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伊10とは、大日本帝國海軍が建造・運用した9/巡潜甲潜水艦2番艦である。1941年10月31日工。通商破壊連合船舶14隻(8万1553トン)を撃沈した帝國海軍1位スコアを誇る武勲艦。1944年7月4日サイパン方面で対潜攻撃を受けて沈没

概要

1936年ロンドン海軍軍縮条約から脱退した事で、潜水艦の保有制限と設計上の制約がくなった大日本帝國海軍は巡潜3を大化した新潜水艦の設計に着手。忌々しい制約が全て取り払われたため自由に設計する事が出来、旗艦機水上機、長大な航続距離水上の高速化などを図った万潜水艦した。

巡潜3体をベースに更に大化させて航続距離を強化するとともにメインタンクキングトン弁の位置を変更して急速潜航時間を短縮。排水量が2400トンに達し、全長に至っては113mと伊400に次ぐ巨体であったが、高出2号10ディーゼルを搭載した事で水上が強化され、のような艦隊随伴任務も可とする。水上機を射出するための一号カタパルトを前甲中央に移して水中機動性を向上させたが、その代償に航空機発進作業中に波浪のを受けやすくなっている。潜戦隊の旗艦として運用する事も考慮されており、官室、参謀室、作戦室を備え、強な通信を保有。言うなれば巡潜甲高級品で、(元々旗艦用とはいえ)建造に大量の時間を要する事から量産に全く向かず、生産されたのは9、伊10、11の僅か3隻のみだった。潜水艦の数が足りなくなってくると安価量産型が好まれるようになり、後に甲から旗艦機を省いた巡潜や戦時急造が登場している。

排水量2434トン、全長113.7m、全幅9.55m、安全潜航深度100m、最大速23.5ノット(水上)/7.7ノット(水中)、乗員100名(旗艦任務時は114名)。兵装は艦首魚雷発射管6門、九五式酸素魚雷18本、14cm単装1門、25mm単装機2丁。一号カタパルトにより偵察機運用を持つ。

艦歴

撃沈王、出撃す

1937年に策定された第三次海軍軍備補充計画(通称マル三計画)において、甲一等潜水艦第36号艦として建造が決定。1938年6月7日、建造費約1553万円を投じて川崎重工神戸所で起工、1939年9月29日に進し、開戦直前の1941年8月2日装員事務所を設置、そして10月31日工を果たした。初代艦長に原保中佐が着任。佐世保鎮守府へ編入されるとともに第2潜戦隊の旗艦となる。

戦争の足音が迫る1941年11月10日練習巡洋艦香取で行われた作戦会議で伊10は南太平洋に点在する英領フィジーサモア、ツツイラの偵察を命じられ、第2潜戦隊から抽出されて伊26とともに先遣要地偵察隊を編成。11月15日潜水艦作戦導を執り行う第6艦隊に編入。

11月16日零式偵察機を搭載して横須賀を出港し、11月23日マーシャル諸島潜水艦基地クェゼリンへ進出。現地で燃料補給を行ったのちフィジー方面に向かう。11月30日フィジー零式偵察機を発進させてスヴァを航空偵察。艦載機は在泊艦艇を認めない旨の報告を行ったが、直後に行方不明になってしまう。捜索を行おうにも線封鎖のため乗組員の視で探すしかなく、3日間に渡っても発見出来なかったため、断腸の思いで第6艦隊に艦載機と搭乗員の喪失を報告して域を去った。サモアに向かう中の12月2日、伊10は「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を受信。これは対外交交渉を打ち切って12月8日以降に軍事作戦を敢行する事を意味していた。

12月4日サモアツツイラパンパンゴ湾を潜望偵察し、原艦長はアスリア巡洋艦を発見した(実際は停泊艦がいなかったため誤認)。偵察任務を終えた後、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊の掩護に回るためハワイ方面へ向けて出発、12月7日にオアフ南方2400km圏内に到着する。

1941年

1941年12月8日南雲機動部隊から飛び立った艦上機真珠湾攻撃を敢行して大東亜戦争が勃発。ハワイを取り囲むように展開している先遣部隊(潜水艦隊)は慌てて港内から脱出してくるであろう敵艦の攻撃を命じられた。

