北アフリカ戦線とは、第二次世界大戦中の1940年9月13日から1943年5月13日まで続いた、北アフリカ沿岸における枢軸軍対連合軍の戦闘の総称である。
概要
第二次世界大戦では世界各地が戦場となったが、唯一砂漠地帯で行われた戦闘が北アフリカ戦線であった。このため他の戦線では見られない特異な現象がよく見られた。地中海沿岸にはイギリス軍が整備した道路があるが、少し南へ行くと砂漠が広がる無何有の地であった。ゆえに枢軸・連合ともに道路を歩兵で攻め、その間に戦車部隊が砂漠地帯を突破して側面を突く戦法を取った。砂漠には遮蔽物の類が一切無いため、航空偵察などで機甲師団が発見されると、すぐに迎撃の戦車部隊が派遣されるという海戦のような戦闘が幾度となく生起した。相手の動きが丸見えなので、戦線は振り子のように動いた。
北アフリカ戦線で重要な存在となったのは、トリポリやトブルクといった港湾都市。独伊軍はここを押さえないと補給すらままならなかった。対する連合軍はスエズを通ってインドやオーストラリアから潤沢な物資及び兵力を受けられ、また地中海にもマルタ島や艦隊を有していたのでイタリアから出港した補給船団を攻撃するのも容易だった。目の上のコブであるマルタへ猛攻撃を仕掛け、後方補給路となっているモザンビーク海峡にUボートを送り込むなど独伊軍も必死に抵抗を試みたが、連合軍の補給線を突き崩す事は叶わなかった。戦況が絶望的な中、ドイツ軍のエルヴィン・ロンメルはハリボテを使った奇策や的確な指示により、圧倒的優位のイギリス軍を圧倒。イギリス海軍の重要拠点があるアレキサンドリアの眼前まで進撃してみせた。
しかしアメリカの参戦、補給の途絶、無尽蔵の戦力を持つイギリス軍の反撃によりドイツアフリカ軍団は遂に力尽きる。エル・アラメインの戦いに敗れて以降、二度と盛り返す事は無かった。さらに後方のアルジェとカサブランカに連合軍が上陸し、東西から挟撃される。撤退しようにも地中海を渡る船が無い。絶体絶命の危機に陥ったドイツアフリカ軍団は最後まで抵抗を続けたが、1943年5月に降伏。これを以って北アフリカ戦線は終結した。
背景
北アフリカは砂漠に覆われた不毛の土地であった。だが東端にはイギリス軍が擁するアレキサンドリア基地、スエズ運河、産油国のサウジアラビアが存在しており、ここを叩く事が出来れば欧州とインド洋の交通路を遮断してイギリスに痛撃を与える事が出来た。ドイツ政府は来るべきイギリス本土攻撃に備え、同盟国イタリアに英北アフリカ駐留軍への攻撃を要請。ちょうどイタリアも北アフリカに版図を広げたい思惑があったので、この要請を快諾。1940年9月7日、イタリア領リビアから侵攻を開始した。
よわいイタリア軍
イタリア軍は8万の兵力からなる第10軍を投入。9月10日にエジプトへ突入した。対するイギリス軍は遅延戦闘を行いながら後退し、入れ替わるように第10軍が進出していった。増援としてイタリア軍は黒シャツ第1、第2、第3師団、第17パビア師団、第25ボローニャ師団、第27ブレシア師団、第55サボナ師団、。第60サブラタ師団、パビア機甲旅団など約21万5000名を派遣。9月17日には、国境から100kmの地にあるシディ・バラニの街を占領するに至った。気を良くしたムッソリーニ総統はアレキサンドリアへの進撃を命じたが、性急過ぎる進撃は補給線に支障を与え、また酷暑によって将兵はヘロヘロになっていた。このため翌18日には進撃が止まり、12月に攻勢再開を目指して防御体勢の構築が始まった。この時、イタリア軍陣地には蒸留酒のブランデーが持ち込まれており、やる気の無いイタリア軍を見たイギリス軍は反攻作戦の準備を開始した。
