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単語記事: 大東亜戦争

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大東亜戦争とは、1941年の閣議決定により定められた、第二次世界大戦における、1941年12月8日の開戦から1945年9月2日の降伏調印までの日本と連合との戦いと、支那事変とを併せた呼称である。しかし戦後のGHQ占政策により「大東亜戦争」の使用が禁止された名残で、現在も「太平洋戦争」の呼称が用いられる場合が多い。

太平洋戦争」という用については、

  • 本土からインド洋に至る実際の戦域を反映しておらず、太洋を挟んだ日間のみの戦争であると誤解しやすい。
  • 19世紀の南で「太平洋戦争」と呼ばれる戦争があり、歴史のあいまいさを避ける観点から不適切。

といった批判があるが、かといって「大東亜戦争」の使用にも抵抗がある場合には、「アジア・太平洋戦争」と呼びかえることが多い。
歴史学者のクリストファー・ソーンは「極東戦争」というを用いることを提案したが、広く用いられてはいない。

概要

前史

1936年11月広田内閣が日独防共協定を結ぶ。これにより、はっきりとドイツというものを日本全保障上の交渉相手として選ぶ事になった。時を同じくして12月西事件があり、学良が介石を一時軟禁、その後介石が合作を唱える。これにより中国側は、民党と共産党が、日本帝国義と戦うということで戦線統一し、一時的な内戦状況を元に戻した。外交上はこの二つの大きな変化、日関係の悪化から新しい相手との新しい体制への変化、中国大陸の不定化の問題を抱える事になった。

また日英関係は、共に中国利権を抱える身として、日本としては基本的に改善、有田八郎外務大臣による交渉が進められた。これは経済的な保障をすれば平和の構築が出来るという算段があった。
基本的に関係が悪化しているアメリカと、共通利益を持つイギリスとは違うという「英可分論」というのが前提にもあった。これを推し進め、英を引き離してそれぞれと交渉していく事に意味があるというのがこの時期の外交スタンスであった。防共協定にも、アメリカは入らないまでもイギリスは入ることになっていた。

対して日関係は、決定的決裂まではいかないまでも、中国大陸に決定的利益が無いだけに、アメリカは理念に傾いた。つまり、日本中国に対して行っている事を強に批難していた。これは、英語を話す中国人が当時アメリカに対して、しく啓蒙運動をし、アメリカ中国に対し同情的になっていた。日本人がこれに反論しないのも拍をかけた。貿易関係においては、日本は当時一方的に多くのものをアメリカから輸入する輸入であった。基本的なエネルギーは、全てアメリカから輸入するという状況である。
また、アメリカは、日本の中の親への働きかけ、軍部のを弱めようとする運動も一貫して行われた。しかし、最終的に軍部に押し切られる様子をおよそ10年間見てきた中で、日本の政策決定に疑問を持つ様になり、後の「ハルノート」の動きになる。つまり、アメリカ側は開戦に至ることを承知で、天皇に止めるは無いだろうと見ていたのである。

そうした中で、アメリカ日本が援ルートを遮断するために北部印に進駐したことに対し、、鋼の禁輸を発動する。それに対して日本7月2日「対英戦を辞せず」「南方進出を強化す」とする南方進出方針を再確認し、資めて南部印にも進駐した。これを警告無視と取ったアメリカは、石油輸出の停止を決定。イギリスオランダアメリカの方針に追随する形で、日本との貿易を停止した(ABCD包囲網)。資から精密機械に至るまで、戦争に必要な物資の輸入をほとんどアメリカ依存していた日本は資の確保が必要になった。その頃、欧州ではナチス・ドイツ快進撃を続けていたので、東南アジアの植民地を支配していた欧州の宗は本が大変で植民地のことなど構っていられなくなった。既に決定していた南方進出方針にさらなるお付きと実現性が与えられたわけである。

当初は、1941年の7月ナチスドイツに呼応する形で、日ソ中立条約を無視して対ソ開戦を行う「北進論」が陸軍内でも流であったが、この方針決定を受け、関東軍特種演習(通称 関特演)は示威に留まり、東南アジアを占して帝国版図を拡大する「南進」が推し進められることとなった。

開戦

1941年11月東条内閣は、日交渉による戦争回避と対決戦の両方を推し進めていたが、アメリカよりハルノートの提示がなされ、アメリカによる最後通牒であると受け取った日本は、日交渉を打ち切り、開戦に向かう。

1941年12月8日日本洋艦隊の港である珠湾へ先制攻撃(珠湾攻撃)と英マレーを攻撃したことにより、アメリカイギリスをはじめとする連合戦争状態となる。
また、同盟であるドイツイタリアも後にアメリカに宣戦布告し、戦線は世界中に広がった。

