大宝寺義氏(だいほうじ よしうじ、1551年 - 1583年)とは、戦国期に出羽国(現在の山形県)庄内地方を拠点として采を揮った戦国大名である。
概要
武藤氏の後裔(後述)である為、武藤義氏とも呼ばれる。「悪屋形」の異名を持つ庄内地方の小大名。羽黒山別当という寺社勢力の長としての顔も持つ。超がつくほど積極的な拡大活動で庄内地方を制し、大宝寺氏の全盛期を築き上げるも、家臣の謀反により志半ばで果てた。
生涯
大宝寺氏
大宝寺氏は、1189年に起きた奥州征伐の際に源頼朝に仕えた武藤資頼の弟、氏平を祖とする。武藤資頼はこの戦いの功を賞され、出羽国大泉荘(現在の庄内地方南部)の地頭職を授かった。建久年間(1190~1198)に資頼は一介の御家人の身分・出自にありながら本来公家の官職である太宰少弐に任ぜられて九州に下ることとなった為、大泉荘の地頭職を弟の氏平へと譲る。ヘッドハンティングされた兄の家流が悠々と自分ちの名誉ある家職である少弐氏を姓として名乗る中、弟は細々と自分ちの荘園である大泉を姓とした。その後、大泉氏は荘園の中心地であった大宝寺に拠り、大宝寺氏と姓を改めた。また、一時は上杉氏の影響下に入り、上杉姓を名乗ることを許されたという。
名跡を改めた大宝寺氏は着々と庄内における勢力を伸ばし、藤島城主で羽黒山別当職を兼ねていた土佐林氏や羽黒山衆徒、川北(現在の庄内地方北部)の国人であった来次氏、阿部氏らを丸め込み、庄内の中央部に位置する砂越に庶流家(砂越氏)を配置させるなど、その基盤を築いていった。
…はずであったが、時は乱世である。この砂越氏がエクストリーム・下克上大会にエントリーしてしまった為、大宝寺氏の居城であった大宝寺城は萌え燃え上がる事となり、時の当主・大宝寺晴時は山に囲まれた要害、尾浦城に引きこもらざるを得なくなった(ちなみに少弐氏はこのころ大内氏の猛攻に対して龍造寺氏におんぶに抱っこしていた為、結果的に龍造寺氏を成長させてしまった)。勢力も威信も凋落した大宝寺氏は晴時の従兄弟で次代当主、義増が伝説のヘタレ(統率力無くて反旗を翻す者多数で一族を含む内紛収まらない、本庄繁長の乱に派兵するもすぐ降伏、子を人質として差し出した上で上杉に臣従、その一年後に義増隠居(死とも))であったために、大宝寺氏あぼーんも近いものと見られていた。
大宝寺義氏の登場
そんな中で登場したのが、土佐林禅棟の後見をもって父の隠居のため上杉からの帰参を許された義氏であった。1569年に越後から戦における英才教育と「上杉輝虎(謙信)」という文字通りのトラの威を引っ提げ、数え16歳で大宝寺氏の名跡を継いだ義氏は、まず大宝寺氏がかねてから進めてきた北進策をとることにし、猛虎魂を以って秋田美人を探すついでに出羽国(秋田県)沿岸部の由利郡における有力国人衆である由利十二頭と関係を深め、出羽国における比重を深めようとした。伝説のヘタレである父が奇跡的に築いた小野寺氏との同盟関係を利用し(小野寺輝道の父が謀反により討たれた際これを匿った。その後輝道は復讐を果たし小野寺家の当主として返り咲いたことで両家は友好関係となる)、十二頭のうち鮎川氏、矢島氏、禰々井(根井)氏が大宝寺氏と関係を結ぶようになった。しかし、これに対して土佐林氏も仁賀保氏と密接な関係を結ぶようになる。このころの大宝寺家は前述の通り禅棟が上杉家より義氏の帰参の後見人を任されているなど、大宝寺家中における土佐林氏の占める割合は主家をも凌ごうとしていた。このことによって庄内と由利、大宝寺氏と土佐林氏の複雑な関係が生まれつつあった。
