単語記事: 坂本龍馬

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何?坂本龍馬のことが聞きたい?

ずつと昔ブン屋に話したやうな事の繰り返しになるかも知れんが、よいかノー

概要

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坂本龍馬保六年(1835年)十一月十五日に生まれた。諱を直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)と変えておる。

の生は郷士坂本。才谷屋と言ふ商から分して、わざわざ薄給の郷士身分になつた変はり者の一族だ。

長男の権とは年が二十一も離れており、このとの間に千鶴、栄、女といふ三人の姉妹がおつた。

十二歳の頃母親の幸が亡くなり、その後はの後妻である与に育てられた。

幼少期は何やら冴えない感じで、尿の癖のある洟垂れ小僧だつたらしく、この継三女女には特に厳しく躾けられた。

女は身の丈5尺8寸(176cm)、体重30貫(113kg)といふ堂々たる体格で、「坂本のお仁王様」と呼ばれる女傑だつた。

が亡くなる前後に、一度下町の塾に入門したが、上士の子と喧したのが原因でやめてしまつたため、それ以後は女から学問や剣術を習つた。

嘉永元年(1848年)、十四歳の頃に近所の小栗日根野場に通い始めてからは、人が変はつたかの如く稽古に励み、周りの者たちの見るも変はつていつた。

場へ来ては心機一変、おねしょうも、泣きも一ぺんに飛んでしもうた。
はまっ先に、夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、おもしろうてたまらん。
そんな気持ちでなんぼでもやる。
坂本もうよかろう』というと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる」
(詰延寿『坂本龍馬師匠』)

嘉永六年(1853年)、十九歳の時に日根野場にて「小栗流和兵法事録」を授けられると、更なる剣術修行をめて江戸へ行く事になつた。

さて、嘉永六年といふと何の年か分かるかね?まあその辺は追々、といつてもすぐ話す事になるだらうヨ。

注 誕生日11月15日と断定しているが確定ではないことに注意。

黒船来航

日根野場で録を得た後、は土佐庁から十五ヶの修行期間を認められて、剣術修行の為江戸に赴いた。着いたのは四月もしくは五月と言はれておる。

江戸では北流の千葉場に通つていたが、六月亜米利加の艦隊が江戸湾にやつて来て世情が騒々しくなつてきた。この時は土佐の警備隊として出動していて、船が去つた後、九月十三日付で実家手紙を書いている。

一筆啓上仕り
気次第に相増し処、々御機嫌(よく)御座成らせらる可く、出度千万存じ奉り
次に私儀異に相暮申し 御休心成下らる可く
御許にアメリカ沙汰申し上げに付、御覧成らせらる可く
先ずは急用御座候に付、書乱書御推覧成らせらる可く
船御手宛の儀は先ず免ぜられが、来は又人数に加わり申す可く在じ奉り

  恐惶謹言
  
 九月廿三日

 尊様御
御状下せられ、有難き次第に在じ奉り
金子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候
船処々に来りへば、軍も近き内と在じ奉り
其節は異の首を打取り、帰仕る可く かしく
(『嘉永六年九月十三坂本直足宛 坂本龍馬書状』)

「異人の首を打ち取る」など随分勇ましい事を書いておるノー。後年のからは一寸想像が付かないが、あのご時世ぢやこのぐらいの気概はあつて然るべきだらうヨ。実際にやるかだうかは別だがノー

この後十二月に西洋砲術を学ぶ為、佐久間山の塾に入門しておる。この佐久間と言ふのは奇妙な顔つきをしたちよこちよこした男でノー。学識に任せて相手を脅しつけるやうなところがあるから、もこの男に習ひ事をするのは苦労したんぢやないかネ。

高知にて

嘉永七年(1854年)六月は一旦修行を終えて土佐に戻つた。戻るとすぐに高知下有数の知識人と評判だつた河田と言ふ変はり者と面会し、時勢をり合つている。好奇心が強かつたのだらう。

「時態の事にて君の意見必ずあるべし、聞きたし」

が問ふと河田

「如何ともして、一艘の外船を買いめ、同志の者を募り之に附乗せしめ、東西往来の客官私の荷物等を運搬し、以って通便を要するを商用として船中の入費を賄い、上に練習すれば、航の一端も心得べき小口も立べきや」

と答えた。この答えには手を打つて喜び、は船の購入を、河田は有志となる人材の確保をお互いに約束した。実際河田子である近藤長次郎長岡謙吉新宮馬之助など、後に援隊の同志となる人材がの下に集まつていく事になる。

しかし、この時分から既に蒸気船を利用した貿易をす志を持つていたなら、やはり夫ではあるマイよ。

再び江戸へ

安政三年(1856年)七月、二十二歳になつたは再び江戸に向かい、以前通つていた千葉場で再度剣術修行に励んでいる。安政五年(1858年)の正月には『北流長兵法録』を授かつた。もなかなかのものだつたやうだ。

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千葉周作、定吉、重太郎に混じつて女性の名前のあるのが分かるだらう。これはたつての願いといふ事で師である定吉が書き加えたものだ。定吉も満更でもなかつたやうで、名前の載つている佐那の言によると、自分との縁組のため実家手紙を書いたりしていたさうだ。

…何?が授かつたのはではなく薙刀録ではないか?

確かにその通り。だが、前述の佐那の言として「さんを塾頭に任じ、北録を授けました」といふのもあるからノー。単に現存していないだけ、といふことも有り得る。マアそんな詮索は福沢みたいな学者に任せておけばイイサ。

安政五年(1858年)九月に帰郷してからしばらくの間はこれといつて立つ活動はない。土佐に来た水戸過激派に呼び出されて応対したことくらいしか記録に残つていないやうだ。

の活動についての記録が再び確認できるのは文久元年(1861年)、土佐勤王党の結成まで待つ必要がある。

注 平成27年(2015年)、薙刀以外に『北流兵法皆伝』を取得していたことを示す文書が見つかったと報道された。リンク参照。

土佐勤王党

この一年前、即ち安政七年(1860年)の三月三日、江戸で大事変が起きた。いはゆる桜田門外の変だ。井掃部守が登中に水戸薩摩の浪士に暗殺され内騒然、各地の血気盛んな浪士達も触発されて鬨のを上げ始めた。

おれはこの頃亜米利加に渡つていたんだが、帰して賀に上陸した途端いきなり幕吏が現れて「水戸の者はいるか」などと聞くから「亜米利加には水戸人は一人も居ないから直ぐ帰れ」と冷やかしてやつたよ。しかし、桜田の変について聞いた時分には幕府はとても駄だと思つたサ。

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武市半平

さてだが、この年土佐ではその後の政局に関はる出来事が起こつている。土佐勤王党の発足だ。首領は武市瑞山、通称武市半平太といふ男だ。この者は江戸場で剣術師範を勤めたほどの達人で、土佐でも剣術場を宰しており、土佐郷士達から多いに人望を集めていた。またの友人でもありお互いに「武市アゴ」「のアザ」と呼び合うくらい仲がよかつたといふことだ。

その武市が郷士達を糾合して文久元年(1861年)の八月に結成したのが土佐勤王党だ。総勢190名以上が血判し、土佐内の一大勢を形成した。はこの血盟書の九番に署名している。

勤王党に加盟した十月十一日に讃岐の丸剣術修行に出向いている。土佐郷士・樋口慎吉の日記『遣倦録』にある「坂飛騰」といふやつだ。その後、長州の久坂玄瑞と面会するため萩に向かつた。讃岐に赴いたのは表向きの理由は剣術修行だつたが、的は各地の情勢視察と武市の書状を久坂に届けることだつたやうだ。萩に着いたのが翌年の正月十四日と久坂の日記『江日乗』にある。

度、坂本君御出浮在らせらく御談合仕り頃、委曲御聞取り願い奉り。竟に諸恃むに足らず、卿恃むに足らず、莽志士糾合義挙の外には迚も策之き事と私共同志中申し合い居り事に御座候。失敬乍ら、尊も弊も滅亡しても大義なれば苦しからず」

(久坂玄瑞『江日乗』)

越な尊攘論者で知られる久坂と話し合い、何か思ふところがあつたのかも知らん。この後は土佐に戻り脱することになる。

脱藩

文久二年(1862年)二月末、高知に帰還した。その頃地元では武市が参政・吉田東洋に対して盛んに勤王論を建していたが、吉田は書生論として取り合はなかつた。そこで吉田を暗殺しやうといふ動きが勤王党で持ち上がつてきた。そして三月廿四日、は土佐を離れ、脱浪人と相成つた。

何故が脱といふ思い切つた行動に出たのかについては諸説あるが、おれは勤王党の過な路線に違和感を感じたんぢやないかと思ふヨ。古今暗殺で大業を成す者はおらんからネー。

因みにこの時の有名な逸話で、の権が猛反対してを隠し、次女のお栄がを授けたといふのがある。だがお栄は化年間(1844年から1847 年)、つまり脱の十五年以上も前に亡くなつていることが分かつている。おそらく後世に誤つた伝承が伝えられたのだらう。

話を戻す。その後の経路だが先に脱していた沢村惣之丞といふ男がを迎えに来て瀬戸内を渡り、廿九日に下関に到着。商・白石正一郎の屋敷に泊まつてから九州に向かい、薩摩に入ろうとしたが入できなかつたため、断念して大坂に向つたと伝はる。「伝はる」といふのは、この時期のの足取りには確かな拠がなく、伝聞に基づく説に頼らざるをえないのだ。

確実なの動静が確認されるのは七月樋口慎吉の日記に「と会つて一両を贈つた」とある記述がそうだ。

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樋口はこの時分大坂に居たから大坂に居たのだらう。

続いて九月、土佐郷士の間崎滄浪江戸滞在中に書いた書状の中に登場する。七月から九月までの間に江戸に移動していたやうだ。この後また京都江戸を行き来している。

十一月、今度は久坂玄瑞の日記に現れる。日付は十一月十二日で、久坂の他高杉晋作武市瑞山が居合はせてを飲んだとある。中々愉快な面子ぢやないか。

十二月五日、今度は大胆にも越前の元を訪れている。これには間崎滄浪近藤長次郎も同行していたやうだ。この時大坂防策について意見を述べた後、おれへの紹介状を書いてくれと頼んだ。そして十二月廿九日、文久二年の大晦日はおれの元を訪れたワケだ。

注 坂本龍馬の理由をっているが、これはあくまでも仮説の1つと見た方がいい。

勝麟太郎

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この時千葉場の若先生こと千葉太郎を伴つてやつて来た。らはおれをりに来たんだが、おれは笑つて受けながら鎖国の非と開の是なる事、軍の必要性と詳細な軍創設計画を聞かせて説き伏せた。するとは、もしおれの説いかんによつてはおれを刺そうと思つたが、その説を聞いて自らの固陋を恥じ、これよりおれの門下生になりたいと言つたのサ。

…何やら不さうだが。何か聞きたいことでもあるかエ?

