単語記事: 中森明菜

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中森明菜とは、1980年代を代表する歌姫である。

1965年7月13日生まれ。東京都清瀬市出身。血液型はA型。

※身長160cm、B80(Dカップ)、W54、H85。※1984年時

ニコニコ動画では、主に全盛期である80年代の動画、パチンコパチスロ動画がメインである。

ひとりの少女からアイドルへ(~81年)

1965年7月13日、6人兄妹の5番目に生まれた彼女は幼い頃から歌に触れる機会が多かった。歌手になることを夢見ていたという母親から越路吹雪や美空ひばりなどの昭和歌謡、シャンソンを教えられ、兄の影響で矢沢永吉などのロック、洋楽やブラックミュージック、姉の影響で荒井由実などのニューミュージックなどを聞いて育つ。また、体力の弱さをカバーするために小学校から中学校にかけてバレエ教室に通っていた。この頃の経験が彼女が歌う楽曲の多様性、振り付けでのしなやかな動きが鍛えられたといっても過言ではない。

中学生時代、オーディション番組「スター誕生!」に応募。これは彼女が一番愛していた母親からの強い希望と、当時大家族であるがゆえに裕福ではなかった家庭事情により、「苦労している家族を少しでも楽にしてあげたい」という気持ちで応募したと言われている。(その優しさが後の悲劇につながるきっかけとなるのだが・・・・)そのため、歌手としての人生を歩む意思は本人自身あまりなく、世話焼きで子供好きなところを活かして保育士になることを夢見ていたそうだ。

幼い頃に歌唱力・表現力を自然と身につけていたこともあり、予選を突破して本選にも出場。その際彼女は岩崎宏美の「夏に抱かれて」を歌ったのだが、ある審査員から「この曲はあなたには大人っぽすぎる、年相応の曲を歌うべき」と言われ、不合格になってしまう。その後2回目の本選出場を果たし、この時は後に女性アイドルツートップとして彼女とともに音楽界を引っ張ることとなる松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌った。アイドルソングで年相応な選曲であるにも関わらず、前回と同じ審査員から今度は「幼すぎる。童謡でも歌ったらどうかしら」と言われてしまいまたしても不合格。このとき、最初の挑戦時に言われたことと全く正反対のコメントを言われたことに彼女はかなり憤りを覚えたらしく、直接抗議しようとしたが観覧に来ていた母親にやめるよう制されたというエピソードがある。

あまりに不条理な結果に彼女もさすがに悔しかったのか、今度は本人の強い意思で応募し3度目の本選出場となる。何度も挑戦していることもあり、番組のスタッフや審査員からも顔を覚えられていた彼女は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、文句なしの高評価であるスタ誕史上最高得点の392点を獲得。レコード会社・芸能事務所による選考も見事クリアしいよいよ「歌手・中森明菜」のデビューが決定した。

デビューからトップアイドル、そして歌謡界の頂点へ(82~85年)

1982年5月1日に「スローモーション」でデビュー・・・するのだがこの日に至るまで様々な紆余曲折があった。

まず問題になったのが「芸名」。当時の芸能事務所、レコード会社のスタッフからは「森アスナ」という三流アイドル臭漂う芸名を提案されたのだが彼女は拒否。「両親が名付けてくれた本名で歌いたい」と強く希望し、結果的に本名である「中森明菜」で活動することが決定した。

次に問題になったのが「デビュー曲」。1981年末の時点でアメリカ・ロサンゼルスでレコーディングを行い、最終候補を4曲に絞っていた。そこで彼女は母校の中学校の校内放送で候補曲を流し、アンケートを実施。その結果別の曲が1位となったのだがなぜかその曲はアルバム収録となり、2位人気の「スローモーション」がデビュー曲に選ばれた。この時のドタバタから衣装作りが間に合わず、初めてテレビ出演した際には私服姿で登場してしまうなんてこともあった。

3つめの問題が「キャッチフレーズ」。この頃の女性アイドルは、キャッチフレーズを与えられるのが慣例であった。しかし明菜に付けられたのは「ちょっとHな美新人(ミルキー)っ娘」。「H」は大人びた、「ミルキー」は美人とルーキーを掛けたものだが、明菜は「よく番組で出演者にからかわれるので、スタッフに詰め寄った」とか。

これらのドタバタ劇に翻弄された彼女は同期の小泉今日子や早見優などよりもだいぶ遅れてのデビューとなってしまい、デビューシングルの順位も最高30位どまり。華々しいとは言い難いスタートとなった。

