「北条氏綱」(ほうじょう・うじつな 1487 ~ 1541)とは、戦国時代の関東の雄・後北条氏の二代目である。
家臣団の編成や画期的な領国支配を行って後北条氏発展の礎を築いた武将として「北条記」において、
「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」
と高い評価を受けている知将である。
しかし、学問としての歴史においては父・北条早雲に、歴史SLGでは子・北条氏康にいいところをもっていかれて影が薄く目立たない二代目の悲哀に埋もれている事に定評のある関東ドリームチームの一人。
今川家臣時代
長享元年(1487)、父・伊勢盛時(or長氏)が9代将軍・足利義尚の奉公衆に任命される。
姉・北川殿の子・今川龍王丸(元服して氏親)に当主代行・小鹿範満が家督を譲らないため下向した盛時は石脇城(焼津市)で集めた兵を率いて駿河館を急襲し小鹿範満を討ち取った。
その功で与えられた興国寺城で生まれたのが嫡男・伊豆千代丸(後の氏綱)である。
一般的なイメージと違い伊勢盛時(1491年に出家して早雲庵宗瑞)は後半生を今川氏親の武将として過ごした。今川氏親の叔父として辣腕を振るった宗瑞は氏親の名代を務め今川軍の大将として松平・武田・上杉らと戦い今川家を遠江から相模に至る大大名に成長させたが1519年に死去してしまう。
ここで問題になったのが伊勢氏の地位についてであり、早雲は駿河・遠江の守護代として国人や今川家臣団の利害を代表しており大名権力の増強を望む氏親は早雲の死と同時に国人の被官化と家臣団の統制を始めようとした。戦国大名への脱皮を狙っていた氏親は1509年から駿河以西での大将を務めるようになり相模以東での戦いを早雲が指揮していた。そのため早雲の権力基盤は駿河・遠江から晩年には伊豆・相模へと移っていくことになった。
1518年に早雲が隠居すると氏綱と氏親はそれぞれ相模と遠江で検地を行い支配力の強化に乗り出した。更に氏綱は虎の印判状の使用を開始し氏綱の命令状なく代官らが税を徴収出来ないようにすることで直接支配を強めていく。
ここに到って氏親と氏綱は協議を行い氏綱が駿河・遠江から手を引く代わりに氏親は氏綱を相模に分国して伊豆・相模の独立勢力とすることで合意した。氏親は今川氏の戦国大名化を推し進めたが早雲の隠居からわずか8年後の1526年に病に倒れ若年の嫡子・氏輝に今川仮名目録を残して病没した。
戦国大名として
父・早雲の居城であった韮山城から自身の在番する小田原城を本城に変え1523年、今川家臣・伊勢氏綱から戦国大名・北条氏綱へと改名を行って後北条家が誕生した。
「相州太守」を自称して寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿・相模六所宮・伊豆山権現の再建など寺社造営事業を盛んに行い、朝廷から北条姓を名乗る許しと北条義時・泰時が任じられた左京大夫を与えられ今川・武田・上杉らと劣らぬ家格を手に入れた。
初期には早雲の外交方針を受け継ぎ足利義明を盟主として下総・上総・房州に広がる反古河公方連合を支援して出兵を行った。その後、武蔵の攻略に乗り出した氏綱は高縄原の戦いで扇谷上杉軍を撃破し祖父・太田道灌の殺害を恨んでいた太田資高を調略して江戸城を奪取、太田資頼の寝返りにより岩付城を落城させ更に蕨城・毛呂城などを陥落させる。窮地に陥った扇谷上杉朝興は足利高基と和睦し山内上杉憲房・武田信虎と同盟して反撃に出た。武田信虎の攻撃を受けた岩付城主・太田資頼がすぐさま降伏して上杉朝興に帰参したため毛呂城を引き渡していったんの和睦を強いられた。