…ヘー。には初めから殺意などく、おれに子入りするために面会しに来た、と言ふ説があるのか。更に初対面は廿九日ではなく九日だつたのではないか、と。

なるほど確かに文久二年十二月のおれの日記にはかうある。

、有志両三輩来訪、形勢の議論有り」(十二月九日)

(勝舟『日記』)

この有志両三輩の内の一人がではないかと言ふことか。さう言えば廿九日に会つた場所は兵庫だつたかも知れんノー。忘れてしまつたワイ碌しとるからノー。往時茫々夢のごとくだ。

だが確かに憶えている事はある。あいつは落ち着いて、何となく冒しがたい威権があつて、よい男だつたよ。

勝に弟子入り

さてもさても、人間の一世はがてんの行かぬは元よりのこと、運の悪いものは風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。それとべては私などは運が強く、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、自分で死のうと思うてもまた生きねばならんことになり、今にては日本第一の人物勝憐太郎殿という人の子になり、日々思いつくところを精といたしおり。其故に私四十歳になる頃まではウチには帰らんように致し申つもりにて、兄さんにも相談致し所、この頃は大いにご機嫌よろしくなり、そのお許しがいでのため下のためを尽くしおりもうし。どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ

三月廿

御つきあいの人にも極御心安き人には内々見せ かしこ

(『文久三年三月廿日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

おれのところに来てから四ヶほど後に女宛てに書いた手紙だ。実に生き生きして楽し気だ。「日本第一の人物」だつてサ、アハゝゝ。

話は少し遡る。おれの門人になつた大坂に向かつた。この時分おれは軍奉行並として幕府のみならず諸有志も含めた一大共有の局をす事に苦心していて、その為の根回しをしていた。もその活動に付き合はせたのサ。

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山内容堂

文久三年(1863年)一月大阪を経て兵庫に居たおれのところにやつて来たは、土佐同志を何人かおれの門人として入門させた。の甥である高松太郎菅野兵衛、この時分は千屋寅之助と名乗つていたつけ。それに望月亀弥太。この三人はみな土佐勤王党の参加者で、土佐庁から軍修行を命じられていたこともあつて、おれの元で修行することになつた。

帰府する時はもおれと一緒に幕府の軍艦順動丸に同船した。その帰途、下田に入港した際、土佐山内容堂が停泊していた。ちやうど良い機会だつたので、容堂に会つてら脱者の赦免を願うことにした。容堂宕、襟懐落、英雄の資質を備えたお方で、や書画にも通しておられた。おれが直談判して、容堂が赦免のとして瓢箪の絵を描き「酔侯」と記した扇を頂いたのがこの時だ。

江戸に戻ると昭徳路で京都に向かう計画が持ち上がつていて、一月廿三日にが順丸で出帆、もこれに同行した。

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大久保一翁

大阪に着いた二月廿二日に京都の土佐邸に出向いて三日後の廿五日に脱の罪を正式に免じられた。三月六日には土佐庁から航術の修行が命じられている。そんな中書いたのが先の手紙だ。

は再度江戸に戻り、沢村惣之丞他数人を引き連れて四月の初め頃に大久保一翁と面会している。

この面会で一翁は沢村を「大解すべき人」と判断して「素意の趣」をつたところ、両人は手を打つばかりに解した、と横井小楠宛の手紙に書いている。

「素意の趣」とは恐らく当時一翁が唱えていた政権返上論だらう。朝廷の攘夷督促を拒否出来なければ政権を返上して徳東海地方の一大名になるべきであるといふ後の大政奉還に連なる考えだ。この時の体験は後のの活動において大きな意味を持つので覚えておくとヨイ。

勝塾にて

四月廿三日、この日はおれにとつて忘れ難い日だ。大阪湾の視察にやつて来た昭徳に対しておれが軍操練所の創設を直接申し上げた。この時の将軍は昭徳、つまり第十四代将軍・徳だが、この方はまだ若年ではあつたがなかなか聡明なお方で、即決でご快諾頂いたのだ。それまでの苦労が一辺に吹き飛ぶほど嬉しかつたヨ。

操練所開設前のお立てとして軍塾を開くことにしたのだが、塾を開くのには何かと入用だつた。そこでに資援助を受けるため、越前に向かはせた。五月十六日のことだ。

頃は二の軍学者勝太郎といふ大先生門人になり、ことの外ほかかはいがられて、先ず客分のよふなものになり申

ちかきうちには大阪より十里あまりの地にて兵庫といふ所にて、おおきに軍を教え所をこしらへ、又四十間五十間もある舟をこしらへ、子どもにも四五人も諸方よりあつまり事、私初栄太郎高松太郎)なども其軍所に稽古学問いたし、時々船乗の稽古もいたし、稽古船の蒸気船をもって近々のうち土佐の方へも参り申。その節御にかかり可申

私の存じ付けは、このせつ兄上坂本権平)にもおおきに御同意なされ、それわおもしろい、やれやれと御申しの都合にてあいだ、いぜんも申通り、軍さ(いくさ)でもはじまり時はそれまでの命。

ことし命あれば私四十歳になりを、むかしいいし事を御引合なされたまへ。

すこしヱヘンかおしてひそかにおり申。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれ(徒然)にもこれあり。猶ヱヘンヱヘン。 かしこ

五月十七日 

女大姉御

右の事は、まずまずあいだがらへもすこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりにて御聞きおき。 かしこ

(『文久三年五月十七日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

「ヱヘン顔」など得意になつているワイ。おれもこの時分はヱヘン顔だつたヨ。

越前に着いたのが五月の下旬で、から千両の支援を受けることに相成つた。この越前行きの際に、後年新政府の融財政政策をる三八郎や、政治顧問をしていた横井小楠と知遇を得、なりに人脈を築いていつたのだ。

おれの塾も盛況で、さつき挙げた連中の他にも、と脱した沢村惣之丞饅頭屋こと近藤長次郎岡田以蔵といふ凄腕の客も居たつけ。岡田は刺客を撃退しておれの命を救つてくれたが、「人を殺すのを嗜んではいけない」と忠告したら、「先生それでもあの時私が居なかつたら先生の首は既に飛んで居ませう」と返されて流石のおれも一言もなかつたよ。他には紀州から来た伊達小次郎といふ腕者が居つた。後に陸奥といふ名で知られる。あれはおれが紀州から連れて来た連中のウチの一人で小利口な才子だつたよ。

塾頭カエ?塾頭はだつたよ。マア聞きたいことはおゝよそ察しがつく。「軍塾の塾頭はではなく佐藤与之助だつたのではないか」といふことだらう。答えはカンタンだ。二人とも塾頭だつたんだよ。これを見なさい。

同人義、この節順動丸乗組手足り申さず、(かたがた)乗組み申付け置き義にもこれあり、且御屋敷より修行仰せ付けられ居り四五輩は、かねて容堂様へ御直に申上げ熟達も仕り同人輩も別段奮発励致し居り、その上坂本義は塾頭申付け置き、御船手足り申さざる節は乗組ませ儀に

(『文久三年十二月六日 土佐付宛 勝舟書状』)

「これはあくまでも土佐浪士たちの筆頭がだつたと言うだけであつて、塾頭であつたことを示すものではい」だつて?ヘーさう来たか。だがおれは確かにを塾頭にしたヨ。

サアーどつちが真実か?その辺りはものの本でも読んで自分で考えて御覧。ドーダおれはずるいだらう、エ。

日本をせんたくいたし申候

ともあれ、こんなあばれものを集めて国家の進運を妨する門閥階級を打破し、大いに人材登用のを開いてやらうと思つていたのサ。

だが時勢は徐々にきな臭くなり、操練所の先行きにも陰が差し始めた。五月十日、幕府が朝廷約束した攘夷決行の日に、長州が本当に攘夷を開始したのだ。まさか本当にやるとは思つてかつたから幕府も慌てた。しかし一旦は異船を打ち払うことに成功した長州だつたがすぐ逆襲に遭つて苦に立たされることになる。

日本を今一度せんたくいたし申」といふ台詞はこの時のものだ。少々長いから全文は引用せぬ。全文が見たけりグーグルで調べるがよい。

然にになげくべき事はながとのに軍(いくさ)初り、後より六度の戦に日本甚利すくなく、あきれはてたる事は、其長州でたたかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし 又長州でたたかい申
是皆姦吏の夷人と内通いたしものにて
右の姦吏などはよほど勢もこれあり、大勢にてへども、二三の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先づ州をたもつの大本をたて、夫より江戸同志はたもと大名其余段と心を合せ、右申所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申事にいたすべくとの願にて
思付を大にもすこむる同意して、使者を内内下さるる事両度。

(『文久三年六月廿九日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

要旨は「幕吏が外と内通し、軍艦を修復して長州と争はせているのはけしからん二三の大名や江戸同志朝廷の元に集めてこの姦吏を打ち殺してしまいたい。この思いは大も頗る同意している」といふ事だ。いかに長州の攘夷が謀であろうと、外軍艦を修理してあまつさえ同じの者にけしかけるとは何事だと憤つている。この頃から幕府に代はる新しい政治体制が必要だと思い始めたのだらう。大といふのは越前の事で、当時このでは挙兵上して諸体とした新政権を立てる計画があつたやうだが、この件についてはマアそのうち別の場所でられることもあるだらう。

神戸海軍操練所

かれこれするうちに京都で政変が起きた。いはゆる文久三年八月十八日の政変といふやつだ。薩摩会津の提携によるこの政変で尊王攘夷京都から逐はれ、合体朝廷導権を握つた。土佐でも勤王党関係者が捕縛され、十二月にはら土佐出身の塾生にも帰命令が出た。おれはさつき見せた書状のとおり帰の延期をめたんだが土佐庁が承知しなかつた。畢竟は再度脱せざるを得なくなつた。