82年夏、2ndシングル「少女A」をリリース。ここから彼女の快進撃が始まる。デビュー曲の清純派路線とは打って変わってツッパリ系、不良系な雰囲気漂うこの楽曲は松田聖子路線に対抗できる「ポスト百恵」を求めていた当時の芸能関係者からも高く評価され、また若い世代から支持を集めぐんぐん人気が上昇。オリコンTOP10以内に初めてランクインし、当時の代表的な音楽番組「夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン」にも初出演を果たす。ここで手応えを掴んだ彼女は勢いそのままに3rdシングル「セカンド・ラブ」をリリース。「スローモーション」と同じ清純派路線で、なおかつ少し大人びた恋愛の心情を描いたこの曲で同世代だけではなく彼女よりも年上の女性を中心に支持を集めるようになり、見事初のオリコン1位(通算6週)、ザ・ベストテンで8週連続1位を獲得。翌83年の年間シングルチャートにもランクインするほどの売上枚数を記録して一気にトップアイドルの仲間入りを果たした。

83年に入るとその勢いは衰えることを知らず「1/2の神話」「トワイライト-夕暮れ便り-」「禁区」とヒット曲を連発。大沢誉志幸、細野晴臣ら有名音楽家からも楽曲提供を受けた。これら楽曲、アルバムのヒットのおかげでこの年の歌手別総合売上1位を獲得。また、日本レコード大賞において他の同期を差し置いて「ゴールデンアイドル・特別賞」を受賞するなど女性アイドルとしてトップの人気を誇っていた松田聖子と双璧をなす存在となった。この頃から少しずつ衣装や振り付けに彼女の考えが組み込まれ、他のアイドルとは違った雰囲気を醸し出すようになる。

84年に入ってからは彼女のセルフプロデュースがより具体化する。「北ウイング」ではこれまでのツッパリ・清純派とも違った大人の恋愛を描いた作品で、曲名も当初予定していた「ミッドナイト・フライト」を荒井由実の「中央フリーウェイ」に感化されて変更したという。ジャケット写真もこれまでアイドル歌手の作品では当たり前であった顔のアップ写真をやめ、体も含めて写したものが選ばれている。

次の作品「サザン・ウインド」もこれまでの明菜の路線とは一線を画すのびのびとした雰囲気の楽曲であったが、「十戒(1984)」で再びツッパリ路線に回帰。これまでのツッパリ系作品シリーズの集大成とも言える歌詞、振り付け(オラオラステップ・サビでのエルボー)とこれぞ「ツッパリ系アイドル」と言える作品に仕上がった。しかしこの作品を最後に彼女はツッパリ路線を封印。また、同時期に清純派路線の作品を多く手がけていた来生えつこ・たかお姉弟の提供作を減らし清純派路線も実質的に封印。「アイドル・中森明菜」から「歌手、アーティスト中森明菜」へと方向性をシフトする。

この年の年末に発売された「飾りじゃないのよ涙は」は作詞・作曲を井上陽水が手がけ、これまでの作品とは全く違ったアーティスティックな雰囲気と前衛的な歌詞が話題となった。ジャケットデザインも当時としては珍しいコンピュータでの加工画像を使用するなどますますアイドル路線からの脱却を示した。

1985年、「ミ・アモーレ」「SAND BAIGE-砂漠へ-」をリリース。前者はブラジルのリオ、後者はサハラ砂漠のどこかという異国情緒あふれる作品となっており、後者の方はアラビア風の衣装を身にまとってヴィジュアルの面からも作品のイメージを思い起こさせるように表現。また、当時流行していた12インチサイズ(LPとほぼ同じ大きさ)のレコードシングルとして「ミ・アモーレ」の同曲別歌詞版である「赤い鳥逃げた」をリリースしオリコン1位を獲得する。

ちなみに作詞を手がけた康珍化曰く、実は「赤い鳥逃げた」の方が歌詞としては先に完成していたにも関わらず、後で送られてきた音源がラテン調だったことから、曲のイメージに合うようにと歌詞を変え「ミ・アモーレ」が誕生したという裏話がある。

85年末に発売した「SOLITUDE」は恋愛倦怠期の大人の女性をイメージした楽曲。この派手さのない、言ってみれば「地味」な楽曲だったからか明菜ファンとして有名なマツコ・デラックスは「この曲によって既存のファンがファンを続けるかやめるかの踏み絵となった」とあるテレビ番組で証言している。

84年~85年にかけての賞レースではグランプリや大賞を次々獲得し、85年の大晦日、その頂点とも言える日本レコード大賞で見事「大賞」を受賞。当時としては史上最年少となる20歳5ヶ月での受賞だった。この年の候補には大賞受賞経験のある細川たかしや五木ひろし、当時人気絶頂だったチェッカーズ、安全地帯、C-C-B、明菜の先輩にあたる河合奈保子や岩崎良美といったそうそうたる顔ぶれが揃う中、見事受賞を果たした。このレコード大賞の受賞によりアイドル界の頂点だけではなく、歌謡界の頂点にも立つこととなった。

他にも日本歌謡大賞、日本ゴールドディスク大賞をそれぞれ1回受賞。その他にもFNS歌謡祭や全日本歌謡音楽祭、日本テレビ音楽祭、メガロポリス歌謡祭でグランプリを獲得している。そして、85年から3年連続で年間トータルセールス1位を記録。83年含め単独で4回の年間トータル1位は日本歴代単独1位の記録である。

