大崎教兼(おおさき・のりかね 生没年不詳)とは、陸奥国の守護大名・戦国大名である。大崎家7代当主。大崎持詮の嫡男。(大崎持兼の子ともされる。)弟に内崎兼宜、大崎成兼。子に大崎政兼、一迫刑部少輔、百々高詮、内﨑兼宣、斯波詮高(一説)、高清水定家がいる。
概要
大崎氏は斯波氏の庶流であり、奥州探題の家柄である。大崎氏も滅亡したこともあり、家系図に多少の混乱が見受けられる。
大崎家2代・大崎直持は1327年生まれだが、直持の玄孫であり教兼の父でもある大崎持詮は一説によると1386年とされており、59年の整合性がとれていない。
ともかくとして、1424年に左衛門佐に任官されている。室町幕府6代将軍・足利義教より一字を賜っている。
関東で享徳の乱が勃発すると、白河直朝と共に室町幕府8代将軍・足利義政より足利成氏討伐の命が下る。
しかし、教兼のある所領から下総までの道のりは遠く、多くの他勢力の領土を渡らなければならなかった。
また、隣国の葛西氏とは姻戚関係を結んでいたとはいえ、軍事境界線について揉めに揉め始めた時期でもあった。
それでも大崎氏の勢力を維持するために、教兼には多数の子女がいたため、各地の豪族に嫁がせたり、養子として送り込んだりし、大崎氏の威厳を保った。
娘の1人は伊達成宗に嫁ぎ、伊達尚宗を産んでおり、伊達政宗などの系譜へと続いていく。
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