1525年、再び岩付城を落城させたが古河公方・反古河公方連合が上杉朝興と同盟して氏綱包囲網を結成し両上杉・武田・古河公方連合により武蔵の諸城が奪還され、反古河公方連合の中核である里見義豊が鎌倉を襲撃し鶴岡八幡宮を焼き払った。そこで氏綱は里見実尭・正木時綱を支援して義豊の排除を図る。察知した義豊により実尭・時綱が粛清されるも怒った里見義尭(実尭の子)・正木時茂(時綱の子)によるクーデターを支援して義豊の追放に成功した。以前は鶴岡八幡宮若宮の別当を務めていた足利義明は八幡宮を焼いた義豊を嫌い連合の有力者・真里谷恕鑑に氏綱との和睦を打診したが恕鑑はこれを拒絶して義豊を支援した。
そのため真里谷家中は親北条派と反北条派に分裂し1534年、恕鑑の死により親北条派の信隆が当主となるが真里谷家が氏綱への従属を強めていくと1537年、反北条派の信応が義明の支援を得て当主の座を奪い、反北条派に鞍替えした里見義尭に襲われた信隆が武蔵に落ち延びるという事件が起こった(上総錯乱)。
氏綱は今川氏親との協議の際、氏親の娘(瑞渓院)を嫡男・氏康の正室に迎えることで同盟を結んでいた。
今川氏輝の代になると家臣団・被官・一門衆による合議政治が行われて大名権力が弱体化しており、三河を統一せんとする若き天才・松平清康の侵攻、北遠江最大勢力の国人・天野氏の独立などが相次いでいた。1935年8月、駿河・甲斐国境の万沢に武田信虎が侵攻して合戦が起こると氏綱は籠坂峠を越えて甲斐に侵入し小山田氏・勝沼氏からなる武田軍を壊滅させた。
しかし、1536年3月17日に今川氏輝と病弱な兄の後継的な立場であった今川彦五郎が謎の急死を遂げたため出家していた3男の玄広恵探(今川良真)と4男の栴岳承芳(今川義元)の間で花倉の乱が起こる。氏綱は氏輝の実弟にあたる承芳を支持していたがかつて早雲や氏親の副将を務めて親交のあった福島正成が玄広恵探派の中核であったため両者の調停を望んでいた。この姿勢に憤慨した承芳は乱に勝利して今川義元を名乗り始めてすぐに武田信虎と同盟しその娘・定恵院を妻に迎えた。氏綱包囲網の一角を担う武田家と同盟を結んだ義元に憤慨した氏綱は相駿同盟を破棄して、名目上だけとは言え今川家から分国されていた北条家は完全な独立大名となり今川領への侵攻を開始した(河東の乱)。駿河東部を占領した氏綱は義元・信虎の軍を抑え遠江の堀越氏・井伊氏と同盟し、福島正成の子を北条綱成として一門に迎えるなど東海地方にも影響力を及ぼすようになった。
1537年、上杉朝興が病死すると河越城を陥落させ翌年には下総南部の葛西城を落城させた。古河公方・足利晴氏は北条家を使って反古河公方連合および盟主である小弓公方を討伐しようと企図して氏綱に「小弓御退治」を命令した。
1538年、扇谷上杉朝定の要請を受けた足利義明は遂に決戦を行う決意を固めて葛西城に向け里見義尭・真里谷信応らと共に行軍を開始。氏綱はこれを葛西城の目前にある国府台で迎え撃って義明を討ち取った。(第1次国府台合戦)。里見義尭は渡河中の北条軍を攻撃するという策を却下されたため北条軍の挟撃に備えるとの名目で軍を動かし被害を免れた。第1次国府台合戦の結果、小弓公方は滅亡し信隆が真里谷家当主となるも両家の勢力は里見義尭が吸収していくことになる。
小弓公方退治を賞して足利晴氏は氏綱を関東管領に任じた。関東管領は室町幕府から任じられるので正式なものではないが、関東各地に古河公方支持者がおり北条家が古河公方から権威を授けられたことは守旧派の勢力にとって衝撃的な出来事で「他国の逆徒」と罵られていた状態から北条家が関東に浸透していく力となったのみならず、幕府と今川家の権威を後ろ盾にしていた状態から古河公方の権威を後ろ盾とするように政策が変化していく契機にもなった。
1532年から里見義豊に焼かれた鶴岡八幡宮の造営を開始し関東の諸勢力の支援を受けつつ1540年に上宮正殿が完成。氏綱はじめ北条一門臨席のもと大規模な落慶式を催した。
1541年7月19日、氏綱包囲網を形成した両上杉・今川・武田・里見との戦いを終えぬまま死去した。