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横井小楠

年あけて文久四年(1864年)二月京都から呼び出しを受けて上すると、慶喜から「仏蘭西が下関を攻めるらしいので、長崎に行つて阻止するための交渉をせよ」と命じられた。

マラン仰せ付けだと思つたが他の的も兼ねて行くことになつた。門人も同行させている。十九日だつたかに肥後に到着してはここで船を降り、おれはそのまま長崎に向かつた。が肥後で降りたのは当時越前から肥後に戻つていた横井小楠に会はせるためだ。

横井は当時、屋から逃げてで閉門を食つてる時だつた。から操練所の状況を聞いた横井は「問答書」を長崎にいたおれに送り、二人の甥を操練所に入れるために預けた。この「問答書」といふのがエラく画期を成す内容で、その思想の高調子な事は、おれなどは梯子を掛けても及ばぬと思つたヨ。

四月十三日に大坂に戻つたんだが、この時期には後の伴侶であるおこと楢崎龍と知り合つている。ずつと後になつておつたところによると、当時お京都七条新地の「扇岩」といふ籠に勤めて居つた。母親が方広寺に留守居として住んでいたため通つていたところ、そこを根にしていたと出会つたんださうだ。おに一惚れした母親に掛けあつて、そのまま婚約してしまつたといふことだ。

五月十四日、おれは軍艦奉行に正式に就任し、廿九日に神戸軍操練所が開設した。紆余曲折あり、必ずしも思い通りに運んだワケではなかつたが、漸く幕府・諸えた軍への第一歩を踏み出した。

だがその矢先に大事件が立て続けに起こつた。

注 「横井は当時、屋から逃げてで閉門を食つてる時」とは、横井小楠江戸滞在時に襲撃を受け、独りで逃走した士忘却事件の事。

池田屋事件・禁門の変

元治元年(1864年)六月五日分、籠・池田屋で新選組と尊攘浪士による乱闘事件が起きた。肥後の宮部鼎蔵長州吉田稔麿の他、可哀想にがおれの塾に連れてきた望月亀弥太も殺されてしまつた。この事件のとばつちりで佐久間山も河上彦斎といふ恐ろしい男に殺されてしまつたがそれは本筋でないので置いておく。

らせを受けた長州ではの進発論が抑えられなくなり京都入。宮闕を犯して薩摩会津の兵と衝突したのは七月十八日のことだつた。あの日おれは神戸軍仮局に居たところ、になると東のに見えたからこれはなにか変はつた事が起きたに違いないと思つた。

大阪城では何がどうなつているのか斥を出せと議論があつたが、も深入りしないからおれが自ら斥になつて行つてみると、を下つてくる船に三人の長州人らしき連中が乗つていて、おれの前に上陸してきたから何をするかと思つていたらいきなり刺し違えて死んでしまつた。これは長州は既に敗れたのだなと悟つた。

これらの事件で先の望月のやうに塾生達が関はつていたことが幕閣に露見し、馬鹿馬鹿しい話だがおれに謀反の嫌疑がかけられた。操練所の存続も危なくなりら塾生達の身の上をどうにかしてやらねばと思つていたところにあの男が現れたのサ。

注 禁門の変は7月19日

西郷吉之助

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西郷隆盛

おれは今までに下で恐ろしいものを二人見た。すなはち横井小楠西郷南洲とだ。

この年の九月におれは西郷と会つたが、その前に西郷に会つて見たいといふから添書を書いて会はせてみた。その後が戻つて来て言ふには、

なるほど西郷といふはわからぬだ。少しくけば少しくき、大きくけば大きくく。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口だらう

と言つた。実に知言だと思つたよ。面会した時、その意見や議論はむしろおれのほうが優るほどだつたけれども、いはゆる下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、おれはひそかに恐れたよ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大意とにあるのだ。

おれは西郷達の保護を要請し、西郷は快く応じてくれた。薩摩にしても、達のやうな航技術者はその時どうしても欲しかつたから、この機に人材を確保しておこうと思つたのだらう。

近藤長次郎同志を先に薩摩へ送り出したはしばらくの間江戸に居たが、元治二年(1865年)三月江戸を発ち、四月五日までには京都薩摩邸に入つた。この日、同じ土佐脱浪士の土方左衛門と会つたことが土方日記に見られる。土方は当時既に中岡慎太郎と共に長和解を模索して奔走していた最中で、もその話を聞いたかも知らん。

注 日記元治元年(1864年)8月3日に「吉井幸輔にて上」とあり、薩摩吉井幸輔と上後、吉井の紹介で西郷と会ったと思われるため、勝の紹介状というのはか勘違い。

奔走

慶応元年(1865年)4月廿ニ日、西郷小松らと共に鹿児島に向かつた。幕府がまたぞろ長州再征を言い始めたためにとしての方針を仰ぐ必要があつたためだ。

二週間ほど西郷宅に滞在したは、薩摩の方針が長州再征には反対でむしろ長州との和解を望んでいることを見届けて、五月十六日に鹿児島を発つた。土方の話を聞いて、この先下を制するのは長両と見込んだは和解のための奔走を始めた。

的地は文久の政変で京都を逐はれた五卿の居る筑前太宰府だが、その前に肥後に立ち寄つて逼塞中の横井小楠と面会した。二人は長州征伐の是非について議論し、横井は肥後長州征伐に参加することを是としていた。そのため意見が対立した横井から絶縁宣言された。この時分横井は逼塞していたから長州が密かに開策に転じたことを知らなかつた。だからこの時はと意見が別れたのだらう。後にが手掛けた大政奉還については賛意を示している。

横井と別れた太宰府に向かつた。廿三日に到着し、五卿と面会した長の和解について話した。この時の面会がに入つたのか、五卿の一人東久世卿がこんな事を日記に書いている。

五月廿五日

土州坂本龍馬面会、偉人なり、奇説なり

(『東久世日記』)

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中岡慎太郎

この後太宰府に居た長州士達に長和解の策を申し入れ、当時五郎と名乗つていた木戸菊にその旨を伝えさせた。廿八日に大宰府を出て五月朔下関に入つた。六日に木戸の元を訪れ、西郷との面会を了承して到着を待つことになつた。

二人とも西郷の到着を心待ちにしていたが、豈図らんや西郷は来なかつた。廿一日、西郷を連れて来るはずだつた中岡は一人で下関のの元に現れた。ワケを聞くと、京都に重大な用件が出来たとか言つて京都に向かつてしまつたと言ふ。仕方なく二人で木戸に会いに行つて説明すると、案の定プリプリ怒り始めた。「薩摩に一杯喰はされた!もういい、帰る!」つてネ。

二人で何とか宥めると、木戸薩摩との和解の条件として、相手側から正式の使者を出す事、武器や軍艦の購入を長州の代はりに薩摩名義で行う事を達に伝えた。当時幕府による長州再征が噂されていて、長州としては少しでも武備を整えておきたいと思つていたのサ。

木戸の要請を受けた二人は、廿九日に下関を発ち、西郷に談判するため京都に向かつた。

亀山社中

七月十六日、らの談判の結果を確認した木戸は、伊藤俊輔井上聞多の二人を武器購入の交渉役として長崎派遣した。前年の禁門の変で敵扱いの長州は、武器の購入を幕府から差し止められていたので、薩摩士の名義を借りての隠密活動だつた。

廿一日、長崎に着いた二人は千屋寅之助高松太郎に会つた。千屋と高松については憶えているカエ?かつてがおれの塾に連れてきた連中だ。千屋と高松の他、新宮馬之助沢村惣之丞近藤長次郎らも薩摩から長崎に出て居つて、この時分にいはゆる亀山社中を発足させている。これは薩摩支援の元、運事業や交易の旋を行う組織で、株式会社の嚆矢などと言はれている。

さてこの亀山社中だが、実は達はこの結社を「亀山社中」と称したことは一度もく、単に「社中」とのみ呼んでいた。そもそも社中と言ふのは「神社の氏子仲間」と言ふ意味の言葉が「仲間」を意味する言葉として利用されるやうになつたもので、特別な名詞ではない。亀山は当時長崎にあつた製陶所の地名で、慶応元年(1865年)に窯(はいよう)になつた後に残された住居を拠点とした為、後世亀山社中と呼ばれるやうになつたのだ。

この社中の者達を仲介役として、伊藤井上はグラバー商会から四千三挺のミニエーと三千挺のゲベールを購入する事に成功した。軍艦については近藤長次郎が購入のため周旋していたが、これについては後で話さう。

薩長同盟

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大久保利通

その頃京阪で別行動を取つていた。当時問題になつていた兵庫開港の件や長州再征について、何らかの活動を行つていたやうだ。九月廿一日、朝廷から長州再征の勅許が下ると大久保一蔵が「非義の勅命は勅命ではない」と言つて薩摩の参戦拒絶を通告した。はこの大久保の書簡を持つて九月下旬に大坂を発ち、廿九日に防州上関着。山口まで赴いて京都の情勢を長州に伝えた。同時に西郷からの言伝で、京阪に滞在している薩摩兵のために兵糧支援して欲しいと願い出、これが承諾され和解の下地が整つた。

十二月中旬、薩摩から黒田了介が使者として長州派遣された。黒田木戸に対して頻りに京都行きを勧めたが、前回の事もあつて木戸は他の者に行かせたがつたやうだ。だがからの要請もあり、結局木戸京都西郷と面会することになつた。

十二月廿八日に三田港を出た木戸は翌年慶応二年(1866年)一月九日に京都の二本薩摩邸に到着した。は当初同行することになつていたが、とある理由で遅れた。木戸からの要請で京都に来て欲しいといふ連絡があり、一月十日に長府士の三吉慎蔵を伴つて下関を発つ。出発前に高杉晋作と面会し、高杉からピストルを贈られ励を受けた。

大阪に着いたは十八日に大久保一翁に会いに行つた。一翁は当時役だつたが、長州処分に困つた幕閣に呼び出しを受けて大坂に居つた。久々に会つた一翁はに対し、「長州人と入したことが既に通報され手配されているから々に退去するやうに」と警告したさうだ。