当初は日本が有利であった。当時アメリカの植民地だったフィリピンの占、難攻不落といわれた英の要塞シンガポールを陥落させるなどまさに連戦連勝であった。
しかし、1942年6月ミッドウェー海戦では、正規空母を4隻も失う大敗を喫する。この頃から戦局は日本に不利になった。

同盟ドイツイタリアがそうであったように、「持たざる」である日本は、時がたつにつれて伸びきった戦線を維持するのが困難になり、英の物量の前に、戦線を後退せざるを得なかった。
1945年3月には、東京襲が起き、1にして10万人もの尊い命が奪われた。
また、沖縄上陸では軍人のみならず多くの民間人が亡くなった。
流石にこの状況から日本は条件付き降伏をアメリカ合衆国に申し入れるも黙殺され、
同年7月にはポツダム宣言による無条件降伏を通達されたが、日本はあくまで条件付き降伏をし当時中立条約を結んでいたソ連を通じての和を模索した。

しかし、8月6日には広島に、9日には長崎に史上初めて原子爆弾が投下された。
また、8月8日には、日ソ中立条約を結んでいたはずのソ連が参戦した(ドイツ降伏後のソ連の対日参戦はヤルタ会談で決まっていた)。
これにより後がなくなった日本8月14日にポツダム宣言を受諾、翌日の玉音放送日本国民に知らされた。

9月2日アメリカ軍の戦艦ミズーリにおいて、降伏文書へ調印されたことで、長い戦いは終結した。

航空主兵主義への転換

大東亜戦争開始までの世界的な軍戦略は大艦巨砲主義流であった。

しかし、珠湾攻撃やマレー戦に始まり、戦争の初めから航空機が重要な役割を果たした。そして珊瑚戦において遂に人類は初めて空母同士の艦隊決戦を経験する。
戦争中は終始上航の優劣が戦局を左右したため、表舞台においては、太洋戦線は、空母空母戦争であったとも言える。これにより、戦の役は戦艦から航空母艦とその艦載機へと変化した。(詳しくは大艦巨砲主義の記事も参照)

しかしその裏(面下)ではアメリカ軍による日本商船に対する通商破壊が地に行われており、これが日本に対する最大の打撃であったという意見もある。

ずさんな作戦

ダンールの悲劇の様に陸軍の将兵が戦う前に輸送船もろともに沈む事が多く、またろくな地図もない前人未踏のジャングルにまで戦線を拡大し、尚かつ兵站が劣悪だったため多くの病死者や餓死者を出すことになった。そのため日本軍の死者において、戦闘外での死亡の割合が異常に高いのが特徴である。その戦場の環境ゆえに両軍ともマラリア等の熱帯病に苦しめられた。

細かいところはWikipedia等を参照。

『輜重輸卒(補給担当の雑卒)が兵隊なら蝶々とんぼの内』としばしば揶揄することもあった、このような日本軍の補給・兵站軽視はばしば精神主義・非合理義の徴として批判の対にもされる。

そもそも日本には(基礎的な工業・技術)の制約上海上護衛戦と艦隊戦を同時に充実させるようなことが不可能であった。そのような短期決戦用軍隊でもって消耗戦・総戦に当たらねばならなかったこと自体が国家としての失敗でもあった。

評価

日本が攻撃側であるにも関わらずアメリカに対し完敗し、また日の死傷者数の差はとんでもない事になっている。多くの将兵と市民が死傷し、都市は焼き払われ、土は荒した。戦争的の是非に関わらず、その不適当な作戦や戦術、腐敗した軍の体質等は批判される事が多い。戦争の被余りにも大きかった為日本人の心に深い傷を与えた。

当時の日本の立場からすれば、ABCD包囲網により資に陥った点、ハルノート海外土の放棄や軍事同盟の破棄を迫る(一度締結した条約を一方的に破棄することは、その際的信用を失う行為である)など到底受け入れられるものではなかった点から、自存自衛のための戦争であるとの理解できないわけではない。
しかし、当然敵である連合の側にも、実際の戦場となった地域の人々にも、戦争の結果日本ではなくなった地域の人々にもそれぞれの言い分があり、未だに論争がある。

正義の反対は別の正義だ」ってとーちゃんが言ってた。

日本戦争に敗れ、戦争的である東南アジアの資および経済の確保は短期間に終わったが、この戦争の影により、アジアにおける欧の植民地体制は維持不となり、戦後のアジアの独立につながり、日本戦争に際して掲げた「欧植民地体制の打破」という標というか理念(悪く言えばプロパガンダ)だけは結果的にある程度達成されたともいえる。一方で、日本と西欧の退場により太洋におけるアメリカの覇権は盤石なものとなった。

