概要
天保13年(1842年)土佐国安芸郡和食村の庄屋に生まれる。別名菅野覚兵衛。
文久元年(1861年)、土佐勤王党に加盟。
文久2年(1862年)、山内容堂警護を名目とした50人組に参加して江戸に赴く。
文久3年(1863年)江戸滞在時に望月亀弥太、高松太郎らと共にに勝海舟の門人になる。
12月、藩命で帰国を命じられたが坂本龍馬らと脱藩。引き続き勝の私塾に留まり、元治元年(1864年)5月に開設した神戸海軍操練所に入所。
元治元年(1864年)11月、勝が罷免され失脚すると近藤長次郎、新宮馬之助、高松太郎と薩摩藩邸に匿われ鹿児島に渡海。社中(亀山社中)の初期メンバーになる。第二次長州征伐にて乙丑丸(ユニオン号)の船将を努めている。
慶応3年(1867年)4月、社中が海援隊に改称されてからも引き続き在籍し、海援隊の業務に携わる。
坂本の死後その遺言に従いお龍の妹である君枝と結婚し、お龍の面倒を見た。
明治2年(1869年)、白峰駿馬と共に米国に留学して6年後に帰国。帰国後は海軍に出仕して少佐に昇進したが、西南戦争勃発のきっかけになった弾薬庫の略奪事件に関わり、以後出世の道を閉ざされる。
辞職後、福島県に入植して開拓事業に参加したが明治26年(1893年)に志半ばで病死。享年52。
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