大内義興単語

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大内義興おおうちよしおき 1477 ~ 1528※)とは、守護大名戦国大名である。周防大内氏15代当

(※旧暦。新に直すと1529年1月

概要

戦国時代初期のキーマンひとりであり、当時の最強大名の一…というか戦国時代を通しても屈の人物のひとりと言っていいだろう。彼の動きが畿内情勢を塗り替える。

大内恒例の督争いを制し、九州では少弐氏を一時滅亡に追い込む。前将軍足利義稙護した事がきっかけとなり、細川政元暗殺後の畿内の混乱に介入。足利義稙細川高国との三頭体制を築き上げた。晩年は独立色を強める尼子経久との戦いに注した。

生涯

若き日

14代当大内の子。幼名はと同じ童丸。9代将軍・足利義尚より「義」の一字を拝領した(大内氏歴代で「義」の字をもらったのは10代・大内義弘以来2人)。

10代将軍・足利義稙(当時は義材)の命じた六角討伐に参戦していたが、1493年に細川政元クーデター明応の政変」が起こり、将軍は追放されてしまった。義混乱から脱して帰。1494年に督を継承した(翌年には死去)。

家督争い

大内では兄弟間での督争いが多く、10代義から12代持世まで3回連続で争いが発生している。政の時代にも彼の叔父大内頓(大内教幸)が反旗を翻した。

そして義督継承した際にも不穏な動きが見られ、出していた・大護院尊を擁立しようとする一が現れる。

まずは守護代の内藤矩が尊擁立を企んでいるとされ矩を誅殺するが、実はこれは陶武護の讒言であった。陶氏は大内庶流で代々の重臣であったが、武護の・陶護が吉見信頼に殺され、それを即座に鎮圧した内藤矩が以降権を握っていた事に対する不満が背景にあったとされる。相を知った義は陶武護を誅殺。内藤氏と陶氏はそれぞれのである内藤と陶房が継いだ。

これで一安心と思いきや、今度は九州武明が尊を擁立しようと計画。これも事前に発覚して武明は自害、尊大友氏の下へ亡命した(以後、大内と名乗る)。

これらの争いの結果、内藤・陶・といった重臣のも削がれ、ようやく義中基盤も安定に乗った。

流れ公方さま登場

当時の北九州を巡る情勢について説明すると、豊後の大友氏とはの代に婚姻関係が築かれ、義従兄弟にあたる大友義右が当となっており友好関係が維持されていた。が、義右が1496年に急死した上に、大友親治(義右の叔父)が当になるとこの関係は一転、破綻した。義右死後の督争いに義も介入するが、失敗に終わっている。

筑前少弐氏とも貿易権益を巡って長年対立関係にあったが、1497年には少弐政資少弐高経子を自害追い込み、勢を壊滅させた。少弐資元(政資三男)はかろうじて生き残り、大友親治を妻に迎えて再の時を待つことになる。

そんな1499年の年末、明応の政変以来各地を流浪していた「流れ方」こと足利義稙(当時は義尹)が護をめて山口までやって来た。大内が西の大大名であるという事もあるが、それ以上に義稙の出自に由来する部分が大きい。

かつての応仁の乱で西軍が将軍補として据えた足利義視、その息子が義稙である。そして大内は西軍のとして戦った。明応の政変を起こした細川政元は東軍の大将細川勝元息子であり、応仁以来の対立・因縁が続いていたのだった。ちなみに前述の大友親治大内しく対立しているのも、政元らに政治的に接近した結果である。

そんな訳で縁の深かった大内義興と足利義稙は結託し、義稙を奉じての上す事になった。

もちろん細川政元や彼に擁立された11代将軍・足利義澄もこの動きを黙って見ていた訳ではく、天皇の綸旨を取り付けて大友親治をはじめとした北九州の諸大名に大内討伐を命じた。亡命していた大内も討伐軍に参加している。朝敵にされてしまった義であったが、元々の地の差が大きかったのか、戦況は大内優位に進んでいった。

上洛

1507年、細川政元が後継者を巡るドタバタから暗殺されるという大事件が起こる(永正の錯乱)。この混乱を好機と見た義と義稙は、九州諸大名と和を結んで上を決行する。

中国地方の諸大名・人を従えた大内軍のメンバーは、尼子経久吉川経、毛利興元を初め、小早川吉見益田ら諸人、大内譜代の臣である陶・内藤らとまさにオールスターであった。安芸武田氏、村上軍、備後山名氏なども協している。

細川の後継者となっていた細川澄元はこれに対して義兄弟である細川高国を使者として送るが、高は自らが細川の後継者となる野心から義たちに協を申し出た。1508年には澄元・義澄は近江へと追われ、義稙は念願の将軍位に復帰、高細川の当となった。

としては自分の仕事は終わったと言いたいところだったが、澄元一が畿内で反抗している情勢がそれを許さなかった。山守護・管領代に任じられた義は、しばらく畿内を転戦する事になる。

1509年、如意ヶ嶽の戦いで勝利して澄元一四国へと一時追い払う。1511年に再び戻ってきた澄元によって一時京都を奪われるが、岡山の戦いで決定的勝利を収める事に成功した。この岡山での義の活躍は彼の数々の戦歴の中でも特に名高い。

岡山の戦いと前後して足利義澄が死去した事もあり、澄元一の勢いは沈静。幕府は足利義稙細川高国・大内義興のトロイカ体制で運営され、一時的に安定した。しかし義が長く本留守にしている間に、武田元繁尼子経久が不穏な動きを見せ始める。

