単語記事: 坂本龍馬

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何?坂本龍馬のことが聞きたい?

ずつと昔ブン屋に話したやうな事の繰り返しになるかも知れんが、よいかノー。

概要

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坂本龍馬は天保六年(1835年)十一月十五日に生まれた。諱を直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)と変えておる。

龍馬の生家は郷士坂本家。才谷屋と言ふ豪商から分家して、わざわざ薄給の郷士身分になつた変はり者の一族だ。

長男の権平とは年が二十一も離れており、この兄との間に千鶴、栄、乙女といふ三人の姉妹がおつた。

十二歳の頃母親の幸が亡くなり、その後は父八平の後妻である伊与に育てられた。

幼少期は何やら冴えない感じで、夜尿の癖のある洟垂れ小僧だつたらしく、この継母と三女の乙女には特に厳しく躾けられた。

乙女は身の丈5尺8寸(176cm)、体重30貫(113kg)といふ堂々たる体格で、「坂本のお仁王様」と呼ばれる女傑だつた。

実母が亡くなる前後に、一度城下町の塾に入門したが、上士の子と喧嘩したのが原因でやめてしまつたため、それ以後は乙女から学問や剣術を習つた。

嘉永元年(1848年)、十四歳の頃に近所の小栗流日根野道場に通い始めてからは、人が変はつたかの如く稽古に励み、周りの者たちの見る目も変はつていつた。

「道場へ来て龍馬は心機一変、おねしょうも、泣き虫も一ぺんに飛んでしもうた。
朝はまっ先に、夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、おもしろうてたまらん。
そんな気持ちでなんぼでもやる。
『坂本もうよかろう』というと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる」
(橋詰延寿『坂本龍馬の師匠』)

嘉永六年(1853年)、十九歳の時に日根野道場にて「小栗流和兵法事目録」を授けられると、更なる剣術修行を求めて江戸へ行く事になつた。

さて、嘉永六年といふと何の年か分かるかね?まあその辺は追々、といつてもすぐ話す事になるだらうヨ。

注 誕生日を11月15日と断定しているが確定ではないことに注意。

黒船来航

日根野道場で目録を得た後、龍馬は土佐藩庁から十五ヶ月の修行期間を認められて、剣術修行の為江戸に赴いた。着いたのは四月もしくは五月と言はれておる。

江戸では北辰一刀流の千葉道場に通つていたが、六月、亜米利加の艦隊が江戸湾にやつて来て俄に世情が騒々しくなつてきた。この時龍馬は土佐藩の警備隊として出動していて、黒船が去つた後、九月二十三日付で実家に手紙を書いている。

一筆啓上仕り候
秋気次第に相増し候処、愈々御機嫌能(よく)御座成らせらる可く、目出度千万存じ奉り候
次に私儀無異に相暮申し候 御休心成下らる可く候
兄御許にアメリカ沙汰申し上げ候に付、御覧成らせらる可く候
先ずは急用御座候に付、早書乱書御推覧成らせらる可く候
異国船御手宛の儀は先ず免ぜられ候が、来春は又人数に加わり申す可く在じ奉り候

  恐惶謹言
  龍
 九月廿三日

 尊父様御貴下
御状下せられ、有難き次第に在じ奉り候
子御送り仰せ付けられ、何よりの品に御座候
異国船処々に来り候へば、軍も近き内と在じ奉り候
其節は異国の首を打取り、帰国仕る可く候 かしく
(『嘉永六年九月二十三日 父坂本八平直足宛 坂本龍馬書状』)

「異国人の首を打ち取る」など随分勇ましい事を書いておるノー。後年の龍馬からは一寸想像が付かないが、あのご時世ぢやこのぐらいの気概はあつて然るべきだらうヨ。実際にやるかだうかは別だがノー。

この後十二月に西洋砲術を学ぶ為、佐久間象山の塾に入門しておる。この佐久間と言ふのは奇妙な顔つきをしたちよこちよこした男でノー。学識に任せて相手を脅しつけるやうなところがあるから、龍馬もこの男に習ひ事をするのは苦労したんぢやないかネ。

高知にて

嘉永七年(1854年)六月、龍馬は一旦修行を終えて土佐藩に戻つた。戻るとすぐに高知城下有数の知識人と評判だつた河田小龍と言ふ変はり者と面会し、時勢を語り合つている。好奇心が強かつたのだらう。

「時態の事にて君の意見必ずあるべし、聞きたし」

と龍馬が問ふと河田は

「如何ともして、一艘の外船を買い求め、同志の者を募り之に附乗せしめ、東西往来の旅客官私の荷物等を運搬し、以って通便を要するを商用として船中の入費を賄い、海上に練習すれば、航海の一端も心得べき小口も立べきや」

と答えた。この答えに龍馬は手を打つて喜び、龍馬は船の購入を、河田は有志となる人材の確保をお互いに約束した。実際河田の弟子である近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助など、後に海援隊の同志となる人材が龍馬の下に集まつていく事になる。

しかし、この時分から既に蒸気船を利用した貿易を目指す志を持つていたなら、やはり凡夫ではあるマイよ。

再び江戸へ

安政三年(1856年)七月、二十二歳になつた龍馬は再び江戸に向かい、以前通つていた千葉道場で再度剣術修行に励んでいる。安政五年(1858年)の正月には『北辰一刀流長刀兵法目録』を授かつた。剣技もなかなかのものだつたやうだ。

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千葉周作、定吉、重太郎に混じつて女性の名前のあるのが分かるだらう。これは龍馬たつての願いといふ事で師である定吉が書き加えたものだ。定吉も満更でもなかつたやうで、名前の載つている佐那の証言によると、自分との縁組のため龍馬の実家に手紙を書いたりしていたさうだ。

…何?龍馬が授かつたのは刀ではなく薙刀の目録ではないか?

確かにその通り。だが、前述の佐那の証言として「父は龍馬さんを塾頭に任じ、北辰一刀流目録を授けました」といふのもあるからノー。単に現存していないだけ、といふことも有り得る。マアそんな詮索は福沢みたいな学者に任せておけばイイサ。

安政五年(1858年)九月に帰郷してからしばらくの間はこれといつて目立つ活動はない。土佐国境に来た水戸藩過激派に呼び出されて応対したことくらいしか記録に残つていないやうだ。

龍馬の活動についての記録が再び確認できるのは文久元年(1861年)、土佐勤王党の結成まで待つ必要がある。

注 平成27年(2015年)、薙刀以外に『北辰一刀流兵法皆伝』を取得していたことを示す文書が見つかったと報道された。リンク参照。

土佐勤王党

この一年前、即ち安政七年(1860年)の三月三日、江戸で大事変が起きた。いはゆる桜田門外の変だ。井伊掃部守が登城中に水戸と薩摩の浪士に暗殺され国内騒然、各地の血気盛んな浪士達も触発されて鬨の声を上げ始めた。

おれはこの頃亜米利加に渡つていたんだが、帰国して浦賀に上陸した途端いきなり幕吏が現れて「水戸藩の者はいるか」などと聞くから「亜米利加には水戸人は一人も居ないから直ぐ帰れ」と冷やかしてやつたよ。しかし、桜田の変について聞いた時分には幕府はとても駄目だと思つたサ。

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武市半平太

さて龍馬だが、この年土佐藩ではその後の政局に関はる出来事が起こつている。土佐勤王党の発足だ。首領は武市瑞山、通称武市半平太といふ男だ。この者は江戸の桃井道場で剣術師範を勤めたほどの達人で、土佐でも剣術道場を主宰しており、土佐藩郷士達から多いに人望を集めていた。また龍馬の友人でもありお互いに「武市のアゴ」「龍馬のアザ」と呼び合うくらい仲がよかつたといふことだ。

その武市が郷士達を糾合して文久元年(1861年)の八月に結成したのが土佐勤王党だ。総勢190名以上が血判し、土佐藩内の一大勢力を形成した。龍馬はこの血盟書の九番目に署名している。

勤王党に加盟した龍馬は十月十一日に讃岐の丸亀藩に剣術修行に出向いている。土佐藩郷士・樋口慎吉の日記『遣倦録』にある「坂龍飛騰」といふやつだ。その後、長州の久坂玄瑞と面会するため萩に向かつた。讃岐に赴いたのは表向きの理由は剣術修行だつたが、真の目的は各地の情勢視察と武市の書状を久坂に届けることだつたやうだ。萩に着いたのが翌年の正月十四日と久坂の日記『江月斎日乗』にある。

「此度、坂本君御出浮在らせられ腹蔵無く御談合仕り候頃、委曲御聞取り願い奉り候。竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合義挙の外には迚も策之無き事と私共同志中申し合い居り候事に御座候。失敬乍ら、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」

(久坂玄瑞『江月斎日乗』)

激越な尊攘論者で知られる久坂と話し合い、何か思ふところがあつたのかも知らん。この後龍馬は土佐に戻り脱藩することになる。

脱藩

文久二年(1862年)二月末、龍馬は高知に帰還した。その頃地元では武市が参政・吉田東洋に対して盛んに勤王論を建白していたが、吉田は書生論として取り合はなかつた。そこで吉田を暗殺しやうといふ動きが勤王党で持ち上がつてきた。そして三月廿四日、龍馬は土佐を離れ、脱藩浪人と相成つた。

何故龍馬が脱藩といふ思い切つた行動に出たのかについては諸説あるが、おれは勤王党の過激な路線に違和感を感じたんぢやないかと思ふヨ。古今暗殺で大業を成す者はおらんからネー。

因みにこの時の有名な逸話で、兄の権平が猛反対して刀を隠し、次女のお栄が刀を授けたといふのがある。だがお栄は弘化年間(1844年から1847 年)、つまり脱藩の十五年以上も前に亡くなつていることが分かつている。おそらく後世に誤つた伝承が伝えられたのだらう。

話を戻す。その後の経路だが先に脱藩していた沢村惣之丞といふ男が龍馬を迎えに来て瀬戸内海を渡り、廿九日に下関に到着。豪商・白石正一郎の屋敷に泊まつてから九州に向かい、薩摩に入ろうとしたが入国できなかつたため、断念して大坂に向つたと伝はる。「伝はる」といふのは、この時期の龍馬の足取りには確かな証拠がなく、伝聞に基づく説に頼らざるをえないのだ。

確実な龍馬の動静が確認されるのは七月、樋口慎吉の日記に「龍馬と会つて一両を贈つた」とある記述がそうだ。

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松平春嶽

樋口はこの時分大坂に居たから龍馬も大坂に居たのだらう。

続いて九月、土佐藩郷士の間崎滄浪が江戸滞在中に書いた書状の中に登場する。七月から九月までの間に江戸に移動していたやうだ。この後また京都と江戸を行き来している。

十一月、今度は久坂玄瑞の日記に現れる。日付は十一月十二日で、久坂の他高杉晋作と武市瑞山が居合はせて酒を飲んだとある。中々愉快な面子ぢやないか。

十二月五日、今度は大胆にも越前藩の松平春嶽公の元を訪れている。これには間崎滄浪と近藤長次郎も同行していたやうだ。この時龍馬は春嶽公に大坂近海の海防策について意見を述べた後、おれへの紹介状を書いてくれと頼んだ。そして十二月廿九日、文久二年の大晦日に龍馬はおれの元を訪れたワケだ。

注 坂本龍馬脱藩の理由を語っているが、これはあくまでも仮説の1つと見た方がいい。

勝麟太郎

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勝海舟

この時龍馬は千葉道場の若先生こと千葉重太郎を伴つてやつて来た。奴らはおれを斬りに来たんだが、おれは笑つて受けながら鎖国の非と開国の是なる事、海軍の必要性と詳細な海軍創設計画を聞かせて説き伏せた。すると龍馬は、もしおれの説いかんによつてはおれを刺そうと思つたが、その説を聞いて自らの固陋を恥じ、これよりおれの門下生になりたいと言つたのサ。

…何やら不服さうだが。何か聞きたいことでもあるかエ?