12月9日、インド軍の増援を得たイギリス軍はコンパス作戦を開始し、イタリア軍への反攻を始める。完全に機械化され、かつ数も多いイギリス軍にイタリア軍は歯が立たず、シディ・バラニの駐留部隊が壊滅。加えて後方のバルディアを守備していた残存部隊もイギリス軍の猛攻を受け、1941年1月6日に降伏した。勢いに乗るイギリス軍は戦線を押し返し、イタリア領リビアへと逆に侵攻。イタリア第10軍は遅延戦闘をしながら後退していたが、イギリス軍の機械化部隊に背後を取られて退路を断たれる。進退窮まった第10軍は2月7日に包囲網突破を試みたが、敗北して壊滅。捕虜13万人を出してしまった。障害を排したイギリス軍はリビアの占領を進め、要港トブルク、バルディア、キレナイカ地方を次々に占領。西部の街トリポリタニアにもイギリス軍の魔手が迫り、イタリアの移住民たちはパニックに陥った。イタリア本国から増援を送ろうにも、イタリアと北アフリカの間にはイギリス軍の要塞マルタ島があって上手く行かない。
リビアの支配権すら危うくなったイタリア軍は、ドイツに泣きついた。そしてドイツから送られてきたのは、勇将として名高いあの男だった。
エルヴィン・ロンメル、北アフリカに降り立つ
1941年2月12日、トリポリタニアに1機のハインケルHe111爆撃機が降り立った。彼こそフランスを殴り倒した勇将エルヴィン・ロンメル中将であった。彼は一刻も早く攻勢に出たかったが、配下の機甲師団が到着するまで攻撃を禁じるとヒトラー総統とブラウヒッチュ元帥から命じられていたため辛抱強く待った。既にイギリス軍はトリポリタニアの奥深くに偵察部隊を送り込んできている。猶予は残されていない。またベダフォムでイタリア軍が壊滅的打撃を受け、総崩れ寸前の状態だった。だがドイツアフリカ軍団の輸送は遅々として進まなかった。戦車は僅か150輌しかなく、優勢なイギリス軍を迎え撃つには不足だった。
そんな中、無線の傍受やイギリス軍機の不活発ぶりを見たロンメルは大胆にも攻勢を命じた。3月31日、ドイツ軍はメルサブレカを攻撃。北アフリカの地で初めてドイツ軍とイギリス軍が干戈を交えた。攻撃を受けたイギリス軍は戦車の増派を要求したが、第2機甲師団長ガンビヤ・パリー少将が増援を出し渋ったため撤退を強いられた。4月2日、ドイツ軍はアジェタビアに到達した。ここでロンメルはイタリア軍を呼び寄せ、占領地の確保に充てると同時に一部をアフリカ軍団に編入した。進撃する機甲師団の後ろから追従する補給部隊も編成し、後顧の憂いを断ったドイツ軍は三方向に分かれて進軍を再開した。4月4日、補給港ベンガジに到達し、英第2機甲師団と激突。ここでアフリカ軍団は大勝利を収め、ベンガジと後方のメキリを占領。大多数のイギリス兵、オーストラリア兵、インド兵を捕虜とした。中には北アフリカ軍司令オコナー中将と第2機甲師団長パリー少将も含まれていた。
4月に入ると、ドイツ空軍のメッサーシュミットMe109が北アフリカに到着。イギリス空軍の主力機だったグラジエーター複葉戦闘機を瞬く間に屠り、アフリカの空は独伊軍のものとなった。空での戦いに惨敗したイギリス軍はスピットファイアや、レンドリースされたP-40戦闘機を投入してMe109に対抗したが、常に分が悪い戦いを強いられた。イタリア軍も新鋭戦闘機MC202を投入し、イギリス軍を空から駆逐した。
ロンメルはとにかく前進を命じた。部下に前進を強行させ、友軍からの反対意見も取り合わなかった。無茶な前進を知ったイタリア軍総司令官ガリボルジがアジェタビアにすっ飛んできたが、それさえもロンメルは取り合わなかった。イギリス軍は今、アフリカ軍団の反撃で指揮系統が混乱している。この隙を突かなければ永遠に勝機が失われてしまうとロンメルは確信していた。ドイツ軍統帥部もその事を熟知しており、ロンメルに「自由に行動しても良い」と指示を出して、周囲の反対意見を黙らせた。厳しい命令ばかり出すロンメルに将兵は小言をブツブツ言いながらも、無茶な前進を実現するために奔走した。アフリカ軍団は疲弊していたが、前進命令は止まらなかった。