12月10日、オアフ東方区を警していた伊6が本に帰投中と思われるレキシントン空母重巡2隻を発見・通報。これを受けて第6艦隊部は第1潜戦隊と、ハワイ本土間に配備中の伊10、伊26レキシントン級追跡を命じた。配備点を出発して敵空母の追跡に入っていた同日夕刻、ハワイ南方1300kmでスヴァからバンクバーに向けて航行中のパナマドネレイ(4473トン)を発見。魚雷1本を発射したが外れてしまったため浮上。14cm単装弾20発を撃ち込み、そのうち1発が右舷側の救命ボートに直撃して体が全に破壊され、2時間後にドネレイルは沈没。見事初戦果を飾った。乗組員と乗客43名は何とか脱出したが38日後にタラワへ漂着するまでに30名が死亡した。

12月12日アメリカ西海通商破壊を行うべく先遣部隊先遣支隊を編制し、伊10はサンフランシスコに進出。第1潜戦隊揮下に入った。クリスマスの日に潜水艦10隻による一斉撃が計画されていたが、既に偵察任務で燃料が少なくなっていた伊10は帰投せざるを得ず、12月19日にクェゼリンへ入港した。ちなみに一斉撃は中止となっている。

1942年

1942年1月12日、伊10はクェゼリンを出港して帰路につき、1月21日横須賀へ帰投。

3月10日、新編された第8潜戦隊の旗艦となり、官の石崎少将が乗艦する。3月12日、ラエ・サラモア上陸作戦中に襲を仕掛けてきた第11任務部隊の敵空母を追跡するべく横須賀を出港するが、敵情を得られず3月20日に帰投。3月26日特設巡洋艦補給艦の報丸と愛国丸が第8潜戦隊に編入され、その翌日にはベルリンドイツ海軍本部から正式にインド洋での通商破壊要請を受けたため、クェゼリンから第8潜戦隊の僚艦を内地へ帰投させる。

4月16日、第6艦隊小松輝久中将石崎少将甲標的の搭乗員らは柱に停泊中の戦艦大和を表敬訪問し、山本五十六大将と謁見した後、午前11時を出港。東南アジア潜水艦基地ペナンす。ところが中の4月18日ドーリットル空襲が発生、第6艦隊から索敵の命を受けた伊10は小笠原諸島を北東に進んで敵機動部隊の発見に努めたが、発見出来なかったため元の航路へ戻った。4月23日から翌日にかけて一晩シンガポールで過ごし、マラッカ峡を通ってペナンに向かう中、陸軍徴用うらじお丸から誤射を受けるも幸い損傷はく、4月27日インド洋を臨むペナンへと入港した。伊1618、20に甲標的が搭載される一方で伊10には南アフリカでの通商破壊を命じられる。インド洋にはインドから欧州を往来する連合軍の船舶が多数存在し、それでいて先のセイロン沖海戦で航路とを守るべきイギリス東洋艦隊は南アフリカへ後退済みと絶好の狩り場であった。

4月29日にペナンを出撃した伊10はインド洋を西進、5月5日、10日、15日に愛国丸と報丸から燃料補給を受けた。5月20日南アフリカ南端のダーバンを航空偵察。地上から何の線が入る緊迫の一幕があったものの、偽の認識信号を送って時間を稼いだ事で艦載機は帰投した。

イギリス海軍大将マダガスカル北端ディエゴスワイレスで行われる葬儀に参列するとの情報を得た石崎は、同泊地に敵艦がいる可性が高いと判断。伊10にディエゴスワイレス湾の偵察を命じた。5月21日より移動を開始し、5月30日ディエゴスワイレスへ到着。航空偵察により戦艦ミリーズと軽巡洋艦の停泊を確認したため、この情報を各潜水艦転送するとともにペナンからマダガスカルに向かっている伊1618、20に対して攻撃命が下された。甲標的攻撃により、戦艦ミリーズとタンカーブリティッシュ・ロイリティを撃破した。