…ヘー。龍馬には初めから殺意など無く、おれに弟子入りするために面会しに来た、と言ふ説があるのか。更に初対面は廿九日ではなく九日だつたのではないか、と。

なるほど確かに文久二年十二月のおれの日記にはかうある。

「此夜、有志両三輩来訪、形勢の議論有り」(十二月九日)

(勝海舟『海舟日記』)

この有志両三輩の内の一人が龍馬ではないかと言ふことか。さう言えば廿九日に会つた場所は兵庫だつたかも知れんノー。忘れてしまつたワイ。耄碌しとるからノー。往時茫々夢のごとくだ。

だが確かに憶えている事はある。あいつは落ち着いて、何となく冒しがたい威権があつて、よい男だつたよ。

勝に弟子入り

さてもさても、人間の一世はがてんの行かぬは元よりのこと、運の悪いものは風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。それと比べては私などは運が強く、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、自分で死のうと思うてもまた生きねばならんことになり、今にては日本第一の人物勝憐太郎殿という人の弟子になり、日々思いつくところを精といたしおり候。其故に私四十歳になる頃まではウチには帰らんように致し申つもりにて、兄さんにも相談致し候所、この頃は大いにご機嫌よろしくなり、そのお許しがいで候。国のため天下のため力を尽くしおりもうし候。どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。

三月廿日
乙様

御つきあいの人にも極御心安き人には内々見せ かしこ

(『文久三年三月廿日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

おれのところに来てから四ヶ月ほど後に龍馬が姉の乙女宛てに書いた手紙だ。実に生き生きして楽し気だ。「日本第一の人物」だつてサ、アハゝゝ。

話は少し遡る。おれの門人になつた龍馬は大坂に向かつた。この時分おれは海軍奉行並として幕府のみならず諸藩有志も含めた一大共有の海局を興す事に苦心していて、その為の根回しをしていた。龍馬もその活動に付き合はせたのサ。

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山内容堂

文久三年(1863年)一月、大阪を経て兵庫に居たおれのところにやつて来た龍馬は、土佐藩の同志を何人かおれの門人として入門させた。龍馬の甥である高松太郎。菅野覚兵衛、この時分は千屋寅之助と名乗つていたつけ。それに望月亀弥太。この三人はみな土佐勤王党の参加者で、土佐藩庁から海軍修行を命じられていたこともあつて、おれの元で修行することになつた。

帰府する時は龍馬もおれと一緒に幕府の軍艦順動丸に同船した。その帰途、下田に入港した際、土佐藩の山内容堂公が停泊していた。ちやうど良い機会だつたので、容堂公に会つて龍馬ら脱藩者の赦免を願うことにした。容堂公は天資豪宕、襟懐洒落、英雄の資質を備えたお方で、詩や書画にも通暁しておられた。おれが直談判して、容堂公が赦免の証として瓢箪の絵を描き「鯨海酔侯」と記した扇を頂いたのがこの時だ。

江戸に戻ると昭徳公や春嶽公が海路で京都に向かう計画が持ち上がつていて、一月廿三日に春嶽公が順丸で出帆、龍馬もこれに同行した。

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大久保一翁

大阪に着いた龍馬は二月廿二日に京都の土佐藩邸に出向いて三日後の廿五日に脱藩の罪を正式に免じられた。三月六日には土佐藩庁から航海術の修行が命じられている。そんな中書いたのが先の手紙だ。

龍馬は再度江戸に戻り、沢村惣之丞他数人を引き連れて四月の初め頃に大久保一翁と面会している。

この面会で一翁は龍馬と沢村を「大道解すべき人」と判断して「素意の趣」を語つたところ、両人は手を打つばかりに解した、と横井小楠宛の手紙に書いている。

「素意の趣」とは恐らく当時一翁が唱えていた政権返上論だらう。朝廷の攘夷督促を拒否出来なければ政権を返上して徳川家は東海地方の一大名になるべきであるといふ後の大政奉還に連なる考えだ。この時の体験は後の龍馬の活動において大きな意味を持つので覚えておくとヨイ。

勝塾にて

四月廿三日、この日はおれにとつて忘れ難い日だ。大阪湾の視察にやつて来た昭徳公に対しておれが海軍操練所の創設を直接申し上げた。この時の将軍は昭徳公、つまり第十四代将軍・徳川家茂公だが、この方はまだ若年ではあつたがなかなか聡明なお方で、即決でご快諾頂いたのだ。それまでの苦労が一辺に吹き飛ぶほど嬉しかつたヨ。

操練所開設前のお膳立てとして海軍塾を開くことにしたのだが、塾を開くのには何かと入用だつた。そこで春嶽公に資援助を受けるため、龍馬を越前藩に向かはせた。五月十六日のことだ。

此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎といふ大先生に門人になり、ことの外ほかかはいがられ候て、先ず客分のよふなものになり申候。

ちかきうちには大阪より十里あまりの地にて兵庫といふ所にて、おおきに海軍を教え候所をこしらへ、又四十間五十間もある舟をこしらへ、弟子どもにも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗の稽古もいたし、稽古船の蒸気船をもって近々のうち土佐の方へも参り申候。その節御目にかかり可申候。

私の存じ付けは、このせつ兄上(坂本権平)にもおおきに御同意なされ、それわおもしろい、やれやれと御申しの都合にて候あいだ、いぜんも申候通り、軍さ(いくさ)でもはじまり候時はそれまでの命。

ことし命あれば私四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまへ。

すこしヱヘンかおしてひそかにおり申候。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれ(徒然草)にもこれあり。猶ヱヘンヱヘン。 かしこ

五月十七日  龍馬

乙女大姉御本

右の事は、まずまずあいだがらへもすこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりにて御聞きおき。 かしこ

(『文久三年五月十七日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

「ヱヘン顔」など得意になつているワイ。おれもこの時分はヱヘン顔だつたヨ。

越前に着いたのが五月の下旬で、無事春嶽公から千両の支援を受けることに相成つた。この越前行きの際に、後年新政府の融財政政策を司る三岡八郎や、春嶽公の政治顧問をしていた横井小楠と知遇を得、龍馬なりに人脈を築いていつたのだ。

おれの塾も盛況で、さつき挙げた連中の他にも、龍馬と脱藩した沢村惣之丞。饅頭屋こと近藤長次郎。岡田以蔵といふ凄腕の剣客も居たつけ。岡田は刺客を撃退しておれの命を救つてくれたが、「人を殺すのを嗜んではいけない」と忠告したら、「先生それでもあの時私が居なかつたら先生の首は既に飛んで居ませう」と返されて流石のおれも一言もなかつたよ。他には紀州から来た伊達小次郎といふ腕白者が居つた。後に陸奥宗光といふ名で知られる。あれはおれが紀州から連れて来た連中のウチの一人で小利口な才子だつたよ。

塾頭カエ?塾頭は龍馬だつたよ。マア聞きたいことはおゝよそ察しがつく。「海軍塾の塾頭は龍馬ではなく佐藤与之助だつたのではないか」といふことだらう。答えはカンタンだ。二人とも塾頭だつたんだよ。これを見なさい。

同人義、この節順動丸乗組手足り申さず、旁(かたがた)乗組み申付け置き候義にもこれあり、且御屋敷より修行仰せ付けられ居り候四五輩は、かねて容堂様へ御直に申上げ熟達も仕り候、同人輩も別段奮発激励致し居り、その上坂本義は塾頭申付け置き、御船手足り申さざる節は乗組ませ候儀に候

(『文久三年十二月六日 土佐藩目付宛 勝海舟書状』)

「これはあくまでも土佐浪士たちの筆頭が龍馬だつたと言うだけであつて、塾頭であつたことを示すものでは無い」だつて?ヘーさう来たか。だがおれは確かに龍馬を塾頭にしたヨ。

サアーどつちが真実か?その辺りはものの本でも読んで自分で考えて御覧。ドーダおれはずるい奴だらう、エ。

日本をせんたくいたし申候

ともあれ、こんなあばれものを集めて国家の進運を妨害する門閥階級を打破し、大いに人材登用の道を開いてやらうと思つていたのサ。

だが時勢は徐々にきな臭くなり、操練所の先行きにも陰が差し始めた。五月十日、幕府が朝廷に約束した攘夷決行の日に、長州藩が本当に攘夷を開始したのだ。まさか本当にやるとは思つて無かつたから幕府も慌てた。しかし一旦は異国船を打ち払うことに成功した長州藩だつたがすぐ逆襲に遭つて苦境に立たされることになる。

日本を今一度せんたくいたし申候」といふ台詞はこの時のものだ。少々長いから全文は引用せぬ。全文が見たけりやグーグルで調べるがよい。

然に誠になげくべき事はながとの国に軍(いくさ)初り、後月より六度の戦に日本甚利すくなく、あきれはてたる事は、其長州でたたかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし 又長州でたたかい申候。
是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものにて候。
右の姦吏などはよほど勢もこれあり、大勢にて候へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先づ神州をたもつの大本をたて、夫より江戸の同志はたもと大名其余段と心を合せ、右申所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願にて候。
此思付を大藩にもすこむる同意して、使者を内内下さるる事両度。

(『文久三年六月廿九日 坂本乙女宛 坂本龍馬書状』)

要旨は「幕吏が外国と内通し、軍艦を修復して長州と争はせているのはけしからん。二三の大名や江戸の同志を朝廷の元に集めてこの姦吏を打ち殺してしまいたい。この思いは大藩も頗る同意している」といふ事だ。いかに長州の攘夷が無謀であろうと、外国の軍艦を修理してあまつさえ同じ国の者にけしかけるとは何事だと憤つている。この頃から幕府に代はる新しい政治体制が必要だと思い始めたのだらう。大藩といふのは越前藩の事で、当時この藩では挙兵上京して諸藩を主体とした新政権を立てる計画があつたやうだが、この件についてはマアそのうち別の場所で語られることもあるだらう。

神戸海軍操練所

かれこれするうちに京都で政変が起きた。いはゆる文久三年八月十八日の政変といふやつだ。薩摩と会津の提携によるこの政変で尊王攘夷派は京都から逐はれ、公武合体派が朝廷の主導権を握つた。土佐藩でも勤王党関係者が捕縛され、十二月には龍馬ら土佐出身の塾生にも帰国命令が出た。おれはさつき見せた書状のとおり帰国の延期を求めたんだが土佐藩庁が承知しなかつた。畢竟龍馬は再度脱藩せざるを得なくなつた。