※北条氏綱のおもな政治的実績
- 父・北条早雲の代まで行われていた豪族による連合体制を修正して治外法権をなくし、後北条氏への権力集中を行った。
- 代替わり検地を発案・実行し、家臣団と領民の統制と体制の整備を行った。
- 花押(手書きのサイン)が主流の時代に「虎」「郡」「調」の印を用いて代官による不正な申告や不当な徴発を排除する「公式文書」の強化を行った。
- 評定衆・奉行衆を設置して有能な人材を活用しやすい組織づくりを行った。
虎の朱印
北条氏綱が使用した朱印は、その後80年程に渡って代々の後北条氏当主が使用したが、その印には
禄寿応隠 (意味:人民よ皆平和に暮らそう)
と掘られておいた。
この印を用いる事で公式文書を確立して悪代官による悪政を排除する等、領民との間に友好関係を築いた。これが戦国時代でも稀にみる低い税率を維持し続けた後北条氏の農民支配の基礎となった。
氏綱の人材登用
氏綱は積極的に人材を集めまた抜擢したことで知られる。
後北条家に在地の武士などが奉公衆や評定衆として取り立てられるようにしたのが氏綱である。
特に個性的な点として若年者の才能を見抜き取り立てる例がある。
世代的にはむしろ次代・氏康と同年代であることが多く小田原征伐前後まで活躍していた者さえいる。
※取り立てられた一例
パパは心配性
関東管領上杉家や今川家・武田家との戦いに決着を見る事なく病に倒れた北条氏綱は、若い頃は鉄砲の音に驚いてひっくりかえるような小心者であった息子・北条氏康を心配して北条氏綱公御書置(五箇条の御書置)と呼ばれる自らの政治ノウハウを記した遺言状を遺して没した。享年55歳。
その後、家督を継いだ息子・北条氏康はみちがえる程たくましい武士となり、「氏康の向疵」と呼ばれる程の勇猛さを見せ付けた。
※その他「北条氏綱」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
北条氏綱公御書置
「北条氏綱公御書置」の他、「五箇条の御書置」や「五か条の訓戒」とも言われる北条氏綱から息子・北条氏康への遺言状。
※北条氏綱もまた、家督を父・北条早雲から譲り受ける際に、同様の遺訓を受け、それを忠実に守る事で後北条氏を発展させた。
その内容は、はじめに
(追而書)
其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ、不謂事なから、古人の金言名句ハ聞給ひても失念之儀あるへく候、親の言置事とあらは、心に忘れがたく可在哉と如此候、
と、心配性のパパらしく息子を持ち上げておいてから、北条氏綱自身の政事ポリシーを含んだ経営ノウハウを伝授している。
一、 |
大将によらす、諸侍迄も義を専に守るへし、義に違ひてハ、たとひ一国二国切取たりといふ共、後代の恥辱いかゝわ、天運つきはて滅亡を致すとも、義理違へましきと心得なは、末世にうしろ指をさゝるゝ恥辱ハ在間敷候、従昔天下をしろしめす上とても、一度者滅亡の期あり、人の命はわすかの間なれは、むさき心底努々有へからす、古き物語を聞ても、義を守りての滅亡と、義を捨ての栄花とハ、天地各別にて候、大将の心底慥於如斯者、諸侍義理を思ハん、其上無道の働にて利を得たる者、天罰終に遁れ難し、 |
【要約】 大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。 |
|
一、 |
