于吉単語

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于吉(うきつ)とは、三国志に登場する仙人である。『三国志演義』にて孫策死因となるが、『三国志正史)』には登場しない。

よく間違われるが、「」吉であって、「干」吉ではない。

概要

孫策は三時代の一の礎を築いた人物であったが、急な勢拡大によって敵も多く作ってしまう。孫策がかつて敵として始末した許貢という人物がいたが、建安五年(200年)にこの許貢に恩のあった食客孫策を襲撃、撃退したものの重傷を負い、それが元で孫策は病死した。以上が陳寿の著した『三国志正史)』における孫策の最期である。

三国志演義』ではここに于吉という仙人が登場し、英雄孫策の最期を脚色している。

許貢の残党によって深手を負った孫策は、一命を取り留めるも、医師から「しく暴れたり憤ってはならない」と絶対安静を申しつけられる。しかし孫策曹操の軍師が自分を軽視していることを知って、曹操に敵対感情と苛立ちを抱き始める。そこに袁紹からの使者が参り、共闘を持ちかけてきたのであった。

孫策は使者を歓待するために、門の櫓に人を集めて宴会を行っていた。すると、宴席の客が突然先にと席を離れ、門の下へと降りて行った。理由は門の下を通った于吉仙人を拝むためだという。孫策はこれに怒り、人心を惑わすものとして于吉を捕らえさせた。

于吉は孫策に「自分はに代わって人々の病を癒している者で、人心を惑わすものではありません」と説くが、仙の類いを信じない孫策は、巾の同類としてり捨てようとする。しかし、臣下の将兵すらも于吉の赦しを願うので、孫策は「お前たちは学問を修めながら、なぜ迷妄がわからないのか」とさらに憤る。

そこで呂範が「于吉仙人はを操れるといいます。今は魃に悩んでいるので、乞いをさせてはいかがでしょう」と提案した。孫策はそれを採用し、于吉に乞いをさせ、刻限までに降らなければ火あぶりにすると命じた。

于吉は乞いを始めるが、はなかなか降らない。刻限になっても降らないので、ついに火が放たれた。すると突然豪雨が降り始め、あたりを水浸しにし始めた。それを于吉が一するとは途端に止んだ。これを見て民衆は于吉の奇跡と称えるが、孫策はそれでも認めず、于吉の首を刎ねた。

孫策は于吉の屍を中にさせるが、その晩のうちに屍は然と消えてしまった。孫策は見っていた兵士に詰め寄るが、そこに死んだはずの于吉が現れる。孫策はこれにりかかろうとするが、その場で倒れてしまう。その後、孫策はすぐに回復するが、に「仙人様をるから罰が当たったのよ」と窘められるが、「今まで戦場で人をり殺してきたが、罰など当たったことがない。于吉は邪教を広めるからったまで」と孫策はなおも于吉の業を迷信だと否定し続けた。

その後も孫策は、元に于吉が現れたり、厄払いに出向いた寺の内外で于吉に出くわしたり、戻ってきた門でも于吉の姿を見てやつれていく。この間にも袁紹への加勢のために軍を整えており、孫策も出するつもりでいたが、どの将軍も出を思い直すよう願うほど、孫策の体調は悪化していた。

結局、孫策に呼ばれて内に戻るが、孫策の変わりきった顔にを流してしまう。孫策も慌ててを覗くと、そこにまた于吉の姿が見える。孫策叩き割るが、体中の傷口が開いて倒する。

寝床に運び込まれた孫策は、しばらくしてを開け、孫権と、張昭と他の将軍らに後の事を託し、そのまま帰らぬ人となった。

( ;∀;)センニンコワイナー

……以上、『三国志演義』のオリキャラ・于吉ちゃんのストーリーでした。

史料における于吉

……と思いきや、実は于吉は演義の架人物ではない。確かに陳寿の『三国志』には登場しないが、その名前が載った史料が存在しているのだ。

陳寿の『三国志』には、後に裴松之によって注釈が加えられている。裴松之はこの孫策の最期の段に『江表伝』『志』『捜記』からの逸話を加えており、そこに于吉の名前が登場している。それぞれの文献で異なる話が載っているのも特徴的で、史料間でやや噛み合わない部分もあるが、「于吉という人物が士として望を集めていた」「于吉が孫策に処刑された」ということについては一致している。『三国志演義』ではそれら全ての逸話を参考にして于吉を描いている。

于吉は仙人(士)という怪しい人物像や、『三国志演義』に出るが正史には登場しないことから、しばしば架の人物として扱われることも多い。しかし、それらの注釈文献の記述が正しければ于吉は実在の人物ということになるのだ。オカルト満載の『捜記』がどこまで本当の話であるかは知れたものではないけど。