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木戸孝允

十九日、寺田屋に入り、ここで同行していた三吉と別れ、廿日に二本薩摩邸に入つた。木戸と会つたは同盟の是非を尋ねたが、この間木戸西郷の間でこれまでのいきさつと今後について話し合はれたものの、同盟に関する具体的な話がかつたものだから、憤懣やるかたない木戸は帰ろうとしていたのだ。が非難すると木戸は、「薩摩然と朝廷や幕府、諸侯と交えるが長州は違う。全てが敵といふ状況でこちら側から薩摩に行動を共にすることをめればそれは助けをめることと同じだ。それは長州の本意ではなく恥じるところであるから出来ない。薩摩が王室に尽くすことが分かればたとえ長州が滅びたとしても構はない。」と言つた。それを聞いた木戸を非難するのを止めてその場を離れた。

その後具体的にどんなやり取りがあつたのかは記録に残されていない。だが西郷小松に談判した結果、予定されていた木戸の出立を引き止めて再度会談の場が設けられたといふのが衆の一致するところだ。

会談にはも立会い、以下の六ヶ条の盟約が交はされた。これがいはゆる長同盟だ。

  • 戦と相成時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、今在の兵と合し浪へも一干程は差置き、坂両所相固め
  • 戦、自然が勝利と相成り気鋒相見えとき、其節延へ申上げきっと尽カの次第これありとの事
  • 万一敗色に相成りとも、1年や半年に決して潰滅致しと申す事はこれなき事に付其間には必ず尽の次第これありとの事
  • 是れなりにて幕兵東帰せし時は、きっと延へ申上げすぐさま冤罪延より御免に相成り都合にきっと尽との事
  • 兵土をも上の土、、会、桑も今の如き次第にて、体なくも延を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽カのを相遮り時は、終に決戦に及ぷほかこれなくと の事
  • 冤罪も御免の上は.双方とも心を以て相合し、皇の御為めに砕身尽カ仕り事は申すに及ばず、いづれのにしても、今日より双方皇の御為め皇威相 き、御回復に立ち至り途にしを尽して尽カ致すべくとの事

この六ヶ条の盟約は会談の場では明文化されなかつたため、木戸廿三日付でに「この内容で間違いないか」と書状を送つた。そのため後世にこの盟約の具体的な内容が伝えられたのだ。コレがかつたら恐らく歴史上のの一つとなつただらう。木戸西郷べると非常に小さいが、かういふ綿密なことには聡い男サ。その書状にが「相違なし」と朱筆したのがこれだ。

薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書
薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書

チョツト読みにくいのでここに書いてやらう。

表に御記しなされ六条は小(小松)西(西郷)両氏および老木戸()等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく。後来といえども決して変り事はこれなきは明の知る所に御座候

二月五日   坂本 

一介の浪士に過ぎないが、歴史を動かす場に立会い、その人になつたといふ事実を、どう見るエ?

「こんな裏書には何の効もない。などいなくても代はりの志士はいくらでもいたといふ意見もある」だつて?

それこそ「行蔵はに存す、毀誉は他人の」サ。どうだ、寓意が分かるかね、お嬢さん。

寺田屋遭難

廿三日、漸く大きな仕事を終えた寺田屋に戻り一息ついた。寺田屋に残つていた三吉慎蔵と祝宴を開き、深夜まで談笑した。風呂に入つてサア寝るかと思つたら、階下からおが駆け上がつて来て捕吏が来ていると知らせた。高杉から贈られたピストルを、三吉はを構えた。スルト間もなく何十人もの捕吏が二階に上がつてきて「上意により尋問する!座れ!」と言つた。一翁の警告通り、奉行所の方では既に調がなされ、「坂本龍馬なる浪士が寺田屋に潜伏し、長の間を取り持つている疑いがある」と知られていたのだ。薩摩士であると名乗つたが否定され、間もなく乱闘が始まつた。

ピストルを数発撃つて応戦し、数人に命中したが、捕吏のを持つり付けられて撃てなくなつた。の名手である三吉が必死に応戦して敵が怯んだ隙に裏手から上手く脱出できたが、外にも多数の捕吏が彷徨いていたから踵を返して濠の土手にある材木小屋まで辿り着くとそこで隠れた。は出血がひどく、意識がとしていた。

三吉はもう逃げきれないと覚悟して割しやうと申し出たが、はかう言つた。

死は覚悟の事なれば、君はこれより邸に走附けよ。もし途にして敵人にわば必死、これまでなり。もまた、ここにて死せんのみ、と。時すでになれば猶予むつかし、とう。

(『三吉慎蔵日記』)

勇気づけられた三吉はと別れ、伏見薩摩邸に急いだ。邸では既におが窮状を訴えて救出体制を整えていた。三吉が邸に着くと、吉井幸輔に跨つて士達を引き連れ救出に向かい、はどうにか九死に一生を得ることが出来た。奉行所の方では薩摩邸に逃げ込んだ事も突き止めていたが、薩摩はそのやうな者は居ないと突つ撥ねた。奉行所も邸内に手を出す権限はいのでく引き下がつた。木戸もこの事件に肝を冷やしたやうでに見舞いの手紙を送つている。

三十日に伏見から京都邸に移つてしばらく療養し、快復しつつあつたところへ陸奥陽之助がやつて来た。く、近藤長次郎切腹したとの事だつた。

注 ここで急におが登場するのは、元治元年に京阪を離れる際寺田屋に預けられ、そのまま居続けたため。

社中内紛

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近藤長次郎

近藤長次郎について話す必要があるから少々前に戻る。

近藤長次郎、又の名を上杉宗次郎と言つた。と同じ時分におれの門人になり、操練所の閉鎖薩摩に身を寄せ、社中の一員になつた。長州軍艦購入の周旋を任された近藤はユニオン号といふ軍艦を購入補としたのだが、これに長州軍局が異議を唱えた。船を検させることでとりあえず了承して矛を収めたが、このユニオン号は厄介な問題を抱えることになる。

慶応元年(1865年)九月長州に呼ばれた近藤子に拝謁し、薩摩子への感謝状を預かつた。それを持つて十月鹿児島に着いた近藤は正式にユニオン号を受け取り、そのまま乗り込んで下関まで持つていつた。十一月には再びに拝謁して褒美まで貰つた。ここまではよかつた。

下関に帰ると、ユニオン号を巡る諸権利について、長州と食い違う点がある事が分かつてきた。近藤は購入費は長州が負担し、船籍は薩摩、運用は社中が行うといふ事で伊藤井上から承諾されたものと思つていたところが、軍局では承知せず、購入費は長州全額払つたのだから運用の権利も帰属も長州にあるはずだと言い出したのだ。

困つた近藤軍局と交渉して十二月桜島丸条約と言ふ約定を結び、一旦収まつたやうに見えたがすぐに再燃して再び拗れ出した。この時には長州に滞在していて、収拾がつかないため割つて入り、条約を大幅に譲歩する形で修正して漸く収まつたが、この結果ユニオン号は社中では自由に運用できなくなつた。さつき「とある理由で上が遅れた」と言つたのは、この交渉に足を取られたためだ。

翌年一月近藤長州から貰つた報奨を使い、社中の同志に黙つて英吉利に密航する計画を立てていた事が露見した。これが原因で慶応二年(1866年)一月十四日に詰めを切らされる羽になつた。二十九歳だつた。

近藤の死を聞いたは手に「術数あまりありて至足らず、上杉氏の身を滅ぼす所以なり」と書いた。お回想によると「オレが居たら死なせはしなかつた」と言つたさうだ。の言つた通り、策に頼りすぎて至が足らなかつたのだらう。可哀想な事だ。

注 ユニオン号の一件で同志薩摩に詫びるために切腹したという説もある。近藤命日23日もしくは24日の間違い。

ホネー・ムーン

はお、三吉と共に二月いつぱい薩摩邸で静養した。この時正式に結婚式を挙げて、二人は夫婦になつたといはれる。二月廿九日、とお西郷小松に同行して京都を発ち、三月五日に大坂から出航。途中下関や長崎を経由して十日に鹿児島に着いた。

鹿児島ではしばらくの間おと遊んで暮らした。霧島温泉に行つたり、湯治していた小松を尋ねたり、魚釣りしたり、一番よく知られているのは霧島の高千穂峰山頂までおと登つて辺に刺さつていたの逆鉾を引つこ抜いたといふ話だらう。これは後に女宛ての手紙の中に詳しく書いている。御丁寧に絵まで描いているのが微笑ましい。

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天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
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後のにとつておそらく一の安息の日々だつたに違いあるまい。この時の旅行が後に坂崎の『汗血千里駒』でホネー・ムーンつまり新婚旅行と紹介され、やがて日本で最初の新婚旅行と称されるやうになつたのサ。

注 「最初の新婚旅行」という言い方について、これより10年前に小松夫婦旅行に出かけていることからこちらを最初とする説がある。というか、新婚旅行に初も何もあるのだろうか。

ワイルウエフ号難破

との旅行を楽しんだは、四月十二日に鹿児島に戻つた。この先薩摩ではグラバー商会からワイルウエフ号といふ帆船を購入している。先のユニオン号の一件で船を自由に扱えなくなつた社中に代はりとして与えた船だ。

ワイルウエフ号の運用を任された社中では、ちやうどユニオン丸がかねてより約束の兵糧鹿児島に搬送する途中長崎に入港していた。鹿児島に一緒に行かうといふ事になり、船長因幡出身の黒木小太郎、士官にを掛けていた土佐出身の池内蔵太が選ばれた。

四月末頃に丸に航されて長崎を出航、鹿児島に向かつたが、急にが悪化し航は危険と判断されて切り離された。その後ワイルウエフ号は暴の中どんどん離されて行き、五月二日、浅瀬に乗り上げて大破した。この事故で黒木、池を含めた十二人が犠牲になつてしまつた。

予想だにしなかつた不慮の事故で達は大層嘆いたが、嘆いてばかりもいられない。幕府と長州の開戦が間近に迫つていたのだ。

第二次長州征伐

この年の六月、おれは久方ぶりに上阪した。二年前に軍艦奉行を罷免されて役になつたおれは、江戸の氷の屋敷で聊をかこつていたが、五月末頃急に奉書が届いた。 何でも急いで大坂へ行けといふから御用向を老中に尋ねたが、将軍直々の御命令といふ事以外分からなかつた。行つてみると、薩摩長州征伐にひどく反対するからお前説得して来いといふ。言はれた通りに周旋したが今度は薩摩とつるんでいるのではと疑はれだした。馬鹿馬鹿しいからくお暇を貰いたいと言つたが、将軍がもう少し居てくれと仰るので何もせずに大坂の宿に残つたヨ。

