今川範国(?~1384)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
西条吉良氏の庶流である今川氏という小領主もいいところの、さらに今川基氏の五男という立場から一気に国持ち大名まで出世を遂げた駿河今川氏の祖である。
足利高氏の鎌倉幕府からの離反から付き従っているが、彼ら今川氏の最初の出番は中先代の乱である。足利直義は敗走の末に足利氏第二の本拠地である三河で立て直しを図り、京都から進軍してきた足利尊氏と合流するが、その中に今川氏も混じっていた。
小夜中山の戦いで敵軍の大将名越邦時を、長兄・今川頼国が討ち取るほどの活躍を見せた今川氏は、まず長兄・今川頼国、三兄・今川頼周が相模川の戦いで戦死、次兄・今川範満も小手指原の戦いで戦死、そして四兄は早くに出家していたため、いきなり今川範国一人になってしまったのである。
とはいえ、今川範国は兄たちの勲功も併せて駿河、遠江の守護になったのだ。その後も範国は足利尊氏に従い新田義貞、北畠顕家らと戦い、室町幕府成立に関わる戦いには必ず参加している。そもそも駿河、遠江自体宗良親王が拠点を構えていた南朝勢力の活発な地域であり、そんな重要地域を任されるほど尊氏からの信頼は厚かったのである。
そして観応の擾乱では甥の丹後・因幡守護今川頼貞が足利直冬につき没落したのに対し、当然足利尊氏につき薩埵峠の戦いでは軍功をあげ、幕内での地位を確かなものにした。1353年に家督と守護職を嫡男今川範氏に譲ると隠居しようとするが、尊氏の強い要請で政界に復帰し引付頭人を務めるなど幕政を支えた。
今川範氏は今川範国よりも早く死んでしまったため孫の今川泰範が継承したが、遠江の守護は彼の死後斯波氏のものになってしまい、駿河一国の守護として以後続いていく。また次男・今川了俊、三男・今川仲秋も九州で活躍したが、結局九州での基盤は失われてしまった。
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