土井利勝(1573~1644)とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将である。
概要
徳川家康の家臣団では若い世代であり、どちらかと言えば徳川秀忠の側近としておなじみの人物。大炊頭。
徳川家臣団の中では外様に位置し、そのなかでもかなり身分の低い出自だったので、その後のとんとん拍子な出世を裏付けるために、出生は様々な伝説に彩られている。水野信元の子供ともいわれるが、その中でもとくに有名なのが徳川家康の隠し子、というものであり、明治維新後の『土井家譜』などでは公式設定とされてしまった。
結局彼の出自を裏付ける資料がないためはっきりしたことは言えないが、7歳にして徳川秀忠のお付となり、関ヶ原の戦いでは一軍の総大将となっている。慶長7年(1602年)には下総小見川一万石の藩主となり、この年には従五位下として秀忠付きの宿老となった。
慶長15年(1610年)には幕府老中職となり、江戸城搦手の守護のため、佐倉城の築城を始める。大坂の陣の功績で所領は14万石に達し、家康没後に日光東照宮建設を差配するなど、初期江戸幕府の幕政の舵を取り、基礎固めをしていく。その後大名統制策の一環としてか、土井利勝は土木建築を指揮していき、上野寛永寺、芝浦上寺などを建立していく一方で、江戸城の拡張工事なども行っていく。
その後、加藤忠広改易や徳川忠長の処分にも関わったとされる土井利勝であったが、寛永14年(1637年)についに病で倒れてしまう。島原の乱には病床で対応したが、寛永15年(1638年)には酒井忠世に老中が替わり、同時に徳川家光から大老の称号が与えられた。こうして引退し、養生していた土井利勝だったが、寛永16年の江戸城火災で復帰。再建工事の指揮を執る。そして 寛永20年(1643年)の李氏朝鮮からの使節への対応を最後に、翌年亡くなることとなった。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 108 | 智才 | 146 | 政才 | 172 | 魅力 | 73 | 野望 | 70 | ||||
将星録 | 戦闘 | 48 | 智謀 | 87 | 政治 | 89 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 28 | 戦闘 | 21 | 智謀 | 72 | 政治 | 84 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 10 | 智謀 | 61 | 政治 | 74 | 野望 | 54 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 10 | 知略 | 65 | 政治 | 79 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 10 | 知略 | 65 | 政治 | 78 | 教養 | 73 | ||||||
革新 | 統率 | 13 | 武勇 | 16 | 知略 | 73 | 政治 | 87 | ||||||
天道 | 統率 | 13 | 武勇 | 16 | 知略 | 73 | 政治 | 87 | ||||||
創造 | 統率 | 22 | 武勇 | 34 | 知略 | 71 | 政治 | 85 |
関連項目
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