以下は各史料の大まかな内容。これらを混ぜれば演義于吉が完成する(はず)。

江表伝

琅邪出身とされる。東方に住み、時折会稽のを建てて、そこで香を焚いたり術を修めながら、呪符やを使って病気を治療していた。会稽で大きな名を得ていたという。

孫策門の櫓で宴会を催していたあるとき、于吉がきれいな身なりで門に現れた。于吉が門の下をくぐろうとすると、彼を見ようと宴席にいた客が席を離れていき、まとめ役の制止にも拘らず三分の二が門を降りてしまった。

これに怒った孫策は于吉を捕らえさせたが、彼を慕う人民が助命嘆願に殺到し、孫策も「先生は軍の将兵も治療していて、助けになっているではありませんか。赦してやりなさい」と窘めた。しかし孫策は「こいつは民衆の心を惑わす怪しげな者だ。こいつは遠くにありながら諸将に君臣の礼を忘れさせて、皆が孫策を捨ててこいつのもとに駆けつけたのだ。排除しなければならない」と言ってこの願いを退けると、配下の将軍らも連名で陳情書を出してきた。

孫策は「むかしという交州刺史がいたが、そいつは怪しい術に染まってしまい、それで交州を統治しようと考えていたが、結局蛮族に殺されたんだぞ。術なんて益の極みであり、お前らはそれがまだわかってないだけだ。もうこいつは殺す、これで話は終わりだ」と言って于吉を斬首、その首を中にした。

しかし于吉を慕う信者はその死を信じず、「先生は死んだのではなく、解(体を離れて仙人となること)したのだ」と考えて、以後も于吉をって御利益をめたという。


孫策ったという人物の話であるが、後述する『志』には「孫策が亡くなった時はまだ曹操袁紹が争ってた建安五年でしょ。でも袁紹官渡の戦いで負けたあとに夏侯惇が発行した命書に、「陵と陽の統治はやらせる」という文面があるから、この頃までは生きていたはず。だから先に死んだ孫策死因るのはおかしくね?」と『江表伝』の記述を疑っている。

※『江表伝』から注釈を入れた裴松之自身も、「『交広二州』という文献によれば、建安六年(201年)時点では交州を統治していたとある」と、『江表伝』のその逸話を自分で載せておきながら虚偽の話と断じている。

横山光輝の『三国志』においてもの話は登場している。

志林

むかし順後漢8代皇帝)の時代、琅邪の宮崇という者がの宮殿に参り、師の于吉が曲陽のほとりで見つけたという書『太清領』を献上したという。それはに朱で線が引かれており、巻あまりあったという。

の時代(在位125144年)から建安五年(200年)までには5~60年が経過しているので、建安五年当時の于吉は100歳近い年齢であったはずである。老人や子供に罰を与えるのは(儒教的な)礼を欠くことである。また、天子皇帝)は狩りに出掛けた先で100歳をえるものがいれば、そこに出向いて歳を重ねたことを敬うものである。于吉の罪過は死刑に相当するものではないのに、闇に酷刑を科してしまった。この処刑は正しいことではなく、褒められたものではない。


※この『太清領(太清領書)』は、朝廷には胡散臭いと評価されなかった。しかし、後に張角の「太」の原形となり、黄巾の乱の後は張魯の「五斗米道」にを与えている。五斗米道は今も残る道教へと変遷していったので、それにを与えた于吉こそが道教流ともいえる。

※「建安五年当時の于吉は100歳近い年齢であったはずである」とあるが、時代が離れすぎていることから『太清領』を奉じた于吉と、孫策に処刑された于吉は同名の別人という説もある。

※著者の虞喜は東時代の学者で、孫に仕えた虞翻の末裔である。元のの祖先にもあまり配慮しないあたり、実に虞翻の末裔らしい。

捜神記

孫策は、長江を渡って許(曹操の本拠地)へと向かう団に、于吉を随行させていた。この頃、行軍中の周囲は猛暑魃に苦しんでおり、孫策は自ら将兵を急き立てて行軍を急いだ。そんな中、将兵や官吏が于吉のもとに多く集まっているのを見て、孫策は「お前らが于吉に及ばないとでも言うのか。だからまっさきに于吉のもとに駆け寄っていくのか」と激怒、于吉を捕らえさせた。

孫策は于吉に「この魃でもなく、路)は狭まり軍が進まない。だからくから率先して軍を急かせているんだ。なのに先生様はこの苦難を分かち合うこともなく、中で幽霊の如く居座りやがって。が軍の隊が崩れるだろうが。今度こそ排除してやる」と怒鳴りつけ、縄で縛っての上に放置、そこで乞いをさせ、が降れば赦すが、真昼までにが降らなかったら殺すと命じた。するとが集まり出し、真昼になると大雨が降り、谷間路)はで満ち溢れた。

将兵は「これで于吉は赦される」と大喜びし、于吉のもとに皆で見舞いに行った。しかし、孫策はついに于吉を殺してしまった。将兵は于吉の死を悲しんで、その屍を(孫策から)隠した。その突然于吉の亡骸を覆うようにが湧きおこり、翌になると亡骸然と消えてしまった。

