「呉明捷(ご・めいしょう)」とは、嘉義農林のエースで4番として甲子園で大活躍した台湾の麒麟児である。
概要
1912(明治45)年2月17日生まれ。台湾北部の新竹県銅羅郷老鶏隆出身。
父は、広い田畑と山林を持つ地主で裁判所の書記官を務めた人物。
苗栗第一公学校を卒業後、農業を学ぶ為に台湾南部の嘉義農林に進学。当初はテニス部に所属していたが、名門松山商業の監督を務めた近藤兵太郎にスカウトされて野球部に入部し、その才能を開花させた。
エースで4番を任された呉明捷は、上半身を思い切り捻った大きなテイクバックからのワインドアップから放たれる剛速球と、巧みな制球力を発揮したカーブ・シンカーを武器に、第17回大会予選で投打に活躍。台中第一中学戦ではノーヒットノーランを記録し、それまでの台湾では、台北一中・台北商業・台北工業といった北部の日本人中心のチームが春夏の甲子園に出場していたが、近藤兵太郎が日本人・先住民高砂族・漢民族・客家といった様々な民族の長所をとりいれた混成チームの嘉義農林が南部の学校として初めて甲子園出場を決めた。
※呉明捷と共に嘉義農林の野球部員として戦った蘇正生は、近藤兵太郎の練習は厳しかったが、民族による差別もなく強い野球を教えてくれたと後年述懐している。
列車と船を乗り継ぎ5日かけて甲子園に到着した呉明捷は、初戦の神奈川商工戦でスコア3-0被安打1で台湾勢初の完封勝利を成し遂げた。準々決勝で札幌商を19-7、準決勝で小倉工を10-2と嘉義農林自慢の猛打が爆発して退け、呉明捷自身も大会通算打率4割・三振0と活躍したが、エースとしてほぼすべての試合に登板し続けた呉明捷の指は限界を超えた。中京商(現:中京大中京)との決勝では、疲労とあわせて曲がらなくなったカーブや球速の減少による制球力の低下をおこして狙い打たれ、チームも中京商エース吉田正男に4安打完封に抑えられた事もあって0-4で破れ準優勝に終わった。
「日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」
と賛辞を送った。
嘉義農林卒業を間近に控えた時期に腸チフスを発症した為、嘉義農林卒業から1年後に早稲田大学に進学。腸チフスの影響もあってか大学野球では野手に専念し、予科・本科通じて6年の間、早稲田大学の四番ファーストを務めて首位打者に輝くと共に、宮武三郎と並ぶ7本の大学通算最多本塁打を記録。この記録は立教大学の長嶋茂雄が更新するまで20年破られる事がなかった。
当時はプロ野球よりも盛況だった大学野球のスターとなった呉明捷には、当然の如く卒業後にはプロへの誘いがあったものの、
と誘いを断り、早稲田大学卒業後は、台湾の工業化と開発のために設立された台湾拓殖株式会社に就職して東京で働いた。
太平洋戦争時には帝国海軍に入隊した弟の呉明漢が戦死し、終戦後にはGHQにより台湾拓殖が解散させられるという悲劇にみまわれるも、台湾に帰国せず台湾籍のまま日本にて生活し、砂糖の輸入や外車販売、中華料理店を営んだ。
※4人の子供達は妻の日本国籍を選ばせて、妻の姓を名のらせている。
1981年夏の甲子園大会の際、テレビの取材で決勝を投げあった吉田正男と甲子園で再会した後の1983年。日本に帰化する事なく死去。
そして2014年。呉明捷らの活躍は、「KANO~1931海の向こうの甲子園~」として台湾にて映画化された。
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