このわずかに苦々しい関係は、1570年に更に溝を深めることとなる。このころ、土佐林氏と通じた越後阿賀北衆の大川氏が大宝寺氏の本城である尾浦城に侵入し、失態を侵す。これに怒った義氏が藤島の土佐林氏に派兵、両氏の協力体制がここに崩れ落ちた。また、トップがkonozamaであった為に庄内各地で国人の内紛が勃発。これにはさすがの義氏もビックリし、争っている場合ではないとばかりに本庄繁長を通じて上杉謙信に調停を依頼し、土佐林氏との和睦が成立した。
こうして一旦は収束した内紛であったが、義氏が再び秋田美人探し由利十二頭と接触を図っている最中、翌年の1571年に土佐林氏と竹井氏が反乱を起こした。由利郡を手中にしたい義氏は竹井氏をまず破り、土佐林氏の投降を許すことで庄内を平らげ、反乱軍の残党もことごとく退けることで庄内における勢力と猛虎魂を遊佐・由利両郡の国人に見せ付け、その権力を掌握していくようになった。
なお、土佐林禅棟については、本庄繁長の乱の際、繁長に援軍を送り、禅棟が謙信の和談を以って義氏に派兵を断念させた為に両氏の関係が悪化したという書(出羽三山史)もあるが、そういった述記はほかに見られない。また、この書によると禅棟はこの年、義氏に謝罪に向かったが、義氏の口からあれやこれやと流言が出、身の危険を感じた禅棟は遁走した後亡くなった、ということになっているが、上杉氏や諸豪関係への対策をめぐって対立し、71年の反乱の際に殺されたとも、1583年に安東愛季方に羽黒山社殿造営の材木を依頼しているとされるなど、その生死ははっきりしていない(どちらにしろ、71年に亡くなったとする説では義氏が何らかの形で関わっている)。
ちなみに、義氏は出羽国に「庄内」という地名を作った人でもある。大宝寺氏の元々の領地である小さな大泉荘から義氏の代に南出羽国沿岸部一帯、北は鳥海山まで達した。そして義氏は「もはやこの地は大泉荘も同然の我が領地である。それ即ち『庄内』である!」と高らかに宣言したことが庄内という地名の始まりとされている。
天敵 最上義光、そして不運
庄内平定を実現のものとした義氏は再度秋田美人探し由利郡の制圧に向けて策を練っていた。そのころには義氏をみとめて(というより後方の謙信がこわくて)義氏の下につく国人がほとんどであったが、唯一小助川氏が独立した勢力となっていた。出羽国北方に勢力を伸ばす安東(秋田)氏は由利郡が大宝寺氏の手に落ちることは看過できない事であったため、義氏は由利郡の領国化を実現させる為に軍を動かし、また安東氏は小助川氏を援助することで対抗し、ここに大宝寺氏vs小助川氏(代理:安東氏)という由利郡での攻勢が展開されることとなった。
しかし、出羽山地を越えた向こう側には一人の毅将がいる事を忘れてはならない。出羽のfoxこと最上義光の擡頭である。家督争いを制し、家中を鎮め、尚且つ伊達氏からの完全独立を果たした義光は出羽統一と鮭ゲットの為に動き始めていた。このとき義光はまだ最上郡の支配すらおぼつかない状態であったが、同じ出羽に在り、かつ似たような国力を持つ最上氏を牽制し、義氏はまず1574年に伊達氏と手を結ぶことで最上氏の勢いを殺ごうとしたものの、結果的にこれは失敗に終わっている。
そして一つ目の不運が義氏を襲う。威を借りていたトラ上杉謙信の急死である。これまで猛虎魂を以って庄内を治めてきたと言っても過言ではないという内政状態であった為、庄内の諸将・国人たちにも謙信の死は動揺を隠せないものであった。また、このころから鮭が食べたくて仕方が無かった最上義光が、酒田湊などの海運を有し、且つ肥沃な上に石高において将来性が見込める庄内平野に目をつけ始めた。折しも上杉家は家督をめぐるお家騒動となり(御館の乱)、上杉氏はその後やや斜陽となっていく。この乱には義氏も猛虎魂を以って景虎側に加担していたが結果的に敗れた為、大宝寺氏における上杉氏の威光はストップ安を記録することになる。これにより義氏は「ひとりで出来るもん!」と無い胸を張らなければならなくなった。