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高杉晋作

六月七日、幕軍の艦隊が瀬戸内の周防大島撃したのを合図に幕長の戦争が始まつた。大島口、芸州口、石州口、小倉口の四方面で対峙したので長州では四戦争と呼んでいる。

幕軍は大島を占拠したが、十三分に高杉晋作がオテント号といふ小軍艦に乗り、幕軍艦隊の居る域に突つ込んで手当たり次第に撃しまくつた。驚いた幕軍艦隊は情けない話だが大島に残つた兵を置いて逃げてしまつた。続いて芸州口、石州口において開戦した。幕軍は三年も昔のやうに具足を着込んで、や太鼓でヒユードンヒユードンと囃し立てて進んで行つたが、長州軍は全軍隊の拾ひか何ぞのやうなでやつて来て、幕軍はこれに蹴散らされてしまつた。

は十四日に丸で下関に到着した。高杉と協議して峡の制権確保のため、十七日未明にオテント号に乗つた高杉が田ノを、丸を揮して下関対の門をそれぞれ攻撃し、小倉口での戦闘の導権を握つた。戦闘に直接参加したのはこれだけで、後は専ら情報収集や戦況の観察に努めていたやうだ。薩摩も盟約に則り、諸への揺さぶりや幕府への対決姿勢をあからさまに示し始めた。

幕軍の敗報が続く中、七月廿将軍が亡くなられた。死因は脚気衝心だつた。瓦解しつつある幕府を背負つて心身ともに蝕まれたのだらう。

おれが大阪城へ行つてみると、皆閉息してひどいものだつた。板倉と話したら、お跡の事をすぐに決めねばなどと言ふから、そんな事は後見職の慶喜にお任せすればよろしいと言つたら納得した板倉は慶喜に会いに行つたヨ。慶喜はその頃役人皆から嫌はれていたが、それでいよいよ慶喜が来ると皆送迎するから、実に人情の転覆といふものは、それはひどいものだと思つたヨ。

慶喜はそれから急におれに油をかけやがつて、「長州に談判に行つてくれ」などと、ひどく油をかけやがつた。馬鹿馬鹿しい役を仰せ付けられて承知すまいかと思つたが、「これまでの幕府のやり方をめる」と言ふから、どうせ長州で殺されるかもしれないが行つて見やうといふので往つたのサ。

宮島に行つて広沢兵助と井上聞多の二人と交渉して、な処分をするから撤退する幕軍の追撃はしないやうにと頼んだらその通りにしてくれた。ソレ大坂に戻ると、慶喜がおれの交渉を視して勝手に朝廷から停戦の勅許を貰つていた。「将軍が死んだから長州は停戦し、侵略地を引き払え」といふ一方的な内容だつたから長州側は受け取りを拒否した。おれの交渉など全てどこかへ吹き飛んでしまつたヨ。おまけに勝は長州ともつるんでると来たからいよいよ帰ろうと思つていたら、帰府のお達しが出て江戸に帰つたサ。

注 板倉は老中板倉勝静。宮島厳島神社のある広島県宮島

社中の苦境

幕府と長州戦争が終りを迎えつつあつた七月下旬、長崎に帰つたが、ここで困難に遭遇する。

先の戦いで乗船していた丸は長州の要請で既に引き渡しており、正式に長州のものとなつてしまつたのだ。代はりだつたワイルウエフ号は知つての通り事故で大破。社中は念願だつた船を失つてしまつた。運業をやるといふ標が頓挫して資繰りにも困るやうになつた。社中の者達に出す給にも事欠く有り様だ。サアー困つた。素寒貧だ。は社中の者達に暇を出そうとしたが、どの者は「死ぬまで付いていく」と離れない。

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小松

困つていた薩摩支援の手を差し伸べた。五代才助の旋で伊予所有のいろは丸といふ船を運用するために何人か人を貸し、社中の者達にも三両二分の給を支払う事になつたのだ。十月には西郷小松と談判して、夷の資開発をするため船の購入の保薩摩にして貰う事になつた。この時購入したのが大極丸と名付けられた西洋帆船で、費用は七千三両。十月廿九日に船を受け取り、漸く本格的に営利活動を開始することになつた。

また、この時分に薩摩長州の間で商社計画といふのが持ち上がつていて、これは薩摩の船を使つて長州の物産品を兵庫辺りに運んで売ろうといふもので、もこの計画に一枚噛んでいたが、これをやるためには峡を封鎖しなければならないため、長州に拒否されて実現しなかつた。

因みに八月下旬頃のことだが、越前士の下山尚といふ者が長崎を訪うている。ここでは自分の口から初めて幕府の政権返上論、すなはち大政奉還論を述べた。いつか大久保一翁から聞いた政権返上を今なら実行に移せるのではないかと思つた下山にかう言つた。

其後一夕、余氏が門をく。氏、出て迎へ坐、久しくて談下の事に及ぶ。氏危坐低つてく、方今鎖攘の説一変して討幕の議相踵ぎ起る。して幕府自反の念なく、専横日甚だし、恐くは救ふ可からず、子以て如何んとなす。且、子は徳氏の親藩に生れ、上にを戴き宜しく思ふ所あるべし。
政権奉還の策を速かにに告げ一身之れに当らば幸ひに済すべきあらん。

(下山尚『西南紀行』)

の依頼を引き受けた下山は、帰途の途中肥後の横井小楠宅を訪れてこの大政奉還論を話したところ、手を打つて賛同したといふ。ただ越前に戻つた下山に献策したが、は「思ふところあり」と言つて採用しなかつた。

実はも一翁と同様に、文久年間から既に政権返上するべきだと度々幕府に建議していたのサ。この時分にも慶喜に政権返上を訴えていたのだが聞き入れられないから越前に戻つていた。採用しなかつたのは多分その辺りの経緯によるものだらう。

土佐藩との和解

その頃の郷土佐長の突出に遅れを感じて焦り始めて居つた。山内容堂は幕長の戦争の際、長州など合の衆と軽く見ていたが、結果はご覧の有様ダヨ。そこで各地に配下を派遣して情勢視察をさせてみると、坂本龍馬中岡慎太郎両名の名が浮かび上がつてきた。その時はまだ半信半疑の長同盟を仲介したとかで、コレは得難い人材だといふことで土佐の方から接触をめてきたのだ。中岡の活躍を土佐上士達も認めざるを得なくなつたのサ。

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後藤二郎

同じ頃長崎に武器や軍艦の購入に出掛けていた後藤二郎の噂での事を聞いたのだらう。後藤溝渕広之丞といふ者を使つての様子を探らせた。溝渕はかつて江戸と同門になつた事があるのでその役にうつてつけだつた。その後溝渕はから木戸を紹介されて会談し、長州の方針を確認して後藤に報告した。

慶応三年(1867年)一月末から二月の初め頃、後藤と初めて面会した。世にいふ清亭会談だ。社中の者達の中には土佐勤王党を弾圧した本人の後藤を殺してやりたいと口走る者もあつたが、会談した二人はそれらは昔の事としてサラつとに流して提携する事にした。会談の詳しい記録が残つてないが、長州と土佐との関係善についてやら土佐の今後の方針やらについて話しあつたやうだ。

一方二月十七日、西郷が容堂に拝謁した。この時分京都でいはゆる四賢侯を集めて会議をさせやうと薩摩が躍起になつていて、西郷は容堂に上を促していたが、その会見で西郷中岡の脱罪赦免をめた。容堂も承知して、の一超法規的措置により二人の赦免が決まつた。

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援隊士。左から長岡謙吉溝渕広之丞
坂本龍馬山本洪堂千屋寅之助白峰駿馬

三月中旬、後藤は土佐重役の福岡籐次と社中の扱いについて協議した。社中は土佐の外団体とし、達には自由に活動させて土佐の利益を計る事とし、社中援隊と命名することにした。後藤はこの他にも、以前社中が購入した大極丸の支払いが済んでない事から全額支払いを引き受けたり、にとつて心強い味方になつた。

だが後藤と協関係を結んだことを知つた女はひどく怒つた。く「姦物役人に騙されている」「利を貪り国家を忘れたのか」と。手紙で「援隊士五十人を養うためには一人辺り年に六十両は必要で、その為に利をめている」「もう土佐からは赦免されており、この頃は私も京都に出向いて日々下のために働いている」「五人や七人を率いるよりも土佐廿四万石を率いて国家に尽くした方がよい」と反論した。かつて武市半平太が提唱した一勤王論を、が望む形で復活させたのだ。

因みにこの年の3月長崎岩崎弥太郎が着任して土佐商会の会計の切り盛りをしていた。援隊士がしよつちゆうをせびりにくるからしばしば渋面で応対したと、一度だけ会つた時に言つてたヨ。

いろは丸事件

いろは丸といふ船について一度話したかと思ふが、この船がまた厄介な事件の種になつた。このいろは丸といふ船は、達が伊予から借り出した船だつたが、四月廿三日間、瀬戸内を運行中に大の蒸気船と衝突した。相手は徳御三家・紀州所有の明丸だつた。をはじめいろは丸の乗員三十五人は皆明丸に乗り移つて命に別状はなかつたが、航も虚しくいろは丸は沈没しての藻となつた。

陸に戻つたはすぐさま明丸の船長に掛け合つて賠償の一部として一万両を要したが、紀州側はこれを拒否して長崎奉行所で法に基づいて話しあおうといふのでも同意し、五月十日に長崎に着。十五日から紀州側との談判が始まつた。

談判ではお互いの航日誌を交換しあつて、いろは丸のブーフランプ(舷)が点いていただのいなかつただの、航路は東南だつた、いや東北だつたとが食い違つて埒があかない。そこで後藤二郎支援を要請して後藤も談判の場に出席することになつた。後藤は明丸の甲上に当直士官が居なかつた事と二度衝突したことを理由に押しまくつた。またこの談判の最中長崎屋や料亭で「船を沈めたそのつぐないは をとらずにをとる を取つてミカンを食らう」などといふ戯れ歌を作つて流行らせ、長崎の世論を味方に付けた。

土佐背景にした後藤の強談判に怯んだ紀州側の代表者は、薩摩の五代才介に仲介を依頼し、過失を認めて八万四千両の賠償支払いを約束した。紀州でも大揉めになつて後で七万両に減額されはしたが、後藤の勝利には違いかつた。