侍中より地下人百姓等に至迄、何も不便に可被存候、惣別人に捨りたる者ハ これなく候、器量・骨柄・弁舌・才覚人にすくれて、然も又道に達し、あつはれ能侍と見る処、思ひの外武勇無調法之者あり、又何事も無案内にて、人のゆるしたるうつけ者に、於武道者、剛強の働する者、必ある事也、たとひ片輪なる者なり共、用ひ様にて重宝になる事多ケれハ、其外ハすたりたる者ハ、一人もあるましき也、その者の役立処を召遣、役ニたゝさる処を不遣候而、何れをも用に立候を、能大将と申なり、此者ハ一向の役ニたゝさるうつけ者よと見かぎりはて候事ハ、大将の心にハ浅ましく、せはき心なり、一国共持大将の下々者、善人悪人如何程かあらん、うつけ者とても、罪科無之内にハ刑罰を加へ難し、侍中に我身は大将の御見限り被成候と存候得者、いさミの心なく、誠のうつけ者となりて役ニたゝす、大将はいかなる者をも不便に思召候と、諸人にあまねくしらせ度事也、皆々役ニたてんも立間敷も、大将の心にあり、上代とても賢人ハ稀なる者なれハ、末世には猶以あるましき也、大将にも十分の人はなけれハ、見あやまり聞あやまり、いか程かあら ん、たとヘハ能一番興行するに、大夫に笛を吹かせ、鼓打に舞ハせてハ、見 物なりかたし、大夫に舞ハせ、笛・鼓それゝゝに申付なは、其人をもかへす、同役者ニて能一番成就す、国持大将の侍を召遣候事、又如此候、罪科在之輩ハ、各別小身衆者、可有用捨事歟、 |
【要約】 武士から農民にいたるまで、全ての民を慈しむこと。必要のない民などいないからである。 |
|
一、 |
侍者驕らす諂らハす、其身の分限を守をよしとす、たとへは五百貫の分限にて千貫の真似をする者ハ、多分ハこれ手苦労者なり、其故は、人の分限ハ天よりふるにあらす、地より沸にあらす、知行損亡の事あり、軍役おほき年あり、火事に逢者あり、親類眷属多き者あり、此内一色にても、其身にふり来りなは、千貫の分限者、九百貫にも八百貫にもならん、然るにケ様の者ハ、 百姓に無理なる役儀を懸るか、商買之利潤か町人を迷惑さするか、博奕上手にて勝とるか、如何様にも出所あるへき也、此者出頭人に音物を遣し、能々手苦労を致すニ付、家老も目かくれ、是こそ忠節人よとほむれは、大将も五百貫の所領にて千貫の侍を召遣候と目見せよく成申候、左候得ハ、家中加様の風儀を、大将ハ御数寄候とて、華麗を好ミ、何とそ大身のまねをせむとする故、借銀かさなり、内証次第につまり、町人百姓をたおし、後者博奕を心によせ候、さもなき輩ハ、衣裳麁相なれハ、此度の出仕ハ如何、人馬小勢にて見苦敷けれは、此度の御供ハ如何、大将の思召も、傍輩の見聞も、何とかと思へとも、町人百姓をたおし候事も、商賈の利潤も、博奕の勝負も無調法なれハ是非なし、虚病を構へ不罷出候、左候得者、出仕の侍次第々々にすくなく、地下百姓も相応に華麗を好ミ、其上侍中にたおされ、家を明、田畠を捨て、他国へにけ走り、残る百姓ハ、何事そあれかし、給人に思ひしらせんとたくむ故、国中悉貧にして、大将の鉾先よハし、当時上杉殿の家中の風儀如此候、能々心得らるへし、或ハ他人の財を請取、或ハ親類縁者すくなく、又ハ天然の福人もありときく、加様之輩ハ、五百貫にても、六七百貫のまねハなるへき也、千貫の真似ハ、手苦労なくてハ覚束なし、乍去これ等も分限を守りたるよりハおとり也と存せらるへし、貧なる者まねをせは、又々件の風儀になるへけれは也、 |
【要約】 決して驕らず、またへつらわずに、身にあった分限を守ること。 |
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一、 |
万事倹約を守るへし、華麗を好む時ハ、下民を貪らされハ、出る所なし、倹約を守る時ハ、下民を痛めす、侍中より地下人百姓迄も富貴也、国中富貴なる時ハ、大将の鉾先つよくして、合戦の勝利疑ひなし、亡父入道殿ハ、小身より天性の福人と世間に申候、さこそ天道の冥加にて可在之候得共、第一ハ倹約を守り、華麗を好ミ給ハさる故也、惣別侍ハ古風なるをよしとす、当世風を好ハ、多分ハ是軽薄者也と常々申させ給ぬ、 |
【要約】 倹約に勤めて重視すべし。 |
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一、 |