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横井小楠

年あけて文久四年(1864年)二月、京都から呼び出しを受けて上京すると、慶喜公から「仏蘭西が下関を攻めるらしいので、長崎に行つて阻止するための交渉をせよ」と命じられた。

ツマラン仰せ付けだと思つたが他の目的も兼ねて行くことになつた。龍馬ら門人も同行させている。十九日だつたかに肥後に到着して龍馬はここで船を降り、おれはそのまま長崎に向かつた。龍馬が肥後で降りたのは当時越前から肥後に戻つていた横井小楠に会はせるためだ。

横井は当時、無腰で茶屋から逃げて藩で閉門を食つてる時だつた。龍馬から操練所の状況を聞いた横井は「海軍問答書」を長崎にいたおれに送り、二人の甥を操練所に入れるため龍馬に預けた。この「海軍問答書」といふのがエラく画期を成す内容で、その思想の高調子な事は、おれなどは梯子を掛けても及ばぬと思つたヨ。

四月十三日に大坂に戻つたんだが、この時期に龍馬は後の伴侶であるお龍こと楢崎龍と知り合つている。ずつと後になつてお龍が語つたところによると、当時お龍は京都七条新地の「扇岩」といふ旅籠に勤めて居つた。母親が方広寺に留守居として住んでいたため通つていたところ、そこを根城にしていた龍馬と出会つたんださうだ。お龍に一目惚れした龍馬は母親に掛けあつて、そのまま婚約してしまつたといふことだ。

五月十四日、おれは軍艦奉行に正式に就任し、廿九日に神戸海軍操練所が開設した。紆余曲折あり、必ずしも思い通りに運んだワケではなかつたが、漸く幕府・諸藩の壁を超えた海軍への第一歩を踏み出した。

だがその矢先に大事件が立て続けに起こつた。

注 「横井は当時、無腰で茶屋から逃げて藩で閉門を食つてる時」とは、横井小楠が江戸滞在時に襲撃を受け、独りで逃走した士道忘却事件の事。

池田屋事件・禁門の変

元治元年(1864年)六月五日夜分、旅籠・池田屋で新選組と尊攘浪士による乱闘事件が起きた。肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿の他、可哀想に龍馬がおれの塾に連れてきた望月亀弥太も殺されてしまつた。この事件のとばつちりで佐久間象山も河上彦斎といふ恐ろしい男に殺されてしまつたがそれは本筋でないので置いておく。

知らせを受けた長州藩では激派の進発論が抑えられなくなり京都に闖入。宮闕を犯して薩摩や会津の兵と衝突したのは七月十八日のことだつた。あの日おれは神戸の海軍仮局に居たところ、夜になると東の空が真赤に見えたからこれはなにか変はつた事が起きたに違いないと思つた。

大阪城では何がどうなつているのか斥候を出せと議論があつたが、誰も深入りしないからおれが自ら斥候になつて行つてみると、川を下つてくる船に三人の長州人らしき連中が乗つていて、おれの前に上陸してきたから何をするかと思つていたらいきなり刺し違えて死んでしまつた。これは長州は既に敗れたのだなと悟つた。

これらの事件で先の望月のやうに塾生達が関はつていたことが幕閣に露見し、馬鹿馬鹿しい話だがおれに謀反の嫌疑がかけられた。操練所の存続も危なくなり龍馬ら塾生達の身の上をどうにかしてやらねばと思つていたところにあの男が現れたのサ。

注 禁門の変は7月19日。

西郷吉之助

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西郷隆盛

おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。すなはち横井小楠と西郷南洲とだ。

この年の九月におれは西郷と会つたが、その前に龍馬が西郷に会つて見たいといふから添書を書いて会はせてみた。その後龍馬が戻つて来て言ふには、

なるほど西郷といふ奴はわからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口だらう

と言つた。実に知言だと思つたよ。面会した時、その意見や議論はむしろおれのほうが優るほどだつたけれども、いはゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、おれはひそかに恐れたよ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。

おれは西郷に龍馬達の保護を要請し、西郷は快く応じてくれた。薩摩にしても、龍馬達のやうな航海技術者はその時どうしても欲しかつたから、この機に人材を確保しておこうと思つたのだらう。

近藤長次郎ら同志を先に薩摩へ送り出した龍馬はしばらくの間江戸に居たが、元治二年(1865年)三月に江戸を発ち、四月五日までには京都の薩摩藩邸に入つた。この日、同じ土佐脱藩浪士の土方楠左衛門と会つたことが土方の日記に見られる。土方は当時既に中岡慎太郎と共に薩長和解を模索して奔走していた最中で、龍馬もその話を聞いたかも知らん。

注 海舟日記の元治元年(1864年)8月3日に「薩吉井幸輔、龍馬同道にて上京」とあり、龍馬は薩摩の吉井幸輔と上京後、吉井の紹介で西郷と会ったと思われるため、勝の紹介状というのは嘘か勘違い。

奔走

慶応元年(1865年)4月廿ニ日、龍馬は西郷や小松帯刀らと共に鹿児島に向かつた。幕府がまたぞろ長州再征を言い始めたために藩としての方針を仰ぐ必要があつたためだ。

二週間ほど西郷宅に滞在した龍馬は、薩摩の方針が長州再征には反対でむしろ長州との和解を望んでいることを見届けて、五月十六日に鹿児島を発つた。土方の話を聞いて、この先天下を制するのは薩長両藩と見込んだ龍馬は和解のための奔走を始めた。

目的地は文久の政変で京都を逐はれた五卿の居る筑前太宰府だが、その前に肥後に立ち寄つて逼塞中の横井小楠と面会した。二人は長州征伐の是非について議論し、横井は肥後藩が長州征伐に参加することを是としていた。そのため意見が対立した龍馬は横井から絶縁宣言された。この時分横井は逼塞していたから長州が密かに開国策に転じたことを知らなかつた。だからこの時は龍馬と意見が別れたのだらう。後に龍馬が手掛けた大政奉還については賛意を示している。

横井と別れた龍馬は太宰府に向かつた。廿三日に到着し、五卿と面会した龍馬は薩長の和解について話した。この時の面会が興に入つたのか、五卿の一人東久世通禧卿がこんな事を日記に書いている。

五月廿五日

土州藩坂本龍馬面会、偉人なり、奇説家なり

(『東久世通禧日記』)

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中岡慎太郎

この後太宰府に居た長州藩士達に薩長和解の策を申し入れ、当時桂小五郎と名乗つていた木戸松菊にその旨を伝えさせた。廿八日に大宰府を出て閏五月朔下関に入つた。六日に木戸が龍馬の元を訪れ、西郷との面会を了承して到着を待つことになつた。

二人とも西郷の到着を心待ちにしていたが、豈図らんや西郷は来なかつた。廿一日、西郷を連れて来るはずだつた中岡は一人で下関の龍馬の元に現れた。ワケを聞くと、京都に重大な用件が出来たとか言つて京都に向かつてしまつたと言ふ。仕方なく二人で木戸に会いに行つて説明すると、案の定プリプリ怒り始めた。「薩摩に一杯喰はされた!もういい、帰る!」つてネ。

二人で何とか宥めると、木戸は薩摩との和解の条件として、相手側から正式の使者を出す事、武器や軍艦の購入を長州の代はりに薩摩名義で行う事を龍馬達に伝えた。当時幕府による長州再征が噂されていて、長州としては少しでも武備を整えておきたいと思つていたのサ。

木戸の要請を受けた二人は、廿九日に下関を発ち、西郷に談判するため京都に向かつた。

亀山社中

七月十六日、龍馬らの談判の結果を確認した木戸は、伊藤俊輔と井上聞多の二人を武器購入の交渉役として長崎に派遣した。前年の禁門の変で朝敵扱いの長州は、武器の購入を幕府から差し止められていたので、薩摩藩士の名義を借りての隠密活動だつた。

廿一日、長崎に着いた二人は千屋寅之助と高松太郎に会つた。千屋と高松については憶えているカエ?かつて龍馬がおれの塾に連れてきた連中だ。千屋と高松の他、新宮馬之助、沢村惣之丞、近藤長次郎らも薩摩から長崎に出て居つて、この時分にいはゆる亀山社中を発足させている。これは薩摩藩の支援の元、海運事業や交易の斡旋を行う組織で、株式会社の嚆矢などと言はれている。

さてこの亀山社中だが、実は龍馬達はこの結社を「亀山社中」と称したことは一度も無く、単に「社中」とのみ呼んでいた。そもそも社中と言ふのは「神社の氏子仲間」と言ふ意味の言葉が「仲間」を意味する言葉として利用されるやうになつたもので、特別な名詞ではない。亀山は当時長崎にあつた製陶所の地名で、慶応元年(1865年)に廃窯(はいよう)になつた後に残された住居を拠点とした為、後世亀山社中と呼ばれるやうになつたのだ。

この社中の者達を仲介役として、伊藤と井上はグラバー商会から四千三百挺のミニエー銃と三千挺のゲベール銃を購入する事に成功した。軍艦については近藤長次郎が購入のため周旋していたが、これについては後で話さう。

薩長同盟

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大久保利通

その頃龍馬は京阪で別行動を取つていた。当時問題になつていた兵庫開港の件や長州再征について、何らかの活動を行つていたやうだ。九月廿一日、朝廷から長州再征の勅許が下ると大久保一蔵が「非義の勅命は勅命ではない」と言つて薩摩藩の参戦拒絶を通告した。龍馬はこの大久保の書簡を持つて九月下旬に大坂を発ち、廿九日に防州上関着。山口まで赴いて京都の情勢を長州に伝えた。同時に西郷からの言伝で、京阪に滞在している薩摩藩兵のために兵糧米を支援して欲しいと願い出、これが承諾され和解の下地が整つた。

十二月中旬、薩摩藩から黒田了介が使者として長州に派遣された。黒田は木戸に対して頻りに京都行きを勧めたが、前回の事もあつて木戸は他の者に行かせたがつたやうだ。だが藩主からの要請もあり、結局木戸が京都で西郷と面会することになつた。

十二月廿八日に三田尻港を出た木戸は翌年慶応二年(1866年)一月九日に京都の二本松薩摩藩邸に到着した。龍馬は当初同行することになつていたが、とある理由で遅れた。木戸からの要請で早く京都に来て欲しいといふ連絡があり、一月十日に長府藩士の三吉慎蔵を伴つて下関を発つ。出発前に龍馬は高杉晋作と面会し、高杉から詩とピストルを贈られ激励を受けた。

大阪に着いた龍馬は十八日に大久保一翁に会いに行つた。一翁は当時無役だつたが、長州処分に困つた幕閣に呼び出しを受けて大坂に居つた。久々に会つた一翁は龍馬に対し、「長州人と入京したことが既に通報され手配されているから早々に退去するやうに」と警告したさうだ。

