四条隆資(1292~1352)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した貴族である。
概要
後醍醐天皇の皇太子時代からの側近で、正中の変のころから彼に協力している。1327年には参議に、1330年には正三位・検非違使別当に任じられ公卿の仲間入りをした。しかしその間にも倒幕の準備を行い、南都北嶺に対して事前工作を行っている。
後醍醐天皇側近ではハト派だった吉田定房の密告によって元弘の変が明らかになると、後醍醐天皇、千種忠顕、万里小路藤房らと行動を共にする。笠置山に入った後は護良親王とともに先行し、赤坂城に天皇を迎え入れる準備をしていたところ、笠置山が陥落し天皇以下側近が捕らえられ、一人だけ幕府の探索の手から逃れ地下に潜った。
その後元弘の乱の結果宮方が勝利すると、恩賞方や雑訴決断所の筆頭として政務をとり、後醍醐天皇の寵臣として活躍していったのである。しかし足利尊氏の離反後は、宮方の一武将として各地を転戦した。
後醍醐天皇の吉野への脱出にも同行し、北畠親房とともに天皇側近として支えとなる。それは後村上天皇のもとでも同じで、幼い彼に代わり洞院実世とともに政務を行ったのである。そして四条畷の戦いの後の賀名生への還幸を進言したのも彼であった。
南朝は先の敗戦で完全にじり貧になったが、ここで観応の擾乱が起きる。足利直義の帰順の仲介、足利尊氏との正平の一統の斡旋などは四条隆資が中心に行ったようだ。
しかし1352年足利尊氏が京からいなくなった機会をとらえて、南朝軍を率いて侵攻。足利義詮を追放して京を制圧し、あとは男山八幡にいる後村上天皇を凱旋させるのみであった。しかし、足利義詮率いる北朝軍は瞬く間に反撃に転じ、楠木正儀、和田正忠らが河内に転戦して防備が手薄だった男山八幡を包囲。そこで四条隆資は後村上天皇を逃がしてから殿として活躍し、その最期を迎えるのであった。
彼の息子である四条隆俊もまた、南朝軍として活躍したが、1373年の戦いで討ち取られ、南朝方の四条家は断絶することとなった。
関連項目
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