その後も上山城、小国城、鮭延城を勇と策によって落とし、着々と領土を広げる義光に対抗する為、1579年に義氏は馬や鷹を時の天下人であった織田信長に献上し、屋形号を許されるという栄誉を受けた。この「屋形号」というのは名門や功のある将に授けられる敬称であり(この時代の人々は肩書きや称名に弱かった)、これによって義氏は義光に対し天下人に認められたといってもいいと言う程の名目的勝利を得た。
しかし、またも不運は起こるもの。1582年に勃発した本能寺の変により、その信長が横死してしまう。これにより武家として対外的に誇ることの出来るものをほぼ失った義氏は、最上氏と小競り合いを続けながら「おめーに食わせる鮭はねぇ!」とでも言いたいかの如く、由利郡侵攻を更に強めていった。この方針に対して内政を省みることの無い義氏の様を、諸将や領民たちは「悪屋形」と呼んだ。唯我独尊のオレ様政治であった為、「義氏繁昌、土民陣労」という歌も残されたほどであった。
1582年になると勢力的状況は更に悪化してゆく。義光はついに村上・最上郡一帯を平定し、大宝寺領&鮭が泳ぐ日本海は目睫となった。また、横手の諸国人と連携を図ろうとしながらかねてから続けていた由利郡侵攻も安東氏の猛烈な支援もあり失敗が続いていた。軍は疲弊し、諸将の中に反旗を懐に入れて隠し持っているような者がいても、義氏は戦い続けたのである。
だが、そんな状態が長く続くわけが無い。義光はこの政下手に対し、謀を以って挑んだ。まず目をつけたのがエクストリーム・下克上大会から大宝寺氏とは何かと因縁の深い庶家・砂越氏である。砂越氏の当主は安東氏の当主、安東愛季の義父であった。以前よりどちらかというと独立志向の強かった砂越氏はこの義光の策を受け、安東氏との連絡・取次ぎ役となり、安東氏と最上氏という北と東からの義氏挟撃網を築き上げた。出羽のfoxはまだ止まらない。今度は大宝寺氏の主要家臣に対して「謀反ノススメ」を諭した。勝てぬ戦に数年間も明け暮れ、困窮を極めていた家臣たちにとって、それは大宝寺義氏を見限る重要な口火であったのかもしれない。
最期
そんなこんなで1582年の12月、義氏は由利郡へ再び攻勢に出た。安東方の諸砦を次々に攻略し、年明けには新沢城(在所不明)にたどり着いた。ここで大宝寺軍は猛攻を続け、新沢城は本城を残してことごとく焼き払われた。大宝寺軍の勝利は目前とされていたが、後一歩のところで安東・小助川連合軍に破れ、帰還を余儀なくされたのである。 そして3月、家臣の砂越次郎と来次時秀がついに反旗を翻した。義氏はこの乱を鎮める為、近臣の前森蔵人に兵を預け、出陣させた。これが彼の「終わり」であった。蔵人は一旦は出陣したものの、すぐに取って返し、逆に尾浦城(義氏の館とも)を包囲してしまう。追い詰められた義氏はそこで自害し、果てた。享年32。ちなみに、この謀反には庄内のほとんどの国人が謀反方として蜂起したという。とりあえず、ざまぁwwwは禁止です。
ただ、悪屋形や内政下手という彼の評価であるが、これらは大宝寺氏が義氏の代の15年余という短期間に一荘園領からスタートし出羽国由利郡一帯までを領するなど急速に成長する中で置いていかれた有力国人や宗教勢力による単なる僻みであったとも言われている。また、大宝寺氏は義氏以前の代の積によって一介の小勢力に成り下がっていたが、それを立て直し、大名化させたその手腕も忘れてはいけない。
