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サトウヨノスケ
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佐藤与之助とは、幕末武士蘭学者である。

概要

文政4年(1821年)、出羽庄内遊佐郷の農家に生まれる。諱は政養。号は山、笙渓。

前半生について不明な部分が多い。学業優秀で30歳を過ぎてから江戸に向かい、安政元年(1854年)頃に勝海舟門人になる。

安政2年(1855年)、勝に付き添って長崎海軍伝習所に入所し、航術を学ぶ。

文久2年(1862年)9月、軍監組二等出役になる。

文久3年(1863年)4月18日、勝の推挙で諸組与格・新規切五十俵の軍監組の辞を受ける。大坂神戸にて勝の私塾の塾頭、次いで神戸海軍操練所の教授方を務めた。坂本龍馬近藤長次郎とも懇意で、近藤結婚式では仲人になっている。大坂では勝の実務を全面的に担当し、坂本の現存する一の勝宛て書状とされていた手紙佐藤の書いたものである事が分かっている。[1]

勝が罷免された後も大坂に残り、慶応2年(1866年)4月には大坂奉行並に昇進。

慶応4年(1868年)2月15日、新政府から摂台掛に任じられ、大阪府兵局や民部省に出仕した後、明治2年(1869年)から鉄道掛となり、以後は鉄道建設に尽くす。

明治9年(1876年)、病により辞職。

明治10年(1877年)8月、勝の私邸で死去。享年57。

坂本龍馬にまつわる逸話

坂崎は『坂本龍馬関係文書』の「坂本龍馬援隊始末」において以下のように書いている。

文久三年十月神戸海軍所の塾長となり勝を助く

だが神戸海軍操練所が開設したのは元治元年(1864年)5月の事であり、塾長という肩書きは神戸海軍操練所には存在しない。大坂神戸で開催していた勝の私塾でも塾頭(塾長ではない)は坂本ではなく大坂神戸に留まって勝の実務面を任されていた佐藤ではないかという摘がある。[2]

また、操練所の閉鎖に伴う去り際に坂本近藤長次郎高松太郎ら脱浪士達が勝海舟を持ち逃げした件について勝宛ての謝罪文を坂本の代わりに書き送った事が分かっている。[3]

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