人気絶頂期と常に進化(深化)し続ける「明菜プロデュース」(86~88年)

86年は人気も絶頂に達し、いよいよ「プロデューサー・中森明菜」の本領を発揮することになる。

シングルではまず最初に「DESIRE-情熱-」を発表。和装に身を包んだジャケット写真、そのジャケット写真とは全く違った和洋折衷の衣装、日本人形的な黒髪ボブカット、そして歌唱と振り付け。あまりの斬新さに誰もが驚愕。海外のアーティストからも注目が集まり、後年、マドンナがこの曲の衣装と髪型をオマージュしたファッションで歌を歌ったこともある。その次にリリースした「ジプシー・クイーン」では当時20~21歳とは思えない肩を露出した妖艶なドレスで登場したり、年末リリースの「Fin」では帽子にロングコートを着用するクールな女性を演出した。

アルバムはより実験的な作品が目立ち始める。まず「明菜史上最大の問題作」とも言われた「不思議」はあえてボーカルを演奏より聞こえにくくする加工を行い、購入したファンが「不良品ではないか?」とレーベルに問い合わせる騒ぎとなった。また、「CRIMSON」では収録曲10曲中9曲がウィスパーボイス歌唱。唯一のアップテンポ曲もカセットテープ越しに楽曲が流れているように聞こえるところから始まるよう加工されている。この「CRIMSON」の収録曲の中には作詞・作曲を手掛けた竹内まりやのセルフカバーで知名度が広まった「」もある。

特に「不思議」は今のきゃりーぱみゅぱみゅやPafumeに通じるボーカル特殊加工、VOCALOID的な声の「楽器化」を行うなど、プログレッシブで今でもインパクトの大きい作品。それ故に明菜自身はこの作品の特殊な世界観を映像として表現することはできないと収録曲をテレビで歌唱することを断っていた。

しかし、翌87年、「夜のヒットスタジオ」で番組スタッフの強い要望により「作品の世界観をできるだけ壊さないように」と彼女自身が衣装や演出、スタジオセットやカメラワークに至るまで全て指示を出した上で、収録曲「BACK DOOR NIGHT」「マリオネット」を披露。「不思議」の収録曲としては最初で最後のテレビ映像であり、26年前の映像とは思えないほど斬新なパフォーマンスで、その場にいた番組の共演者は一様に唖然、騒然としたという。

87年に入るとアダルティックな方向性、「女性らしさ」を強調した楽曲が目立つようになる。まず「TANGO NOIR」では小中学校時代のバレエの経験が存分に発揮されており、重さ10kg近くある衣装を身に纏いながらのけぞりやスピンといったビジュアル的にインパクトのある振り付けを行い話題となった。「BLONDE」ではなんと上から下、靴まで全部エルメスのスカーフを使ったという衣装で登場。バブリーなボディコン衣装だがケバケバしさのないセクシーな印象になってるのは彼女のオーラがそうさせてるからだろうか。そして、良くも悪くも「少女A」「DESIRE-情熱-」並みに彼女のイメージを決定付ける楽曲「難破船」がリリースされる。

もともと加藤登紀子の作品であったが、加藤自身が「この曲のイメージは明菜さんに似合う」と思い立ち、明菜にデモテープをプレゼント。それから間もなく明菜から花束が送られ同意を得たことで歌うことが実現したという経緯がある。「百万本のバラ」を手がけた加藤らしい切ない悲恋を描いたこの作品は、歌の世界に感情移入しやすかった彼女にとってかなりシンクロの強い作品だったようで、涙を流したり、あまりの緊張で手が震えてしまうといったこともあった。しかしその姿が多くの女性の心に響き、最終売上は87年の年間1位だった瀬川瑛子の「命くれない」を上回る売上枚数を獲得した。

88年、彼女の人気も安定してきたこの時期はベリーダンサー風の衣装、蛇をあしらったマイクスタンドなどビジュアル面を強化した「AL-MAUJ」、デビュー以来頑なに拒否し続けたミニスカートを着用し、スパンコールやひまわり柄のボディコン衣装を身に付けエロティシズムをアピールし話題となった「TATTOO」をリリース。バブリーで豪華なこれらの作品を見た誰もが彼女の勢いがまだまだ続くと思っていたことだろう。

崩れ始める心、そして悲劇・・・1度目の活動休止(88~89年)

88年11月、通常の発売サイクルよりも2ヶ月遅れて「I MISSED ”THE SHOCK”」がリリースされた頃から彼女の身に少しずつ変化が訪れる。おとぎ話のようなドレスに身を包んだ彼女はこれまでの「明菜プロデュース」を存分に発揮していたのだが時期を重ねるごとに少しずつ表情が暗く、笑顔を見せる回数も減り始めた。その時は昭和天皇の体調不良による自粛ムードも影響していたのかもしれないが、時折やつれたような表情で歌う時もあり多くのファンが彼女に一体何があったのかと身を案じた。

