中村稔単語

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中村稔とは…

  1. プロ野球選手
  2. プロ野球選手プロ野球審判
  3. 日本ジャーナリスト
  4. 詩人・文芸評論家
  5. 財務官僚、英国大使使

この記事では1.について解説する。

中村稔(なかむら みのる)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1938年9月28日生まれ。三重県伊勢市出身。沢村栄治とは遠い戚関係にあった。

宇治山田商工高等学校に進学。エースとして活躍したが、甲子園大会には縁がなかった。

1957年読売ジャイアンツに入団。

入団からしばらくは結果が残せず、入団3年間で合計15試合の登板に終わり、4年1960年にはリリーフとして35試合に登板したが、2勝4敗、防御率5.16とパッとしない成績に終わっている。

1961年ベロビーチキャンプに参加し、ここでチェンジアップの習得に成功。これで投球の幅が広がり、17勝10敗、防御率セ・リーグ6位の2.13と好成績を残し、川上哲治監督の初優勝日本一に大きく貢献。日本シリーズでは技賞に選ばれた。

1962年防御率こそ2.28と好成績だったが、9勝12敗と勝ちは伸びなかった。同年、オールスターゲームに初出場し、引退までに3度出場している。

以降は肩の故障に悩まされ、1963年は3勝止まり。1964年1964年交通事故を起こしたこともあり、0勝に終わっている。

スランプに陥っていた中村であったが、1965年復活。キャリアハイの20勝4敗、防御率2.11と大活躍を見せ、V9初年度の優勝に大きく貢献。翌1966年、11勝7敗という成績を残している。

しかし、1967年以降は再び低迷。1969年に現役を引退

引退後は巨人コーチとして残り、特に藤田元司監督を務めていた時期にはその心として活躍。斎藤雅樹を球界を代表するエースとして育て上げた。

コーチを務めていない時期には解説者として活動。江川卓の初登板の試合でも解説を務めた。

1997年には千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチに就任。しかし、1998年、『七夕の悲劇』と呼ばれた18連敗の責任を取らされる形でコーチ業を解任されている。

その後はアマチュア野球導者として活動し、野球教室中学生時代の岩嵜翔西勇輝らを導している。

2021年6月2日、死去。享年82歳。

人物・エピソード

速球はそれなりの速さだったが、チェンジアップドロップシンカーなどを武器に活躍した右腕。

決め球のチェンジアップは、米国野球殿堂入りしているドンドライスデールから直接導してもらい習得したものである。

趣味麻雀競馬麻雀は「麻雀の音がしたらそこに中村がいる」とまで言われるほどにハマっていた。競馬二軍の試合のために北海道へ遠征した際、「ハイセイコーを見に行こう」と定正二を連れ立って牧場へ行ったエピソードが残っている(見学許可が取れなかったのか、遠巻きに見て終わった模様)。

通算成績

投手成績

通算:13年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 352 31 12 72 53 --- --- .576 1242.2 286 649 443 381 2.76

表彰

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