注 この事件については注意を要する。というのも明治になって明丸の元船長が「ブーフランプが点いていなかったのは本当だった」と言しており(ブーフランプが点いていなかった場合、いろは丸側の重大な過失となる)、他の関係者は「いろは丸の積荷は砂糖だったのがいつの間にかミニエー400挺とし始めた」とも言しているからである。ちなみに平成17年に行われた海底調ではミニエーは見つかっていない。

船中八策

この五月京都では政局が大きく動きだそうとしていた。いはゆる四賢侯が京都に集まつて会議によつて政を決めやうとしていたが、皆意見がてんでんばらばらで纏まらない。特に将軍慶喜と島津の対立は深刻で会議は分裂し、三年前の参預会議と同じ結果になつた。

この結果を受けて西郷大久保(一蔵)は武倒幕に向けて動き始めた。土佐でも中岡慎太郎の周旋で、退助や守部が西郷達と行動を共にしたいと言い出して、容堂に「決心しなければついに長の門におをつなぐにいたりますぞ」と言い放つ始末だつた。四侯会議の失敗と薩摩のただならぬ動き、仕舞いには配下達すら倒幕をり始めた容堂の悩みは深刻だつた。容堂京都から後藤を呼んで対処させやうとした。

その頃後藤は、いろは丸事件の談判に付き合つてる最中で、自分独りでは不安だからとも連れて行きたがつていたのだが、談判が長引き、遅れに遅れてそのうち容堂は土佐に帰つてしまつた。

六月九日、漸く後藤と連れ立つて長崎を出航し、十二日に兵庫着。そして十七日、後藤は他の土佐重役達との間で大政奉還策について議論し、賛同を得た。

サアついに来た。大政奉還だ。だがその前に船中八策について話す必要がある。

この船中八策と呼ばれる策は、通説では六月十五日、長崎から兵庫へ行く船上で後藤に提示した八策だとされている。だが、実はこれを裏付ける拠は何も無い。この八策には原本が現存しておらず、実際に起したのもではなくの意を受けた援隊士の長岡謙吉だと言はれる。そもそもこの八策、初めは船中八策とは呼ばれていなかつた。大体六月十五日にははもう兵庫に上陸した後なのに船上で後藤に示したなら褄が合はんぢやアないカエ。船上で提示したとしても十五日はかろう。

とはいへ、この八策が卓越した論策であることは言ふまでもいだらう。

  • 一、下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
  • 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく議に決すべき事。
  • 一、有材の卿・諸侯及(および)下の人材を顧問に備へ、 官爵を賜ひ、宜しく従来有名実の官を除くべき事。
  • 一、外の交際広く議を採り、新(あらた)に至当の規約を 立つべき事。
  • 一、古来の令を折衷し、新に窮の大典を撰定すべき事。
  • 一、軍宜しく拡すべき事。
  • 一、御親兵を置き、都を守衛せしむべき事。
  • 一、金銀物貨宜しく外均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今下の形勢を察し、之を内万に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も 数策を断行せば、皇運を挽回し、勢を拡し、万と並立するも敢て難しとせず。伏て願くは明正大の理に基き、 一大英断を以て下と更始一新せん。

政権返上や議会の創設は、かつてが交流を持つた大久保一翁横井小楠、それにが望み、未だ果たし得ぬ事だつた。これをは一翁達の意思を受け継ぐ形で後藤に提示してみせた。武倒幕に対抗しうる卓見と見た後藤は他の重役達にも提議して土佐の論とすることに決したのだ。

長両による二条攻撃計画など物騒な噂まで出始めたから、内戦が始まることを憂慮した後藤薩摩の動きを抑えるため、会談の場を設けることにした。廿二日、薩摩から西郷大久保小松の三人、土佐から後藤福岡籐次ら四名、そして「浪士の巨」たる中岡の二人が出席した。この席で後藤は、政体変革の志は長土三共に共通し異論は特にいことを伝えて、以下の約定の元大政奉還建に同意を願つた。

  • 一、下の大政を議定する全権は、朝廷にあり、が皇の制度法則、一切の機、師の議事堂より出づるを要す
  • 一、議事院上下を分ち、議事官は上卿より、下陪臣庶民に至るまで、正義のものを選挙し、尚且つ諸侯も、自分其の職に因りて、上院の任に充つ
  • 一、将軍職を以て下の機を握するの理なし、自今宜しく其の職を辞して諸侯の列に帰順し、政権を朝廷に帰すべきは、論なり
  • 一、各港外の条約、兵庫港にいて、新に朝廷の大臣緒太夫と衆合し、理明に、新約定を立て、実の商法を行うべし
  • 一、朝廷の制度法則は、往昔より例ありといえども、当今の時勢に参し、は当らざるものあり、宜しく幣を一新革して、地球上に愧ざるのを建てん
  • 一、の皇復の議事に関係する士太夫は、私意を去り、に基き、術策を設けず、正実をび、既往の是非曲直を問わず、人心一和をとして、議論 を定むべし

後藤から「出兵してでも幕府に大政奉還をませる」と聞いた西郷達は了承して、土の盟約が結ばれた。失敗すればその時こそ土佐も巻き込んで幕府をくことができると見込んだのだらう。

薩摩への根回しを済ませた後藤は、七月上旬に土佐に戻り、容堂に大政奉還策を建議した。容堂に異論はく、大政奉還の具体化を命じられた。

後藤と協して方々に説得していたが、ここで思はぬ足止めを喰らつた。英吉利人夫が殺される事件が起こり、他ならぬ援隊士が疑はれたのだ。七月六日深夜長崎で英船イカルス号の乗組員二人が何者かに殺され、翌日に発見された。犯人撃した者が筒袖の援隊士のやうな装の犯人だつたと話したので土佐に疑惑が向けられた。十四日、長崎を訪れた英国使パークスはカンカンに怒つて土佐商会の岩崎弥太郎長崎奉行所に怒鳴り込んだがマトモに相手にされないので老中に抗議したうえ土佐と直接談判するため高知に向かつた。は別件でたまたま土佐に戻ることになり、八月中旬から当事者として後藤と共に談判に参加している。長崎で再調といふことになつて英国通訳官のサトウと一緒に長崎に向かつた。

長崎での調も結局拠が見つからないからお咎めしといふことになつたが、そりやソーダ真犯人は既に死んでいたのサ。結論だけ言えば、犯人は翌年慶応四年(1868年)一月に判明した。筑前士の金子才吉とかいふ者で事件の二日後に自害していた。動機は全く不明で乱心として筑前に処理されていた。この事件のせいでは一ヶほど足止めを食らい、大政奉還の周旋にも支障を来たした。

注 八策の初出は管見では明治31年(1898年)頃初稿の瑞山会編『坂本龍馬伝』。談話にあるようにこの八策にはが多く、原本も写本も見つかっていない。

大政奉還

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徳川慶喜

夫殺事件で足止めされていた頃、九月二日に上した後藤京都で大政奉還の周旋をやつていた。八月廿日、容堂は大政奉還の建を正式に布告して後藤に命じたが、出兵については許可されなかつた。このため後藤は兵を連れてこれず、「兵も出さずに建とな?」と西郷が一辺に疑い始めた。

そんな状況を見かねたのかは千挺のライフルを土佐に送りつけて、建が受け入れられない場合挙兵する覚悟を促すことにした。十五日にを入手して十八日に長崎を出航。廿日、下関に入港した。二月頃から下関で生活していたおと二日間ほど過ごし、廿二日に土佐に向けて再び出航した。

廿四日、土佐に着いたは翌日に土佐重臣達と会談して、大政奉還を急がなければ長が挙兵してしまうと伝え、武器の買取りをめた。武で威圧してでも大政奉還を慶喜に受け入れさせ、受け入れなければ武倒幕に切り替えるのがの方針だつた。廿七日、容堂を含めたの最高会議が開かれ、の持つてきた武器の買取りを承認した。この後、文久二年(1862年)三月の脱から五年ぶりに実家を訪れた。突然帰つてきて世間のもあるから盛大な歓迎はできなかつたが、大物になつて帰つてきたを見て、女も権兄さんもさぞ嬉しかつただらう。

十月朔、高知から風雲急を告げる京都に向かつた。この先、おと再会することも、長崎を眺めることも、家族との団欒も、二度とい。

船が遅れて京都に入つたのが十月九日。このの三日に後藤は大政奉還を正式に建した。

内の形勢、古今の得失を鑒し、恐頓首再、伏惟 皇復の基業を建てんと欲せは、を一定し、政度を一新し、王政復古世に不恥者を以て本旨とすへし、奸を除き良をけ、寬恕の政を施行し、幕諸侯大基本に注意するを以て、方今急務と奉存、前仕、一二獻言の次第も有之、容堂儀は病症に因て、猶又篤と熟慮仕に、に不容易時態にて、安危の決今日に有之哉に愚慮仕、因て速再上仕、右の次第一々乍不及警言仕志願に御坐、今に至て病症難仕、不得微賤の私共を以て、愚存の趣乍恐言上爲仕

下の大政を議定する全朝廷にあり、 皇の制度法則一切機、必す師の議政所より出つへし、
一議政所上下を分ち、議事官は上卿より下陪臣庶民に至る、正明純良の士ら選すへし、
一庠序校をの地に設け、長幼の序を分ち、術技導せさるへからす、
一一切外蕃との規約は、兵庫港にて、新に 朝廷の大臣と諸と相議し、理明確之新約ら結ひ、の商法を行ひ、信義を外に失せさるを以て要とすへし、
陸軍備は一大至要とす、軍局を攝の間に築造し、朝廷守護の親兵とし、世界類なき兵隊と爲んことを要す、
中古、政刑武門に出つ、洋艦港以後、下紛紜、多難、是、政動く、是自然の勢なり、今日に至り、古弊を新し、枝葉に馳せす、小理に止まらす、大根基を建るら以てとす、
朝廷の制度法則昔の例ありと雖、方今の時勢に合し、間然ならさるものあらん、宜く其弊を一新し革して、地球上に立するの本を建つへし、
一議事の士大夫は私心を去り、に基き、術策を設けす、正直を旨とし、既往の是非曲直を問はす、一新更始、今後の事を見るを要す、言論多く、少き通弊を踏むへからす、

右の、恐らくは今の急務、内外各般の至要、是を捨てゝ他にむへきものは有之間敷と奉存、然則、職にる者、成敗利鈍を不顧、一心協世にて貫徹致し有之度、若の事件を執り、難抗論、幕諸侯、互に相の意あるは然るへからす、是則、容堂の志願に御坐、因て愚昧不才を不顧、大意建言仕、就ては乍恐是等の次第、しく御聽捨に相成ては、下の爲遺憾不鮮、猶又、上寬仁の御趣意を以て、微賤の私共と雖も、御親問被 仰付度奉懇願
                  土佐守内
 慶三年丁卯九月
                     寺村左
                     後藤
                     福岡
                     神山佐多