手際なる合戦ニて夥敷勝利を得て後、驕の心出来し、敵を侮り、或ハ不行儀なる事必ある事也、可慎々々、如斯候而滅亡の家、古より多し、此心万事にわたるそ、勝て甲の緒をしめよといふ事、忘れ給ふへからす、右、堅於被相守者、可為当家繁昌者也、 |
【要約】 勝利はほどほどにせよ。勝利し続けると、自らに驕り、敵を侮ることがあるからである。 |
関連動画
補足
天道では評価され、政治が北条氏康(107)を抜いて全武将で最も高い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | |||
覇王伝 | 采配 | 90 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 65 | 政治 | 81 | 野望 | 72 | ||||
天翔記 | 戦才 | 162(A) | 智才 | 148(B) | 政才 | 178(A) | 魅力 | 90 | 野望 | 80 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 87 | 智謀 | 92 | 政治 | 93 | 野望 | 93 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 74 | 知略 | 81 | 政治 | 83 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 92 | 武勇 | 72 | 知略 | 84 | 政治 | 110 | ||||||
創造 | 統率 | 94 | 武勇 | 82 | 知略 | 93 | 政治 | 92 |
戦国大戦
「北条の名の下、結束せよ!」
Ver2.0で参戦。Ver2.0時点では北条家2枚目となる3コスト騎馬隊。
名君の名に恥じぬ武力8統率10で伏兵・魅力・制圧と特技3つ。
なおVer2.0時点で後北条家5代のうち初代の早雲以外は全員がカード化されたことになる(北条氏直も参戦した)。
ちなみに氏綱だけRで他は全てSRである(氏康はRもあるが)。
計略の「難攻不落」は北条家の味方の武力によるダメージを軽減する大名采配。 武力は上がらない。
さらに騎馬隊が突撃準備状態の場合効果が更に上がる。まあ言ってみれば白備えの采配みたいなもの。
迎撃ダメージも軽減されるので、事故を防ぐ意味の使用も可。効果時間も長め。
敵部隊との武力差が5程度(相手が大名采配を打ってきたくらい)ならば余裕で耐えきる。更に突撃オーラを纏っている騎馬なら毘天の化身中の謙信の突撃すら2割程度のダメージで済む(普通は武力にもよるが7割くらい吹っ飛ぶ)。相手の攻撃を凌ぐ事に特化した計略である。
とは言え武力が上がらないので殲滅に打つ計略ではなく、更に本人は3コスト使って武力8という低さなので、デッキ編成の研究が待たれる。 武力押しではないデッキ相手ならば中々の活躍が見込まれる。
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関連項目
- 影の薄い二代目
- 後北条氏
- 北条早雲(伊勢新九郎/伊勢盛時/伊勢宗端)
- 北条氏康
- 北条氏政
- 北条氏直
- 北条幻庵
- 北条綱成
- 上杉憲政
- 上杉朝定
- 里見義尭
- 上杉謙信
- 武田信玄
- 小田原城
- 江戸城
- 河越城
- 戦国時代の人物の一覧
- 替え歌歴史シリーズ
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
- ゼルダの伝説
- トライフォース
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