戦後

日本は敗戦によって海外土を失い、その域は明治初期の範囲から千の南半分と樺太の南半分を除いた物となった。しかし、日本固有の土である北方領土は、日本権が回復した後でもソ連に占されたままであった。ソ連を引き継いだロシア連邦が成立しても、北方領土問題は現在も未解決である。

戦後日本に軍政を敷いた占軍は、プレスコードを発布し報道・出版に対し検閲を行った。
また教育や庶民文化にも介入し、連合軍が軍義的と見做した制度や慣習を破壊すべくつとめた。

その一環として旧日本軍戦争犯罪に関する宣伝なども行われたが、これらの政策には占軍当局の日本に対する無知・誤解、彼ら自身のプロパガンダに基づくものなども少なくなかった。
こうした政策は冷戦が深刻化し日本を西側営に確保する必要性が高まって緩和されたが、現在でも日本教育政治・言論など様々な分野に影を残している。

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初版作成日: 08/11/12 20:00 ◆ 最終更新日: 12/05/13 01:43
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大東亜戦争について語るスレ

442 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 18:55:50 ID: YPtgu192jQ
>>441

「どうしようもなかった」どころか
日本人皆殺しのところを300万人におさえたから大成功」
なんていってるもいる

http://kuniyoshi.nobody.jp/kindaisi.htm
443 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 19:08:10 ID: UXL2nY5E8S
>>441
内でも凍死事件起こしてる旧軍がシベリアで戦えるとは到底思えない

よく、欧人は自然を飼い慣らせると思い、日本人自然を畏れ云々なんていう文化論があるが、
少なくとも軍隊について言えば、日本人の方がよほど自然をなめているとしか思えない。
444 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 19:19:33 ID: F2M/CDHvJI
>>437
攻め込んでも資の備蓄や戦差、地理的問題が祟ってまず勝ちは無い。
445 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 20:11:54 ID: UXL2nY5E8S
>>442
大東亜戦争肯定論者の中でも特にぶっ飛んでるな。
よしりん以上に極端に敵を醜く、自分を美化して描いている。

しかし、その漫画の作者がpixivに挙げている他の作品が中々酷い。
どういうやつがネットで「愛国」を唱えているかよく分かる。
446 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 21:45:24 ID: ENyvIRL1tr
>>443
南方南方で現地調達でや食料面で酷いに遭うわ、インパール作戦は言わずもがなだし
自然を克できると過信し過ぎてる節があったと言わざるを得ない
447 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 21:50:13 ID: DqdIe18R1G
>>442
民皆殺し前提の戦争って……
448 : ななしのよっしん :2012/05/24(木) 23:38:47 ID: tDkregbkCx
>>442
はじめて見たがひっでーなこれ
そして案の定TOPにはタモガミの広告
こいつらに愛国心なんてない
ただ美化して、都合の悪いところは無視して、気持ちよくなっていたいだけ
気になってアーノルド・J・トインビーとやらも調べてみたら創価学会だし
449 : ななしのよっしん :2012/05/25(金) 18:35:35 ID: 1hKh3XGJQh
>>432
ドイツをなだめる餌扱いされたチェコロバキアと、
アジア一の列強(アルゼンチンが先進とされた時代)の日本では立場が違うものね。
で、方が摘する様に日戦前に分岐点が多数あったのに、それの判断を誤り続けた結果が、
満洲や朝鮮に投じた日本資本を丸損する本末転倒な結果に繋がった訳だ。
>>435
ドイツチェコロバキア解体により、
ミュンヘン会談にけるチェンバレン政権の宥和政策が誤りである事が照明されたのもあるが、
連合側に「是が非でもナチスドイツの伸長を食い止める」覚悟も体勢も無かったものね。
そのチェコの行き着く先は革命とプラハな訳だ。
>>440
対ソ戦を考える上で日中戦争は余計な事に見えるし、
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
450 : ななしのよっしん :2012/05/25(金) 18:40:35 ID: 0ooURbbswC
>>449
ソ連気でモスクワ放棄してあとから巻き返してきそうなところが怖い。
451 : ななしのよっしん :2012/05/25(金) 18:44:09 ID: ZuBDjr3Z2q
よしんば日本参戦によってナチ独ソ戦を制したとして、その後溢れ出るパルチザンや英連合軍にドイツさんが抗しきれるのか。
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