元正天皇(げんしょうてんのう 680年~748年/在位:715年10月3日~724年3月3日)とは、第44代天皇である。歴史上初めて未婚で即位した女帝でもある。
即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。天皇の娘なので内親王の称号も当然持っている。
和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)。
概要
680年に、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子と、天智天皇の娘である元明天皇との間に生まれる。弟は文武天皇。
祖父・天武天皇の後を継いで即位する予定だった父・草壁皇子が早世し、祖母・持統天皇を経て697年に弟の文武天皇が即位するも彼も707年に崩御した。文武天皇の息子で次の天皇になるべき甥の首皇子がまだ7歳という若年のため、母・阿閇皇女が元明天皇として即位した。
715年に、元明天皇は自身の老いを理由に譲位することになったが、この段階でも首皇子がまだ15歳の若年ということで、氷高皇女が元正天皇として即位した。
717年に藤原不比等を中心にして養老律令の編纂をはじめ、藤原不比等が亡くなると、長屋王を抜擢して政務を任せた。723年に三世一身法を制定した。
724年に、既に立太子されていた首皇子に譲位して聖武天皇として即位させ、自らは後見人としてサポートした。743年、聖武天皇が病に臥せると、天皇の名代として難波京遷都の勅を発して橘諸兄や藤原仲麻呂(後の恵美押勝)らとともに政務を遂行した。748年にお隠れになった。
中継ぎとしての即位
元明・元正と親子で二代続く女性天皇であるが、一般的にはこれは天皇にふさわしい男子の継承者(=首皇子、のちの聖武天皇)が成長するまでの中継ぎのためとされる。
元明天皇が息子の文武天皇から皇位を受け継いで即位した際には「不改常典(ふかいじょうてん、あらたむましじき つねののり)」という父・天智天皇が定めたとされる法を持ち出し、文武天皇と持統上皇の共同統治はこの法に基づくとし、さらにこの「不改常典」は引き継がれていくものという詔を出している。
「不改常典」の解釈には様々な説があるが、ここでは直系による継承と、これから先に自分が行おうとしている祖母から孫への譲位とその後の共同統治を、前例を出して正当化していると読み取れる。元明天皇は実際に首皇子が14歳になると、彼を皇太子に指名した。
また、元明天皇から元正天皇へ譲位する際に、元明天皇は「首皇子に皇位を譲りたいが、まだ年若いので娘の氷高内親王に譲る」という詔を出している。首皇子を皇太子と指名はしたが、まだ天皇を引き継ぐには若すぎるので彼が成長するまで元正天皇に一時的に皇位を預けた形になる。
さらに首皇子が元正天皇から譲位され、聖武天皇として即位する際にも「元正天皇は『母・元明天皇は本当はあなたに皇位を譲りたかったのだが、年が若かったので私が天皇となった』『不改常典に従い、将来必ず我が子(首皇子)に皇位を譲るように』とおっしゃっていた」という詔を残している。
以上の事は『続日本紀』の記述による。
誰のための中継ぎか
時代が下って江戸時代、現在最後の女帝となっている後桜町天皇も、甥の英仁親王が成長するまでの間、中継ぎとして即位した。当時の天皇家には正統な男子の後継者が英仁親王しかおらず、彼が成長するまで後桜町天皇は中継ぎを果たしたのである。これは明確に男系維持のための中継ぎと言えるだろう。
しかし、持統・元明・元正天皇の時代は状況が異なる。天武天皇が崩御し、持統天皇が即位した時点で、天武天皇の血を引く皇子は複数存在していた。男系継承を行うだけなら彼らに皇位を継がせればよい。では、なぜ彼女たちは皇子たちを差し置いて自ら天皇に即位したのか。
実は持統・元明・元正天皇の場合、中継ぎは中継ぎでも、言ってみれば「自らの血脈」を継ぐための中継ぎである。
持統天皇の場合
持統天皇は自らの子の草壁皇子の子で、持統天皇から見れば孫である軽皇子(後の文武天皇)に皇位を継がせるために即位した。