ドイツアフリカ軍団の次の狙いは補給港トブルクであった。ここはオーストラリア軍が守備しており、堅牢な陣地の中には水も食糧も十分にあった。4月9日より急襲が始まったが、ドイツ空軍の支援攻撃は高射砲に阻まれ、キレナイカとエジプト国境にイギリス軍の増援が出現するなど連合軍は息を吹き返し始めていた。ここで無理を重ねてきたアフリカ軍団にしわ寄せが来た。兵の疲労は勿論のこと、砂塵にやられて戦車の稼働率も下がり続けていた。ナポリを出発した輸送船団も元気なイギリス海軍に次々と襲われており、補給の問題も立ちはだかった。結果、トブルク攻略に失敗した。ドイツアフリカ軍団初の敗北である。4月29日に再度の攻撃に出るも、失敗。両軍とも限界が来たため、体勢を立て直すべく戦線が膠着した。
イギリス軍にとってロンメルはまさに死神であった。何としても彼を排除したいイギリス軍は、クルセーダー作戦を開始。コマンド部隊を送り込んでロンメルの暗殺を図った。11月14日、潜水艦でコマンド部隊が上陸。17日夜にベダリットリアにあるドイツ軍司令部を襲撃した。しかし作戦は不成功だった。ちょうどロンメルは作戦会議のためローマに出向いていたからである。ロンメルを倒し損ねたイギリス軍は手痛い犠牲を払う羽目になった。11月21日、イギリス第8軍はアフリカ軍団の猛攻を受けて壊走。敵将カニンガムは戦意を喪失し、更迭された。また英第30軍団も退却していった。
しかしドイツアフリカ軍団の攻勢はここで限界を迎えた。加えてキレナイカ方面に集結していたイギリス軍が大挙して襲来したため、急遽ハルファヤ峠を拠点に防戦しなくてはならなくなった。ロンメルは一度西への退却を命じ、トブルクは攻囲に留めた。
北アフリカ戦線の戦況は、エジプトの首都カイロに駐在していたアメリカ陸軍武官のフェラーズ大佐によって逐一アメリカ本国へ報告されていた。それはブラック暗号という最新の暗号で守られていたが、イタリア陸軍情報局のローリス・ゲラルティによってローマのアメリカ大使館から暗号表が盗まれた。その結果、各国のアメリカ大使館や北アフリカから送られる暗号は全て筒抜けとなった。ドイツもカイロからの通信を傍受して暗号を解析し、ロンメルのもとへ転送。毎日昼食時に、ロンメルは昨晩の連合軍の配置を正確に知る事が出来たため、快進撃の一助となった。
流動する戦況
1942年1月5日、ドイツの船団がトリポリに到着。ドイツ軍の戦車は84輌に、イタリア軍は89輌になった。燃料と弾薬も補給され、300機以上の独伊軍機が作戦行動可能となる。これを機にドイツアフリカ軍団は1月20日夜より攻勢に出た。22日には英第1機甲師団に壊滅的打撃を与えて、再興を示した。進撃は続き、ベンガジを奪取。この戦果により、ロンメルは上級大将に昇進した。この頃、地球の裏側では真珠湾攻撃が実施され、アメリカが参戦。北アフリカにもアメリカ軍が出現するようになった。補給面でもイギリス軍の方が日に日に良くなっていった。エジプトからベルハムドまで伸びる鉄道を建設し、海路に頼らずとも兵力や物資の輸送を可能とした。さらに自由フランスから派遣された旅団も加わり、連合軍は莫大な戦力と弾薬を抱えていた。イギリス軍は攻勢を視野に入れ、補給基地を前線の近くに配置した。
5月26日21時、アフリカ軍団は膠着した戦況を打ち破るべく前進を開始。分散配置されていた英第3自動車化旅団と第4戦車旅団を粉砕。戦車の半数以上を失って後退を余儀なくされた。一方のイタリア軍トリエステ自動車化師団は砂地にはまって動けなくなり、自由フランス軍への攻撃に失敗していた。遁走するイギリス軍の背後にアフリカ軍団が回りこみ、これを撃滅。戦車30輌を撃破し、師団長や幕僚たちを捕縛した。だが間もなくイギリス軍は大戦力を投じて猛然と反攻を開始。補給路を断ち、ロンメル率いるアフリカ軍団を包囲する。敵戦力には初めて見るアメリカ軍のグラント戦車もあり、ドイツ兵を驚かせた。連合軍の包囲網は厚く、5月31日にロンメルは英軍捕虜に対し「今晩、補給隊が到着しなければ英軍に降伏を求めなければならない」と漏らしていた。だが幸運の女神はロンメルに微笑んだ。アフリカ軍団とトリエステ自動車化旅団の攻撃が成功し、包囲網を形成する英軍を撃破できたのである。何とかロンメルは虎口を脱した。ここで後退を命じるかと思いきや、ロンメルはいつもの「前進」を命令。向かってくる英戦車部隊を粉砕しながら地雷原を突破。イギリス軍第8軍を指揮するリッチ将軍を驚愕させた。