于吉を殺した後、孫策ひとりで座っている時に、自身の左右にぼんやりと于吉が見えるようになった。孫策はこの幻覚を非常に憎らしく思っていたようで、常軌を逸した行動を取るようになる。後に(残党襲撃の)傷が治りかけた時、を覗くと中に于吉がいるのを見るようになる。振り返っても于吉の姿はない。こんなことが二度三度続いた後、ついにを殴りつけて大で叫び、それがもとで傷口が裂け、間もなく亡くなった。


裴松之も「『江表伝』と『捜記』で于吉の話がちぐはぐじゃない、どっちが正しいんだこれ」と困惑している。

主な登場作品

※追加・追記、随時お願いいたします。

三國志シリーズゲーム
三國志IIIあたりから登場。武将扱いで登場することもあるが、多くの作品では「旅人」というイベントキャラ扱いになっていることが多い。出会うと「太清領」をもらえたり、治療を施してくれたりする。原典よろしく、処断して天罰を受けたりするイベントも存在する。
三国無双シリーズゲーム
無双ゲージを成長させるアイテムとして「于吉仙」が初期の作品から登場する。
于吉本人は文官グラのモブ武将として、真・三国無双3猛将伝から登場。孫策死亡フラグだけあってか、以降のシリーズでも孫策絡みのシナリオで登場する。妖術使いの刺客という設定になっており、孫策の命を狙って兵などを繰り出してくる面倒な敵である。
三国志大戦ゲーム
ver1.0当時から他勢所属として登場。武1の歩兵戦闘面では期待できないスペックだが、知8の兵で序盤の牽制にはなる。乞いの逸話からきた固有計略の「降」は戦場を変える計略で、火計を威低下させる一方で、計・落の威上昇・消費士気低下という効果があった。火計は孫呉の専売特許であり、孫なした于吉らしい性である。一時期流行したものの、計略の下方修正によって出番がなくなってしまった。
ver3.0からは勢が群雄に変わり、知が1下がったが計略が直接ダメージを与える「禍の計」になった。やはり肉弾戦では期待できないが、1コストダメージ計略を仕込める独自性を持っていた。
一騎当千漫画
高校褐色肌ボクっ娘Aランク闘士。
アニメ版では孫策伯符(主人公)のによって死亡する。ある意味史実通りなのが泣ける。
恋姫†無双アダルトゲーム
ゲーム版とアニメ版で立ち位置が少し違うが、この世界の争乱の黒幕、つまりラスボスである。

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于吉

1 ななしのよっしん
2015/10/16(金) 19:05:19 ID: ob6znjCnKM
ゲーム三国志でいえば、三国志スーパーファミコン版でも旅人で登場してる。寿命伸ばしたり件の本をくれる、皆様ご想像通りの立場だけどw
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2 ななしのよっしん
2016/01/14(木) 21:35:44 ID: chC85KlOeM
SFCどころか、登場自体はは忘れたw)には既にいる

の役どころは覚えてないが旅人として(役に立たない)情報をくれる
は勝手に訪問してきた場合は武将の負傷・病気の治療
が訪問したら太清領書巻を貰える
Ⅴでは特殊武将で登場してて知99で仙術・術(+妖術)持ちのかなりチート武将
ではイベントで出てきて演義と同じようなことをする

だったと思う
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3 ななしのよっしん
2016/01/14(木) 21:53:03 ID: chC85KlOeM
ちなみにⅤのPK版だと、同業(?)の8人で
「放浪の賢」なるシナリオではで君を勤めてたりする(各人君のみで配下0)

于吉以外は左慈、南老仙、佗、虚上人、管輅、司馬徽、許子将の7人
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4 ななしのよっしん
2018/06/02(土) 15:19:43 ID: Ug7G2h1w4R
記だと許都攻めに于吉を随行させてたらしいが、なんで連れてきておいて殺したのか
最初から隙を見せたらケチつけて殺すつもりだったのか
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5 ななしのよっしん
2020/05/15(金) 09:18:09 ID: 9El+lCl1Ph
内容がいい加減なのは捜記だから

というのをさて置いて考えると、于吉は徐州や揚州に蔓延っていた妖賊の一人なんだろう
宗教導者による独立陶謙孫策孫権らが討伐したり吸収したりしたから、于吉の勢も同じように孫属した(が、導者は殺された)ってことじゃないの
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6 ななしのよっしん
2023/07/24(月) 06:15:29 ID: rPlUbsMM4O
記の内容をいい加減というが、志怪小説は見聞きした事件をそのまま伝えるという志向の書なんだから著者がいい加減に筋書を組み立てたのではなく、あれが生の言い伝えなんだよ
逆に江表伝の方が怪力らずいかにも史実の記録の装いがあるが、そのじつ時系列矛盾してて著者の作為しか感じないよ
まあこの言い伝えから分かることは、こんな話が残るんだから民間信仰を弾圧してた孫策はよっぽど民衆に嫌われてたんだなってことだ
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