六歌仙とは、
- 紀貫之が列挙した、平安時代前期の歌壇を代表する6人の歌人の総称
- ゲーム「ぷよぷよ通」に登場する第2ステージの対戦キャラクター(パノッティ、うろこさかなびと(セリリ)、のほほ、ふたごのケットシー、ふふふ、マミー)の総称
- 西池袋の焼肉店、新宿駅西口に隣接
- 山形県東根市の地酒
である。この記事では、1.について解説する。
概要
紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が編纂した「古今和歌集」の仮名序で、紀貫之は六歌仙を「近き世にその名きこえたる人」と述べている。その顔ぶれは、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主である。
ところが、この6人に対して貫之の評価はなかなか厳しく、まず長所を挙げてはいるが、次に短所を痛烈に批判している。具体的に挙げると、
- 僧正遍昭「歌の様は得たれども、誠少なし。例えば、絵に描ける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし(歌の内容が整っているけど、現実味が乏しい。二次元の女に萌えているようだ)」
- 在原業平「その心余りて、言葉足らず。萎れる花の、色無くて匂い残れるがごとし(情感があふれているが、言葉が足りない。しおれた花が、まだ香りだけ残っているようだ)」
- 文屋康秀「言葉は巧みにて、そのさま身に負わず。言わば、商人の、良き衣着たらむがごとし(言葉遣いに技巧を凝らしているが、中身が無い。身分は卑しい商人が、見た目だけ立派に着飾っているようだ)」
- 喜撰法師「言葉かすかにして、始め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲に遭えるがごとし(歌の始めと終わりがあやふやでよくわからない。秋に月見をした時、夜明け前に雲が月が隠してしまうようだ)」
- 小野小町「哀れなるようにて、強からず。言わば、よき女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし(情趣あるが、か弱い。貴婦人が病に伏せっているのに似ている。弱々しいが、女性だから仕方ない)」
- 大友黒主「そのさま卑し。言わば、薪負える山人の、花の陰に休めるがごとし(俗っぽくて卑しい。薪を背負った木こりが花の木の下で休憩しているようだ)」
と、一旦上げて落とすものばかりで、むしろけなしている印象が強く残ってしまう。
どうしてこのようなマイナス評価が目立ってしまうのかというと、貫之は「仮名序」で万葉集の時代の歌人である柿本人麻呂と山部赤人を「歌聖」と最高の絶賛をしており、この2人に対しては六歌仙でも遠く及ばないと相対的に低く評価しているからである。なお貫之は、他の同時期の歌人や現在の歌人はさらに酷評しているなど、古い時代の歌人になるほど高評価する傾向が強い。
一見共通点の見当たらないこの6人が選ばれた理由については諸説あるが、その中でも特に有名なのは、朝廷が祟りを恐れて彼らを祭り上げたという説である。菅原道真や早良親王と異なり、彼らが悲運の人生だったり不幸な最期を遂げたわけではないが、その鍵を握る人物として、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王がいる。彼は父・文徳天皇から皇太子に望まれていたが、当時の摂関家の氏長者である藤原良房が、惟喬親王の異母弟にして背良房の孫でもある惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子にするよう圧力をかけ、遂に即位できずに出家したいう背景がある。そして、六歌仙のメンバーはこの不運な惟喬親王を中心とする、当時の天皇家に何かしら関係する人物が多い。
遍昭は仁明天皇(文徳天皇の父)の崩御に伴い出家、小町は仁明天皇の更衣だったとも言われている。業平は惟喬親王に仕えており、喜撰は惟喬親王の生母の兄弟だったという説がある。黒主は応天門の変で失脚した伴氏(大伴氏)の縁者だったという説から、康秀は天皇家とは特に関係が無く、単に官位が低く不遇だったからなどと言われている。こうした彼らにスポットを当てて、惟喬親王の霊を慰めようとしたという、言わば縁起担ぎのような側面も見られている。こうした六歌仙鎮魂説を提唱したのは、梅沢猛・井沢元彦ら古代信仰に重点を置いた歴史学者の一派である。但し、両者は活字史料を軽視する傾向がある上に、強引な解釈も多く、必ずしも学説の主流ではないことに注意したい(歴史学界では異端ともされている)。
なお、大友黒主を除いた5人は、いずれも百人一首に歌が載せられている。
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt