「大内義隆」(おおうち・よしたか - 1507~1551)とは、日本の戦国大名。周防国大内氏16代当主。父は大内義興、母は正室の内藤弘矩の女。養子に大内義長。
概要
大内義興と正室内藤弘矩の娘の間に嫡男として生まれるが、生まれる直前に父・義興が明応の政変で将軍を追われた10代将軍義稙を奉じて上洛し11代将軍足利義澄を蹴落とすと、そのまま京都に居座り続けた為に長年父を知らず育つ。10歳の時に父が戻ってくるが時すでに遅く、父の愛を知らず育った義隆は同性愛を嗜むガチホモと化していた。14歳には父の行軍に帯同し、尼子経久と戦う日々を過ごしていたが、1528年22歳の時に父が52歳で病死したので家督を継いだ。なお、室町以降の大内氏は義隆以外の代は家督争いの兄弟喧嘩が勃発しており当主が死ぬと内乱が恒例行事となっていた。
戦国大名として
1530年少弐資元を討つべく杉興連を遠征させるが田手畷の戦いで敗れ失敗すると寝技に方針転換。朝廷に多額の献金を行い続けた結果1536年大宰大弐に任官してもらう。「少弐氏の官職は大宰少弐だから、大宰大弐の自分のほうが偉い」という大義名分を獲ると当時は役に立ったみたいで龍造寺胤栄ら少弐の部下が離反して少弐を滅ぼす。1534年に大友義鑑を討つべく陶興房を遠征させるが勢場ヶ原の戦いで逆転負けを喫し、1538年12代将軍足利義晴の仲介で和睦し姉を大友義鑑に出す。この姉から生まれた甥が後の大友宗麟と大内義長となる。1540年尼子晴久が安芸に侵攻してくると傘下の毛利元就に援軍を派遣しこれを退け、翌年には武田信実を滅ぼし安芸を支配した。1542年尼子経久が死んで尼子家臣が大量に離反してくると自ら出雲に遠征した。この時瀕死の尼子を倒すのに九州の戦力は不要と考え温存して、安芸や石見等の国人達を中心に兵を集めたところ、戦が長引いて不満を持った国人たちが一斉に離反し総崩れになる。この時、養嗣子として期待していた大内晴持が事故死し大きなショックを受ける。1543年備後へと進出したが、いままでの大内氏としてはマイルドな戦いぶりとなり杉原理興を追う1550年まで地味に尼子との小競り合いが続く。1551年家臣の陶隆房が引き籠って謀反の準備をすると、討伐せずに話し合いで解決しようと試みたが失敗し反乱が勃発。遠方の吉見正頼や杉興連は味方だったものの、近隣の内藤興盛や弘中隆包や毛利元就や杉重矩が反乱側に与した為に逃げることができず義隆は大寧寺で自害した。これを大寧寺の変という。
ガチホモがアダとなる
毛利隆元・小早川隆景兄弟、陶義清・陶隆房兄弟、相良武任、冷泉隆豊、清ノ四郎、安富源内などと多くの男と交わった。山口から陶隆房の住む富田若山まで片道35キロを6時間かけて馬で往復していた時期すらある入れ込みようだった。1550年ザビエルは謁見した際にキリスト教の教義で衆道は禁じられていると嗜められると布教許可を取消すほど激怒した為に堺へ逃れる羽目になった。出雲遠征失敗後に陶隆房は寵愛を失い、相良武任や冷泉隆豊が寵愛を獲るようになり陶隆房は遠ざけられたという。あまりに衆道にのめりこみすぎて夫婦の営みが疎遠になりすぎて最初の正室、万里小路秀房の娘の貞子に逃げられている。んで貞子の側近である下級公家小槻(大宮)伊治の娘おさいの方に手を出したところ孕み1545年に男子を出産。嫡子の祖父の立場となった大宮伊治は用もないのに1546年頃から山口に居座って贅沢三昧をするようになる。この公家の贅沢三昧は陶隆房ら武断派の神経を逆撫でし続けたようで大寧寺の変勃発時に真っ先に殺されている。
大寧寺の変の影響
本能寺の変ほどではないが影響力は地味に大きかった。まず大内領内の豊前・筑前・石見は陶の支配を拒否し、長門の内藤は家督争いで分裂していたのを機に毛利元就が造反。吉見正頼と内藤隆春が毛利に加勢し、陶隆房は周防と安芸の手勢だけで厳島の戦いに挑まざるをえなくなり敗死する。大友宗麟は漁夫の利を得て陶と毛利からそれぞれ領土をゲットして復興する。龍造寺隆信は後ろ盾の大内義隆を失ったことで基盤を失って佐賀を逃亡する憂き目にあう。明国は大内義隆の死により倭寇の統制がなくなり倭寇の被害が増したことに激怒し、大内義隆の後継者の大内義長を簒奪者として扱い交易を却下、毛利も大友も同様に却下されて日明貿易が途絶してしまう。明の海禁政策が厳しくなったことで生糸や硝石など輸入品の入手経路は琉球や南蛮を頼ることになる。南蛮人がふっかけてきても言い値で買わざるを得ない為、1604年江戸幕府の糸割賦制度まで外国商人には日本はよいカモであった。また、日本の鋳造技術は廃れており銅銭も輸入に依存していた。銭の輸入が断たれたために日本国内は通貨不足となった。貫高制から石高制に切り替わる要因となり、1636年寛永通宝で銭不足が解消した後も米による経済が明治維新まで続くことになった。大内が囲っていた職人は四散しいろいろな技術が国内に伝播していった。運良く灰吹法が転がりんだ武田信玄の甲州金山や絹製法が手に入った京都の西陣織は大きく発展した。
金儲けが上手1(倭寇と結託)
父義興は将軍を再擁立した際に日明貿易の勘合符を手に入れた。これにより大内と博多商人は細川と堺商人から交易利権を奪うことに成功した。面白くない細川高国らは期限が切れた古い勘合符で遣明船を派遣する。賄賂を利用した細川の遣明船が有利に扱われたことで大内側が怒り、明国の港であるにも関わらず細川の船を焼き払いドサクサに紛れて明軍も蹴散らすなど大暴れした。当然明国は怒ってまっとうな貿易が制限され密貿易が主流になってしまった。これを1523年寧波の乱という。父の代に縮小された日明貿易は、後期倭寇が活性化の原因となり明や朝鮮が手を焼いているのを鑑みて、倭寇の黒幕である宗氏・松浦党・博多商人・明国人らを利益誘導で従えて暴れさせたり取締るふりをして、倭寇取締りを外交のカードとして利用し、1536年と1547年遣明船を派遣している。
金儲けが上手2(博多商人と結託)
大内は大陸から技術を持ち込むことに熱心で、硫化銅精錬法、絹製法、灰吹法など門外不出の技術を博多商人と共に賄賂などを駆使して手に入れている。博多商人神屋寿禎に1526年頃石見銀山を再開発させたり、1533年に慶寿と宗丹という技術者を朝鮮から招き灰吹法を研究するなど鉱山採掘と技術開発に柱心して莫大な利益を生んだ。先祖の大内教弘も明国から硫化銅の精製法を持ち帰り閉山していた長登銅山を再採掘していたり、寺尾鉱山に精製技術を研究していた跡がありこの一族には金儲けの旨さに定評がある。また、博多織の職人満田彦三郎を遣明船で技術研修に派遣し、中国広東で絹織物の技術を持帰させることで明国産に大差を付けられていた日本産の絹織物の品質を飛躍的に向上させた。後に西陣織が隆盛し絹織物の品質上昇に伴い生糸の国内需要も劇的に増加し江戸時代に養蚕が盛んになり、明治時代になって西洋技術の導入もあり良質な生糸輸出が日本の発展を大きく支えた。大内と博多織職人が絹織り技術を持ち帰らなければ江戸時代を通して養蚕の研究が盛んになることもなく日本の歴史が変わっていたかもしれない。職人を招致し文化や産業を振興した結果、絹・綾・扇子・屏風・刀剣といった交易に必要な輸出品の多くを領内で調達することに成功し高い収益をあげた。交易で書物を輸入することで学問を志す僧・公家なども集まり山口の人口は6万人を超えた。なお2010年日本の人口は1000万→1億3000万と13倍に増えているのに旧山口市市域の人口は14万人と2倍にしか増えていない。総理大臣輩出数も多いのに山口の人口伸び率が低い・・・どうしてこうなった。
金払いが良い(末世の道者)
公家や寺社の荘園領が横領される戦国時代では珍しく、逃げてきた公家を手厚くもてなし、東大寺の横領された土地まで奪い返してあげたり、筥崎宮や宇佐八幡宮などの復興にも尽力し、大陸から経典を輸入して寺社に寄進するなど神仏キリスト問わず寺社を手厚く保護したので当時の識者からは「末世の道者」(末法の乱れた世で仏教を求める者)と賞賛されていた。しかしこの褒め言葉も、公家の贅沢が武断派の不満を煽り、陶隆房と東大寺の横領地を巡って険悪になって反乱という結果で滅びた今となっては「道楽が過ぎて家の末代になってしまった人」というアワレな印象をうける。
官職コレクター
少弐戦で味を占めたのかその後も調停に献金を続け時の将軍よりも高位の従二位まで昇叙している。当時の朝廷は貧乏で天皇のサインを金持ちに押し売りしている状態だった。この莫大な献金で天皇即位式が行われたり、公卿達の生活も救われた。しかし後奈良天皇は恩知らずというか献金を猟官行為として忌み嫌い勤皇行為とは認定せず義隆の死後に何も贈位しなかった。なお1557年践祚した次代の正親町天皇は献金には厚く応える性格で毛利元就や本願寺顕如は贈位されたり門跡の称号を許可された。