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木戸孝允

十九日、龍馬は寺田屋に入り、ここで同行していた三吉と別れ、廿日に二本松薩摩藩邸に入つた。木戸と会つた龍馬は同盟の是非を尋ねたが、この間木戸と西郷の間でこれまでのいきさつと今後について話し合はれたものの、同盟に関する具体的な話が無かつたものだから、憤懣やるかたない木戸は帰ろうとしていたのだ。龍馬が非難すると木戸は、「薩摩は公然と朝廷や幕府、諸侯と交えるが長州は違う。全てが敵といふ状況でこちら側から薩摩に行動を共にすることを求めればそれは助けを求めることと同じだ。それは長州の本意ではなく恥じるところであるから出来ない。薩摩が王室に尽くすことが分かればたとえ長州が滅びたとしても構はない。」と言つた。それを聞いた龍馬は木戸を非難するのを止めてその場を離れた。

その後具体的にどんなやり取りがあつたのかは記録に残されていない。だが龍馬が西郷や小松帯刀に談判した結果、予定されていた木戸の出立を引き止めて再度会談の場が設けられたといふのが衆目の一致するところだ。

会談には龍馬も立会い、以下の六ヶ条の盟約が交はされた。これがいはゆる薩長同盟だ。

  • 戦と相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一干程は差置き、京坂両所相固め候事
  • 戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝延へ申上げきっと尽カの次第これあり候との事
  • 万一敗色に相成り候とも、1年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付其間には必ず尽力の次第これあり候との事
  • 是れなりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝延へ申上げすぐさま冤罪は朝延より御免に相成り候都合にきっと尽力との事
  • 兵土をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝延を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽カの道を相遮り候時は、終に決戦に及ぷほかこれなくと の事
  • 冤罪も御免の上は.双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽カ仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝 き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽して尽カ致すべくとの事

この六ヶ条の盟約は会談の場では明文化されなかつたため、木戸が廿三日付で龍馬に「この内容で間違いないか」と書状を送つた。そのため後世にこの盟約の具体的な内容が伝えられたのだ。コレが無かつたら恐らく歴史上の謎の一つとなつただらう。木戸は西郷と比べると非常に小さいが、かういふ綿密なことには聡い男サ。その書状に龍馬が「相違なし」と朱筆したのがこれだ。

薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書
薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書

チョツト読みにくいのでここに書いてやらう。

表に御記しなされ候六条は小(小松)西(西郷)両氏および老兄(木戸)龍(龍馬)等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。後来といえども決して変り候事はこれなきは神明の知る所に御座候

丙二月五日   坂本 龍

一介の浪士に過ぎない龍馬が、国の歴史を動かす場に立会い、その証人になつたといふ事実を、どう見るエ?

「こんな裏書には何の効力もない。龍馬などいなくても代はりの志士はいくらでもいたといふ意見もある」だつて?

それこそ「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」サ。どうだ、寓意が分かるかね、お嬢さん。

寺田屋遭難

廿三日、漸く大きな仕事を終えた龍馬は寺田屋に戻り一息ついた。寺田屋に残つていた三吉慎蔵と祝宴を開き、深夜まで談笑した。風呂に入つてサア寝るかと思つたら、階下からお龍が駆け上がつて来て捕吏が来ていると知らせた。龍馬は高杉から贈られたピストルを、三吉は槍を構えた。スルト間もなく何十人もの捕吏が二階に上がつてきて「上意により尋問する!座れ!」と言つた。一翁の警告通り、奉行所の方では既に調査がなされ、「坂本龍馬なる浪士が寺田屋に潜伏し、薩長の間を取り持つている疑いがある」と知られていたのだ。龍馬は薩摩藩士であると名乗つたが否定され、間もなく乱闘が始まつた。

ピストルを数発撃つて応戦し、数人に命中したが、捕吏の刀で銃を持つ指を斬り付けられて撃てなくなつた。槍の名手である三吉が必死に応戦して敵が怯んだ隙に裏手から上手く脱出できたが、外にも多数の捕吏が彷徨いていたから踵を返して濠川の土手にある材木小屋まで辿り着くとそこで隠れた。龍馬は出血がひどく、意識が朦朧としていた。

三吉はもう逃げきれないと覚悟して割腹しやうと申し出たが、龍馬はかう言つた。

死は覚悟の事なれば、君はこれより薩邸に走附けよ。もし途にして敵人に逢わば必死、これまでなり。僕もまた、ここにて死せんのみ、と。時すでに暁なれば猶予むつかし、と云う。

(『三吉慎蔵日記』)

勇気づけられた三吉は龍馬と別れ、伏見の薩摩藩邸に急いだ。藩邸では既にお龍が窮状を訴えて救出体制を整えていた。三吉が藩邸に着くと、吉井幸輔が馬に跨つて藩士達を引き連れ救出に向かい、龍馬はどうにか九死に一生を得ることが出来た。奉行所の方では薩摩藩邸に逃げ込んだ事も突き止めていたが、薩摩はそのやうな者は居ないと突つ撥ねた。奉行所も藩邸内に手を出す権限は無いので已む無く引き下がつた。木戸もこの事件に肝を冷やしたやうで龍馬に見舞いの手紙を送つている。

三十日に伏見から京都の藩邸に移つてしばらく療養し、快復しつつあつたところへ陸奥陽之助がやつて来た。曰く、近藤長次郎が切腹したとの事だつた。

注 ここで急にお龍が登場するのは、元治元年に龍馬が京阪を離れる際寺田屋に預けられ、そのまま居続けたため。

社中内紛

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近藤長次郎

近藤長次郎について話す必要があるから少々前に戻る。

近藤長次郎、又の名を上杉宗次郎と言つた。龍馬と同じ時分におれの門人になり、操練所の閉鎖後薩摩に身を寄せ、社中の一員になつた。長州藩の軍艦購入の周旋を任された近藤はユニオン号といふ軍艦を購入候補としたのだが、これに長州の海軍局が異議を唱えた。船を検査させることでとりあえず了承して矛を収めたが、このユニオン号は厄介な問題を抱えることになる。

慶応元年(1865年)九月、長州藩に呼ばれた近藤は藩主父子に拝謁し、薩摩藩主父子への感謝状を預かつた。それを持つて十月鹿児島に着いた近藤は正式にユニオン号を受け取り、そのまま乗り込んで下関まで持つていつた。十一月には再び藩主に拝謁して褒美まで貰つた。ここまではよかつた。

下関に帰ると、ユニオン号を巡る諸権利について、長州藩と食い違う点がある事が分かつてきた。近藤は購入費は長州が負担し、船籍は薩摩、運用は社中が行うといふ事で伊藤や井上から承諾されたものと思つていたところが、海軍局では承知せず、購入費は長州が全額払つたのだから運用の権利も帰属も長州にあるはずだと言い出したのだ。

困つた近藤は海軍局と交渉して十二月に桜島丸条約と言ふ約定を結び、一旦収まつたやうに見えたがすぐに再燃して再び拗れ出した。この時には龍馬も長州に滞在していて、収拾がつかないため割つて入り、条約を大幅に譲歩する形で修正して漸く収まつたが、この結果ユニオン号は社中では自由に運用できなくなつた。さつき「とある理由で上京が遅れた」と言つたのは、この交渉に足を取られたためだ。

翌年一月、近藤は長州藩から貰つた報奨を使い、社中の同志に黙つて英吉利に密航する計画を立てていた事が露見した。これが原因で慶応二年(1866年)一月十四日に詰め腹を切らされる羽目になつた。二十九歳だつた。

近藤の死を聞いた龍馬は手帖に「術数あまりありて至誠足らず、上杉氏の身を滅ぼす所以なり」と書いた。お龍の回想によると「オレが居たら死なせはしなかつた」と言つたさうだ。龍馬の言つた通り、策に頼りすぎて至誠が足らなかつたのだらう。可哀想な事だ。

注 ユニオン号の一件で同志や薩摩藩に詫びるために切腹したという説もある。近藤の命日は23日もしくは24日の間違い。

ホネー・ムーン

龍馬はお龍、三吉と共に二月いつぱい薩摩藩邸で静養した。この時正式に結婚式を挙げて、二人は夫婦になつたといはれる。二月廿九日、龍馬とお龍は西郷や小松に同行して京都を発ち、三月五日に大坂から出航。途中下関や長崎を経由して十日に鹿児島に着いた。

鹿児島ではしばらくの間お龍と遊んで暮らした。霧島の温泉に行つたり、湯治していた小松を尋ねたり、川で魚釣りしたり、一番よく知られているのは霧島の高千穂峰山頂までお龍と登つて天辺に刺さつていた天の逆鉾を引つこ抜いたといふ話だらう。これは後に乙女宛ての手紙の中に詳しく書いている。御丁寧に絵まで描いているのが微笑ましい。

天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛

脱藩後の龍馬にとつておそらく唯一の安息の日々だつたに違いあるまい。この時の旅行が後に坂崎紫瀾の『汗血千里駒』でホネー・ムーンつまり新婚旅行と紹介され、やがて日本で最初の新婚旅行と称されるやうになつたのサ。

注 「最初の新婚旅行」という言い方について、これより10年前に小松帯刀が夫婦で旅行に出かけていることからこちらを最初とする説がある。というか、新婚旅行に初も何もあるのだろうか。

ワイルウエフ号難破

お龍との旅行を楽しんだ龍馬は、四月十二日に鹿児島に戻つた。この先月、薩摩藩ではグラバー商会からワイルウエフ号といふ帆船を購入している。先のユニオン号の一件で船を自由に扱えなくなつた社中に代はりとして与えた船だ。

ワイルウエフ号の運用を任された社中では、ちやうどユニオン号改め乙丑丸がかねてより約束の兵糧米を鹿児島に搬送する途中長崎に入港していた。鹿児島に一緒に行かうといふ事になり、船長に因幡出身の黒木小太郎、士官に龍馬が目を掛けていた土佐出身の池内蔵太が選ばれた。

四月末頃に乙丑丸に曳航されて長崎を出航、鹿児島に向かつたが、急に天候が悪化し曳航は危険と判断されて切り離された。その後ワイルウエフ号は暴風雨の中どんどん離されて行き、五月二日、浅瀬に乗り上げて大破した。この事故で黒木、池を含めた十二人が犠牲になつてしまつた。

予想だにしなかつた不慮の事故で龍馬達は大層嘆いたが、嘆いてばかりもいられない。幕府と長州の開戦が間近に迫つていたのだ。

第二次長州征伐

この年の六月、おれは久方ぶりに上阪した。二年前に軍艦奉行を罷免されて無役になつたおれは、江戸の氷川の屋敷で無聊をかこつていたが、五月末頃急に奉書が届いた。 何でも急いで大坂へ行けといふから御用向を老中に尋ねたが、将軍直々の御命令といふ事以外分からなかつた。行つてみると、薩摩が長州征伐にひどく反対するからお前説得して来いといふ。言はれた通りに周旋したが今度は薩摩とつるんでいるのではと疑はれだした。馬鹿馬鹿しいから早くお暇を貰いたいと言つたが、将軍がもう少し居てくれと仰るので何もせずに大坂の宿に残つたヨ。

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高杉晋作

六月七日、幕軍の艦隊が瀬戸内海の周防大島に砲撃したのを合図に幕長の戦争が始まつた。大島口、芸州口、石州口、小倉口の四方面で対峙したので長州では四境戦争と呼んでいる。

