吉良頼康とは、鎌倉時代における東条吉良氏の末裔(室町時代に西条吉良氏から分立した方ではない)である武蔵吉良氏の当主である。
ここまでのあらすじ
吉良氏とは足利義氏の庶長子で、義継流(東条吉良氏)と長氏流(西条吉良氏)の二つの家があったが、こちらは義継流の方である。長氏流が越前の守護になった時期もあったのに比べ、義継流の吉良氏は具体的な事績は不明であるが、幕府からは独立した御家人として見られていた。
その転機は足利尊氏の討幕、および南北朝時代の戦乱であり、当主吉良貞家は足利尊氏に協力し、因幡・但馬の守護を歴任、さらに1345年に混乱する奥州に畠山国氏とともに奥州管領として下向したのである。しかし1349年の観応の擾乱では長氏流の吉良満義と同様に足利直義側につき、尊氏派であった畠山国氏を1351年に滅ぼしたのであった。
その混乱をついた南朝を押し返し、北朝に帰順はしたものの、奥州はもともと奥州総大将だった石塔氏の石塔義憲、国氏の息子である畠山国詮、新たに派遣されてきた斯波家兼、そのサポートできた石橋棟義と管領や総大将を称する足利一門が多数相争う状況に陥ったのである。
吉良貞家の息子・吉良満家は1354年に石塔義憲に襲われ多賀城を追われたものの、伊達家の支援と斯波家兼との連合でこれに反撃、さらには畠山国詮を二本松に追い落とすことに成功する。しかし彼の奥州での活躍はここまでで、一門の吉良治家が幕府に反し結城顕朝に討伐されたことによって威信を低下させ、以降この家系もまた奥州を没落して武蔵の蒔田と世田谷で関東公方の御一家としてその庇護下に入ったのであった。
吉良氏は少なくとも1426年ごろまでには関東に入り、公方以下渋川氏以上の御一家として畏敬を集める存在となっていた。1454年に享徳の乱がおきると、吉良成高は扇谷上杉持朝の娘をめとっていたことから関東管領派に所属、太田道灌の代わりに江戸城代を務めるなど活躍を見せるが、そこで吉良殿と呼ばれるなど依然として高い権威の持ち主だったのである。
しかしやがて吉良氏は後北条氏と接近し上杉氏の下を離脱、1530年には扇谷上杉朝興から攻撃を受けている。
御一家・吉良頼康
1530年代に北条氏綱は吉良頼康に娘を婚姻させる。このころの吉良氏は相当な財力を所有していたようで、鶴岡八幡宮の造営に材木と人夫を提供している。1540年代後半以降、北条氏康の後楯を得た吉良氏は世田谷を中心に所領支配、家臣掌握を一気に確立、展開していったようだ。
この背景には山内上杉憲政によって足利晴氏と断絶状態に陥ったため、吉良氏を公方に代わる存在として一時期擁立しようとしたともいわれている。その証拠が吉良頼康が関東公方の証である左衛門佐を名乗ったことであり、河越の戦いの勝利で足利義氏の擁立に成功したのち、吉良頼康はこの名乗りをやめたのだ。
こうして極めて重用された吉良頼康であったが、子供なくして亡くなり、後北条氏は今川氏から吉良氏朝を連れてくるのである。
武蔵吉良氏のその後
吉良氏朝は北条幻庵の娘と婚礼し、もともと後北条氏と今川氏に連なる存在だったこともあって名乗りも北条に変わっていった。しかし、決して吉良氏の持っていた権威や権力が否定されたわけではなく、後北条氏にとっては悪く言えば使える手ごまのひとつとして存在が維持されていったのである。
そして後北条氏滅亡後武蔵吉良氏は世田谷に篭居するが、やがて徳川家康に仕え、蒔田氏として遠い親戚の三河吉良氏、今川氏ともども高家として家名を存続させていくのであった。
関連項目
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