単語記事: 大島康徳

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大島康徳1950年10月16日~)とは、中日ドラゴンズ日本ハムファイターズに所属していた元プロ野球選手である。

概要

中学時代はバレーボール部に所属しており、その時は「バレーボールメダル」という夢を持っていたが、高校では中津工業高校監督大島の素質にほれ込み、スパイクグローブをプレゼントされたことをきっかけに野球部に入部。
1968年ドラフト会議中日ドラゴンズから3位で名され入団。この時は投手だったが、監督だった原茂の進言で野手に転向した。

最初の2年は1軍への機会がなく2軍暮らしとなったが、この間2軍コーチでかつて中日の俊足外野手としてならした本多逸郎から「3年間、タバコ、女禁止。野球のことだけを考えろ」と厳命され、みっちりしごかれた。
3年71年に1軍昇格を果たし、初出場となった6月17日ヤクルト戦では石康三からセンターバックスクリーンに飛び込む2点本塁打を放つというかしいデビューを飾り、以降代打として1軍に残ってこの年7本塁打を記録。

72年は8月2日に1イニング2本塁打を放つ記録を作り、シーズンでも規定打席に到達したものの安定感がなく、14本塁打38打点ながら打率は.230に留まる。
このため72年から揮を執っていた与那嶺監督からは「あいつは3日先になると別のバッターになってしまう」と信頼を得られず、さらに左翼手から三塁手にコンバートされたことで同じ三塁手二に出場機会を奪われたため、掴みかけたレギュラーを手放すことになってしまう。

74年にはレギュラー奪取ならずもチームリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでは6戦にて村田兆治からソロ本塁打を放つも日本一は達成ならず。

76年は代打の切り札として活躍し、シーズン代打本塁打記録となる7本塁打マーク。しかしこの時もレギュラー定着を果たせずにいた。
転機となったのは2歳上のが亡くなったこと。この際「このままではだめだ」と奮起し、基礎練習量を増やすなどして自らを追い込んだ大島は翌77年ようやくレギュラー定着を果たし、規定打席にも到達して打率.333、27本塁打71打点の成績を残す。また8月9日には2度となる1イニング2本塁打を達成。

79年は一塁手として開幕から安定した打撃で長打を量産し、10月8日ヤクルト戦から17日の広島戦にかけて5試合連続本塁打を記録する等の活躍を見せ、この年初めて全試合に出場して打率.317、36本塁打103打点、リーグ最多の159安打という自己最高成績を叩きだす。

82年はやや不振に陥るも自身2度となるチームの優勝に貢献し、日本シリーズでも5戦杉本正から先制ソロを放ったがまたも日本一わず。
83年は7月末時点で本塁打数が14本で、トップ山本浩二から13本差を付けられていたが8,9,10月に猛追し、最終的に山本と同数の36本塁打で初の打撃タイトルとなる本塁打王を獲得した。

88年、田中富生・大宮龍男とのトレードで日本ハムファイターズへ移籍。
すでに年齢は37に達していたが、チームに強打者が不足していたこともあってかクリーンアップを打ったり、全試合出場をした年もあった。

90年には8月21日オリックス戦にて2000本安打を達成。39歳10ヶ2290試合での到達はこの時点で最も遅い達成だった。(現在谷繁元信更新

「配球が読めて楽しい」とった94年は代打中心ながら打率.323、21安打22打点、得点圏打率.371と御年44歳とは思えぬ活躍を見せたが同年現役を引退した。
内野手としても外野手としても1000試合以上出場という記録を作っている。

現役引退後は解説者を務めていたが、2000年日本ハム監督に就任し、同年はAクラスとなる3位になった。
しかし2001年は開幕戦となった近鉄バファローズ戦にて一時は6-1と大幅にリードしていたにも関わらず、いてまえ打線と呼ばれた強打線投手が打ち込まれて9-10の大逆転負けを喫し、これで勢いを挫かれたのかこの年は最下位から浮上することが出来なかった。
2002年も5位に終わり、監督を解任された。

2006年にはWBC日本代表の打撃コーチを務め、チーム世界一に貢献。メダルを掛けられた際には歓喜のあまり涙を流していた。

現在は再び解説者に復帰。BSメジャーリーグ中継などでそのを聴くことができる。
余談だが2015年シアトル・マリナーズに所属する岩隈久志ノーヒットノーランを達成した際、大島はその試合の解説を務めていた。

エピソード

なかなかレギュラーを掴めなかったのは打撃の安定感がかったこともあるが、もう一つ守備難という理由があった。その守備は当時現役を共にした星野仙一が自身が被害を被った宇野ヘディング事件の当事者・宇野勝べて「宇野は捕れば安心できたけど、大島は捕球しても審判アウトを宣告するまでまったく安心できなかった」とるほど。
ちなみに宇野ヘディング事件の際、宇野がこぼしたボールを処理したのは大島。また1984年5月5日の対大洋戦にて宇野レフトに打ち上げた打球をで追いながら全疾走したせいで1塁走者を追い抜きアウトになったのは有名だが、この時の1塁走者が大島だった
さらにこの14日後の5月19日の対ヤクルト戦、今度は大島レフトに打ち上げた打球をで追いながら全疾走したせいで1塁走者の谷沢健一を追い抜き大島アウトになるという全く同じようなやらかしを見せるなど、妙に珍プレー宇野に縁がある。


本塁打王と最多安打(当時は表なし)を1度ずつ記録しているが、何故かベストナインには一度も選ばれていない。
一塁手として自己最高成績を残した79年は打撃3項全てで王貞治を上回ったにも関わらず、ベストナインには王が選ばれた。だが大島は「王さんはの上の人。悔しくはない」とコメント
また外野手として本塁打王を獲得した83年は同数で本塁打王を分け合った山本浩二盗塁王松本史、最多安打田尾安志ベストナインに選ばれている。

長嶋茂雄ファンで、監督時代には長嶋の言動を真似ている様子が珍プレーとして取り上げられている。
また同じく監督時代、投手交代をしにマウンドへ行くも集まった選手たちと話すうちに選手交代を忘れてしまい、そのままベンチに引っ込むと、コーチから投手交代について聞かれ、その時初めて投手交代を忘れたことに気付いた際に舌を出してとぼけ、マウンドにいる高橋幸に対しベンチから「行け!」と示を出し、高橋はランナー3塁の場面から2者連続三振に仕留めている。この一連のやり取りはもまた珍プレーとして取り上げられた。

通算成績

通算:年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 2638 9227 8105 1042 2204 382 1234 88 30 74 964 54 1462 229 .272 .350

監督通算

通算:3年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 413 181 225 7 .446 Aクラス1回、Bクラス2回

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読み:オオシマヤスノリ
初版作成日: 15/08/16 16:44 ◆ 最終更新日: 15/08/17 20:49
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