6月11日、ロンメル軍団は総攻撃を開始。エルアデム付近の戦闘でイギリス軍を散々に打ち破った。空の戦いでもイギリス軍は敗北し、ドイツの爆撃機が平然と英軍陣地や戦車を爆撃。13日昼までに138輌以上の戦車を破壊され、トブルクへと撤退した。ロンメル軍団は6月15日に追撃を開始し、道中のイギリス軍陣地を潰しながらトブルクに進撃。軽快な機甲師団がバルジアを占領し、イギリス軍の増援と補給を断った。そして6月20日にトブルクへの攻撃を開始し、占領に成功。英軍守備隊は脱出に失敗し、22日朝に全軍が武器を捨てて投降した。トブルクには水、食糧、車両、嗜好品、燃料が燃やされずに残っており、枢軸軍の生命線となった。この戦果でロンメルは元帥に昇進したが、元帥杖より一個師団を求めたという。イギリス軍は後退に後退を重ね、ついに戦争が始まった時の位置にまで戻ってきてしまった。英中東方面軍総司令官オーキンレックはマルサマトルを最終防衛ラインに定め、アフリカ軍団を待ち受けた。ついでに失態続きのリッチ将軍は罷免された。
6月26日、ロンメル軍団は補給港マルサマトルを攻撃。ここはニュージーランド師団やイギリス第10軍が守備しており、退路を断ってマルサマトルを締め上げていたが、連合軍は頑強だった。ドイツ軍の攻撃を跳ね返し、辛抱強く増援を待ち続けた。ところが増援の英第1機甲師団のコッド師団長が後退を命じてしまい、マルサマトルは孤立無援と化す。耐えられなくなった連合軍は闇夜に紛れて脱出。機械化されていたので、ロンメル軍団が気付いた頃には遠くに逃げ去っていた。29日早朝、砦の中に残された山のような軍需品を獲得。ロンメルを喜ばせた。こうしてエジプト西方の補給港はロンメル軍団の手に落ち、イギリス兵6000名が捕虜になった。ロンメル軍団は進撃を再開し、エジプトの奥深くへと切り込んでいく。あまりの速さにドイツ空軍の進出が間に合わず、補給も届かないので、ドイツアフリカ軍団はイギリスが置いていった車両に乗って進軍した。敵味方ともに英国製の車両を使っている珍妙な光景だった。兵器もまた独伊製の物は少なく、大半が英軍製を鹵獲したものだった。軍服もイギリス軍のものである。
ターニングポイント
6月30日朝、アフリカ軍団はエル・アラメインの英軍陣地前面に現われた。オーキンレック総司令官率いる部隊がエル・アラメインを守備しており、さっそく激戦が開始された。アフリカ軍団は次々に陣地を突破していくが、縦深陣地を築いているイギリス軍には痛撃となりえない。浴びせられる砲火は激しく、7月2日の時点で一旦エル・アラメインの突破を諦めなければならなかった。翌3日に再度攻撃を命じたが、潤沢な増援を受けたイギリス軍陣地はより一層強化されており、不成功に終わった。敵の強力な陣地と火力の前では、いたずらに兵力を消費するだけである。ロンメルは後退を命じ、兵の休息を図った。
これを好機と見たイギリス軍は追撃を行い、アフリカ軍団へ殴りかかった。88mm砲でどうにか食い止めたが、ロンメル軍団の進撃はアレキサンドリアまで僅か200kmの所で止められてしまった。オーキンレック総司令官は7月10日より反攻を命じ、連合軍の逆襲が始まった。まず北の海岸線を守っているイタリア軍サブラタ歩兵師団に矛先が向けられ、これを撃破。逃げるイタリア軍を追いかける形でイギリス軍が突撃してくる。オーキンレックは弱いイタリア軍を攻撃目標に定め、ドイツアフリカ軍団を無視して集中攻撃を加えた。急所を狙われたロンメル軍団は押し返され、一気に窮地へ立たされた。悪い事に、この頃から病魔がロンメルの体を蝕んだ。肝臓病と重度の血圧障害に悩まされ、医師から絶対療養を言い渡された。しかし後任者がいなかったので、無理を承知で指揮を執り続けた。ドイツ軍の指揮官は戦死か戦傷で、全員いなかったのである。