この時代は天皇の后の中でも位の高い皇后は皇族でなくてはなれないとされており、さらに身分の高い妃が生んだ皇子の継承権が優先された。天武天皇の長男で、草壁皇子の兄にあたる高市皇子は、母が皇族出身ではなかったため、彼を差し置いて草壁皇子が皇太子となった。
また、皇族出身の母(持統天皇の姉である大田皇女)を持ち、草壁皇子の皇位継承のライバルだった異母弟の大津皇子は、天武天皇崩御後に謀反の疑いをかけられて自害させられている。この件にも持統天皇が関わっているという見方も強い。
自分の子・孫に皇位を継がすために実の姉の子供さえ殺したかもしれないというのが、持統天皇の中継ぎとしての役割であった。
元明・元正天皇の場合
元明・元正天皇ではどうか。やはり、男系男子は複数存在していた。天武天皇の息子で草壁皇子の兄弟にあたる皇子や、その子供たちは多くいたのである。
元明天皇も持統天皇と同じく、息子の忘れ形見である孫の首皇子に皇位を引き継ぎたかったと思われる。だが、この段階になると皇位継承に外部からの力も強く加わるようになる。
首皇子の母親は皇族ではなかった。前述のとおり、皇族以外の妃の地位は低く、子供の立場も弱くなる。しかし、その流れもこの代から変わる。首皇子の母親の名前は藤原宮子。その父親、つまり後の聖武天皇の外祖父は藤原不比等である。のちに摂関政治で権力を握る天皇の外祖父としての藤原氏はここから始まった。
さらに、不比等は別の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせ、そして光明子はのちに皇族以外で初めての皇后となる。これから先、皇后は皇族に限るという不文律は消滅した。
実は文武天皇即位の際にも功績があったといわれる不比等だが、今度は孫を天皇の座につけるために奔走する。このとき宮子以外の文武天皇の妃からその立場を奪い、同時に彼女たちの息子から文武天皇の息子という立場も奪ったとされている。首皇子を確実に即位させるための工作である。
元明天皇から元正天皇に皇位が引き継がれると、首皇子への継承は藤原不比等も加わった3名で準備が進められることになる。それにつれて不比等の権力も増していき、さらに不比等の子供達も朝廷内で権力を持ち始めた。元明上皇と藤原不比等は聖武天皇の即位を見ずに亡くなるが、不比等の跡を継いだ藤原四兄弟にも助けられ、元正天皇により皇位は無事に聖武天皇に伝えられた。ここに2代に渡った中継ぎの役目は完了する。それは同時に、藤原氏を外祖父とすることが頻発する新しい天皇家の在り方の始まりでもあった。
中継ぎ論まとめ
以上のことを踏まえると、持統・元明・元正の中継ぎは大きな意味で「男系」継承者のためだけの中継ぎだったのではなく、天武・持統→(草壁)→文武→聖武(→孝謙)の「直系」を支える中継ぎであったと考えられる。複数の後継者候補がいる中で、確実に皇位を「草壁皇子の直系」につなぐための中継ぎである。
元正天皇が生涯独身だったのも、皇婿に権威が移る危険性を考慮したというよりも、むしろこの意向を受け首皇子への皇位継承に支障が出ないようにあえてその道を選んだと考えることができる。婿の危険性と言ったところで中国で嫁に易姓革命されちゃってるし…
ちなみに、中継ぎとされる男帝も歴史上幾名か存在し、継体天皇の子(仁賢天皇から見れば孫)である欽明天皇の老成のためにアラセブンで皇位を継いだ安閑天皇・宣化天皇や、乙巳の変の尻拭いで皇極天皇から譲位された孝徳天皇(中大兄皇子は当時数えで20歳)が当てはまる。後の時代には、自身の子である守仁親王(後の二条天皇)が成長するまでの中継ぎとして即位した後白河天皇がそれに相当する。
元正天皇「女系継承」説について
上記の通り、一般的には天武→草壁→文武→聖武の男系&直系継承のための中継ぎとされる元明天皇と元正天皇だが、他方、この時代に天皇の女系継承が行われたと主張する説がある(小林よしのり『新天皇論』など)。
要約すると、「元正天皇は元明天皇の子であり、律令に基づき『元明天皇の子として』内親王の称号を得ているのだから、『元正天皇は、(天武天皇や草壁皇子の子孫としてではなく、)女帝である元明天皇から皇位を継承した』=女系継承が行われた」というものである。
しかし、そもそも「(血統上)女系であること」と「(皇位が)女系で継承されたこと」とは全く異なる。
