大田原資清(おおたわら・すけきよ 1486 ~ 1560)とは、下野国のまっくろくろすけ戦国武将である。那須七騎のひとつ・大田原氏の当主。
概要
はじめ上那須家に仕えていたが、内紛の末に御家断絶となり、下那須家から当主を迎え入れる事で100年に渡る那須氏分裂抗争を終結させた。が、権力争いの中で失脚して一時越前に逃れる。
それから20年以上の時を経て那須へと戻ると、かつての政敵・大関氏を打倒し、自分の子をその跡継ぎに据えた。更に自分の娘が産んだ那須資胤が那須氏当主となったことで、那須家中における権力を完全に確立した。
…と真面目に書いたが、要は権謀術数の限りを尽くして政敵をブッ倒し、他家を乗っ取りまくるとっても黒い御方。こうして戦国時代の那須家中は大田原一族によって専横される事になる。最終的に小田原征伐の際に大田原一族に謀られた那須氏は改易され、大田原氏(と大関氏)は逆に秀吉に取り立てられて独立大名となり、完全に立場を逆転させるに至る。これはひどい。
生涯
那須家統一まで
大田原氏は元は「大俵」と書いた。出自はよく分かっていない。父・大俵胤清(大田原胤清)もしくはこの資清の時代に「大田原」に改めたとされる。
資清の若き日の那須氏は、1414年頃から続く上那須家と下那須家の分裂抗争の真っ最中だった。大田原氏は上那須家に仕える身である。当時の上那須家当主・那須資親には跡継ぎがおらず、近隣の有力大名・白河結城氏から那須資永を婿養子にとっていた。ところが資親の晩年に実子・那須資久が誕生した事で、お約束ともいえる御家騒動の気配が漂い始める。
そして資親は資久を後継者とする遺言を残して1514年に死去した。…この際、資親に「資永には当主の素質が無い」「資久を後継者とするべき」と勧めたのは胤清・資清父子であるとも言われる。実は遺言自体が大田原父子による捏造なんていう話もあったりする。早速黒い。(この辺はあくまでウワサですけどね…)
こうして遺言という大義名分の下、わずか6歳の那須資久を山田城に擁立し、那須資永が籠る福原城を攻めた。大田原をはじめとした有力家臣はみな資久についており、下那須家も資久を支持、一方で資永の実家・白河氏からの援軍は期待できない状況と楽勝ムードだったのだが、ここで大事件が発生する。山田城の資久が大雨と夜闇の中、資永軍に誘拐されてしまったのである。
そして勝ち目がないと判断した資永は、幼い資久を道連れにして自害した。資清たちは戦いには勝ったが、肝心の上那須家の当主が失われてしまったのである。この為、下那須家当主の那須資房との協議の結果、資房の子・那須政資を上那須家当主とする事が決まり、那須氏の勢力は再統一される事になった。どうしてもこの辺の動きも怪しく見えてしまう…。
雌伏の時代へ
資清は那須資房からも重用されており、那須氏の通字『資』の一字を拝領するなど、存在感を強めていった。
当然これに反感を持つ者も多く、その筆頭が同じく那須七騎のひとつ・大関氏の当主である大関宗増だった。宗増や福原資安(同じく七騎の一)との争いの末、1518年に資清は那須を追われ、僧侶となっていた兄を頼って遠く越前国へ逃亡した。
以降、資清が戻る気配もないまま20年が経過し、那須家中では大関宗増が権力を握っていた。この間に宗増が政資の子・那須高資を擁立して内紛が起こっている。
逆襲のスケキヨ
1542年、すっかり過去の人と化していたはずの資清が帰ってきた。越前の朝倉氏の後ろ盾を得ていたとも言われる。
前述の通り、この頃は那須政資と那須高資の父子対立の最中であったが、資清は政資に味方した。というか、憎き大関宗増を潰す事の方が目的である。帰還した年の末には、早速宗増の嫡子・大関増次に奇襲をかけて謀殺。そして跡継ぎのいなくなった宗増(当時既に81歳)には自分の長男・大関高増を強引に養子としてねじ込むことに成功(宗増は1544年死去)。更に福原資安も隠居に追い込んで、こちらには次男・福原資孝を養子に送りこんでいる。
資清の反撃もあって内紛は収束に向かい、1544年に政資は隠居して高資が正式に那須家当主となった。この頃、資清は政資に自分の娘を嫁がせており、まもなく男子を生んだ(のちの那須資胤)。
- 資清と対立したのは福原資安とされているのだが、一方で諸系図には資安という人物が見えない。系図上では福原資澄・福原資衡兄弟の跡を那須政資の三男・福原資郡が継いで、資郡の養子となったのが資孝とある。
- 福原資郡の母も資清の娘とされる。時系列としては後述の那須資胤の家督継承後に資孝が福原家を継いだと考えられている。(資郡はそれまで兄・資胤が継いでいた森田家の当主にスライドする)
- そんな訳で、資安に相当するのは資澄・資衡兄弟かと思われるが詳細不明。
終わらない野望
しかし資清は満足などしていなかった。那須家に自分の外孫が生まれたのだから、考える事はただ一つである。
資清や息子たちはまだ幼い資胤を擁立しようと水面下で動き始めるも、元々対立関係にあった高資はその動きを察知する。一時は内紛再発かと思われたが、資胤が追放される事で食い止められた。
ところが1551年、高資は那須七騎の一・千本資俊によって謀殺されてしまう。
この暗殺事件自体は、高資が宇都宮尚綱を討った事がきっかけとなり、その逆襲として宇都宮家臣・芳賀高定が調略を仕掛けた事で起こったものである。ただ、高資には跡継ぎがおらず(佐竹氏から養子を迎えようとしていた)、必然的に次の当主は弟の資胤になった。資清大勝利である。なんかもう真っ黒すぎて何も言えない。
こうしてまだ幼い自分の孫を那須家当主に据え、七騎のうち大関氏と福原氏には自分の息子を養子として送り込み、那須家中のパワーバランスを一気に自陣営へと引き寄せた。1560年、75歳で死去。この後は長男・大関高増、次男・福原資孝、三男・大田原綱清の『大田原三兄弟』が父の基盤を完璧に引き継ぎ、専横を振るうことになる。
余談
那須一族の庶流に佐久山義隆という豪の者がいた。大田原資清は彼の実力に目をつけ、自分の娘を嫁がせて厚遇した。だが同時に警戒もしていたらしく、資清の死後、その遺言により三兄弟に暗殺された。なお娘は出家して、夫を供養する生涯を送ったという。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける大田原資清の能力一覧。
この智謀は流石である。小勢力の那須家において彼と大関高増の存在は非常に重要。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 116(B) | 智才 | 140(A) | 政才 | 126(A) | 魅力 | 52 | 野望 | 68 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 66 | 智謀 | 85 | 政治 | 80 | 野望 | 89 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 57 | 知略 | 74 | 政治 | 73 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 57 | 知略 | 74 | 政治 | 73 | 教養 | 62 | ||||||
革新 | 統率 | 64 | 武勇 | 27 | 知略 | 83 | 政治 | 82 | ||||||
天道 | 統率 | 64 | 武勇 | 27 | 知略 | 83 | 政治 | 82 | ||||||
創造 | 統率 | 62 | 武勇 | 41 | 知略 | 80 | 政治 | 78 |
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