「危険厨」とは、日常におけるさまざまなアクシデントに対し、度を越えて反応すること。またはそうした反応を見せる人のことである。
概要
一般的な定義
人間が営みを行うに際して、その日常から全ての危険性を排除することは不可能である。病気、怪我、事故、犯罪などと言ったネガティブなアクシデントは何時、どこから降りかかって来るか分からず、そのため何らかの事柄に対して、常に「これは本当に安全なのだろうか?」と疑念を持っている人は多い。
しかしそうしたごく一般的な不審の念を越えて、何らかの事柄に対してあまりにも極端な嫌悪の情を見せる人が時折存在している。彼らはしばしば「それは考えすぎではないか」との周囲の声を無視し、それではコミュニケーションが断ち切れてしまいかねない可能性があるにも関わらず「あなたたちこそ分っていない」と安易に反論する傾向を持っている。
一度コミュニケーションが途切れると、彼らはそれを幸いとして自らの価値観の中に没入し、更には発展させて時に世間とは、時に事実とは、時に科学的知見とは相容れない主張に固執するようになる。そのため一般の人からは、自らの主張を絶対のものとして他の全てを否定的に捉え振舞う人を指すネットスラング「厨房」の一種と看做されるようになってしまう。
そのように、自身や知人の生命、財産に対して危険が及ぶことを恐れるあまり、極度に酷い言動を見せるようになった人物のことは、一般に「危険厨」と呼ばれる。
実態
危険厨の人々の主張には、一般にあまり科学的とは言えないものが目立つ。しかし部分的には真実問題とすべき点を指摘していたり、様々な調査、資料集めなどについても見事と言うべき腕前を振るうことも意外なほど多い。そのため時として、この傾向の強い人の言葉が或る程度以上の支持をされることも有るとされる。
しかし、そこから導き出された分析的な結果については疑問の残る場合が多い。よく指摘される点として
- 同調性の乱用(何事も自分の考えに近ければ「正しい」、遠ければ「間違い」と判断する)
- 主観と客観の混同(自分の考えたことこそが多数派である、または論理的な事実だと誤解する)
- 自己利益の極大化(自らの心身を構成している物事が発展する、他者はその材料に過ぎぬと捉える)
- 分析力の欠如(情報の確認、考え方、発展などにミスが見られる)
これら特徴は、当然ながら危険厨のみならず他の厨房と呼ばれる人々にも見られる現象である。しかし危険厨と呼ばれる人々は、しばしば何がしかの危険を伴う事象の中に入り込み、その場を混乱させてリスクを過大化させてしまう傾向を持っている。そのため他者に現実的な不利益を必要以上に負わせてしまう可能性の大きい、数ある「厨房」の種類の中でもとりわけ厄介視されることの多い存在となっている。
危険厨の例
以下に、「東京電力福島第一原子力発電所事故」に対する非常に極端な反応がなされた例を示す。これは本来「東日本大震災」からの復興スローガンであった『がんばろう日本』を、「原発事故」から目をそらさせる印象操作的なスローガンであると断じた人物の記したものである。
(※次のものは、危険厨と呼ばれる多数の人々の主張に見られがちな傾向を表すための資料として付すものです。)
「がんばろう日本」とは、政府・電力会社・マスコミによる、一億総被曝キャンペーンである。
「がんばろう日本」の真の意味は「(放射性物質の被曝にどれだけ耐えられるか)がんばろう日本」である。
また「がんになろう日本」とも呼ばれる。
杜撰な安全管理により福島第一原発をメルトダウンさせた日本政府と電力会社がスポンサーとなり、マスメディアを利用して「食べて応援」などと、汚染食材の内部被曝を促進させる運動を指す。
日本国民が満遍なく被曝することによって被災地の被曝被害をぼかし、「全国と比べて被曝被害が大きいとはいえず、原発事故との因果関係は認められない」と、被曝による健康被害を訴える人間に補償金を払わない口実を作るのが目的である。
原発事故前の基準では放射性廃棄物とされ、黄色いドラム缶に入れて厳重保管しなければならないレベルの食材を、放射性物質の基準値を上げることにより「基準値以下だから安全・安心」と称して全国に拡散させている。
そして、原発事故前の基準では放射性廃棄物とされるべきものを「風評被害」という言葉を巧みに使うことによって、さも「その食材は安全」であるかのような工作も行っている。