この頃、北アフリカ戦線では同盟ドイツアフリカ軍団が、イギリス軍の機甲師団と戦を演じていた。ドイツ軍から後方撹乱の的でインド洋での通商破壊を強く要望され、既にインド洋に展開中の伊10、伊1618、20がモザンビーク峡で、伊30マダガスカル東方で、報丸と愛国丸モザンビーク南方通商破壊を開始した。6月5日午前2時31分、モザンビーク東方350kmでパナマアトラティック・ガル(2639トン)を撃沈。午後、アメリカ貨物マーヴィン・H・ベイカ(4999トン)を撃沈。6月8日マダガスカルで、ニューヨークからボンベイに向かっていたイギリス貨物キング・ルド(5224トン)を撃で撃沈。生存者はいなかった。6月18日、マタガスカル南端セント・マリーの南東約400kmの地点に集結し、報丸と愛国丸から魚雷、燃料、食糧の補給を受ける。一獲物にありつけなかった伊30遣独潜水艦作戦に従事し、戦列から離れた。狩りは続き、6月28日南アフリカ発アデン湾行きのイギリス貨物クイーンヴィクトリア(4937トン)をベイラ南方撃して撃沈。6月30日午前0時30分、マンガン鉱石や革の貨物を積んだアメリカ貨物エクスプレス(6739トン)を仕留めるべく照明弾を上げ、右舷側から2本の魚雷を放って命中させる。機線装置を吹き飛ばされたエクスプレス尾より沈み始め、員は救命艇で脱出してを放棄。間もなくエクスプレスは沈んだ。7月6日16時15分にギリシャ貨物ニンフ(4504トン)を撃で、7月8日午前7時48分にアメリカ発東地中海行きのイギリス貨物ハーティスマー(5498トン)を、翌9日に4000トン弾薬を積んだオランダ貨物アルチバ(4427トン)を撃で撃沈。合計22隻(10万3496トン)という大戦果を叩き出し、通商破壊は成功。8月1日にペナンを出港し、8月12日横須賀へ凱旋帰を果たした。

伊10がインド洋で大戦果を挙げていた頃、連合軍のガダルカナル島襲来に伴ってソロモン戦線が形成。伊10も投入される事になり、10月21日横須賀を出港して10月27日トラックへ進出。11月24日ガダルカナルにあるルンガ泊地攻撃を支援するためトラックを出港。12月18日に帰投した。

1943年

1943年1月5日連合軍の南方補給路への攻撃と要地偵察のためトラックを出港。1月10日ソロモン諸島東方を通過して敵の後方拠点が密集するヌーメア方面に進出する。1月16日ニューカレドニアヌーメア北方空母1隻と駆逐艦2隻を発見したが適切な位置につけず、魚雷は外れた。1月23日午前0時20分、ヌーメア東方で敵駆逐艦2隻を発見。午前11時、ヌーメア航空偵察し、在泊艦艇を報告。

1月29日ソロモン諸島アメデ南方115里でアメリカ貨物サミュエルゴンバース(7176トン)を1本の魚雷で撃沈。2月9日ニュージーランド・ヌーメア間の航路で待ちせを行い、14時頃に通りがかった商撃したが、底をくぐり抜けてしまい失敗。2月10日午前5時42分に別の輸送にも撃を仕掛けたが、こちらも失敗している。狩り場をニュージーランドに移し、オークランドウェリントンを遊2月22日、伊10の通信を傍受した連合軍はクック峡を通過すると考え、ニュージーランド空軍機をクック峡へ向かわせて捜索したが、発見できず。2月27日午前10時50分、敵を発見したがこれも攻撃失敗に終わった。3月1日ニューブリディース輸送ガルフウェーブを撃で撃破。3月5日トレスを偵察し、帰の途についた。3月21日、佐世保に入港して修理を受ける。5月17日に出渠した後、訓練のため瀬戸内海西部へ回航。5月19日まで伊予にて伊8給油訓練を実施した。5月26日に入港。

帝國海軍は佐世保所属の第30潜戦隊に伊10を加えた大規模な通商破壊部隊を編成し、再びインド洋での上輸送路破壊に参加する事に。6月1日伊8とともにを出港。関門海峡を通過して外洋に進出し、6月12日にペナン基地へ到着した。6月27日遣独潜水艦作戦ドイツに向かう伊8とともにペナンを出港。7月1日と6日に燃料補給を行い、過酷な路へと向かう伊8を見送った。伊8と別れた後、インド洋で通商破壊を実施。7月22日、アデン湾でノルウェー貨物アルデス(7634トン)に2本の魚雷を放って撃沈、通信士や連絡将校等を救助して捕虜とした。8月4日に一旦ペナンに帰投。