幕軍は大島を占拠したが、十三日夜分に高杉晋作がオテント号といふ小型の軍艦に乗り、幕軍艦隊の居る海域に突つ込んで手当たり次第に砲撃しまくつた。驚いた幕軍艦隊は情けない話だが大島に残つた兵を置いて逃げてしまつた。続いて芸州口、石州口において開戦した。幕軍は三百年も昔のやうに赤具足を着込んで、笛や太鼓でヒユードンヒユードンと囃し立てて進んで行つたが、長州軍は全軍銃隊の紙屑拾ひか何ぞのやうな風でやつて来て、幕軍はこれに蹴散らされてしまつた。

龍馬は十四日に乙丑丸で下関に到着した。早速高杉と協議して馬関海峡の制海権確保のため、十七日未明にオテント号に乗つた高杉が田ノ浦を、龍馬が乙丑丸を指揮して下関対岸の門司をそれぞれ攻撃し、小倉口での戦闘の主導権を握つた。戦闘に直接参加したのはこれだけで、後は専ら情報収集や戦況の観察に努めていたやうだ。薩摩藩も盟約に則り、諸藩への揺さぶりや幕府への対決姿勢をあからさまに示し始めた。

幕軍の敗報が続く中、七月廿日将軍が亡くなられた。死因は脚気衝心だつた。瓦解しつつある幕府を背負つて心身ともに蝕まれたのだらう。

おれが大阪城へ行つてみると、皆閉息してひどいものだつた。板倉と話したら、お跡の事をすぐに決めねばなどと言ふから、そんな事は後見職の慶喜公にお任せすればよろしいと言つたら納得した板倉は慶喜に会いに行つたヨ。慶喜はその頃役人皆から嫌はれていたが、それでいよいよ慶喜が来ると皆送迎するから、実に人情の転覆といふものは、それはひどいものだと思つたヨ。

慶喜はそれから急におれに油をかけやがつて、「長州に談判に行つてくれ」などと、ひどく油をかけやがつた。馬鹿馬鹿しい役を仰せ付けられて承知すまいかと思つたが、「これまでの幕府のやり方を改める」と言ふから、どうせ長州で殺されるかもしれないが行つて見やうといふので往つたのサ。

宮島に行つて広沢兵助と井上聞多の二人と交渉して、公平な処分をするから撤退する幕軍の追撃はしないやうにと頼んだらその通りにしてくれた。ソレで大坂に戻ると、慶喜がおれの交渉を無視して勝手に朝廷から停戦の勅許を貰つていた。「将軍が死んだから長州は停戦し、侵略地を引き払え」といふ一方的な内容だつたから長州側は受け取りを拒否した。おれの交渉など全てどこかへ吹き飛んでしまつたヨ。おまけに勝は長州ともつるんでると来たからいよいよ帰ろうと思つていたら、帰府のお達しが出て江戸に帰つたサ。

注 板倉は老中板倉勝静。宮島は厳島神社のある広島県の宮島。

社中の苦境

幕府と長州の戦争が終りを迎えつつあつた七月下旬、龍馬は長崎に帰つたが、ここで困難に遭遇する。

先の戦いで乗船していた乙丑丸は長州藩の要請で既に引き渡しており、正式に長州藩のものとなつてしまつたのだ。代はりだつたワイルウエフ号は知つての通り事故で大破。社中は念願だつた船を失つてしまつた。海運業をやるといふ目標が頓挫して資繰りにも困るやうになつた。社中の者達に出す給にも事欠く有り様だ。サアー困つた。素寒貧だ。龍馬は社中の者達に暇を出そうとしたが、殆どの者は「死ぬまで付いていく」と離れない。

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小松帯刀

困つていた龍馬に薩摩藩が支援の手を差し伸べた。五代才助の斡旋で伊予大洲藩所有のいろは丸といふ船を運用するために何人か人を貸し、社中の者達にも三両二分の月給を支払う事になつたのだ。十月には西郷や小松と談判して、蝦夷の資源開発をするため船の購入の保証を薩摩藩にして貰う事になつた。この時購入したのが大極丸と名付けられた西洋帆船で、費用は七千三百両。十月廿九日に船を受け取り、漸く本格的に営利活動を開始することになつた。

また、この時分に薩摩と長州の間で馬関商社計画といふのが持ち上がつていて、これは薩摩の船を使つて長州の物産品を兵庫辺りに運んで売ろうといふもので、龍馬もこの計画に一枚噛んでいたが、これをやるためには馬関海峡を封鎖しなければならないため、長州に拒否されて実現しなかつた。

因みに八月下旬頃のことだが、越前藩士の下山尚といふ者が長崎の龍馬を訪うている。ここで龍馬は自分の口から初めて幕府の政権返上論、すなはち大政奉還論を述べた。いつか大久保一翁から聞いた政権返上を今なら実行に移せるのではないかと思つた龍馬は下山にかう言つた。

其後一夕、余氏が門を叩く。氏、出て迎へ坐、久しくて談天下の事に及ぶ。氏危坐低声語つて曰く、方今鎖攘の説一変して討幕の議相踵ぎ起る。而して幕府自反の念なく、専横日甚だし、恐くは救ふ可からず、子以て如何んとなす。且、子は徳川氏の親藩に生れ、上に春岳公を戴き宜しく思ふ所あるべし。
政権奉還の策を速かに春岳公に告げ、公一身之れに当らば幸ひに済すべきあらん。

(下山尚『西南紀行』)

龍馬の依頼を引き受けた下山は、帰途の途中肥後の横井小楠宅を訪れてこの大政奉還論を話したところ、手を打つて賛同したといふ。ただ越前に戻つた下山は春嶽公に献策したが、春嶽公は「思ふところあり」と言つて採用しなかつた。

実は春嶽公も一翁と同様に、文久年間から既に政権返上するべきだと度々幕府に建議していたのサ。この時分にも慶喜に政権返上を訴えていたのだが聞き入れられないから越前に戻つていた。採用しなかつたのは多分その辺りの経緯によるものだらう。

土佐藩との和解

その頃龍馬の郷国土佐藩は薩長の突出に遅れを感じて焦り始めて居つた。山内容堂公は幕長の戦争の際、長州など烏合の衆と軽く見ていたが、結果はご覧の有様ダヨ。そこで各地に配下を派遣して情勢視察をさせてみると、坂本龍馬・中岡慎太郎両名の名が浮かび上がつてきた。その時はまだ半信半疑の薩長同盟を仲介したとかで、コレは得難い人材だといふことで土佐藩の方から接触を求めてきたのだ。龍馬や中岡の活躍を土佐藩上士達も認めざるを得なくなつたのサ。

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後藤象二郎

同じ頃長崎に武器や軍艦の購入に出掛けていた後藤象二郎も風の噂で龍馬の事を聞いたのだらう。後藤は溝渕広之丞といふ者を使つて龍馬の様子を探らせた。溝渕はかつて江戸で龍馬と同門になつた事があるのでその役にうつてつけだつた。その後溝渕は龍馬から木戸を紹介されて会談し、長州の方針を確認して後藤に報告した。

慶応三年(1867年)一月末から二月の初め頃、龍馬は後藤と初めて面会した。世にいふ清風亭会談だ。社中の者達の中には土佐勤王党を弾圧した張本人の後藤を殺してやりたいと口走る者もあつたが、会談した二人はそれらは昔の事としてサラつと水に流して提携する事にした。会談の詳しい記録が残つてないが、長州と土佐との関係改善についてやら土佐の今後の方針やらについて話しあつたやうだ。

一方二月十七日、西郷が容堂公に拝謁した。この時分京都でいはゆる四賢侯を集めて会議をさせやうと薩摩が躍起になつていて、西郷は容堂公に上京を促していたが、その会見で西郷は龍馬と中岡の脱藩罪赦免を求めた。容堂公も承知して、鶴の一声で超法規的措置により二人の赦免が決まつた。

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海援隊士。左から長岡謙吉、溝渕広之丞、
坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬

三月中旬、後藤は土佐藩重役の福岡籐次と社中の扱いについて協議した。社中は土佐藩の外郭団体とし、龍馬達には自由に活動させて土佐藩の利益を計る事とし、社中改め海援隊と命名することにした。後藤はこの他にも、以前社中が購入した大極丸の支払いが済んでない事から全額支払いを引き受けたり、龍馬にとつて心強い味方になつた。

だが龍馬が後藤と協力関係を結んだことを知つた姉の乙女はひどく怒つた。曰く「姦物役人に騙されている」「利を貪り天下国家を忘れたのか」と。龍馬は手紙で「海援隊士五十人を養うためには一人辺り年に六十両は必要で、その為に利を求めている」「もう土佐藩からは赦免されており、この頃は私も京都に出向いて日々天下のために働いている」「五百人や七百人を率いるよりも土佐廿四万石を率いて天下国家に尽くした方がよい」と反論した。かつて武市半平太が提唱した一藩勤王論を、龍馬が望む形で復活させたのだ。

因みにこの年の3月、長崎に岩崎弥太郎が着任して土佐商会の会計の切り盛りをしていた。龍馬や海援隊士がしよつちゆうをせびりにくるからしばしば渋面で応対したと、一度だけ会つた時に言つてたヨ。

いろは丸事件

いろは丸といふ船について一度話したかと思ふが、この船がまた厄介な事件の種になつた。このいろは丸といふ船は、龍馬達が伊予大洲藩から借り出した船だつたが、四月廿三日夜間、瀬戸内海を運行中に大型の蒸気船と衝突した。相手は徳川御三家・紀州藩所有の明光丸だつた。龍馬をはじめいろは丸の乗員三十五人は皆明光丸に乗り移つて命に別状はなかつたが、曳航も虚しくいろは丸は沈没して海の藻屑となつた。

陸に戻つた龍馬はすぐさま明光丸の船長に掛け合つて賠償の一部として一万両を要求したが、紀州側はこれを拒否して長崎奉行所で公法に基づいて話しあおうといふので龍馬も同意し、五月十日に長崎に着。十五日から紀州側との談判が始まつた。

談判ではお互いの航海日誌を交換しあつて、いろは丸のブーフランプ(舷灯)が点いていただのいなかつただの、航路は東南だつた、いや東北だつたと主張が食い違つて埒があかない。そこで龍馬は後藤象二郎に支援を要請して後藤も談判の場に出席することになつた。龍馬と後藤は明光丸の甲板上に当直士官が居なかつた事と二度衝突したことを理由に押しまくつた。またこの談判の最中龍馬は長崎の茶屋や料亭で「船を沈めたそのつぐないは をとらずに国をとる 国を取つてミカンを食らう」などといふ戯れ歌を作つて流行らせ、長崎の世論を味方に付けた。

土佐藩を背景にした龍馬と後藤の強談判に怯んだ紀州側の代表者は、薩摩藩の五代才介に仲介を依頼し、過失を認めて八万四千両の賠償支払いを約束した。紀州藩でも大揉めになつて後で七万両に減額されはしたが、龍馬と後藤の勝利には違い無かつた。

