佐田の山とは、元大相撲力士で第50代横綱である。本名佐々田→市川 晋松(ささだ/いちかわ しんまつ)日本相撲協会理事長を務めた。
概要
1938年長崎県五島列島で生まれる。長崎県立上五島高等学校を経て故郷の英雄五ツ嶋(元大関)がいた出羽海部屋に入門し1956年1月場所で初土俵を踏む。「佐田の山」の四股名は本来「五島」にちなんだ名にしたかったのが、既にあらかた使われていたので苗字の佐々田をもじって付けられたらしい。幕下時代に「佐田ノ山」、大関時代に「佐田乃山」と名乗った場所もある。
入幕3場所目の1961年5月場所に前頭13枚目で初優勝を果たすが、三役以上で対戦したのが小結富士錦だけだったのと、4日目にこの場所十両優勝を果たした清ノ森に敗れていることから「最高優勝は十両ではないか」との意見まで飛び出た。このことから、平幕下位の力士でも成績次第で三役力士・横綱と対戦させるように取り組みを編成するきっかけとなった。という割にはこの後も大関以上と対戦せずに平幕優勝という例があるが。
優勝をきっかけに番付を上げ同年9月場所に小結を飛び越え関脇に昇進。1962年3月場所に13勝2敗の好成績を収め横綱大鵬との優勝決定戦も制し2回目の優勝、場所後大関に昇進した。出羽海部屋の大先輩である出羽錦は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったら、ワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言って佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが間に合わず、1964年9月場所で引退した。大先輩の引退を受けて佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗、1965年1月場所には3度目の幕内優勝を達成して横綱に推挙された。長年に渡って「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、これを見事に打ち砕いた。
横綱2場所目に14勝1敗で4度目の幕内優勝を果たすが、その後勝負弱さ(大鵬戦が本割で5勝27敗)や怪我もあり賜杯から遠ざかる。1967年11月場所に12勝3敗で久々の優勝、1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たした。同時期に大鵬が休場を繰り返していたこともあり、さあこれから佐田の山の時代だと思われた矢先の翌3月場所、高見山に金星を配給するなど序盤に3敗を喫してあっさり現役を引退。周囲は驚いたが前年3月場所に元弟弟子の北の富士に初優勝を許した時点から引退を考えていたという。
大関時代に出羽海親方(元前頭出羽ノ花)の娘と結婚し婿養子となっており次期師匠の座は既に確実視されていたが、引退と同時に部屋を継承させられ年寄・出羽海を襲名した。この際「引退してますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続けていれば良かった」と後悔したという。部屋持ち親方としては出羽海一門の不文律であった「不許分家独立」を撤廃し、弟子の舞の海には「立合いに頭で当たらず、技は何をやってもいい」と角界では異例の指導で、愛称「技のデパート」を開花させた。
1992年日本相撲協会理事長に就任し、1996年に協会事務に専念すべく部屋を鷲羽山に譲って自身は境川に名跡変更した。協会の改革に取組み、外国人枠や幕下付け出しの規定変更などを実施した。だが年寄名跡の改革を巡っては親方衆から「こっちは株の取得に苦労したのに舅から譲って楽に取得した奴が何様だ」と反発を受け、借株や売買の禁止を徹底できなかった。相撲茶屋の利権問題もあって1998年に理事長辞任。直後に60才を迎えるが以上のゴタゴタもあって還暦土俵入りを辞退した。
2000年には元理事長として異例の審判部長就任を果たしたが、琴光喜の大関昇進を見送ったことが「二所ノ関一門への報復ではないか」と囁かれた。
2003年に弟子の元小結・両国梶之助と名跡を交換し中立を襲名、同年停年退職した。現在の境川部屋には四股名に「佐田」のつく力士が多いが、彼らは佐田の山の孫弟子にあたる。
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