御齬の次第は、全く会津州らの奸計よりかかる次第に成行事…

(中略)

実に皇の大罪逃るる所にあらずと、一同決心罪を数え鼓を鳴らして其(会津薩摩)の罪を討んと相謀、然として是をに願い奉り、列を伝え、直様突入せんと相決し申。さすれば私共も最この限りの命と御あきらめ仰せ付けられるべく

(下略)

19日、来率いる遊撃隊に加わり御所に向け進軍を開始した。御門に至る途上で足に撃を受けて戦線離脱し、敵に紛れて危うく難を逃れる。圧倒的な兵差の前に長州軍は敗退し、木、来の他、文久以来の友人であった久坂玄瑞も追い詰められ自害した。

二十三士処刑

禁門の変後、中岡7月下旬に三田に帰還し、8月に忠勇隊長に任命され、9月京都偵察のため大阪に向かったが、そこで土佐にて同志23人が斬首されたという知らせを受けた。

武市瑞山の助命嘆願の為に集まり、抗議文を庁に届けたことがきっかけで捕縛され、一度の審問も行われずに全員川原で首をられたと言う。

まだ20歳に満たない少年が数名の他、かつて中岡が説得して同志として引き入れた者たちや義理のも含まれており、血涙の中自制を促す返信を送った。

京都変動以来、長州朝敵の名をり、逆臣益々跋扈、実に下の大事に至り申し

(中略)

又今の中、夷賊摂に来するの説あり、是にいて下の大事去就相定まり申すべく、実にムチクチャに相成り申し

(中略)

下挽回再挙なきにあらず、然しながら今暫く時を見るべし。依て沸騰及脱は甚だ益なり。を抱えて沈黙すべし。外に策なし」

五卿動座

禁門の変後、戦争から第1次長州征伐へと至り、フルボッコ状態の長州において、中岡家老の助命嘆願を同志と連名で久留米筑前福岡に提出するが聞き入れられず、次いで都落ちした五卿(うち2名は出奔・病死で脱落)を福岡に動座させるという恭順の条件に反発を感じたため、動座の意と安全を確認するために動き始めた。

筑前勤王党の志士である月形洗蔵早川養敬と下関で会い、五卿の身の安全を保障する旨を確認すると、今度は動座を提案した西郷隆盛意を確認するため、12月会談に臨んだ。

場合によっては西郷を殺すことも考えていたが、「五卿を筑前に動座させれば、武においても寛大な御処置を下さるようを尽くして周旋に努め申す」と説得されてこれを受けいれた。

この時期に、先の筑前勤王党の形・早川、土佐脱浪士の土方衛門と交流するうちに、政体変革を起こすには薩摩長州の連携が必要だという考え方にを受ける。

筑前勤王党は翌年慶応元年(1865年)に福岡内で失脚し、形ら要構成員が処刑されたため、中岡土方、そして坂本龍馬がこの困難仕事を引き継ぐこととなった。

薩長同盟

慶応元年(1865年)2月から5月にかけ、中岡三条実美ら五卿の居る大宰府-京都薩摩邸-下関の間を駆け回り、薩摩士の岩下方平吉井幸輔長州士の桂小五郎村田蔵六伊藤俊輔と連絡を取り合い、両の連携を模索する。

5月京都薩摩邸にて和解について了解を得、5月24日岩下と共に西郷の居る鹿児島に赴いた。

5月6日鹿児島に到着し西郷を説得。15日に西郷を伴い鹿児島を発ったが、18日佐賀に寄った際に長州再征が京都で持ち上がっているという情報がもたらされた為、これを阻止するほうが先決とした西郷は下関に寄らず大阪に向かってしまった。

21日、下関で待機していた坂本龍馬に会って以上の事を伝えると、一緒に居た桂小五郎激怒した。が帰ろうとするところを坂本と一緒に宥めた後、29日、坂本と共に京都薩摩邸に向かって西郷と会い、長州側の要について根気強く説得を続けた。

その後も京都-下関-太宰府の間を飛び回って周旋を続けている。活動中、長州内部で行動に疑念をもたれていることに関して桂小五郎に宛てた手紙が残っている。

が心事は先生)が疑うが、諸隊が疑うが、府(長府)人が疑うが、また下の人皆疑うが、死余きの一生、少しも憂うるところ御座
(『慶応元年8月6日 桂小五郎手紙』)