1989年になると目に見えてその変化が一気に目立つようになる。日焼けで一層彼女の痩せ方が目立ち、虚ろな目をみせることもしばしば。4月、約半年ぶりにリリースした「LIAR」。その歌詞はまるで彼女自身の現状を表しているかのようで、ほぼノーメイク、単色のドレスやワンピースで歌うその姿は、カラフルで且つインパクトのある衣装や振り付けが特徴的だった「明菜らしさ」が完全に消えた、哀しきひとりの女性の姿をファンや視聴者に見せていた。

そして「不死鳥」と称された美空ひばりの死(1989年6月24日)から約二週間後の1989年7月11日、当時交際していた近藤真彦の自宅マンションで肘の内側をかなり深く切って自殺未遂。この時の傷は神経どころか骨にまで達していたとも言われている。この出来事が原因となり、彼女は約1年間の歌手活動休業を余儀なくされる。同じ89年にはトップアイドルとして切磋琢磨していた松田聖子の楽曲がオリコン1位を獲得できず連続1位記録がストップ。その時の1位は90年代に一世を風靡する小室哲哉の作品だったという世代交代を象徴するエポック・メイキングな出来事が起こっている。

昭和から平成へと変わった1989年は、「みんなで見て、聞いて、どの世代も知っている流行りの歌」が中心だった「歌謡曲」という一つの大きなジャンルが終焉を迎え、「個人で見て、聞いて、楽しんで、楽曲が好きな人だけで共有し合う」時代となり、「J-POP」「演歌」といった音楽ジャンルの細分化へと進んだのである。

復帰後の活動(90~99年)

1990年7月17日、約一年ぶりに復帰第一弾シングル「Dear Friend」を発売し、シングルチャートで再び1位を獲得。累計54万枚を売り上げて年間チャート6位にもランクインする。翌91年には幕張メッセでLIVEを開催するなど多くのファンを喜ばせたが、復帰後に移籍した事務所やレコード会社との契約トラブル、マスコミのバッシングなど様々な困難を迎えることとなる。

1992年にはフジテレビ系月9ドラマ「素顔のままで」で主人公の一人・カンナ役を熱演。高視聴率をキープし続け、最終回では30%を超える視聴率を獲得するなど「女優・中森明菜」の一面も見せつけた。この他にも「世にも奇妙な物語」「古畑任三郎」といった人気作品にもゲスト出演している。

1994年にはカバーアルバム「歌姫」をリリース。人気歌手によるカバーアルバムと言うことで世間の話題を集め、アルバムチャートで5位を獲得。このアルバムのヒット以降「歌姫シリーズ」として、バラードやフォークソング、ムード歌謡に演歌、男性歌手の楽曲とジャンルや性別の枠を超えた様々な名曲をカバーすることになる。

2000年代以降の安定期と2度目の活動休止 (2000年~10年)

90年代後半からはコンサートだけではなくディナーショーも開催するなど活動の幅を拡大。これまで抱えていた様々な問題も2000年以降に軒並み解決し、デビュー20周年の2002年、所属レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。「飾りじゃないのよ涙は」で14年ぶりに紅白歌合戦の出場を果たす。2004年にはユニバーサルミュージック内に音楽レーベル「歌姫レコーズ」を立ち上げ、この年以降に発売された彼女のシングル・アルバムは全てこの「歌姫レコーズ」からリリースされる。

2009年、シングルとしては3年ぶりとなる新作「DIVA-Single Version-」と2枚のカバーアルバム、1枚のオリジナルアルバムを発売。同年8月にはこちらも3年ぶりとなる単独LIVE「Empress at Yokohama」を開催。カバー曲を中心に披露し多くのファンや観客を沸かせた。

2010年、パチンコ「CR中森明菜・歌姫伝説~恋も二度目なら~」を発表。誕生日の7月13日には配信限定シングル「Crazy Love」を発売するなど、2012年のデビュー30周年に向けて精力的な活動を始めた矢先の同年10月に「極度の過労と疲労による免疫力の低下」が原因で再びを活動を休止することに。活動休止後は明菜本人が収録映像をセレクトしたDVD「中森明菜 in 夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン in 中森明菜」などがリリースされ、話題を集めた。

歌手活動再開に向けて・・・(2010〜14年)

2010年の活動休止以降、ファンクラブ会報の直筆メッセージ以外彼女の近況を知るすべが無かったため、多くのメディアが彼女の現在の状況と復帰に関する様々な噂を取り上げ続けていた。また、連続テレビ小説「あまちゃん」のヒットなどにより小泉今日子を筆頭に80年代アイドルとして当時活躍していた芸能人が再度注目を集め、その流れで活動休止中の明菜の復帰を期待する声が上がったものの、復帰に向けての具体的な動きは全く見えない状況が続いていた。