元正天皇の父は草壁皇子であり、草壁皇子の父は天武天皇である。
「男系天皇」というのは「血統上、父親をたどっていけば天皇に行き着く」という意味であり、元正天皇はまぎれもない「男系天皇」なのである。
「父親が天皇でない」から「男系ではない」という考え方もありうるが、「父親が天皇でない天皇」はこれ以前にも以後にも何人も存在するのであって、そうすると歴史上何人もの天皇が「男系ではなかった」ことになってしまう。
さらに言えば、「男系天皇である(=父親をたどれば天皇に行き着く)こと」と「女系天皇である(=母親をたどれば天皇に行き着く)こと」とは、互いに矛盾しない。
元正天皇の母は元明天皇なので、元正天皇は「男系天皇」かつ「女系天皇」でもあるといえる。
これらを踏まえると、「元明→元正で女系継承が行われた」という論説は、「それがどうした」という程度の取るに足らない話である。
元明天皇(父は天智天皇)も元正天皇も男系天皇であった以上、「男系でない天皇が即位した」などということは一度も起きていない。
もし、「奈良時代に女系継承が行われたのだから、現代においても女系天皇を容認すべきだ」という議論があるのであれば、それは上記の通り血統と継承を都合よく混同した、事実誤認の甚だしいものである。
即位の事情をめぐって(文武天皇との比較)
さて、それはそれとしても、元正天皇とその弟である文武天皇とを比べると、父母を同じくする姉弟であるにもかかわらず、その即位に至るまでの事情は両者で大きく異なっている。
具体的にいえば、文武天皇は立太子・即位までにかなり揉めたのに対し、元正天皇は揉めた様子もなくすんなりと即位できた、という点である。
この謎を解き明かす考え方としては、以下のようなものがある。
- 古来皇位継承は「(子よりも先に)兄から弟への継承」が一般的(応神・仁徳以前は除く)だったが、天智~天武・持統朝にかけて大陸の儒教の影響を受けて「親から子、とりわけ嫡子への継承」へと価値観がシフトしていったという説。
文武天皇の立太子・即位前はその過渡期であり、天武・持統の嫡孫といえども、天武の他の皇子が多く残っている状況では即位が難しかった。高市皇子の薨去後、「懐風藻」に記されている葛野王のフォローがあってようやく即位することができた。
元正天皇が即位する頃になると、先述の葛野王の言葉が「国を定むる」ものであったこともあり、天武・持統の嫡流が強く意識されるようになっていた。そのため、元正天皇は特に揉めることなく即位できた。 - 天皇に即位するには年齢制限があり、最低でも30歳に達していなければならないという不文律があったという説。
文武天皇は立太子・即位した時点でまだ15歳であったため、若すぎるということで異論が出ていた。
他方、元正天皇は即位時35歳であり、何の問題もなく即位できた。
(とはいえ、後に聖武天皇は24歳で即位することになり、その不文律は再び破られている。) - 「皇太子の子」と「天皇の子」では格に違いがあったという説。
文武天皇は立太子時点では「草壁皇子の息子」=『王』でしかなく、他の「天武天皇の皇子」=『親王』に比べて格が劣ると思われていた。
他方、文武天皇の崩御後から元正天皇の即位までの間に元明天皇が即位したことによって、元正天皇は『内親王』の称号を得ることができた。それゆえ、元正天皇は、母であり天皇となった元明天皇を権威の源泉として即位することができた。
(上記の「女系継承」説を言い換えたものでもある。) - 「中継ぎ論」で既に述べられているように、藤原氏の権力(あるいは皇室との協力関係)が関係しているという説。藤原氏が権力を持つようになるのは、文武天皇の即位以後のことである。
関連動画
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関連項目
43代 | 44代 | 45代 |
元明天皇(げんめいてんのう) 707~715 |
元正天皇(げんしょうてんのう) 715~724 |
聖武天皇(しょうむてんのう) 724~749 |
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