ここまで遅れたのは薩摩との調整に時間が取られたからだ。九月九日に薩摩から盟約の破棄が伝えられていたが、その後建自体には反対はしないと申し出があつたのが十月二日で、その直後に建を実施した。急がないと長が挙兵してしまうから後藤を叱励し、引き続き長と土佐の間の調整を取り持つたが、結局土佐からは兵はかつた。

十一日、慶喜は大政奉還諮問のため京都に居る諸重臣を二条に呼ぶ事にした。後藤もそれに呼ばれた。

御相談被遣之儀、万一行はれざれば固より必死の御覚悟故、御下之時は、援隊一手を以て大参内の道路に待受、社稷の為、不戴の讐を報じ、事の成否に論なく、先生に地下に御面会仕
案中に一切政刑を挙て朝廷に帰還し一句他日幕府よりの謝表中に万一遺漏有之歟、一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件は鎌倉来武門に帰せる大権を解かしむる之重事なれば、幕府にてはいかにも難断の儀なり。
是故に営中の儀論の一欸あり。万一先生一身失策の為に下の大機会を失せば、其罪地に容るべからず。果して然らば小長二の督責を免れず。豈徒に地の間に立べけんや。
   
 十月十三日   
後藤先生
左右

(慶応三年十月十三日 後藤二郎宛 坂本龍馬書状)

先生」といふのは後藤で、「もし建が受け入れられなければ、援隊を率いて路上で慶喜を討つ」とまで書いて後藤に覚悟をめた。対する後藤も返信で「死をもつて対応するが、挙兵のため戻るかもしれない。援隊の行動は任せるが軽挙は慎むやうに」と鼻息の荒いをいなした。

書拝披万々謝領す。文中政刑を朝廷に帰還々之論不被行時者、論生還するの心御座候。併今日の形勢に依り後日挙兵の事を謀り飄然として下致哉も不被計得共、多分以死廷論するの心事、若死後、援隊一手々は君之見時機投之に任す。妄挙挙被事。に途程度に迫れり、大意書之奉答。頓首
   十月十三日   後藤元曄
 坂本賢契

(慶応三年十月十三日 坂本龍馬宛 後藤二郎書状)

十三日、薩摩小松等と共に後藤が慶喜に直接意見を述べた。

諮問が終はり、後藤にすぐさま手紙を寄越した。

今下今日之趣不取敢申上。大政権を朝廷に帰すの号令を示せり。の事を明日奏聞、明後日勅許を得て、直ぐ様政事堂を仮りに設け、上院下院を創業する事に運べり。実に千載の一遇、為下万姓大慶不過之。不取敢奉申上々 頓首。
   十月十三日                後藤二郎
  才太郎様報慶

(慶応三年十月十三日 坂本龍馬宛 後藤二郎書状)

大政奉還建成功の知らせだつた。後藤論、も、八策を起した長岡も、他の援隊士達も飛び上がらんばかりに喜んだだらう。実に堂々たる事だよ。浪士の活動が郷の上士階級を揺さぶり、巡り巡つて将軍をも動かしたのだ。

翌日、慶喜は朝廷に対して正式に大政奉還の上表文を提出した。

大政奉還上表文

臣慶喜謹て 皇時運之革を考に、昔し 王綱紐を解き、相を執り、保、政武門に移てより、祖宗に至り、更に 寵り、二年、子孫相受、臣其職を奉すと雖も、政刑を失ふこと不少、今日之形勢に至りも、畢竟薄德之所致、不堪慙懼、況や今外之交際日に盛なるにより、 一途に出不申者、綱紀難立間、習をめ、政を 朝廷に奉下之儀を盡し、 斷を仰き、同心協、共に 皇を保護仕得者、必す海外と可並立、臣慶喜に所盡、是に不過奉存、乍去、猶見込之儀も之有得者、可申聞旨、諸侯へ相達置、依之、段謹て奏聞仕、以上詢。
 十月十四日                  慶喜




祖宗以御委任厚御依被爲在得共、方今内之形勢を考察し、建の旨趣に被思食間、被 聞食、尚下と共に同心盡を致し、 皇を維持し、可奉安 宸襟 御沙汰

上表文を受け取つた二条摂政は受け取りを拒否したがつたが、後藤小松が押し掛けて受け取りを迫り、十五日に大政奉還は朝廷より聴許された。

新体制構築

大政奉還が成つた後、速行動を始めた。ここで戸田雅楽といふ者が登場する。

イキナリ現れて誰だと思ふだらうから一応説明すると、戸田は文久三年の八月十八日の政変で京都を逐はれた三条実美卿の臣だ。 情勢探索のため長崎を訪れた際に噂の坂本龍馬に会つてみることにした。九月三日の事だ。 と会見した戸田援隊にすつかり惚れ込んで、情勢探索ソツチノケでと行動を共にする事にした。

朝廷の職制に素養のあつた戸田は、諸の身分の低い有望の人材を来るべき新政権に採用するため、に「新政府職制案」を提示して見せた。

 一人
卿中、最も徳望・知識兼備の人を以て之に充つ、
上一人を弼し、万機を関し、大政を総裁す、

内大臣 一人
卿・諸侯中、徳望・知識兼備の人を以て之に充つ、
の副弐とす、

議奏 若干
親王・諸王・諸侯の中、最も徳望・知識兼備の人を以て之に充つ、
可否を献替し、大政を議定、敷奏し、兼て諸官の長を分す、

参議 若干
卿・諸侯・大夫・士庶人の才徳ある者を以て之に充つ、
大政に参与し、兼て諸官の次官を分す、

各役職の内訳は以下の通りだ。


記名(三条実美を示唆)

内大臣
記名(徳川慶喜を示唆)

議奏
有栖川宮熾仁親王(宮
仁和寺宮嘉親王(宮
山階宮親王(宮
島津忠義(薩摩
毛利広封(長州
嶽(越前
山内容堂(土佐)
鍋島閑叟(肥前
慶勝(尾
伊達
正親町三条実愛卿)
中山忠能卿)
中御門経之卿)

参議
岩倉具視卿)
東久世卿)
大原重徳(卿)
長岡良之助(肥後)
西郷吉之助薩摩
小松薩摩
大久保一蔵薩摩
木戸孝允(長州
広沢助(長州
横井小楠(肥後)
八郎越前
後藤二郎(土佐)
福岡次(土佐)
坂本龍馬(土佐)

これを見たは喜んで後藤に回覧し、岩倉卿にも回覧されたやうだ。戸田はその後三条卿に情勢を報告するため太宰府に戻つていつた。

二十四日、後藤の代理人として越前に向かい、廿八日に越前に到着して京都を要請した。 越前滞在時、三八郎といふ者と対談した。職制案の参議に含まれているうちの一人だ。三は以前、越前の財政再建に功があつたが、文久三年の 挙兵上計画に関はつて居中の身だつた。は三に新政権の財政政策について聞きたがつていたのだ。久しぶりにあつた二人は寒い中炬燵に入つて から晩までを飲んで延々とり合つたといふ。

越前を発つたのが11月の初めで、五日に京都に戻つた。京都に戻つたは、大政奉還の余波で動揺が広がる中、船中八策に続く新たな八策を起して、新政権の写真を描いて見せた。これがいはゆる「新政府綱領八策」で、これは直筆の原本が二通現存している。これも同志後藤に回覧された。

第一義
 下有名の人材を招致し、顧問に備ふ
第二義
 有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ、現今有名の官を除く
第三義
 外の交際を議定す
第四義
 令を撰し、新に窮の大典を定む。令既に定れは、諸侯伯皆を奉して部下を率ゆ
第五義
 上下議政所
第六義
 陸軍局
第七義
 親兵
第八義
 皇今日金銀を外均す

右預め二三の明眼士と議定し、諸侯盟の日を待つて。◯◯◯自ら盟と爲り、を以て朝廷に奉り、始て民に。強抗非議に違ふ者は、斷然征討す。貴族も貸借する事なし

丁卯十一月 坂本直柔

◯◯◯とあるのはの事を言つているのか議論が分かれるところだが、これは恐らく「慶喜」であらう。「強抗非議に違ふ者は、斷然征討す」とも書いている。当時大政奉還に反対する者も多かつたからこれに対する威嚇の意味で書いたのかも知らん。

だがはあくまでも平和裏に新体制に移行させたかつたやうだ。先の三との対談では「戦にはしない」とつたといふ。また知人に「長土の間で周旋してきたが、内戦を避けられないかも知れない」と悩みを打ち明けていた。

その傍ら、援隊の事業にも気を配つていた。この時分援隊の商売に関する事柄は陸奥に任せていたやうで、手紙に「陸奥さえウンと言えばヨイ」「陸奥大先生」などと書いている。

、御てもとの品いかゞ相成か、御見きりなくては又ふの(不)と相成。
世界の咄しも相成可申か、儀も峰(白峰駿馬)より与三郎より少々うけたまはり申
頃おもしろき御咄しもおかしき御咄しも実に々山々にてかしこ

拝啓。
然に先生頃御上のよし、諸事御尽御察申上
三郎参、咄聞所、先生の御周旋にて長崎へ参りよし、同人の事は元と太郎(高松太郎)が船の引もつれより、々共ゞ御案内の通のせ話相かけ人にて、ことに援隊外の者にも在之
先生御一人御引うけなればよろしく得ども、隊中人を見付け且、長崎度取入にて養なふなど少々御用心得ば、近立行かざるの御せ話がか〃りと存
小野(高松太郎)生らが一条にか〃る事は小を多少の儀論有之
先承りに付、々一筆さしあげ
   十一月七日   謹言
 
   後と丁中
 四条通室町上る西側沢屋御宿
 陸奥二郎様   才太郎
   御直披

三郎といふ取引相手が長崎に行くから面倒を見てくれといふ手紙だが、これの追伸に「世界の咄し」とある。新しい時代の始まりに、一躍世界にその事業を広げて行きたいと考えていたのだらう。世界援隊つテエだ。忙しい事この上いが、まだやり足りいことは沢山あつただらう。夷の開発もさうだ。これから全てが始まらうとしていたのだ。