しかし、2014年8月、現在所属しているユニバーサルミュージックとデビューから91年まで所属していたワーナー・パイオニア(現:ワーナー・ミュージックジャパン)が初めて手を組み「オールタイム・ベスト-オリジナル-」と「オールタイム・ベスト-歌姫-」を発売。4年ぶりの新曲となる「SWEET RAIN」が収録されたほか、「男と女の物語(日吉ミミ)」「恋の奴隷(奥村チヨ)」の2曲を新たにカバーし話題を集めた。

活動休止中であるために本人によるプロモーション活動は一切行われないという異例の状況で発売されたが、「オールタイム・ベスト-オリジナル-」がオリコン週間チャートで3位にランクイン。シングルを含めると91年3月発売の「二人静-天河伝説殺人事件より-」(3位)以来23年4ヶ月ぶり、アルバム単体では89年7月発売の「CRUISE」(1位)以来25年ぶりに週間チャートTOP3入りを果たした。また「オールタイム・ベスト-歌姫-」も7位にランクインし、自身にとって31年7ヶ月ぶりとなるアルバム2作品同時ランクインを果たした。

また、11月にはNHK「SONGS」で特集が放送された。80年代の映像と2009年の出演映像のみの構成だったが、視聴率は5.7%を記録。ここ最近の平均視聴率が3%程度のため、それだけ注目が高かったとも言える。

しかし、体調以上に精神面が回復していないとの声もあり、復帰はまだ先の事だと噂されていたが・・・

4年4ヶ月ぶりの復活~「FIXER」発売(2014~16年)

2014年12月、長い沈黙を破り、2015年1月に復帰することが正式に発表された。

2015年1月21日にまず5年4ヶ月ぶりのシングル作品となる「Rojo-Tierra-(ロホ・ティエラ)」を、翌週の1月28日にはカバーアルバム「歌姫4-My Eggs Benedict-」を発売。いずれもオリコンチャートTOP10入りを果たし、特にシングル曲の「Rojo~」は1994年発売の「月華」以来21年ぶりのTOP10入りを果たした。

2014年12月31日、出場が噂されていたNHK紅白歌合戦に2002年以来12年ぶりに出場。紅白としては異例となるCDリリース前に「Rojo-Tierra-」を披露(ただし楽曲自体は放送当日にデジタルシングルとして先行販売)歌唱前の緊張した面持ちや言動から一転して堂々と歌うその姿はまさに「歌姫」の名にふさわしい歌唱だった。

さらに2015年1月9日にはNHK総合で紅白歌合戦出演時の裏側や新曲のレコーディング風景などを収録した特別番組も放送。番組内では「DIVA」以来6年ぶりとなるオリジナルアルバムの制作に取り掛かっていることを明かし、話題となった。

その後9月30日には50枚目のシングルとなる「UNFIXABLE」を発表。「Closs My Palm」以来となる全編英語詞の楽曲にチャレンジ。

そして年末も差し迫った2015年12月30日、1年半以上の制作期間を経て6年4か月ぶりとなるオリジナルアルバム「FIXER」を発売。90年代以降の作品に多かった内省的な雰囲気とは一変し、希望や再生を感じさせる作品となっている。ほぼノンプロモーションでの発売だったにもかかわらず、オリジナルアルバムとしては1995年発売の「アルテラシオン」以来となるオリコンチャートTOP10入りを果たした他、レコチョクのアルバムデイリーチャートで自身初となる1位を獲得。ウィークリーでも8位にランクインするなど根強い人気ぶりを発揮。

2016年2月24日、映画「女が眠る時」の公開に合わせ、映画のイメージソングでありアルバムの表題曲でもある「FIXER-WHILE THE WOMAN ARE SLEEPING-」をシングルカット、さらに両A面の新曲としてポルノグラフィティの新藤晴一が作詞を手掛けた「ひらり-SAKURA-」を収録し話題を集めた。

7年ぶりのステージ復帰~デビュー35周年へ(2016年~)

新曲やオリジナルアルバムをリリースし、2016年7月には1993年以降に発売されたシングルをアナログレコードに収録し、完全限定生産のレコードプレーヤーと合わせて販売するなどしていたものの、表舞台には姿を見せていなかった明菜。

しかし、2016年9月にこれまで年末の恒例だったディナーショーを2009年以来7年ぶりに開催することを発表。東京や大阪など全国7都市で久しぶりに生歌をファンの前で披露することとなり、発売されたチケットはすべて即完売。プレミアチケット化して話題となった。また、11月に新たなカバーアルバム「BELIE」を、さらに12月にはクリスマス限定盤として別収録作品を録音したアナログレコードを付属した「BELIE+Vampire」をリリース。

そして、12月4日から開催されたディナーショーでは、30分以上にも及ぶヒットメドレーや新曲、カバー曲披露など計80分以上のステージを披露。有名芸能人も軒並み観覧に参加する中、堂々と「明菜、復活」をファンや観客の前でアピールした。