11月22日太宰府の五卿の応接係に任じられた中岡は、一旦周旋活動から離れる。12月25日、下関にて西郷と話し合うため京都に赴こうとする桂小五郎を見送った。

この時期中岡は、来るべき時代を見据え『時勢論』を執筆している。

「自今以後、下をさん者は必ず長両なるべし、ふに下近日の内に二に従ふことにかけて見るが如し、他日国体を立て外夷の軽侮を絶つも、の二に基づくなるべし」
(中岡慎太郎『時勢論』)

この年はまさに長同盟のために奔走し続けた年であり、このわずか2年と数ヵ後には『時勢論』で著したとおりの状況となっていくのであった。

翌年慶応2年2月上旬、太宰府から下関へ向かい、京都から戻った桂小五郎から同盟成るの知らせを受けると、中岡はすぐに京都薩摩邸に向かい、同盟成立直後に寺田屋で負傷した坂本を見舞うと同時に、坂本とおとの結婚を祝い媒酌している。

3月5日薩摩の蒸気三邦丸で西郷小松帯刀坂本、お、そして寺田屋で坂本を救った長府士・三吉慎蔵と共に出航。6日に三吉と共に下関で降りた。

和解坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。
中岡は、高杉がまだ長州の内訌を回復せぬ前、四には兵が囲んでおり、殊に遊撃隊に身を置いて、其苦心は一方ならぬものであった。

(中略)

長州における坂本中岡の尽を見るに、出(はで)な事は坂本に属するが、中岡はどうかというに、この人ほど苦心した者はいと思う。
(旧福岡士・早川養敬談)

時勢論 -愚論窃ニ知己ニ示ス-

慶応2年(1866年)6月、第2次長州征伐が始まる直前、中岡高杉晋作と会談し、その模様を書き残している。

不肖の拙者一命の限りは御安心下さるべし。
古より下の事を任ずるものは、大義を以って本と為し、決して人を顧みず、わづか二州(周防長門)の亡を私し、(かか)る皇の大危難を救い奉る事はず、何の面下の有志に対せん。
今日は別れ近き故、外ならぬ心の話といて泣の談にて畢(おわ)り事。

長州にて戦闘が始まり、8月には幕府軍が撤退。長州側の勝利となった。

長州勝利を見届けた中岡は、10月26日付けで『時勢論』に続く論策『窃(ひそか)に知己に示す論』を著述している。

その中で、ロシア、清、アメリカの危険性を訴え、後々こられの々と戦争になる可性があることを示唆している。更に幕府に関して、徳は一刻もく政権を朝廷に返し、自ら一諸侯にまで下るべきであると説く。これは翌年に坂本龍馬が周旋活動をする大政奉還そのものである。

次いで翌11月に著した第3の論策『愚論窃に知己の人に示す』では、長州の軍制革を例に挙げ、土佐でも同様の軍制革を行うよう提唱し、また、攘夷とは外の圧を撥ね退け国家独立を守る為の闘争であり、列強と言われる々もかつて攘夷を行っていたとし、従って攘夷とはただの排外義ではなく、国家民族の統一と独立の為の運動であると説いた。

、土佐から大監察の福岡次と小笠原八が上した。小笠原はかつて中岡の23人の同志斬首を命じた本人であったが、その小笠原自ら中岡の実を認めて中岡を訪ねている。中岡小笠原に対し、『愚論窃に知己の人に示す』に書いた内容を説き、小笠原とも和解したと言われ、この後土佐薩摩の間を取り持つようになる。

また、この11月に義理の中岡を訪れ、の小伝次が6月に亡くなったことを伝えた。享年86歳と言う長寿だった。

薩土盟約

慶応3年(1867年)2月、前年末の孝明天皇崩御の喪にしていた中岡は、再び活動を開始した。

27日に出立し、3月2日鹿児島に着くと西郷の屋敷に赴き、前西郷が土佐で行った、山内容堂への上周旋について詳細を確認した。相変わらず佐幕論を捨てていない容堂だったが、上自体は受け入れていた。

5月18日京都に居た中岡は、江戸から来た退助の歓迎会を行っている。席上、中岡は以下のようなやり取りをしたと言う。

中岡今日の方策は如何になさるや(`・ω・´)
  「容堂の御前に出て諫死の覚悟ござる(`・Д・´)」
 中岡「諫死結構なり。しかし今日、一身を潔くして、皇行方はどうなさるか?
    殿がかかる短慮の方とは知らざかった。方一期の不覚でござった(`_ゝ´)」