また、家の滅亡という大混乱において大宝寺氏に関する史書が散逸するということは想像に易く、主に外側(最上氏)から描かれた武将像であることも忘れてはならないかもしれなかったりなんちゃったりして。
死後
義氏の死後は藤島城主で羽黒山別当職も兼ねていた弟、義興が大宝寺氏の名跡を継いだ。また、謀反人の中心となった前森蔵人は義光に仕官し、川北の東禅寺城(酒田市亀ヶ崎城)に入り東禅寺筑前守義長と名を改めた。庄内の諸将は内心どうであれ形としては大宝寺氏に仕える身であったために混乱を極め、その中で義興と義長は更に対立を深めていくこととなった。跡を継いだ義興もその2年後に戦に敗れて自害、大宝寺氏直系は断絶となった。
家臣団
では、大宝寺氏とはどのような勢力だったのか。義氏は信長への誼の一件があるためか戦国物のゲームなどにも登場しているが、その多くは独立勢力扱いだったり、家臣がモブ武将天国だったり、よくても辛うじて土佐林禅棟が登場している程度である(まあ、当主が○○な上に家臣団もエクストリームだったり日和見だったりで目立った活躍をしていないせいもあるが)。ただ、現実にはそんなことは無いわけで、有力国人や宗教勢力を取り込むことで一家を築いていたようである(最終的にはその国人達の被官化を推し進めず、『領主』という意識を持たせたまま執政したことで後の反乱により滅亡するのだが)。では、ここにマイナー武将家の更にマイナー家臣団を挙げてみる。なお、主要な家臣は太字とする。
土佐林氏
代々密教・山岳修験の山である羽黒山の別当職を務めていた庄内の国人。羽黒山衆人は最盛期で3,500名ほどの勢力となっていたという。しかし、12代大宝寺政氏の時代になると別当職を大宝寺氏が兼任していた為、このころには既に土佐林氏は大宝寺氏の配下にあったと考えられる(その後、実質6代にわたって大宝寺氏は羽黒山の別当職を務め、羽黒山勢力を有していた)。大宝寺氏とは時に同盟者、時に協力者、時に執事のような間柄であったと見られる。
- 土佐林 禅棟(とさばやし ぜんとう) ‐ 能登守。大宝寺氏3代に渡って仕えた。晴時の死後、一時「林杖斎」を名乗り本格的に密教の僧となるも還俗し、晴時の従兄弟である義増が大宝寺氏を継ぐ時には諸豪の間を奔走してこれを納得させ、義氏が継ぐ時は上杉氏から後見人を任されたという庄内のセバスチャン。
- 土佐林 時助(とさばやし ときすけ) ‐ 本庄繁長の謀反の際に軍功があった為、上杉氏より感情を頂いている。
- 土佐林 明三(とさばやし めいさん) ‐ 大宝寺氏が小野寺氏へ向けて派遣した使者。安東方との和順の申し合わせや、当時小野寺領であった鮭延口のとりなしについてを伝えている。
砂越氏
大宝寺氏庶流家。元は遊佐郡司家としての砂越氏が居たが、その当主が討ち死にした後に大宝寺氏の一門(政氏の弟か)が名跡を継ぎ、再興した。郡司家時代から独立傾向が強く、独自に官途を申請するなどしていた。その家風はなぜか大宝寺一門が入った後も続き、そして後のエクストリーム家となる。
- 砂越 氏維(さごし うじふさ) ‐ エクストリーム・下克上大会にエントリーした張本人。晴時の代に大宝寺城を焼き討ちにしたのは彼である。大宝寺氏は上杉氏に和睦を求め締結するも、その翌年にはこれを破棄してまた争い合っている。しかし、その後臣従したのか、諸豪に大宝寺氏との和睦を斡旋している。また、義氏の死後は最上方に就いたが、十五里ヶ原の合戦で大宝寺義勝勢(本庄勢)が勝利すると砂越城を去った。
来次氏
