現役時代はとてつもなく大きな太鼓腹で知られ、肉の多い大乃国(にくのおおいおおのくに)という回文があった。現在は年寄・芝田山として芝田山部屋を営んでいる。
概要
1962年北海道に生まれる。中学時代は柔道少年だったが、巡業で北海道に来た魁傑にスカウトされ花籠部屋へ入門。1978年3月に初土俵を踏む。1981年に魁傑が引退し放駒を襲名。同時に魁傑が興した放駒部屋に移籍する。
1983年3月に新入幕。同年11月には北の湖、千代の富士、隆の里の3横綱を破り3つの金星を獲得し、殊勲賞を受賞。1987年5月には西大関の地位で15戦全勝で初優勝。7月、9月も12勝、13勝を挙げ横綱に昇進。昭和に誕生した最後の横綱となった。
190cm近い長身と重心の低い重い体格から将来を強く期待され、当時の春日野理事長(元横綱栃錦)から「明治の角聖と呼ばれた常陸山を目指せ」と言われた。しかし新横綱の11月場所は8勝7敗でギリギリの勝越し、翌1988年1月は5勝5敗で途中休場となり、早くも進退の危機が迫る。翌3月は進退を賭けて臨み、序盤5日間で3勝2敗になったがその後は連勝を重ねる。千秋楽は1敗の北勝海との直接対決になり、大乃国が勝って13勝2敗同士の優勝決定戦となる。優勝決定戦は土俵際の突き落としで勝利し、横綱として初めての優勝を勝ち取った。しかしその後は千代の富士、北勝海の九重勢に押され、優勝を手にすることは出来なかった。
しかし彼の横綱としての最大の見せ場は、1988年5月から連勝を重ね、11月に全勝すれば双葉山の69連勝の記録への挑戦権を手にする千代の富士の連勝を、千秋楽に53で止めた一番である。当時の相撲ファンの目は千代の富士の連勝記録への関心がほとんであり、師匠放駒にも「どうせ今のお前じゃ何したって勝てないんだからヒヤッとさせる場面くらい作ってこいよ」と言われてしまい、逆にこれが発奮材料となり、打倒千代の富士に燃える事となる。千秋楽当日の朝は2時間も早く稽古場に現れ、徹底的に千代の富士対策を練ったという。そして千秋楽結びの一番、寄り倒しで見事に千代の富士を破り連勝を53でストップさせた。取組後のインタビューでは報道陣に対し「俺だって横綱だ!」と珍しく声を荒げた。奇しくもこれが昭和の大相撲最後の一番となった。
その後は体重の増え過ぎによる睡眠時無呼吸症候群や膝の故障に悩まされ、1989年7月以降は成績が低迷する。特に同年9月は7勝8敗と、15日制定着以降の横綱としては初めての皆勤での負越しを記録してしまう。翌11月は全休、1990年1月は8勝7敗と辛くも勝ち越すが、その後4場所連続休場。1992年3月に12勝3敗で優勝次点の成績を挙げた以外は優勝戦線に絡むこともなかった。そして1993年7月に現役引退。
引退後は年寄・芝田山を襲名し、放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当っていたが、1999年に独立し芝田山部屋を興した。
現役時は寡黙できまじめな印象が強い力士だったが、実際にはユニークな人柄で話も上手く、引退後はバラエティ番組などにもよく出演している。食、特に甘味に関する知識が非常に豊富で、近年では「スイーツ親方」「スイーツおじさん」と呼ばれグルメ番組に出演し知識を披露したり味の論評をしたりすることも多い。また自分でも料理をし、見事な手さばきでケーキを作ったりしている。
角界きっての常識人として知られ、現役時横綱は特権として割り込みが許される健康診断にも当然といった態度で普通に並んだという。またゴキブリが大変苦手で、入門当時、足元をうろつくゴキブリを見た途端に足がすくんでしまい身動きが取れなくなったしまったそうである。
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