1514年8歳にして従五位上昇叙。
1528年22歳で家督相続とともに周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前六か国の守護職に。
1532年26歳で正五位下に昇叙し、周防介任官。
1533年27歳で筑前守任命。
1534年28歳で従四位下に昇叙。
1536年30歳で大宰大弐、左兵衛権佐任官。
1537年31歳で従四位上に昇叙。
1538年32歳で周防介、兵部権大輔任官。
1539年33歳で正四位下に昇叙。
1540年34歳で伊予介任官。
1544年38歳で侍従任官。
1545年39歳で正三位に昇叙。
1547年41歳で兵部卿任官。
1548年42歳で従二位に昇叙。
1545年39歳で正三位に昇叙。1547年41歳で兵部卿任官。1548年42歳で従二位に昇叙。
関連動画
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける大内義隆の能力一覧。シリーズ毎に政治手腕の評価で数値の乱高下が激しい。官位と家宝による補正が入った天道では補正後統率92政治107という高数値になっている。ブルジョワな為、高価な家宝を大量に保有しており、バランス調整のために本来保有していた名物を多数割愛されまくってもなお「青磁大内筒」「青磁松本」「大内瓢箪」「藍韋威肩赤鎧」などを保有している。「瀟湘八景図」のうち消失した「秋景冬景山水図 伝徽宗筆」や「山水図 伝李唐筆」「桃鳩図 徽宗筆」などの国宝級の美術品も多数保有していた。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 85 | 戦闘 | 76 | 智謀 | 44 | 政治 | 73 | 野望 | 82 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 152(B) | 智才 | 96(C) | 政才 | 182(B) | 魅力 | 83 | 野望 | 85 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 37 | 智謀 | 33 | 政治 | 41 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 39 | 戦闘 | 21 | 智謀 | 32 | 政治 | 42 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 74 | 智謀 | 36 | 政治 | 85 | 野望 | 96 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 26 | 政治 | 77 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 66 | 知略 | 27 | 政治 | 76 | 教養 | 72 | ||||||
| 革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
| 天道 | 統率 | 76 | 武勇 | 34 | 知略 | 77 | 政治 | 89 |
||||||
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 大友宗麟
- 大内義長
- 陶晴賢
- 毛利元就
- 戦国時代の人物の一覧
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86


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リビジョン番号: 1050279
読み:オオウチヨシタカ
初版作成日: 11/01/20 00:58 ◆ 最終更新日: 11/01/23 19:14
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