観音寺城(酒田市(旧八幡町)観音寺)城主。庄内は元より大宝寺・土佐林・砂越・来次氏の4大豪族が割拠していた。そのためか、来次氏は日和見・反主家的立場をとることが多かったという。
- 来次 時秀(きつぎ ときひで) ‐ 川北に割拠した庄内の豪族の一人。本庄繁長に書状を送っている。庄内の動乱を沈静化させるほどの権力を有していたという。
- 来次 氏秀(きつぎ うじひで) ‐ 出雲守。上杉謙信の死後、大宝寺氏への求心力が失われると謀反を起こすも鎮圧された。義氏はこれに対して処断することも無く、逆に知行を与えて懐柔させるほどの力を持っていた。義氏の由利郡侵攻の際は仁賀保氏をはじめとした由利十二頭に大宝寺氏への出仕を勧めるなどの行動もとっている。小田原攻め以降上杉景勝の配下となったが、関が原の戦いで西軍が破れ、上杉氏が庄内を失うと氏秀も観音寺城を去ったという。
阿部氏
かつては出羽三山の一角として捉えられていた鷹尾山伊氏波神社の別当職を務めていた国人。前九年の役の安倍氏の子孫を名乗ったため、姓は安倍とも言われている。
- 阿部 良輝(あべ よしてる) ‐ 最上氏や上杉氏に他の国人が揺れ動く中、阿部氏は一貫して大宝寺氏に仕えた。十五里ヶ原の合戦では大宝寺義勝勢(本庄勢)につき、討死したという。また、鷹尾山衆人はこの合戦において大いに活躍したという。
丸岡氏
後の一宮・大物忌神社の社司を代々務めた家柄。こうしてみると大宝寺さんて宗教好きだったんですね
池田氏
朝日山城(酒田市矢流川近辺)城主。太閤検地に反発して一揆を展開した池田盛周が有名。
- 池田 盛周(いけだ もりちか) ‐ 讃岐守。大宝寺義興の代になると反乱を起こすも降伏する。義興は彼を改易するも後にこれを許し、所領を安堵している。大宝寺義興死後は最上方についたが、十五里ヶ原の合戦で大宝寺義勝勢(本庄勢)に降伏するとまたもや所領を安堵された。元々の領地も少ない上、武に秀でているという訳でもないのに2度の反抗に対して双方で所領を安堵されていることから、彼の人柄が垣間見れる。また、豊臣秀吉が太閤検地を実施しようとした際にこれに反発、領民救済のために一揆勢を率いてゲリラ戦を展開した。しかし、結果的にこれは鎮圧され、盛周は鮭延城へ落ち延びたという。その際、「俺は天下に背いた大悪党だ」として自虐的に「悪次郎」を名乗った。その後、盛周の一族と家臣は帰農し、新田開発に力を注ぎ、治水事業として遺した堰は「悪次郎堰」と呼ばれ、明治の時に地名を改めるよう県からの申し伝えがあったものの住民はこれを拒否し、山形県真室川町には今でもこの地名が残っているという。
板垣氏
遊佐郷の国人。後に姓を石垣へと改める。大宝寺義氏死後は最上氏に仕えた。
- 板垣 兼富(いたがき かねとみ) ‐ 遊佐郷菅里城主。義増の最上侵攻に従軍し、1564年に弱冠25歳で討死した。
- 板垣 河内守(いたがき かわちのかみ) ‐ 名は不詳。最上侵攻・由利侵攻において功があった。後に最上氏に仕え、最上氏改易後は酒井氏に仕えようと試みるもこれはならず、浪人となった。
留守氏
新田目城(酒田市本楯)城主。特に目だったことはしていなく、本当に留守だったのかも。ちなみに伊達氏配下の留守氏とは関係が無いと思われる。
高坂氏
金野氏
- 金野 右馬丞(こんの うまのじょう) ‐ 義氏好みの武に秀でた勇兵で須走村を賜るも、義興死後に浪人となる。その後、上杉景勝が行った奥州仕置に反発する藤島一揆の大将役を平賀善可と共に任され藤島城に一年間篭り、ついに直江兼継直々に開城令が出されるとようやく降伏、佐渡へと渡り、子は庄内藩に仕えたという。
前森氏
( ゚∀゚)o彡゜むほん!むほん!