戦線は一旦ルウェイサト高地で停滞したが、イギリス軍首脳部はエジプト付近にドイツアフリカ軍団を残しておくのは危険だと考え、一刻も早く排除したがった。まず8月3日にチャーチル首相が首都カイロに入って戦場を視察。オーキンレックを更迭し、新司令官にハロルド・アレキサンダー将軍を据えた。彼はビルマで怒涛の攻めを見せる日本軍を相手に撤退戦を指揮した経歴があった。第8軍の司令官にはモントゴメリー将軍が就いたが、内外ともに無名の指揮官だったためドイツ軍は関心を示さなかった。一方のドイツ軍は、マルタ島のイギリス軍に悩まされながらもトリポリとベンガジに輸送船団を送り、アフリカ軍団を鼓舞した。そして8月30日に反撃に転じたが、アラムハルファ高原に配備されていた強力なイギリス軍部隊によって失敗。次々に戦車を炎上させられ、アラムハルファの奪取に失敗。イギリス軍にも相応の被害を与えたが、燃料が切れてしまった。9月1日夜、ロンメル軍団は撤退を決意した。
このアラムハルファの戦闘で北アフリカの主導権は連合軍に移った。
ドイツの同盟国である日本は、ロンメル軍団がイギリス軍を粉砕して中東もしくは西アジアへ進出してきた時に備えてセイロン島攻略作戦を温めていた。もし日独双方が快進撃をしていれば、ロンメルと握手する未来もあったかもしれない。しかしアメリカ軍のガダルカナル島来襲に加え、ロンメル軍団のエル・アラメイン敗退を受けて無期限延期。ロンメルと握手する夢は露と消えた。
恐怖の逃避行
アラムハルファの戦闘以来、アフリカ軍団の作戦は防御的なものが増えた。一方、イギリス軍は攻勢に出続けている。ドイツアフリカ軍団にとって最も良くない知らせは、病気を患ったロンメルが9月23日に療養のため北アフリカを去った事だった。後任者にはロシア戦線から引き抜かれたシュツンメ将軍とトーマ将軍が選ばれた。両将軍はロンメルの考えを理解し、地雷の敷設に邁進した。だが悪化する補給は食事の質を悪くし、兵を疲労させ続けた。この時の独伊軍の兵力は10万4000名(5万4000名がイタリア兵)、戦車489輌、航空機657機だったが、連合軍の兵力は19万5000名、戦車1000輌以上、航空機750機と全ての面で圧倒していた。アメリカの新型戦車シャーマンも到着しており、質も量も連合軍が上だった。
10月23日、アフリカ軍団の陣地を猛烈な砲爆撃が襲った。連合軍の攻勢が始まり、シュツンメ将軍が戦死した。戦況がより悪化し、ヒトラー総統からの要請を受けてウィーンで療養中のロンメルが引き戻された。25日にはアフリカの機甲師団司令部に到着。必死に采配を振るったが、連合軍の猛攻はとまらない。クソザコなイタリア軍狙いの戦法も健在で、どんどん陣形を崩されていく。トーマ将軍はフーカへの撤退を命じたが、ヒトラー総統は撤退を不許可。ロンメルは渋々これに従った。だがこれ以上、崩壊する戦線を食い止める事は出来ない。ヒトラー総統の命令に従えばアフリカ軍団は死ぬ。11月2日、やむを得ずロンメルは先遣部隊のフーカ撤退を指示。しかし遅すぎた撤退命令はイギリス軍の包囲を招き、閉じ込められた部隊は降伏するしかなかった。最後の意地でイギリス軍の攻勢を失敗させると、11月4日に投降。トーマ将軍も捕らえられた。この日の夕刻、ようやくヒトラー総統から退却の許可が出た。だが、既にイタリア軍とアリエテ戦車師団の大部分は壊滅していた。夜、独伊軍は海岸線を避けて撤退していった。翌5日昼、イギリス軍の猛烈な追撃が始まったが、わずかな時間を使ってロンメルは統制を取り戻した。いつものように燃料も水も不足し、兵士は疲れきっていた。ドイツ第21機甲師団は壊滅的打撃を受け、エルアライメンに投入した戦車30輌が4輌にまで減少。対するイギリス軍も弾薬こそ豊富にあったが、燃料が不足。加えて11月7日は雨になったので、いったん進軍が停止した。