復活のシンガーアクトレス

1992年に放送された「MJ-ミュージック・ジャーナル-」(フジテレビ)で、歌手活動が休止状態だった彼女の特集が組まれた。その際、番組はこうエールを送った。

中森明菜は、今『時代』と言う名の天の岩戸に籠っている。我々は今必死で祈り続けるばかり。今一度、貴方に輝いて欲しいから…

そして、93年に久々にシングル曲を発表した際には、彼女をこう表現した。

中森明菜は歌謡界最後の『アラモの砦』である。」そして、「今、天の岩戸が開く」とも。

偶然ではあるが、この言葉と同じ状況が、21世紀の今再び起こり、その当時以上に大きなうねりとなって、多くの人々からの関心を寄せることとなった。

そして2016年12月、歌姫は再び「天の岩戸」を開き、姿を現した。

山口百恵との関係

中森明菜と似たような存在だとよく言われるのが山口百恵である。山口百恵は1980年に引退しているため山口百恵と中森明菜が活動を共にしていた時期はないものの、「少女A」や「十戒(1984)」を歌う中森明菜の姿は「プレイバックPart2」や「ロックンロール・ウィドウ」などの「ツッパリ路線」を確立させた山口百恵のスタンスを受け継いでいるとされ、「ポスト百恵」の一人として名を知られていった。

中森明菜自身山口百恵の存在は大きなウェイトを占めており、デビューのきっかけをつかんだ「スター誕生」では「夢先案内人」を披露。デビュー後も音楽番組の企画で「イミテーション・ゴールド」を歌うなどしている。また、山口百恵の「結婚してそのまま引退する」という去り際にも憧れを抱いていたという。

山口百恵の方も「ザ・ベストテン」で「北ウイング」をカラオケで歌うのが好きだということが当時の近況として伝えられたり、2006年に中森明菜が「いい日旅立ち」をカバーすることになった際、その話を聞いた山口百恵が

「1度、明菜さんに歌って欲しいと思っていた。明菜さんでよみがえるなら最高にうれしい」

と語るなど、山口百恵にとっても中森明菜はとても特別な存在だったと言われている。

松田聖子との関係

1980年代のアイドルとしては松田聖子と双璧であった。松田聖子がいわゆる「ぶりっ子」という表現に象徴されるように可愛さ、女の子らしさを強調した楽曲が多かったのに対して、中森明菜はデビュー当初を除いてクールさや大人の女性をイメージする楽曲が増えるなど曲調・雰囲気に「明」と「暗」がはっきりと分かれていった。それゆえ、当時は与党の「聖子派」と野党の「明菜派」でクラスが分かれ、男女入り乱れた抗争に発展することも珍しくなかった。

松田聖子とは犬猿の仲であるとマスコミは面白おかしくたびたび取り上げていたが、それは全くの事実誤認。元々松田聖子の方が1980年デビューと芸能界の先輩であり、中森明菜がデビュー前に受けた「スター誕生」の予選では松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌っている。また、中森明菜はトーク番組「おしゃれカンケイ」(94年)で

「聖子さんのシングルはほとんど持ってる」

と発言していることなどから、中森明菜にとって松田聖子はアイドルとしての目標であり、芸能界の良き先輩でもあり、同じ時代を共に歩んだ良きライバルだったと言える。

中森明菜と賞レース

前述の通り80年代の彼女はあらゆる賞レースに名を連ね、その多くで大賞やグランプリを獲得している。だが、あまりにも彼女の人気や実力や作品が強すぎたからか賞の選考でありとあらゆる賞を設けたり、グランプリ以外の主要な賞も獲得していたりする。

例えば現在、ショー形式の番組として年末の風物詩となっている「FNS歌謡祭」。90年までは音楽賞番組として放送されていたのだが、新人賞を除く80年代中盤から後半までの彼女が獲得した賞は以下の通り。

「グランプリ」…85,86年(2年連続) 

「最優秀歌唱賞(事実上の準グランプリ)」…87,88年(2年連続)

「最優秀ヒット賞」…84~86年(3年連続)

特に最優秀ヒット賞は唯一3年連続受賞の快挙を成し遂げるなど主要な賞を制覇しているのは一目瞭然。

そして、現在でも続いている音楽賞の代表格「日本レコード大賞」。デビュー年の82年は人気も実力も抜群だったにもかかわらず、何故か最優秀新人賞どころか新人賞さえ受賞できず。しかし翌年からこれでもかと様々な賞の獲得オンパレードとなる。

まず83年、デビュー2年目の人気アイドルが受賞する「ゴールデン・アイドル賞」を受賞。前年に新人賞を受賞させなかったことに対する罪滅ぼしかどうかは不明だが、彼女だけ「ゴールデンアイドル特別賞(TBS賞)」も受賞。

84年、すでにこの年の全日本歌謡音楽祭、日本テレビ音楽祭、メガロポリス歌謡祭でグランプリに輝いていた彼女は当然のことながら大賞の最有力候補に名を連ねる。結果は残念ながら後半の音楽賞で追い上げてきた五木ひろしが大賞を獲得。ただ、選考委員会は当時人気絶大だった彼女の存在を無視することはできず(選考委員の投票結果でも1位が五木、2位が明菜だった)、急きょ「最優秀スター賞(事実上の準大賞)」を設けて受賞させている。

85年は前述の通り「大賞」を受賞。翌86年は「大賞」の他、「最優秀スター賞」から名称を変更した「ベスト・アーティスト」を受賞。ちなみにこの賞は1度だけしか設けられられなかった賞であり、彼女が史上初にして唯一の受賞歌手となっている。つまり「準大賞」扱いだった「最優秀スター賞」がルーツの「ベスト・アーティスト賞」を受賞したということは、この年の選考で彼女が圧勝していたことを暗に物語っていることが伺える。

87年は3連覇の期待もかかっていたが残念ながら大賞受賞ならず。しかし、80年の山口百恵、84年の都はるみといった人気と実力のあった引退歌手だけが受賞していた「特別大衆賞」を何故か瀬川瑛子とともに受賞。瀬川は「命くれない」が年間シングルチャート1位を獲得した功績、明菜は歌手別総合売上1位やこの年リリースした曲全てが年間トップ10入りしたことなど人気がトップクラスであることが認められての受賞だったと言われている。

ご覧の通りわずか5年の間に大賞どころか急ごしらえの賞を設けられてまで表彰されまくった彼女。84年と87年は大賞に匹敵する賞を受賞しており、色々な大人の都合さえなければ3連覇どころか4連覇できる土壌は整っていたともいえる。

歌手「中森明菜」

玉石混交の80年代アイドルの時代において、低音とビブラート(明菜ビブラート)、ウィスパーボイスを始めとしたアダルティな歌唱、圧倒的なまでの表現力を引っさげた彼女は特異な存在であったと言える。彼女に楽曲を提供した加藤登紀子からは「魔女」、井上陽水からは「歌姫」と評価したことから彼女を元祖・歌姫と称する人もいる。

彼女の総売上枚数は約2400万枚以上。明菜の楽曲売上のほとんどは80年代(それもデビュー~1度目の活動休止までの7年間)のものだが、当時は現在のCD不況と同じようにレコードからカセット・CDへ音楽ツールが移行しつつあった他、貸しレコード店の台頭などにより作品の売上枚数が全体的に伸び悩んだ時期(※)。特に明菜の人気が絶頂と言われていたのはのは85~87年とレコード売上が最も落ち込んだ時期のため、レコード・CD全盛の時代であれば更に売上枚数を伸ばしていた可能性もある。

(※83年の「さざんかの宿(大川栄策)」から89年の「Diamond(プリンセス・プリンセス)」までの約6年間、ミリオンヒットを記録したシングルは1曲も存在しておらず、87年に至っては年間1位の「命くれない(瀬川瑛子)」ですら41万枚しか売れていない。)

「トップアイドル」「歌謡界の頂点」と呼ばれる存在になると、人気を保つために似たような楽曲を歌い守りに入ることが多い。にもかかわらず、彼女は常にアグレッシブに多様性のある楽曲を選び、時には前衛的で万人受けしないであろう作品をリリースし続け、それらすべてが チャートの1位を次々に獲得している。80年代の彼女の人気がいかに絶大で、揺らぎの無い存在であったかを物語っている。

小さい頃から体が弱く、喉の調子が悪い状態でTV出演をしたこともしばしば。ザ・ベストテンで「セカンド・ラブ」を歌った際には風邪の為に思うように声が出ず、悔し泣きをしてしまう場面も。「夢のふち」でミュージックステーションに出演した時は、常に張り上げて歌い息切れをマイクに拾われたこともある。

ただ、歌唱を一つの作品として「魅せる」「演出する」という点では完璧主義とも言える姿勢で常に取り組んでいるのは有名で、例えば1983年の全日本有線放送大賞の中継で「セカンド・ラブ」を歌うことになった際、楽曲の歌いだしが指示した通り変わっていなかったことに激怒。その後の立食パーティでスタッフ1人1人に料理を手渡し謝罪して回った(※1)他、コンサート中に親衛隊の声援が大きすぎるのを注意し、静かにさせた上でもう一度歌い直す(※2)など様々な逸話がある。

(※1:ちなみに原因を作ったのが中継アナウンサーを担当していた辛坊治郎。このエピソードはのちに辛坊自身のラジオ番組で語っている)

(※2:2015年11月14日放送のMBS「ヤングタウン土曜日」で明石家さんまが語ったエピソード。さんまはその様子を見て明菜を「かっこええなぁこの子、プロ中のプロや」と感心したとのこと)