注 この事件については注意を要する。というのも明治になって明光丸の元船長が「ブーフランプが点いていなかったのは本当だった」と証言しており(ブーフランプが点いていなかった場合、いろは丸側の重大な過失となる)、他の関係者は「いろは丸の積荷は砂糖や米だったのがいつの間にかミニエー銃400挺と主張し始めた」とも証言しているからである。ちなみに平成17年に行われた海底調査ではミニエー銃は見つかっていない。

船中八策

この五月、京都では政局が大きく動きだそうとしていた。いはゆる四賢侯が京都に集まつて会議によつて国政を決めやうとしていたが、皆意見がてんでんばらばらで纏まらない。特に将軍慶喜と島津久光公の対立は深刻で会議は分裂し、三年前の参預会議と同じ結果になつた。

この結果を受けて西郷と大久保(一蔵)は武力倒幕に向けて動き始めた。土佐藩でも中岡慎太郎の周旋で、乾退助や谷守部が西郷達と行動を共にしたいと言い出して、容堂公に「決心しなければついに薩長の門にお馬をつなぐにいたりますぞ」と言い放つ始末だつた。四侯会議の失敗と薩摩のただならぬ動き、仕舞いには配下達すら倒幕を語り始めた容堂公の悩みは深刻だつた。容堂公は京都から後藤を呼んで対処させやうとした。

その頃後藤は、龍馬のいろは丸事件の談判に付き合つてる最中で、自分独りでは不安だからと龍馬も連れて行きたがつていたのだが、談判が長引き、遅れに遅れてそのうち容堂公は土佐に帰つてしまつた。

六月九日、漸く龍馬は後藤と連れ立つて長崎を出航し、十二日に兵庫着。そして十七日、後藤は他の土佐藩重役達との間で大政奉還策について議論し、賛同を得た。

サアついに来た。大政奉還だ。だがその前に船中八策について話す必要がある。

この船中八策と呼ばれる策は、通説では六月十五日、長崎から兵庫へ行く船上で龍馬が後藤に提示した八策だとされている。だが、実はこれを裏付ける証拠は何も無い。この八策には原本が現存しておらず、実際に起草したのも龍馬ではなく龍馬の意を受けた海援隊士の長岡謙吉だと言はれる。そもそもこの八策、初めは船中八策とは呼ばれていなかつた。大体六月十五日には龍馬はもう兵庫に上陸した後なのに船上で後藤に示したなら辻褄が合はんぢやアないカエ。船上で提示したとしても十五日は無かろう。

とはいへ、この八策が卓越した論策であることは言ふまでも無いだらう。

  • 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
  • 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
  • 一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、 官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
  • 一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を 立つべき事。
  • 一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
  • 一、海軍宜しく拡張すべき事。
  • 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
  • 一、銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も 此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、 一大英断を以て天下と更始一新せん。

政権返上や議会の創設は、かつて龍馬が交流を持つた大久保一翁や横井小楠、それに松平春嶽公が望み、未だ果たし得ぬ事だつた。これを龍馬は一翁達の意思を受け継ぐ形で後藤に提示してみせた。武力倒幕派に対抗しうる卓見と見た後藤は他の重役達にも提議して土佐の藩論とすることに決したのだ。

薩長両藩による二条城攻撃計画など物騒な噂まで出始めたから、内戦が始まることを憂慮した後藤は薩摩藩の動きを抑えるため、会談の場を設けることにした。廿二日、薩摩から西郷、大久保、小松の三人、土佐から後藤、福岡籐次ら四名、そして「浪士の巨魁」たる龍馬と中岡の二人が出席した。この席で後藤は、政体変革の志は薩長土三藩共に共通し異論は特に無いことを伝えて、以下の約定の元大政奉還建白に同意を願つた。

  • 一、天下の大政を議定する全権は、朝廷にあり、我が皇国の制度法則、一切の萬機、京師の議事堂より出づるを要す
  • 一、議事院上下を分ち、議事官は上公卿より、下陪臣庶民に至るまで、正義純粋のものを選挙し、尚且つ諸侯も、自分其の職掌に因りて、上院の任に充つ
  • 一、将軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし、自今宜しく其の職を辞して諸侯の列に帰順し、政権を朝廷に帰すべきは、勿論なり
  • 一、各港外国の条約、兵庫港に於いて、新に朝廷の大臣緒太夫と衆合し、道理明白に、新約定を立て、誠実の商法を行うべし
  • 一、朝廷の制度法則は、往昔より律例ありといえども、当今の時勢に参し、或は当らざるものあり、宜しく幣風を一新改革して、地球上に愧ざるの国を建てん
  • 一、此の皇国興復の議事に関係する士太夫は、私意を去り、公平に基き、術策を設けず、正実を貴び、既往の是非曲直を問わず、人心一和を主として、此の議論 を定むべし

後藤から「出兵してでも幕府に大政奉還を呑ませる」と聞いた西郷達は了承して、薩土の盟約が結ばれた。失敗すればその時こそ土佐藩も巻き込んで幕府を叩くことができると見込んだのだらう。

薩摩への根回しを済ませた後藤は、七月上旬に土佐に戻り、容堂公に大政奉還策を建議した。容堂公に異論は無く、大政奉還の具体化を命じられた。

龍馬も後藤と協力して方々に説得していたが、ここで思はぬ足止めを喰らつた。英吉利人水夫が殺害される事件が起こり、他ならぬ海援隊士が疑はれたのだ。七月六日深夜、長崎で英船イカルス号の乗組員二人が何者かに殺害され、翌日に発見された。犯人を目撃した者が白筒袖の海援隊士のやうな服装の犯人だつたと話したので土佐藩に疑惑が向けられた。十四日、長崎を訪れた英国公使パークスはカンカンに怒つて土佐商会の岩崎弥太郎と長崎奉行所に怒鳴り込んだがマトモに相手にされないので老中に抗議したうえ土佐藩と直接談判するため高知に向かつた。龍馬は別件でたまたま土佐に戻ることになり、八月中旬から当事者として後藤と共に談判に参加している。長崎で再調査といふことになつて英国通訳官のサトウと一緒に長崎に向かつた。

長崎での調査も結局証拠が見つからないからお咎め無しといふことになつたが、そりやソーダ、真犯人は既に死んでいたのサ。結論だけ言えば、犯人は翌年慶応四年(1868年)一月に判明した。筑前藩士の子才吉とかいふ者で事件の二日後に自害していた。動機は全く不明で乱心として筑前藩に処理されていた。この事件のせいで龍馬は一ヶ月ほど足止めを食らい、大政奉還の周旋にも支障を来たした。

注 八策の初出は管見では明治31年(1898年)頃初稿の瑞山会編『坂本龍馬伝』。談話にあるようにこの八策には謎が多く、原本も写本も見つかっていない。

大政奉還

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徳川慶喜

龍馬が水夫殺害事件で足止めされていた頃、九月二日に上京した後藤が京都で大政奉還の周旋をやつていた。八月廿日、容堂公は大政奉還の建白を正式に布告して後藤に命じたが、出兵については許可されなかつた。このため後藤は兵を連れてこれず、「兵も出さずに建白とな?」と西郷が一辺に疑い始めた。

そんな状況を見かねたのか龍馬は千挺のライフル銃を土佐に送りつけて、建白が受け入れられない場合挙兵する覚悟を促すことにした。十五日に銃を入手して十八日に長崎を出航。廿日、下関に入港した。二月頃から下関で生活していたお龍と二日間ほど過ごし、廿二日夜に土佐に向けて再び出航した。

廿四日、土佐に着いた龍馬は翌日に土佐藩重臣達と会談して、大政奉還を急がなければ薩長が挙兵してしまうと伝え、武器の買取りを求めた。武力で威圧してでも大政奉還を慶喜に受け入れさせ、受け入れなければ武力倒幕に切り替えるのが龍馬の方針だつた。廿七日、容堂公を含めた藩の最高会議が開かれ、龍馬の持つてきた武器の買取りを承認した。この後、文久二年(1862年)三月の脱藩から五年ぶりに実家を訪れた。突然帰つてきて世間の目もあるから盛大な歓迎はできなかつたが、大物になつて帰つてきた龍馬を見て、乙女も権平兄さんもさぞ嬉しかつただらう。

十月朔、高知から風雲急を告げる京都に向かつた。この先、お龍と再会することも、長崎の光景を眺めることも、家族との団欒も、二度と無い。

船が遅れて京都に入つたのが十月九日。この月の三日に後藤は大政奉還を正式に建白した。

宇内の形勢、古今の得失を鑒し、誠惶誠恐頓首再拜、伏惟 皇國興復の基業を建てんと欲せは、國體を一定し、政度を一新し、王政復古、萬國萬世に不恥者を以て本旨とすへし、奸を除き良を擧け、寬恕の政を施行し、朝幕諸侯齊く此大基本に注意するを以て、方今急務と奉存候、前月四藩上京仕、一二獻言の次第も有之、容堂儀は病症に因て歸國仕候以來、猶又篤と熟慮仕候に、實に不容易時態にて、安危の決今日に有之哉に愚慮仕候、因て早速再上仕、右の次第一々乍不及警言仕候志願に御坐候處、今に至て病症難澀仕、不得已微賤の私共を以て、愚存の趣乍恐言上爲仕候、

一天下の大政を議定する全權は朝廷にあり、乃我 皇國の制度法則一切萬機、必す京師の議政所より出つへし、
一議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣庶民に至る迄、正明純良の士ら選擧すへし、
一庠序學校を郡會の地に設け、長幼の序を分ち、學術技藝を敎導せさるへからす、
一一切外蕃との規約は、兵庫港に於て、新に 朝廷の大臣と諸藩と相議し、道理明確之新條約ら結ひ、誠實の商法を行ひ、信義を外藩に失せさるを以て主要とすへし、
一海陸軍備は一大至要とす、軍局を京攝の間に築造し、朝廷守護の親兵とし、世界に比類なき兵隊と爲んことを要す、
一中古以來、政刑武門に出つ、洋艦來港以後、天下紛紜、國家多難、於是、政權梢動く、是自然の勢なり、今日に至り、古來の舊弊を改新し、枝葉に馳せす、小條理に止まらす、大根基を建るら以て主とす、
一朝廷の制度法則、從昔の律例ありと雖、方今の時勢に參合し、間或當然ならさるものあらん、宜く其弊風を一新し改革して、地球上に獨立するの國本を建つへし、
一議事の士大夫は私心を去り、公平に基き、術策を設けす、正直を旨とし、既往の是非曲直を問はす、一新更始、今後の事を見るを要す、言論多く、實效少き通弊を踏むへからす、

右の條目、恐らくは當今の急務、内外各般の至要、是を捨てゝ他に求むへきものは有之間敷と奉存候、然則、職に當る者、成敗利鈍を不顧、一心協力、萬世に亙て貫徹致し候樣有之度、若或は從來の事件を執り、辨難抗論、朝幕諸侯、互に相爭の意あるは尤然るへからす、是則、容堂の志願に御坐候、因て愚昧不才を不顧、大意建言仕候、就ては乍恐是等の次第、空しく御聽捨に相成候ては、天下の爲遺憾不鮮候、猶又、此上寬仁の御趣意を以て、微賤の私共と雖も、御親問被 仰付度奉懇願候。
                  松平土佐守内
 慶應三年丁卯九月
                     寺村左膳
                     後藤象二郞
                     福岡藤次
                     神山佐多衞