11月8日、凶報が飛び込んできた。ヴィシーフランスが支配する北西アフリカ方面…カサブランカとアルジェに、連合軍が上陸してきたのである。安全だったはずの後方に戦線が構築され、東西から挟撃される形となった。この事についてロンメルは「これはアフリカのドイツ軍の終末を示すものである」と綴った。もはやアフリカに留まる理由は無くなった。どんなに戦力を送っても、連合軍に叩き潰されてしまうからだ。11月13日にはトブルクが、20日にはベンガジがイギリス軍の手に落ちた。次の補給港トリポリまで、まだ800kmもある。西への後退は続く。空からは元気にイギリス軍機が襲い掛かり、少しでも遅れれば後を追う英機甲師団の餌食になる。絶望的な逃避行だった。また西からは米英連合軍が、独伊軍最後の拠点チュニジアに迫っていた。
1943年1月22日、戦況逼迫に伴ってトリポリには寄らず通過。追い詰められているアフリカ軍団だが、時々勇敢な反撃を行い、イギリス戦車を十数輌破壊。突然の反撃を警戒してか英機甲師団の進軍速度が低下した。が、ここでロンメルの更迭命令が下った。再び健康を害していたのと、上層部の命令に従わなかった事が祟って疎まれたからだった。1月26日、イタリア軍のメッセ将軍に後を託し、ロンメルはアフリカの地を去っていった。ロンメルが去った後、独伊軍の連携に不和が生じ始めた。
西からは上陸したアメリカ軍が迫りつつあった。ジョージ・パットン将軍率いる第2軍団がマクナシー峠とエルゲタールに向かい、これをラング大佐率いる部隊が迎撃。マクナシー峠の独守備隊が撤退する時間を稼ぐため、戦闘機隊に命じて鋭い攻撃を加えた。ラング大佐の的確な指示によりマクナシー峠のアメリカ軍は撃退され、戦況は安定。さらに3月22日夜、ドイツ第10機甲軍団が低地に居る米第1歩兵師団を急襲。隙を突かれたアメリカ軍は砲兵陣地を蹴散され、あわてて地雷を敷設して逃げていった。しかし夕刻、体勢を立て直して大量の戦車を用意、数の暴力で第10機甲師団を圧倒し始めた。動ける戦車は後退し、ドイツ軍の攻勢は頓挫した。
最期
独伊軍は最後のキャンプ地であるチュニジアへ追い込まれた。現地の司令官は本国に補給の必要性を強く訴え、それが無理なら全軍を撤退させるか、降伏の訓令をよこせと絶叫した。しかしヒトラー総統やムッソリーニ総統から返ってくる言葉は「死ぬまで抵抗を続けろ」というものだった。これを好機と捉えたイギリス軍は4月6日に攻勢を開始、インド第4師団が西の高地を占領してしまった。大空には連合軍機が乱舞し、動くものを見つけると容赦なく機銃を放ってきた。もはやアフリカ軍団に航空兵力は無い。
4月22日、連合軍は一斉に攻勢へと転じた。ドイツアフリカ軍団最後の戦いが幕を開けた。激しい爆撃をかいくぐり、アフリカ軍団はメジェルダの谷に戦力を集結させた。地形的に唯一ここだけが機甲戦力の力を発揮できる場所だったからだ。当然連合軍もこの谷を攻撃目標としており、猛攻を仕掛ける。4月28日、一縷の望みをかけてアフリカ軍団が反撃を開始。成功の見込みは薄かったが、死に花を咲かせようと決死に戦った。4月30日、独伊軍は最後の力を使い果たしたが、高地からイギリス軍を追い出す事に成功。最後の意地は見事果たされたのだった。
5月6日、再び連合軍の猛攻が始まる。もはや独伊軍に戦えるだけの力は残っていなかった。翌7日にビゼルトとチュニスを失陥し、投降するドイツ兵も出始めた。だが彼らは最後まで騎士だった。威厳のある、整然とした態度で降伏に臨み、連合兵を感嘆させたと伝わる。またアフリカ軍団は決別の電報を本国に打ち、それはロンメルのもとにも届いた。5月12日から13日にかけて独伊軍は投降し、27万5000人が捕虜となった。こうして北アフリカ戦線は終結し、ドイツアフリカ軍団は消滅した。
影響
独伊軍が一掃された事で、北アフリカには膨大な数の連合軍が席巻。地中海を挟んで対岸にあるイタリアは敵の大戦力を相対する形となり、連合軍の次なる標的はイタリア本国に定められた。また北アフリカ戦線の終結は遠く離れた同盟国・大日本帝國にも影響を与え、セイロン沖海戦以降気にする必要が無かったインド洋方面にも注意を向けなくてはならなくなった。
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関連項目
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