9月2日16時にペナンを出撃し、インド洋を狩り場に暴れまわる。9月14日ペルシャ湾からメルボルン石油を運んでいたノルウェー貨物ブラモラ(6361トン)を仕留める。9月20日、アデン湾に侵入し、入り口のペリムにあるとされる飛行場を航空偵察。しかし飛行場は確認できなかった。アデン湾に戻った後の9月24日午前2時リバティ船エリアス・ハウ(7176トン)を発見。午前3時12分に2本の魚雷を発射し、うち1本がエリアス・ハウに直撃。く間に大火災となった。SOS信号を打ちながら浮き続けるエリアス・ハウにトドメを刺すべく二度撃を敢行、被により積載物の爆発物が誘爆した事で尾より沈んでいった。10月1日16時30分、アデン湾を10ノットの速で西進する敵団を発見して追跡。放った3本の魚雷のうち2本がノルウェー武装貨物ストルヴィクセ(4836トン)に命中し、尾より沈没生存者2名を救助した。10月4日16時10分、アデン湾で潜航中の伊10は複数の推進音を探知。2隻の敵駆逐艦に護衛され、アデンからイランアバダンに向かっている敵の輸送団だった。日後、浮上して団を追跡。10月5日ソマリランドの最北端グアルダフィの北西140里で3本の魚雷を発射し、深度110mに急速潜航。3回の爆発音を聴音したため伊10は3隻撃沈を確信したが、実際はノルウェー貨物アンナクヌーセンを撃破しただけだった。間もなく団の護衛艦艇から対潜攻撃を受け、機関室に軽微な損傷を負った。10月24日午前11時25分、アッヅ環礁でダーバンに向かっているイギリス貨物コンゲラ(4533トン)を発見。2本の魚雷を発射したが全て外れてしまったため、浮上したのち撃で撃沈。10月30日、ペナンに帰投。再度大戦果を叩き出したうえ、日本側の被害皆無だった。

11月5日にペナンを出港、11月7日から12月7日までシンガポールに留まったのち、12月16日に佐世保へ帰港。修理を受けた。映画沈」が内で製作されたが、そのモチーフになったのが伊10であった。撃沈シーンは実際の映像を使用し、民に広く喧伝された。

1944年

1944年1月1日、伊10は第6艦隊直属となる。

修理と休養を終えた伊10は2月3日に佐世保を出港。トラックに向かった。2月9日メルボルンにある連合軍の暗号解析班が伊10が北を通ってトラックに入港する旨の通信を傍受していたが、特に待ちせを受ける事2月10日トラックへ到着した。2月17日アメリカ軍のヘイルストーン作戦によりトラックが大規模な襲を受ける。敵艦上機の攻撃で3名の戦死者と2名の負傷者を出し、小破。戦闘行動かったため、呂36や呂42とともに敵空母を追撃すべく出撃。東方を捜索したが、敵情を得られずに反転帰投した。2月25日アメリカ西海通商破壊を行うべくトラックを出港するが、3月4日にミレ東方撃を受けて損傷。やむなく帰投する事になり、3月20日横須賀へ入港。修理を受けるとともに電探装置を搭載した。

5月4日、「あ」号作戦支援のため横須賀を出港。マーシャル諸島東方に進出して不穏な動きを見せる敵艦隊の偵察に臨む。6月12日、闇に紛れてメジェロ環礁を航空偵察。しかし既にアメリカ艦隊は出撃した後であり、もぬけの殻だった。更に艦載機が着に失敗し、搭乗員のみ救助して機体は投棄された。これが日本潜水艦による最後の航空偵察となった。6月13日、第6艦隊部は使用可な18隻の潜水艦マリア東方へ配備する事にしたが、6月15日アメリカ軍マリアナ諸侵攻が開始され、サイパン所在の第6艦隊部は逃げ遅れて通信が混乱。18隻中12隻を後退させ、6隻が残る事になった。伊10は、そのうちの1隻だった。6月16日に伊10はサイパン南東の散開線に到着。6月22日連合艦隊サイパン東海で孤立中の第6艦隊部を救助するよう命じ、たまたまサイパンの東にいた伊10に白羽の矢が立てられた。6月24日東海へと接近したが、敵の厳重な警備によって予定地のタロホホ河口に到達できず失敗。6月28日正午定時の艦位報告とともに救助は不可能と報告した。

この通信を最後に伊10からの連絡は途絶えた。帝國海軍7月2日サイパン東方面で亡失とし、10月10日に除籍した。

最期

亡失判定を受けた7月2日時点では、まだ伊10は生存していた。

しかし1944年7月4日17時2分、サイパン東方で護衛駆逐艦リドルに探知され、対潜攻撃を受ける。一度は逃げ切る事に成功したが、2分後に駆逐艦デビッド・W・テイラーによって再度捕捉されてしまい、リドルと協同のヘッジホッグ及び爆雷投射を受けて、18時28分に水中爆発が発生。浮遊物が発見された。乗員113全員死亡

撃沈されるまでに14隻の商(8万1553トン)を葬ったエースであった。1982年4月18日、佐世保に慰霊碑が建立された。

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