注 「新政府綱領八策」は後世の史が付けた仮の名称で、当時なんと呼ばれていたかは不明。

近江屋の変

十一月十五日、京都河原町の近江屋といふ醤油屋に居た。すぐ近くにある土佐邸に入るつもりだつたが、「御許の不都合で邸に入れなかつた」といふ手紙を書いている。赦免されはしたが、内の保守的な雰囲気がそれを許さなかつたのだらう。薩摩吉井幸輔は「ウチの邸に来ればいい」と言つていたが、土佐に対する体面を気にして行かうとしなかつた。

午後五時頃、中岡慎太郎が訪れて話し合つていると、元新選組で御陵衛士といふ組織に分離した伊東甲子太郎といふ男がやつて来た。く「狙はれているから邸に入つた方が善い」と言ふ。は特に何も言はず、中岡が「ご注意かたじけない」とだけ言つた。

伊東が去つた後、午後八時頃、「十津川郷士」と名乗るものがやつて来た。応対した吉といふ者が階段を上がつてに伝えに行かうとした所、突然後ろからられた。物音でが「ほたえな!」と一した。十津川郷士と名乗る数人の刺客は中岡の居る部屋に飛び込んでりかかつた。は額を横にられ、後ろにあつたを取るが今度は背中からられた。で刺客のを防ぐが、頭に二撃を受けて倒れた。中岡も応戦したが、刺客に何度もり付けられて倒れ込んだ。用がすんだ刺客等はスグに立ち去つた。

刺客が立ち去つてからは立ち上がると行をもつて歩き、を手に取つて「をやられた。もう死ぬ」と言つて突つ伏し、死んだ。

人の通報を聞いて同志達が駆けつけたが、手遅れだつた。吉は十六日に死に、事件の言を遺した中岡も十七日に絶命した。昂した援隊士と土佐士らは、新選組いろは丸事件で対立した紀州が怪しいと思い、その後新選組や紀州士を襲撃する事件を起こした。翌年になつてからも新選組が怪しいといふのは変はらず、江戸で捕縛された近藤勇は土佐から「坂本龍馬暗殺」を罪状に問はれて斬首された。

だが新選組犯人ではかつた。明治三年(1870年)二月の役の時、函館で捕縛された今井信郎なる者が、近江屋の一件について詳細な供述をしたのだ。今井京都見廻組に所属しており、当日見組与頭の佐々木只三郎に呼び出され、近江屋に向かつた。実行犯は佐々木今井の他、渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助土肥仲蔵桜井大三郎の計七人で、全て見組の組士だ。

佐々木号令の元、近江屋に向かい、渡辺高橋の三人が二階に上がつて中岡つた。今井土肥桜井と一緒に下で見りをしていたが、佐々木示したのかまでは分からないと言つた。供述を受けた刑部省は、当時見組を配下に置いた元京都役の小笠原弥八郎を取り調べたが、小笠原は「見組は実質佐々木只三郎揮しており、自分は知らない」と言つた。供述が認められたため、それ以上は追及されなかつた。

おれもこの件について旧幕臣と話したことがあつたケド、その話の中では榎本が怪しいと言はれた。榎本と言つても釜次郎(武揚)ぢヤあなく、付の榎本対馬守といふ者だが。

結局佐々木に命じたのか、ハツキリした事は分からなかつた。ただ、佐々木会津出身である事、会津の用人・手代木直右衛門佐々木の実で、浪士の取り締まりをやつていた事。そして近江屋がちやうど京都守護職と見組の担当区域にある事。これらを含めて考えれば、手代木から佐々木に命が下つたと考えるのが妥当だらう。手代木から命じられたか。それはまう言ふまでもなからう。

の死後、西郷等が王政復古し時勢は急変した。慶喜は君側の奸を除くと言つて、伏見でヘマをやつて逃げ帰つて来た。それで正月の何日であつたか、急に呼び出しが来て「上様がお帰りになつた。安房守を呼べといふ仰せだ」との事だ。軍局に行つてみると、慶喜も他の者も菜のやうで少しも勇気はない。おれはひどく罵つたが、かくまで弱つているかと涙のこぼれるほど嘆息したよ。

江戸に帰つたら慶喜が泣きつくから陸軍総裁になつたヨ。それで一翁と一緒に待ち構えていたら、果たして西郷が出てきおつたワイ。官軍に西郷が居なければ話はとても纏まらなかつただらうヨ。手紙一本で芝、田町の薩摩屋敷までのそのそと談判に来たヨ。いよいよ談判となると、西郷はおれのいふ事をいちいち信用し、その間一点の疑念も挟まなかつた。「いろいろむつかしい議論も有りませうが、私が一身にかけてお引受けします」西郷のこの一言で江戸万の生霊も、その生命と財産を保つことが出来、また徳氏もその滅亡を免れたのだ。

ナアニ、江戸明け渡しの時は、スツカリ準備してあつたのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あつちが辜の民を殺す前に、コチラから焼き討ちのつもりサ。後で西郷と話して「あの時は、ひどいにあはせてやらうと思つてた」と言つたら、西郷め「アハゝ、その手は食はんつもりでした」と言つたよ。

維新の残夢

が遺した援隊だが、その後慶応四年(1868年)四月に土佐の命で解散せられている。お三吉慎蔵の元にしばらく身を寄せていた。はもし自分の身になにかあつたら三吉に保護して貰うやうに頼んでいたらしい。その後、坂本に預けられたが、あまり長く居続けることができなかつた。その後は各地をフラフラして、西郷やおれのところにも来たことがあつた。明治八年(1875年)に大芸人結婚して細々と暮らした。

「新政府職制案」「新政府綱領八策」がどうしたか?アーあれは新政府が受け継いだヨ。王政復古の時の総裁・議定・参与はほぼ「新政府職制案」と同じだからネー。多分岩倉卿辺りが採用したんだらうよ。「新政府綱領八策」は、翌年の「五箇条の御誓文」の原になつた。

維新のことは忘れられていつたが、明治十六年(1883年)、高知の土陽新聞に主人公にした小説「汗血千里の駒」が連載され、大層評判になつた。これによつて坂本龍馬といふ男がかつて大活躍したことが世に知られるやうになつたのサ。それから後世の史作家によつて広く人口に膾されるやうになつたことは言ふまでもあるマイ。

サテ、おれの話はこれでおしまいだ。何か聞き残しはあるカエ?

坂本龍馬の人気の秘密?さうさナー。志半ばで斃れたが故に可性を感じさせるのかも知らん。「もしアイツが生きていたら」つて思はんカエ?板垣は「坂本が生きていたら五代才介や岩崎弥太郎のやうな実業になつていただらう」なんて言ふけどネー。しかしよくまあこれだけたくさん出版されるモンだ。それにべておれの本なんか本当に少ネー。

マア色々読んで御覧なさい。もしかしたら、自分が考えていた像と違う新たな側面が見えてくるかも知れない。ことによつたら幻滅するかも知れない。ひよつとしたらますます気に入るかも知れない。毀誉褒貶、過大評価、過小評価、異説、奇説、いろいろあるだらう。

だが子、あいつは人物だつたよ。

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坂本龍馬について語るスレ

159 : ななしのよっしん :2015/10/17(土) 14:12:05 ID: LzlHja/wN2
いろは丸の沈没事件で、たかが一商人の坂本龍馬ごときに紀州が賠償を支払ったのは、坂本龍馬の背後に紀州が恐れるほどの勢がいたから。つまり坂本龍馬ユダヤ資本(が操るイギリス)の工作員だった」
する陰謀論者がいた

失笑しながらも「坂本龍馬の後ろだったのは後藤二郎だろ」と気にマジレスしたら
「そんなどっかのかが何だって?相手はだぞ?個人を相手にすると思うのか?おまえ馬鹿か?」
という信じられない返信が来て、もう笑いも起きなくなった
まさか土佐の実権を握ってた参政の後藤二郎を知らないとは……
つー後藤の名前ぐらいは小学校の授業で習うだろ
160 : ななしのよっしん :2015/10/18(日) 19:04:29 ID: 8NEKGZeLh2
>>158
千葉場に通ってた頃のにそんなはないだろう。
161 : ななしのよっしん :2015/10/23(金) 20:17:10 ID: 1YDA8n03eq
エイシャア・・・ヨイシャ!
162 : ななしのよっしん :2015/11/13(金) 19:07:49 ID: mjOekXShXY
死後の坂本には愛知県から養子が入ったようですな
http://www.47news.jp/CN/201511/CN2015111301001873.html
163 : ななしのよっしん :2015/11/20(金) 19:10:53 ID: mjOekXShXY
の腕前が弱かったと言われているのは
どうやら、最終義を学んでいなかったから
面が未熟で不意打ちに対応できなかったからだった模様
http://news.livedoor.com/article/detail/10854685/
164 : ななしのよっしん :2015/12/18(金) 19:20:46 ID: mjOekXShXY
郷土史いたが
例の免許皆伝の文書を鑑定した京都博物館の人間って
ただの芸者の写真おりょうの若き日の写真だと気でをついたり
あんま評判良くないらしいな
165 : ななしのよっしん :2016/01/11(月) 15:56:39 ID: r7c14X7WKO
売国やってる幕府の政策をめさせなければ

言葉だけでは駄、武がいる

先達たちの交渉を引き継いで雄同盟だ

を付けすぎた長が暴走しそうで困る。内戦はダメ、絶対

新政府作って慶喜有能な幕閣も参加させよう

先生の知り合いにられてしまった。長が江戸で起こしたテロのせいじゃない…
166 : ななしのよっしん :2016/01/13(水) 00:20:40 ID: s2TvhpX8UK
>r7c14X7WKO
そんな哀れな妄想を書いている時間があるならここの関連商品にある本の一つでも買ってまともに学んでくださいな
167 :     :2016/02/28(日) 19:13:46 ID: 2zijrLjyqL
が正規の教育を受けたのは10代前半に学塾に通ったぐらいで今なら中卒程度の学しかないから字が汚いのは仕方がない
168 : ななしのよっしん :2016/07/04(月) 23:26:02 ID: ECO+9U9i0l
>>165のように「は内戦回避のために慶喜や幕閣を参加させようとした」という意見をちらほら見るが
後藤宛ての手紙を見るかぎり、どう見ても慶喜を傀儡にする気だったとしか思えない
間違っても旧幕府への温情とかじゃないな
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