と、諫死をたしなめ、もそれに従ったため、納得した中岡は、西郷隆盛と会わせ、提携を結ばせようとした。

21日中岡を伴い、西郷と面会した。

  『吉井(幸)のお働きがあったが、幣(土佐)は俗論(佐幕論)が多く、折のご尽に背いた訳
     で、に面次第も(´・ω・`)
     しかし私に同志がないわけではないので、一ことあれば々がを代表して参戦する。
     ここに30日の猶予を与えてくれるなら、必ず兵をめよう。それが出来なかったら割してお詫び
     するまでだ(`・ω・´)

私がこう約束すると、中岡が側から

中岡「私は西郷さんの元に人質になろう。さんにそれが実行できなかったら私がを切る(`・ω・´)

と言う。西郷は是を聞くとよほど満足の態であった。

西郷「これは近来の快事。に立約束である。一議に及ばず御同意申す(  ω  )」

と言った挨拶約束が出来た』

この会談から1ヵ後の6月22日中岡坂本2人の浪士の巨列席の元、土佐薩摩の間に土盟約が結ばれた。

同じ頃、『愚論窃に知己の人に示す』に続く4つの論策『時勢論』(慶応元年の論策と同題名)を執筆している。

州危急存亡、今日に居たりて極まれり。
いやしくもその民たるもの、豈に傍観すべけんや。
に古人言う所の如く、ある者はを投げ打ち、財あるものは財を投げ打ち、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀を尽くし、一技一芸ある者はその技芸を尽くし、愚なる者は愚を尽くし、明正大、各々一死を以って至を尽くし、然る後政教立つべきなり。
武備充実すべきなり。
るべく、信義外に及ぶべきなり。
いやしくもよく斯くの如くならば、豈に皇運挽回の機なからんや。
豈にまた外(外)を制するの術なからんや。(下略)
(中岡慎太郎『時勢論』)

『窃(ひそか)に知己に示す論』から更に一歩進み、武討幕と富強兵を視野に入れた論述である。『窃(ひそか)に知己に示す論』では、大政奉還による平和的な政体変革を許容していたが、この時期になるとそれが絵事に過ぎないと認識した中岡は、かつてどんなであろうと周旋や話し合いだけで政体変革をなし得たなどいと断言し、近い将来必ず来るであろう幕府との決戦に備える必要があると説いた。

7月、浪士を中心とした「陸援隊」という武装組織を土佐許可の下創設し、隊長に就任している。

三条と岩倉の和解

さかのぼること3ヶほど前、中岡北で隠棲中の岩倉具視を訪れている。

当初合体の奸物と見做していた中岡岩倉と会う気がかったが、岩倉の器量を認める同志の説得を受けて、会ってみる事にしたのであった。

太宰府から出かける直前、岩倉に会うことを伝えると三条実美は「彼の大姦なんぞ事を共にせんや」と嫌悪感を示したが、五卿の1人である東久世が「彼は決して幕府に身を致すものに非ず。和宮降を賛せるものは、一時の権謀のみ」とたしなめると、岩倉宛の手紙を書き、これを中岡に託した。

4月21日岩倉の屋敷に赴き、初めて面会を果たすと、それまでの印と全く異なる大人物であると認識をめ、以後頻繁に岩倉と面会して王政復古討幕の謀議を交わしている。

この中岡岩倉とのやり取りの中で、文久以来の政敵であった三条岩倉和解が成立するが、2人が顔合わせするのは中岡の死後1ヵ半ほど後の事となる。

大政奉還

10月13日坂本龍馬後藤象二郎の周旋により、徳川慶喜が大政奉還を宣言し、幕府による統治体制は消滅した。

この時中岡坂本に対し、「この後来るべき幕府との決戦の準備は既に出来ている」と告げたと言う。

坂本之を諭してく、
「今より彼に挑まずとも、彼必ず自らして事を発するに至るは、勢の最も賭易(みやす)き所ならずや。後藤如何に平和的に復古せむとするも、到底兵を用いざるを得ず。今暫し機会の来るを待て」
と。中岡やや首肯し、且つ揶揄してく、
君は流石才子なり」
と。坂本敢えて争はずして、苦笑せり』
(『船越洋之助談話筆記』)