亀ヶ崎城沿革によると東禅寺氏は大宝寺氏の庶流って書いてあるけど( ゚∀゚)o彡゜むほん!むほん!
蔵人は義氏の娘婿っていう説もあるけど( ゚∀゚)o彡゜むほん!むほん!
はっきりしたことはわからないけど( ゚∀゚)o彡゜むほん!むほん!
むほん昔話
- 前森 蔵人(まえもり くらんど) ‐ 義氏への謀反の中心人物となった家臣。義氏?興味ないね。義氏が(結果的に自身を自害に追い込んだ)軍を預けて出陣させているところを見てもかなりの重臣であったことが伺える。義氏の死後は最上氏に仕え、東禅寺城に入ると東禅寺義長を称したが、後に東禅寺筑前守氏永と名乗りを改めている。義氏に続き義興も攻め、自害に追い込んでいる。その後、十五里ヶ原の合戦で大宝寺義勝勢(本庄勢)に敗れ、討死。
- 前森 勝正(まえもり かつまさ) ‐ 蔵人の5つ年下の弟。兄と共に義氏・義興を攻め、自害に追い込ませている。その後、尾浦城主となるも、十五里ヶ原の合戦で兄が本庄勢に討たれると、本庄繁長に一太刀浴びせようと味方の首を取り本庄陣に潜入、繁長に首実検を依頼した隙に斬りかかるも失敗し、逆に繁長に討たれたという。
また、この他にも安保氏、米沢氏、井上氏、東海林氏、信太氏といった家臣が史上に見える。
関連動画
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける大宝寺義氏の能力一覧。
この知略である。初登場時からほぼ最低クラスで6作連続1桁なる偉業(?)も達成している。創造ではやや上がったように見えるが、武将1800人のうち下から30番目くらいである。政治は思ったよりあるという印象だが、創造で知略と逆転してしまった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 140(A) | 智才 | 34(C) | 政才 | 78(C) | 魅力 | 43 | 野望 | 72 | ||||
将星録 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 13 | 政治 | 38 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 21 | 戦闘 | 57 | 智謀 | 7 | 政治 | 26 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 32 | 智謀 | 4 | 政治 | 13 | 野望 | 89 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 59 | 知略 | 6 | 政治 | 24 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 59 | 知略 | 6 | 政治 | 24 | 教養 | 54 | ||||||
革新 | 統率 | 66 | 武勇 | 70 | 知略 | 7 | 政治 | 27 | ||||||
天道 | 統率 | 66 | 武勇 | 70 | 知略 | 7 | 政治 | 27 | ||||||
創造 | 統率 | 63 | 武勇 | 66 | 知略 | 20 | 政治 | 15 |
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 謀反
- 山形県
- 庄内
- 鶴岡市
- 酒田市
- 出羽三山
- 少弐氏
- 最上義光
- 上杉謙信
- 本庄繁長
- 織田信長
- 安東愛季
- 信長の野望・天翔記 ・・・ 誰が呼んだか「天翔記の申し子」の異名を取る
- 最短あぼーん候補
- 戦国時代の人物の一覧
関連リンク
- 6
- 0pt