また、「絆」という言葉を用いて、子どもの被曝を避けるために学校給食を拒否する親、汚染地帯から避難しようとする家族などに対し
「自分だけ助かりたいの?」
「絆という言葉はどうしたんだ!」
という、被曝を強いる運動も推進している。
上述の文章を読むと一見もっともらしく見えるが、それは現実に起きた原発事故の影響に誰もが一定の不安を抱えている現実を或る程度掬い取っているからである。
しかしよく見れば、「なぜ国益に反するはずの『一億総被曝』を政府、財界が推奨するのか」が全く説明されていない事実に気付くことができる。
また「『絆』の言葉が政府、財界などと関係のない場所で決められたことを(元々スローガンですらないことも)考慮に入れていない」、「一般に流通している食材が広く汚染されていると結論しながら根拠を示していない」など、数多くの疑問点を上の文章は持っている。
そもそも「どの程度の放射性物質によりどの程度の危険性が人体にもたらされるのか」も説明せずになぜそこまで強く危険を訴えられるのか? との疑問も持たざるを得ない構成となっている。
2011年に起きた巨大な原発事故については、当事者である東京電力のみならず監督官庁、政府、安易に庇い立てする財界についても実際に批判されるべき点は多いとされている。しかしそのことを自身の主張に無限適用することで、自らの思考を具体的論拠の乏しい空理空論へと閉じ込めてしまい、更には不特定多数の人を惑わす風評を作り出した人々もまた多かったことは事実である。
そのため被曝による影響のほとんど無い地域に関しても「東日本大震災」からの復興にブレーキがかけられてしまったのみならず、現実的な原発の危険性を指摘する反原発運動に強いネガティブイメージが付される原因ともなるなど、数々の弊害が生まれたとされる。
「何が安全か」そして「何が安全ではないか」をいかに正確に判断し、その線をいかに見失わないようにするか。その難問に常に向き合い続けることの重要さを忘れてしまえば、たちまち枯れ尾花の作り出した幻の幽霊に怯えるも同然な状態に陥り、広く世間に怪しい情報を発信し続ける羽目となってしまうことを私たちは忘れるべきではないだろう。
当然のことながら、原発事故以外についても何らかの危険性に対して過大な反応を見せる人は多い。2008年に中国製冷凍食品から有毒物質が発見された事件では、単に中国製というだけで全く違うメーカーの食品まで忌避された挙句、日本企業が日本国内で製造した中国とは無関係な冷凍食品までをまるで危険物であるかのように看做す空気が広まった。また1910年にハレー彗星が接近した際には、彗星の有毒物質によって地球上の生物は絶滅すると主張するものがいたため、悲観的になり過ぎて自殺者さえ出るほどの大きな騒ぎとなったことが記録されている。
「過敏」もまた「鈍感」と同様リスクをより大きくしてしまう存在である事実は、決して見逃されるべきではないだろう。
関連動画
しかし事実にのっとって危険性を訴えかける資料を見ても、間違った受け取め方をしてしまえばたちまち「危険厨」と呼ばれる状態に陥ってしまい、(原発関連に限らず)どのような主張であれ却って反対意見を持つものに有利な状況を作り出す可能性のあることに注意すべきである。
関連項目
外部リンク
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こんな「絆」はいらない 福島に漂う「逃げる」ことを許されない空気
- (危険厨と呼ばれる人々が過剰に事態を煽ることも多く、結果としてこのように対立が先鋭化してしまうなど、問題が複雑化することも有るとされる。)
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作物は安全なのに……か、それとも安全など信じられないか 2つの異なる視点
- (そもそもどのような状態を持って「安全」と認めることが出来るのか? そのことについて思慮深い考察の成された記事。)
大百科の記事
- 情報 / メディア・リテラシー
- 安全厨 / 風評被害
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