ここまで遅れたのは薩摩との調整に時間が取られたからだ。九月九日に薩摩から盟約の破棄が伝えられていたが、その後建白自体には反対はしないと申し出があつたのが十月二日で、その直後に建白を実施した。急がないと薩長が挙兵してしまうから龍馬は後藤を叱咤激励し、引き続き薩長と土佐の間の調整を取り持つたが、結局土佐からは派兵は無かつた。

十一日、慶喜は大政奉還諮問のため京都に居る諸藩重臣を二条城に呼ぶ事にした。後藤もそれに呼ばれた。

御相談被遣候建白之儀、万一行はれざれば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹参内の道路に待受、社稷の為、不戴天の讐を報じ、事の成否に論なく、先生に地下に御面会仕候。
○草案中に一切政刑を挙て朝廷に帰還し云云、此一句他日幕府よりの謝表中に万一遺漏有之歟、或は此一句之前後を交錯し、政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、従来上件は鎌倉已来武門に帰せる大権を解かしむる之重事なれば、幕府に於てはいかにも難断の儀なり。
是故に営中の儀論の目的唯此一欸已耳あり。万一先生一身失策の為に天下の大機会を失せば、其罪天地に容るべからず。果して然らば小弟亦薩長二藩の督責を免れず。豈徒に天地の間に立べけんや。
   誠恐誠懼
 十月十三日   龍馬
後藤先生
左右

(慶応三年十月十三日 後藤象二郎宛 坂本龍馬書状)

「先生」といふのは後藤で、「もし建白が受け入れられなければ、海援隊を率いて路上で慶喜を討つ」とまで書いて後藤に覚悟を求めた。対する後藤も返信で「死をもつて対応するが、挙兵のため戻るかもしれない。海援隊の行動は任せるが軽挙は慎むやうに」と鼻息の荒い龍馬をいなした。

華書拝披於僕万々謝領す。文中政刑を朝廷に帰還云々之論不被行時者、勿論生還するの心無御座候。併今日の形勢に依り後日挙兵の事を謀り飄然として下城致哉も不被計候得共、多分以死廷論するの心事、若僕死後、海援隊一手云々は君之見時機投之に任す。妄挙挙勿被事。已に途城程度に迫れり、大意書之奉答。頓首
   十月十三日   後藤元曄
 坂本賢契

(慶応三年十月十三日 坂本龍馬宛 後藤象二郎書状)

十三日、薩摩の小松帯刀等と共に後藤が慶喜に直接意見を述べた。

諮問が終はり、後藤は龍馬にすぐさま手紙を寄越した。

只今下城今日之趣不取敢申上候。大樹公政権を朝廷に帰すの号令を示せり。此の事を明日奏聞、明後日勅許を得て、直ぐ様政事堂を仮りに設け、上院下院を創業する事に運べり。実に千載の一遇、為天下万姓大慶不過之。此段迄不取敢奉申上候。勿々 頓首。
   十月十三日                後藤象二郎
  才谷梅太郎様報慶

(慶応三年十月十三日 坂本龍馬宛 後藤象二郎書状)

大政奉還建白成功の知らせだつた。後藤は勿論、龍馬も、八策を起草した長岡も、他の海援隊士達も飛び上がらんばかりに喜んだだらう。実に堂々たる事だよ。浪士の活動が郷国の上士階級を揺さぶり、巡り巡つて将軍をも動かしたのだ。

翌日、慶喜は朝廷に対して正式に大政奉還の上表文を提出した。

大政奉還上表文

臣慶喜謹て 皇國時運之改革を考候に、昔し 王綱紐を解き、相家權を執り、保平之亂、政權武門に移てより、祖宗に至り、更に 寵眷を蒙り、二百餘年、子孫相受、臣其職を奉すと雖も、政刑當を失ふこと不少、今日之形勢に至り候も、畢竟薄德之所致、不堪慙懼候、況や當今外國之交際日に盛なるにより、愈 朝權一途に出不申候而者、綱紀難立候間、從來之舊習を改め、政權を 朝廷に奉歸、廣く天下之公儀を盡し、 聖斷を仰き、同心協力、共に 皇國を保護仕候得者、必す海外萬國と可並立候、臣慶喜國家に所盡、是に不過奉存候、乍去、猶見込之儀も之有候得者、可申聞旨、諸侯へ相達置候、依之、此段謹て奏聞仕候、以上詢。
 十月十四日                  慶喜




祖宗以來御委任厚御依賴被爲在候得共、方今宇内之形勢を考察し、建白の旨趣尤に被思食候間、被 聞食候、尚天下と共に同心盡力を致し、 皇國を維持し、可奉安 宸襟 御沙汰候事

上表文を受け取つた二条摂政は受け取りを拒否したがつたが、後藤や小松が押し掛けて受け取りを迫り、十五日に大政奉還は朝廷より聴許された。

新体制構築

大政奉還が成つた後、龍馬は早速行動を始めた。ここで戸田雅楽といふ者が登場する。

イキナリ現れて誰だと思ふだらうから一応説明すると、戸田は文久三年の八月十八日の政変で京都を逐はれた三条実美卿の家臣だ。 情勢探索のため長崎を訪れた際に噂の坂本龍馬に会つてみることにした。九月三日の事だ。 龍馬と会見した戸田は龍馬や海援隊にすつかり惚れ込んで、情勢探索ソツチノケで龍馬と行動を共にする事にした。

朝廷の職制に素養のあつた戸田は、諸藩の身分の低い有望の人材を来るべき新政権に採用するため、龍馬に「新政府職制案」を提示して見せた。

関白 一人
公卿中、最も徳望・知識兼備の人を以て之に充つ、
上一人を輔弼し、万機を関白し、大政を総裁す、

内大臣 一人
公卿・諸侯中、徳望・知識兼備の人を以て之に充つ、
関白の副弐とす、

議奏 若干人
親王・諸王・諸侯の中、最も徳望・知識兼備の人を以て之に充つ、
可否を献替し、大政を議定、敷奏し、兼て諸官の長を分掌す、

参議 若干人
公卿・諸侯・大夫・士庶人の才徳ある者を以て之に充つ、
大政に参与し、兼て諸官の次官を分掌す、

各役職の内訳は以下の通りだ。

関白
無記名(三条実美を示唆)

内大臣
無記名(徳川慶喜を示唆)

議奏
有栖川宮熾仁親王(宮家)
仁和寺宮嘉彰親王(宮家)
山階宮晃親王(宮家)
島津忠義(薩摩)
毛利広封(長州)
松平春嶽(越前)
山内容堂(土佐)
鍋島閑叟(肥前)
徳川慶勝(尾張)
伊達宗城(宇和島)
正親町三条実愛(公卿)
中山忠能(公卿)
中御門経之(公卿)

参議
岩倉具視(公卿)
東久世通禧(公卿)
大原重徳(公卿)
長岡良之助(肥後)
西郷吉之助(薩摩)
小松帯刀(薩摩)
大久保一蔵(薩摩)
木戸孝允(長州)
広沢平助(長州)
横井小楠(肥後)
三岡八郎(越前)
後藤象二郎(土佐)
福岡藤次(土佐)
坂本龍馬(土佐)

これを見た龍馬は喜んで後藤に回覧し、岩倉卿にも回覧されたやうだ。戸田はその後三条卿に情勢を報告するため太宰府に戻つていつた。

二十四日、龍馬は後藤の代理人として越前に向かい、廿八日に越前に到着して松平春嶽公に京都出馬を要請した。 越前滞在時、三岡八郎といふ者と対談した。職制案の参議に含まれているうちの一人だ。三岡は以前、越前藩の財政再建に功があつたが、文久三年の 挙兵上京計画に関はつて蟄居中の身だつた。龍馬は三岡に新政権の財政政策について聞きたがつていたのだ。久しぶりにあつた二人は寒い中炬燵に入つて 朝から晩まで酒を飲んで延々と語り合つたといふ。

越前を発つたのが11月の初めで、五日に京都に戻つた。京都に戻つた龍馬は、大政奉還の余波で動揺が広がる中、船中八策に続く新たな八策を起草して、新政権の青写真を描いて見せた。これがいはゆる「新政府綱領八策」で、これは龍馬直筆の原本が二通現存している。これも同志や後藤に回覧された。

第一義
 天下有名の人材を招致し、顧問に備ふ
第二義
 有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ、現今有名無實の官を除く
第三義
 外國の交際を議定す
第四義
 律令を撰し、新に無窮の大典を定む。律令既に定れは、諸侯伯皆此を奉して部下を率ゆ
第五義
 上下議政所
第六義
 海陸軍局
第七義
 親兵
第八義
 皇國今日の銀物價を外國と平均す

右預め二三の明眼士と議定し、諸侯會盟の日を待つて云云。◯◯◯自ら盟主と爲り、此を以て朝廷に奉り、始て天下萬民に公布云云。強抗非禮、公議に違ふ者は、斷然征討す。權門貴族も貸借する事なし

慶應丁卯十一月 坂本直柔

◯◯◯とあるのは誰の事を言つているのか議論が分かれるところだが、これは恐らく「慶喜公」であらう。「強抗非禮、公議に違ふ者は、斷然征討す」とも書いている。当時大政奉還に反対する者も多かつたからこれに対する威嚇の意味で書いたのかも知らん。

だが龍馬はあくまでも平和裏に新体制に移行させたかつたやうだ。先の三岡との対談では「戦にはしない」と語つたといふ。また知人に「薩長土の間で周旋してきたが、内戦を避けられないかも知れない」と悩みを打ち明けていた。

その傍ら、海援隊の事業にも気を配つていた。この時分龍馬は海援隊の商売に関する事柄は陸奥に任せていたやうで、手紙に「陸奥さえウンと言えばヨイ」「陸奥大先生」などと書いている。

追白、御てもとの品いかゞ相成候か、御見きりなくては又ふの(不能)と相成。
世界の咄しも相成可申か、此儀も白峰(白峰駿馬)より与三郎より少々うけたまはり申候。
此頃おもしろき御咄しもおかしき御咄しも実に々山々にて候。かしこ。

拝啓。
然に先生此頃御上京のよし、諸事御尽力御察申上候。
今朝与三郎参、咄聞候所、先生の御周旋にて長崎へ参り候よし、同人の事は元と太郎(高松太郎)が船の引もつれより、我々共ゞ御案内の通のせ話相かけ候人にて、ことに海援隊外の者にも在之候。
先生御一人御引うけなればよろしく候得ども、隊中人を見付け且、長崎に於、此度取入候屋鋪にて養なふなど少々御用心無之候得ば、近立行かざるの御せ話がか〃り候と存候。
小野(高松太郎)生らが一条にか〃る事は小弟を多少の儀論有之候。
先承り候に付、早々一筆さしあげ候。
   十一月七日   謹言
 〆
   後と丙丁中
 四条通室町上る西側沢屋御旅宿
 陸奥源二郎様   才谷楳太郎
   御直披