人物「中森明菜」

当時の週刊誌には「性格が悪い」「ヤンキーである」など面白おかしく書かれていたが、いずれも事実と異なる。入学した定時制高校に”特色があった”だけで、彼女本人はヤンキーではない。それどころか、環境に馴染めずスタ誕合格前には自主退学している。

デビュー当時から極度のアガリ症で、心配性で、家庭的で気配りができ、やや神経質で情緒的で甘えられるより甘えたいタイプであったそう。この辺りが災いしたのか、他人に対し誤解を与える振る舞いも少なくなく、デビュー当初から同期の中でも小泉今日子や石川秀美・堀ちえみなど一部を除いて距離を置かれていた(某16だから~♪の人は露骨に嫌っていた)。そのため友人が少ない、とは本人の談。

10代の頃から辛い料理が好みで年齢を重ねるにつれ激辛料理も好みになったとか。お酒はカクテルや日本酒が好きで、そこそこ飲める方だとか。愛煙家であり、プロモーションビデオやドラマ「素顔のままで」で喫煙する姿を見せている。私生活は至って質素で、全盛期ですら立ち食いそばやバーゲンなどを頻繁に利用していたと語っている。

実は地声は高く、アニメ声(本人はアラレちゃんと主張)を出すこともできる。これは50代を過ぎた現在でも変わらず、ハスキーな声で歌を歌ったかと 思えばMCで急にアニメ声で話す(2006年のコンサート参照)など、初めて見る人にとってはその声域の幅に誰もが驚くであろう。時代が時代ならアイドル声優にもなれたかもしれない。

1983年の大阪コンサートで「誰も何もしないでだま~って座ってると、何も喋れないんですね」とファンも喋るように促していたが、しばらくしてファンが暴走盛り上がると「黙って、私が喋れなくなるから黙って」と一言。彼女、実はツンデレである。

著名なファン一覧(一部)

  • ミッツ・マングローブ(明菜の気持ちになりきると称しダイエットを敢行、実際痩せた。TATOOが一番とのこと)
  • 壇蜜(複数のラジオやテレビ番組で証言。伝説上の生き物と語った。愛撫が一番好きらしい)
  • 友近(モノマネをよく披露している。ラジオでいつか番組に呼びたいと話す)

余談

ちなみに、コラムニストで「おたく」という言葉を命名したことで知られる中森明夫は彼女の名前をもじったペンネームである。

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読み:ナカモリアキナ
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中森明菜について語るスレ

43 : ななしのよっしん :2015/05/30(土) 11:28:30 ID: Bi+Ua4lY1M
>>sg4870816
44 : ななしのよっしん :2015/05/30(土) 11:31:03 ID: Bi+Ua4lY1M
>>im4870816
45 : ななしのよっしん :2015/07/23(木) 00:43:13 ID: yfShsygIi6
彼女は本当に不憫に感じる。毎回何でもおかしく書かれてマスコミが大嫌いだ

私は世代ではないけれど彼女の曲、歌声、振り付け、表情すべて魅了された
繊細さが伝ってくるんだよね。ここまで感情移入したアイドル歌手は中森明菜だけ。
80年代に生まれてリアルタイムに見たかった。
46 : ななしのよっしん :2015/07/23(木) 20:23:34 ID: kmmIEG7wD4
198X年頃某放送局でバイトしてた時の話なんだが、明菜さんが歌い終わって帰る際に
俺ら下っ端の所にやって来て、「皆さん有難うございます。」って言ってくれたんだよ。感動したね。

それに比べて「持ちの人でないと結婚しない。」女の人と被絽身の嫁の性格は最悪だったなあ。
47 : 凡ミス :2015/08/06(木) 17:43:02 ID: 99pDFrUWkS
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48 : ななしのよっしん :2015/08/27(木) 23:21:36 ID: wK24mwUOQV
>>46
ヒの字が苦労人でしっかり者だから持ってるんだろうなあ
もう一人はわからん
49 : ななしのよっしん :2015/11/07(土) 13:31:26 ID: 99pDFrUWkS
明菜さんは歌に関して完ぺき主義者だし、
「太ってる人は自己管理できてないから嫌い」とかも言うらしいのに、
なんで歌手でありながら激辛食品やタバコやお酒が
やめられないのか、甚だ不思議です。

いずれも中毒性のあるものではあるけど、無意識の自傷行為だったりも
するのかなぁ・・・もっと自分のノドを大事にして欲しい。
今さらなことだけど・・・
50 : ななしのよっしん :2016/01/04(月) 13:47:39 ID: QqXo3LPA1x
新しいアルバムFIXERいいね
Endless Life名曲
51 : ななしのよっしん :2016/01/20(水) 20:14:54 ID: UdNPNm8o08
スマップ解散報道の流れで屏風事件を知った。
辛いことがたくさんあって、今も辛いかもしれないけど強く生き抜いて欲しい。
52 : ななしのよっしん :2016/01/21(木) 21:43:10 ID: aSK/pB/A0e
>>41
ジャニーズ事務所の陰謀
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