1518年、遂に義は管領代の職を辞し、周防へと帰還した。これでバランスの崩れた幕府は義稙と高の対立が悪化、澄元も再挙兵するなど混乱の時代へと逆戻りし、わずか3年後に義稙は再び将軍位を追われる羽に陥る。

晩年

時期は不明だが、大友義鑑治の孫)にがせて婚姻関係を結んでいる。義鑑が1502年生まれ、いだが生んだ大友宗麟1530年生まれなので、帰して山陰山陽の反乱に備えていたこの頃かと推測される(もしくは上前の和で婚約していたか)。このの生んだもう一人の子が後の大内義長である。

積極的に反大内の姿勢を見せていた武田元繁は、1517年の有田中井手の戦い毛利元就によって討ち取られている。ところが、尼子経久が安芸進出を本格化させたことで元就は尼子配下へと寝返ってしまった。元就により安芸・を落とされるなど、一時は苦戦を強いられる。

1524年には安芸への反攻を本格化させ、武田氏の本拠・佐東を攻撃した。この時が息子大内義隆初陣でもある。佐東は落とせなかったが、翌年には毛利元就らが再び大内配下に帰順するなど一定の成果を挙げた。更に尼子氏と対立関係にあった山名氏との協関係も築かれた。山名氏が守護を務める備後では、陶房が尼子経久を撃退している。

一方の九州では少弐氏の生き残り・少弐資元が再び勢を拡大するべく動いていたが、氏らの働きでこれを抑えた。

戦いに次ぐ戦いの日々であったが、敵対勢を抑えて着々と勢を拡大し続け、大内氏はまさに最盛期を迎えていた。1528年、再び安芸を攻める中で急病に倒れ、山口に帰還するもまもなく亡くなり、52年の生涯を終えた。
そして大内義隆が跡を継ぐ。大内運命が大きく変わる月山富田城の戦いは15年後のこと。

この前年には細川高国川原の戦いで敗れ失脚しており、彼は1531年に処刑される。中国地方では毛利元就存在感を増す一方、1534年には織田信長が誕生。戦国時代は新たな展開へと進んでいく。

戦国時代最初の天下人?

室町幕府が急速に衰える中で、その武と威信をもって中央政権に外部から新たに介入してきた存在、と考えれば彼もまた下人ひとりかもしれない。ただ、義本人に日本を治めようとする意志があったかは正直微妙といえる。

実際に中央政権への執着を持っていたのは細川高国の方であろう。ただ、高の政権は義の武という後ろがなくなると空中分解してしまった。その辺は織田信長の武を後ろに上した足利義昭と似ているが、信長の場合はの権益を押さえるなど積極的に畿内に自分のを及ぼしていった。その結果はご存知の通り。

の戦歴や大名としての下人の素質を感じさせるが、本人はあくまで周防長門守護大名という組みから抜け出すつもりはなかった、というのが実際のところだろう。

  • しかし彼が義稙を上させた事で、その後も延々と義澄系と義稙系の将軍の対立が続き、細川畠山三好遊佐といった面々の抗争を招く事になるとは…

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける大内義興の力一覧。

信長誕生の数年前に死去しているため、蒼天録以外は特典武将としてのみの登場。その実は凄まじいの一言。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 86 知略 80 政治 88
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 100 武勇 82 知略 83 政治 85
創造 統率 88 武勇 91 知略 81 政治 82
戦国立志伝 統率 88 武勇 91 知略 81 政治 82

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1 ななしのよっしん
2016/09/20(火) 17:45:00 ID: /lqUxJRjT8
記事建て
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2 ななしのよっしん
2018/01/08(月) 13:38:03 ID: fIeqBogtOK
ドラマ元就で上世代じゃ常久が注されがちだけどこの人も濃いよな。細川俊之氏の静かな熱演もあって
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3 ななしのよっしん
2019/06/20(木) 15:16:58 ID: dsFcVo+DYj
大内氏の最盛期を築いた戦国前期の覇者
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4 ななしのよっしん
2019/09/16(月) 19:55:17 ID: UrDuqcNfw6
>>2
わかる、前世代の二代巨頭がかっこよすぎる
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5 ななしのよっしん
2021/05/22(土) 15:09:41 ID: fvCFae5EHa
戦国前半最強の武将にして地方大名が上するハードルの高さを教えてくれる人
この人ですら将軍細川と協調しないと都ではやっていけなかったという意味で
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6 ななしのよっしん
2022/04/29(金) 21:47:02 ID: jC2jrWFa6H
北九州戦史みたいな野史だと上軍には少弐も参加してて龍造寺家兼もいるぽいんだよな
尼子経久龍造寺家兼、陶房とかもう初期戦国ほ西日本オールスターやわ
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7 ななしのよっしん
2022/08/10(水) 03:33:33 ID: eq717X5li/
ノブヤボだとフィクサーじゃなくて武略のパラメータなんだよね
そういう逸話があるのかな?

ALL90ぐらいはあってもおかしくはなさそうだが
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8 ななしのよっしん
2023/07/21(金) 09:39:56 ID: dsFcVo+DYj
のころから統率武勇が高いだったね
なんでだろう、ライバルの経久と差別化したかったのかな

でも息子より政治が低いのはあんまりだと思う
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