近江屋事件

慶応3年11月15日8時過ぎ、京都四条川原通りにあった、醤油近江屋の2階にて、中岡坂本の両名が会談していた所に、数名の刺客が侵入し、2人に致命傷を負わせて退却した。

坂本は襲撃直後に死亡したが、中岡はなお2日間生き延び、救助に来た守部(干)や田中顕助(顕)らに襲撃時の状況を言している。

中岡によると、刺客は最初「十津川の者でござる。どうぞおにかかりたい」と言い、2階に上がってくると、やにわに2人の男が襲い掛かり、1人が「こなくそ!」と中岡に向かってりつけてきた。

中岡短刀で受けたが、が近くにかった為不覚を取り、全身に11箇所の傷を負い、特に後頭部の傷がに及んでいた。

2人が倒れて動かなくなった後、刺客は「もうよい、もうよい」と言い、そのまま外に出ていった。

少しして坂本が起き上がり、「石川いか」「をやられたからもう駄だ」と言ってそのまま事切れた。

田中らが救助に来た後、瀕死の重傷を負いながら焼き飯を食べるなどなお気力が残っていたが、17日に容態が悪化し、死去。数え年30歳、満29歳7ヶだった。

なお、この事件の犯人については未だに諸説入り乱れているが、最も有な説として、犯行に及んだのは京都見廻組与頭の佐々木只三郎の他、隊士の今井信郎ら計7人であるとされている。

遺言

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死の寸前、中岡は幾つかの遺言を残している。

が為に岩倉卿に告げて欲しい。王政復古のこと、一にかかって卿の御に依るのみである」
「速やかに討幕の挙を決行されよ。後れを取れば、却って敵のために逆襲せられるであろう。必ず同志の奮起を望む」

中岡坂本訃報を聞いた岩倉三条は嘆き、岩倉は「ああ、何者の怪が麿の一臂を奪うてしもうたか」とし、三条式祭と和歌をもって慰霊追悼したという。

事件から24日後の12月9日岩倉朝廷に参内し中岡が望んだ王政復古を実行に移す。27日、三条が上し、29日には中岡の周旋により文久以来の対立を乗り越えた2人が初めて顔を合わせた。

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中岡慎太郎

10 ななしのよっしん
2013/09/05(木) 15:37:47 ID: jXIfBOKIs0
勤王党に加わるまでに、既に有能な内政の資質を見せてるのよね
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11 ななしのよっしん
2013/09/07(土) 19:37:11 ID: n+VksMmBOa
異常なまでの実行
今こそ現代の中岡慎太郎が必要とされている時代だろう
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12 ななしのよっしん
2014/07/21(月) 21:24:12 ID: xdmFWtXWlr
あの笑顔は隣に女をらせてるからこそできる心からの笑顔なんだよなぁ…(嫉妬
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13 ななしのよっしん
2015/01/18(日) 20:07:01 ID: IjhPnnluMw
二人とも明治まで生き残っていたら
土佐のツートップ扱いだったかもなぁ
西郷大久保高杉みたいに

おんなじタイミングでやられちゃったのは
やっぱり痛いな
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14 ななしのよっしん
2016/01/13(水) 21:10:46 ID: +QJpcbZpGm
山寺決起直後、クーデター戦中の長州に来てるのが恐ろしい行動だ。
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15 ななしのよっしん
2017/11/18(土) 15:07:16 ID: 49zMKlmqUR
中岡役で普通に大河出来るな。
問題は身長的に見栄えしない事か?
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16 ななしのよっしん
2018/01/30(火) 22:36:48 ID: tFkmDyjAWA
ぶっちゃけ坂本龍馬より大物だったんじゃ
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17 ななしのよっしん
2018/12/23(日) 20:29:39 ID: JpM40J6ukC
血倒幕した(ことになってる)に対して、武倒幕をしたのが悪印にされている感
その後の戊辰戦争維新を見れば中岡の見立ての方が正しかったことは明なんだが
「愚なる者は愚を尽くし」とか当時の感覚ではなかなか書けないし
日本で初めてスマイルを撮られ、数千キロを駆け回り、日露戦争までを見通していた男
間違いなく大河レベルドラマになるはずが、埋もれているというのがなんとも
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18 ななしのよっしん
2020/06/28(日) 05:14:25 ID: 6MkBzOB5F3
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19 ななしのよっしん
2023/08/30(水) 10:28:17 ID: ds6MuOUWQ0
この人と薩摩小松帯刀長州の広沢臣は長生きしてほしかったな。
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