与三郎といふ取引相手が長崎に行くから面倒を見てくれといふ手紙だが、これの追伸に「世界の咄し」とある。新しい時代の始まりに、一躍世界にその事業を広げて行きたいと考えていたのだらう。世界の海援隊つテエ奴だ。忙しい事この上無いが、まだやり足り無いことは沢山あつただらう。蝦夷の開発もさうだ。これから全てが始まらうとしていたのだ。

注 「新政府綱領八策」は後世の史家が付けた仮の名称で、当時なんと呼ばれていたかは不明。

近江屋の変

十一月十五日、龍馬は京都河原町の近江屋といふ醤油屋に居た。すぐ近くにある土佐藩邸に入るつもりだつたが、「御国許の不都合で藩邸に入れなかつた」といふ手紙を書いている。赦免されはしたが、藩内の保守的な雰囲気がそれを許さなかつたのだらう。薩摩の吉井幸輔は「ウチの藩邸に来ればいい」と言つていたが、土佐に対する体面を気にして行かうとしなかつた。

午後五時頃、中岡慎太郎が訪れて話し合つていると、元新選組で御陵衛士といふ組織に分離した伊東甲子太郎といふ男がやつて来た。曰く「狙はれているから藩邸に入つた方が善い」と言ふ。龍馬は特に何も言はず、中岡が「ご注意かたじけない」とだけ言つた。

伊東が去つた後、午後八時頃、「十津川郷士」と名乗るものがやつて来た。応対した藤吉といふ者が階段を上がつて龍馬に伝えに行かうとした所、突然後ろから斬られた。物音で龍馬が「ほたえな!」と一喝した。十津川郷士と名乗る数人の刺客は龍馬と中岡の居る部屋に飛び込んで斬りかかつた。龍馬は額を横に斬られ、後ろにあつた刀を取るが今度は背中から斬られた。鞘で刺客の刀を防ぐが、頭に二撃目を受けて倒れた。中岡も応戦したが、刺客に何度も斬り付けられて倒れ込んだ。用がすんだ刺客等はスグに立ち去つた。

刺客が立ち去つてから龍馬は立ち上がると行灯をもつて歩き、刀を手に取つて「脳をやられた。もう死ぬ」と言つて突つ伏し、死んだ。

家人の通報を聞いて同志達が駆けつけたが、手遅れだつた。藤吉は十六日に死に、事件の証言を遺した中岡も十七日に絶命した。激昂した海援隊士と土佐藩士らは、新選組やいろは丸事件で対立した紀州藩が怪しいと思い、その後新選組や紀州藩士を襲撃する事件を起こした。翌年になつてからも新選組が怪しいといふのは変はらず、江戸で捕縛された近藤勇は土佐藩から「坂本龍馬暗殺」を罪状に問はれて斬首された。

だが新選組は犯人では無かつた。明治三年(1870年)二月、戊辰の役の時、函館で捕縛された今井信郎なる者が、近江屋の一件について詳細な供述をしたのだ。今井は京都見廻組に所属しており、当日見廻組与頭の佐々木只三郎に呼び出され、近江屋に向かつた。実行犯は佐々木と今井の他、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の計七人で、全て見廻組の組士だ。

佐々木号令の元、近江屋に向かい、渡辺、高橋、桂の三人が二階に上がつて龍馬と中岡を斬つた。今井は土肥、桜井と一緒に下で見張りをしていたが、誰が佐々木に指示したのかまでは分からないと言つた。供述を受けた刑部省は、当時見廻組を配下に置いた元京都見廻役の小笠原弥八郎を取り調べたが、小笠原は「見廻組は実質佐々木只三郎が指揮しており、自分は知らない」と言つた。供述が認められたため、それ以上は追及されなかつた。

おれもこの件について旧幕臣と話したことがあつたケド、その話の中では榎本が怪しいと言はれた。榎本と言つても釜次郎(武揚)ぢヤあなく、目付の榎本対馬守といふ者だが。

結局誰が佐々木に命じたのか、ハツキリした事は分からなかつた。ただ、佐々木が会津藩出身である事、会津藩の用人・手代木直右衛門は佐々木の実兄で、浪士の取り締まりをやつていた事。そして近江屋がちやうど京都守護職と見廻組の担当区域にある事。これらを含めて考えれば、手代木から佐々木に命が下つたと考えるのが妥当だらう。手代木が誰から命じられたか。それはまう言ふまでもなからう。

龍馬の死後、西郷等が王政復古し時勢は急変した。慶喜は君側の奸を除くと言つて、鳥羽伏見でヘマをやつて逃げ帰つて来た。それで正月の何日であつたか、急に呼び出しが来て「上様がお帰りになつた。安房守を呼べといふ仰せだ」との事だ。海軍局に行つてみると、慶喜公も他の者も青菜のやうで少しも勇気はない。おれはひどく罵つたが、かくまで弱つているかと涙のこぼれるほど嘆息したよ。

江戸城に帰つたら慶喜が泣きつくから陸軍総裁になつたヨ。それで一翁と一緒に待ち構えていたら、果たして西郷が出てきおつたワイ。官軍に西郷が居なければ話はとても纏まらなかつただらうヨ。手紙一本で芝、田町の薩摩屋敷までのそのそと談判に来たヨ。いよいよ談判となると、西郷はおれのいふ事をいちいち信用し、その間一点の疑念も挟まなかつた。「いろいろむつかしい議論も有りませうが、私が一身にかけてお引受けします」西郷のこの一言で江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

ナアニ、江戸明け渡しの時は、スツカリ準備してあつたのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あつちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼き討ちのつもりサ。後で西郷と話して「あの時は、ひどい目にあはせてやらうと思つてた」と言つたら、西郷め「アハゝ、その手は食はんつもりでした」と言つたよ。

維新の残夢

龍馬が遺した海援隊だが、その後慶応四年(1868年)閏四月に土佐藩の命で解散せられている。お龍は三吉慎蔵の元にしばらく身を寄せていた。龍馬はもし自分の身になにかあつたら三吉に保護して貰うやうに頼んでいたらしい。その後、坂本家に預けられたが、あまり長く居続けることができなかつた。その後は各地をフラフラして、西郷やおれのところにも来たことがあつた。明治八年(1875年)に大道芸人と結婚して細々と暮らした。

「新政府職制案」「新政府綱領八策」がどうしたか?アーあれは新政府が受け継いだヨ。王政復古の時の総裁・議定・参与はほぼ「新政府職制案」と同じだからネー。多分岩倉卿辺りが採用したんだらうよ。「新政府綱領八策」は、翌年の「五箇条の御誓文」の原型になつた。

維新後龍馬のことは忘れられていつたが、明治十六年(1883年)、高知の土陽新聞に龍馬を主人公にした小説「汗血千里の駒」が連載され、大層評判になつた。これによつて坂本龍馬といふ男がかつて大活躍したことが世に知られるやうになつたのサ。それから後世の史家、作家によつて広く人口に膾炙されるやうになつたことは言ふまでもあるマイ。

サテ、おれの話はこれでおしまいだ。何か聞き残しはあるカエ?

坂本龍馬の人気の秘密?さうさナー。志半ばで斃れたが故に可能性を感じさせるのかも知らん。「もしアイツが生きていたら」つて思はんカエ?板垣は「坂本が生きていたら五代才介や岩崎弥太郎のやうな実業家になつていただらう」なんて言ふけどネー。しかしよくまあこれだけたくさん出版されるモンだ。それに比べておれの本なんか本当に少ネー。

マア色々読んで御覧なさい。もしかしたら、自分が考えていた龍馬像と違う新たな側面が見えてくるかも知れない。ことによつたら幻滅するかも知れない。ひよつとしたらますます気に入るかも知れない。毀誉褒貶、過大評価、過小評価、異説、奇説、いろいろあるだらう。

だが龍馬子、あいつは人物だつたよ。

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坂本龍馬について語るスレ

166 : ななしのよっしん :2016/01/13(水) 00:20:40 ID: s2TvhpX8UK
>r7c14X7WKO
そんな哀れな妄想を書いている時間があるならここの関連商品にある本の一つでも買ってまともに学んでくださいな
167 :     :2016/02/28(日) 19:13:46 ID: 2zijrLjyqL
龍馬が正規の教育を受けたのは10代前半に漢学塾に通ったぐらいで今なら中卒程度の学しかないから字が汚いのは仕方がない
168 : ななしのよっしん :2016/07/04(月) 23:26:02 ID: ECO+9U9i0l
>>165のように「龍馬は内戦回避のために慶喜や幕閣を参加させようとした」という意見をちらほら見るが
後藤宛ての手紙を見るかぎり、どう見ても慶喜を傀儡にする気だったとしか思えない
間違っても旧幕府への温情とかじゃないな
169 : ななしのよっしん :2016/08/14(日) 07:52:21 ID: sF+180JHmV
倒幕維新への全国で起こった恐るべき情熱、理想、エネルギーと、
出来上がった明治政府の利権独裁構造にはどこかズレが感じられる
その違和感が、維新を体現しながら明治には存在しない龍馬という
ズレを埋める英雄を産み出したんだろうな
170 : ななしのよっしん :2016/08/15(月) 22:46:30 ID: PSCyBah+nH
へい 通報することないと思うぞ
171 : ななしのよっしん :2016/08/16(火) 12:47:40 ID: PSCyBah+nH
このような発言許してなるものか!で通報じゃなくて楽しく議論でもセイヤッ
172 : ななしのよっしん :2016/11/12(土) 16:12:36 ID: 1WPW7g4YdP
高知のご当地アイドル(?)に土佐おもてなし勤王党の後継で土佐おもてなし海援隊が結成されたそうだかそのメンバーの中に坂本竜馬や武市半平太に並んで吉岡虎次郎がラインナップされていた
またマイナーなメンバーを入れたもんだな 高知県民でも知ってる人そんなにいないと思う
173 : ななしのよっしん :2016/12/07(水) 15:50:03 ID: hx5hqdXs4W
記事がwikipedia並みに充実しててワロタ
174 : ななしのよっしん :2016/12/25(日) 17:44:40 ID: 1Lk2drYoOS
過大評価ガーと喚くなら信頼に足る資料や本を読んで実像の龍馬を語ればいいのにやれ使い走りガーメーソンガーなんてしょうもない事しか言えないんじゃね…
こういうのが多いところでの歴史談義は本当につまらない
それならまだ漫画や小説の知識で留まってる方がまだマシとすら思う
175 : ななしのよっしん :2017/01/13(金) 23:55:16 ID: V9DVrlYy9g
本日、新発見となる竜馬親筆の書簡において、
福井藩の重臣 中根雪江宛の書簡で、「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」

謹慎処分中の三岡八郎を、いかに重要な人物か彼でなくては新国家の財政・経済に関して担当できる人物はいないという内容であり、新国家という言葉が竜馬の書簡で発見されたのは今回が初めてのことになる。

なお、記者発表においては、春嶽、三岡、龍馬、中根の子孫の方々も出席され10代目坂本家当主の方が「この書簡が大政奉還から150年という節目に見つかったのは、単なる偶然ではなく、龍馬が導いてくれたとしか思えない。ご子孫と一堂に会することができたのも龍馬のおかげと感謝しています」と発言されている。
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