在原行平(ありわらの ゆきひら、818~893)とは、平安時代前期の貴族・歌人である。
概要
百人一首16番の作者。
阿保親王の次男(もしくは三男)で、在原業平の兄(業平とは同母兄弟、異母兄弟のどちらだったかは不明)。
父が平城天皇の皇子であることから、場合によっては自分が天皇となってもおかしくない身分だったが、祖父・平城天皇が原因で起きた薬子の変に巻き込まれて阿保親王は失脚。天皇の系統は嵯峨天皇(平城天皇の弟)に完全に移行し、皇位係争に巻き込まれることを恐れた父によって在原氏を賜り、臣下となって生きる道を選ぶ。
歌や恋に生き、波瀾万丈の生涯を送った弟・業平とは対照的に、地方官や中央官吏を歴任するなど堅実な人生を歩んだ。藤原北家による専制が進んで、橘氏や伴氏が没落する中、政治の中核に位置し、最終的には中納言に昇進した。民政や教育に手腕を発揮し、時の関白・藤原基経に意見するだけの実力を持っていたと言われる。
855年に初めて国司の長官(守)に任じられ、因幡国に赴く。この時に詠んだ「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」が、百人一首に載せられている。この歌は、飼い猫がいなくなった時に、下の句の「まつとし聞かば~」を書いた札を置くと、飼い猫が戻ってくるとおまじないに使われた。また、この下の句はスタジオジブリ映画「かぐや姫の物語」の挿入歌にも使われている。
また、因幡国守に就任した前後には、何らかの罪で須磨に蟄居したと言われる。源氏物語の「須磨」で光源氏が須磨に退去したエピソードは、この行平の話が基になったとされる。行平の蟄居の原因は、弟・業平が藤原高子と駆け落ちしたスキャンダルに連座したという説がある一方、そもそもこの須磨退去自体、後世の創作という意見もあり、真相は不明である。室町時代に観阿弥・世阿弥親子が作った能「松風」は、この2つのエピソードを基にしている。
関連項目
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