北条氏邦(ほうじょう・うじくに 1541 ~ 1597)とは、関東の戦国武将である。北条氏康の四男で、藤田氏を継いで藤田氏邦と名乗った。
概要
関東に覇を唱えた戦国武将・後北条氏の一族。3代当主北条氏康の四男で、4代当主北条氏政の同母弟。通称は安房守。なお当時の名乗りはすべて藤田姓で、北条と称した記録は残っていない。
武蔵国人・藤田康邦(藤田重利)の婿養子となり、以降北関東(主に上野方面)の軍事を担当した。武田・上杉との戦いで多くの功を挙げたが、沼田を巡っては真田昌幸に翻弄された。
生涯
北条氏の勢力拡大の一環として婿養子として送り込まれ、次兄・北条氏照は大石氏を、氏邦は藤田氏を継いだ。ともに武蔵に勢力を張る豪族である。だが成人後の氏邦は本来の藤田一族を次々と葬り、御家を乗っ取ってしまった。
これが原因で、のちに一族の生き残り・藤田信吉が沼田城ごと寝返ってしまう。
1564年より武蔵・鉢形城を本拠地とした。氏邦の家臣団は鉢形衆と呼ばれる。北関東の支配を巡って武田信玄や上杉謙信と激しく争いながら、上野へと勢力を拡大していく。
信玄・謙信亡き後、御館の乱では越後に出兵するも冬の訪れに撤退を余儀なくされ、弟・上杉景虎は敗死してしまった。この直後に信吉が寝返り、沼田城を武田に奪われる。
やがて武田氏は織田軍の前に滅亡し、上野の大部分は滝川一益の支配下に入った。だが本能寺の変が起こったことで状況は一変し、神流川の戦いで滝川に大勝すると、その勢いで上野の諸城を取り戻した。天正壬午の乱でも活躍。
しかしこの結果、沼田城の領有を巡って真田昌幸との対立が生じた[1]。譲渡に応じない真田に対して何度も実力行使に動いたが、沼田の守護神・矢沢頼綱の前にことごとく粉砕されてしまう。
最終的に豊臣秀吉の裁定によって沼田城は明け渡されたが、支城の名胡桃城は真田領として残された。名胡桃城は元々武田が沼田城を奪うために建てた城であり、これが相手に残るのは北条にとっては厄介でしかなかった。この結果、鉢形衆のひとり猪俣邦憲[2]が名胡桃城を占領する事件が起こる。
これが惣無事令違反とされ、小田原征伐へと繋がっていくのだが……のちの軍記物では猪俣の独断とされる事が多いが、猪俣が北条家中で処分された形跡もないので、氏邦ら豊臣政権に反感を持つ者たちの差し金ではないかとも言われる。
小田原征伐が始まるとまずは小田原城に入ったが、籠城策に反対して鉢形城へと戻った。そうこうしている間に上野の諸城は簡単に落とされ、鉢形には前田利家らが率いる35000の軍が迫る[3]。対する氏邦は3000の兵で籠城するが、1ヶ月の攻防の末に降伏した。
対豊臣タカ派の氏邦だったが、前田利家が助命嘆願を行ったことで命は許された。戦後は能登で暮らし、1597年に57歳で死去。末子・庄三郎が前田慶次の娘を娶って前田家に仕えたが、その息子の代で断絶したという。
関連項目
脚注
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