大鷹単語

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大鷹とは、大日本帝國海軍が運用した商改造航空母艦である。1941年9月5日工、当初は特設航空母艦春日丸だった。数多くの航空機輸送に従事し、潜水艦に4撃されながらも後方で支え続けたの功労者。1942年8月31日に大鷹航空母艦1番艦大鷹に名。1944年8月18日、5回撃によりラオアグ西方で撃沈された。

概要

戦前

大鷹の前身は日本郵船株式会社所属の春日丸であった。

1940年東京オリンピックが開催される事が決まり、来日者数増加が予想された。現在運行中の客は老朽化が進んでおり、またドイツ完成させたシャルンホルストが登場したため、日本郵船は新たな客の建造に迫られた。1937年シャルンホルストを参考にして新田丸、八幡丸、春日丸の3隻を造る事にした。日本郵船は優秀船舶建造助成施設の制度を利用し、建造費1148万円を投入。

1940年1月6日三菱重工長崎所で起工。優秀船舶建造助成施設とは、帝國海軍が建造費の8割を負担する代わりに有事の際は徴用するというものだった。海軍からは速22ノットを強く要望されていたが、客としての運航経済性と助成金の限度から21ノットに留まった。殻工事の大部分と装工事の30長崎所で施工。9月19日に進し、春日丸と命名される。11月1日、同じく長崎所で戦艦武蔵が進秘密兵器である武蔵の存在を隠すため工事中春日丸が引っり出され、向に移動するまでの目隠しに使用されている。何事もければ欧州航路に就役するはずだった。

1941年2月10日海軍から物資や人員の輸送を命じられ、横須賀東京父島サイパン高雄トラック、ボナペを巡航。3月31日に任務を了した。戦争の足音が迫ってきたため、4月空母への装が決定。5月1日、いよいよ海軍に徴用される。買収ではなく徴用だったため、運用が了した時には元の客に戻して日本郵船に返される予定だった。佐世保工に回航され、第1003号艦の仮称で装工事を開始。他の商改造空母と違って一度も客になる事装されたが、そので一番最初に空母化した艦となった。このため商改造空母は大鷹の名称で統一された。

体の上甲にある遊歩甲プロムナードデッキ等を撤去し、その5m上方に飛行甲を設置。上甲と飛行甲との間の両舷に外って格納庫とした。飛行甲は全長162m、中央幅23.5mで、前後に昇降機2基を設置。羅針盤後方に図室、作戦室などがあり、その一段下には艦長休憩室や搭乗員室などが設置。飛行甲板前部舷側に補助艦、防揮所、発着艦揮所があり、右舷側に起倒式信号マストを配置した。客時代の隔は粗方取り除かれ、部屋を作り直している。飛行甲設置による重心の上昇を防ぐため、第1~第5倉にバラストを積載。機は客時代のものを流用しており、これが原因で最大速が21ノットしか出なかった。飛行甲も狭く、カタパルトを持っていない春日丸に扱える航空機九九式艦爆や九七式艦攻くらいで、大化した新鋭機には対応できなかった。ゆえに攻撃空母にはなれず、艦隊に随伴する事は一度たりともかった。それでも帝國海軍は艦隊決戦の際は、正規空母の後方に配置して第二線艦として運用する予定だったとか。空母としては低性でも、輸送艦として見れば優秀だった。春日丸は23機積載でき、21ノットの速輸送艦にしては破格だった。このため航空機輸送や対潜に用いられる事になった。要排水量1万7830トン、全長180.24m、全幅22.5m、均喫8m、出2万5200、最大速21ノット、重積載量2250トン、航続距離は18ノットで8500里、乗員747名。搭載機は艦戦常用9機/補用2機、艦攻常用14機/補用2機の計23機/補用4機。

突貫工事により8月31日に工事了。内第471号により特設航空母艦となり、佐世保鎮守府に編入された。9月5日工し、第5航空戦隊の旗艦となったが、翔鶴工により9月25日に第4航空戦隊へ転属した。10月24日航空機輸送の的で佐世保を出港し、高雄に入港。11月10日に帰投する。11月28日、今度は九六式艦上戦闘機を輸送するべく出港。高雄を経由し、開戦直前の12月6日パラオへ到着した。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。この日に春日丸はパラオを出港。12月12日に徳山沖へ帰り着いた。年内は瀬戸内海西部で着艦訓練に従事する。

日本本土で造った航空機前線に輸送するには、輸するか輸送に載せるかの二択となる。航空機に飛んでもらって直接前線に行ってもらうのがベストのように見えるが、航法の計算と長時間の飛行が必要になるため搭乗員に大きな負担をかけてしまう。僅かなミス行方不明に繋がる危険性もある。加えて搭乗員は重なので、輸に割けるほどの余剰もい。なので大体は輸送に載せて運ぶ事になるのだが、そのままでは載らないので分解の手間が必要。しかも航空機は精密機械なので簡単には組み立てられず、現地部隊は開封と組み立てに苦労する羽になる。前線では一刻も航空機の到着を待ち望んでおり、手間のかかる分解輸送も望ましくなかった。

そこで大活躍したのが大鷹による輸送だった。大鷹は飛行甲格納庫を持っているため分解の必要がく、容易に輸送する事が出来た。的地に近づいてから発進すれば、可動状態のまま飛行場に着陸する事も可。まさに大鷹は航空機輸送艦として最適の艦と言えた。

1942年

1942年1月1日鎮守部隊に編入。1月10日に徳山沖を出発してに入港した。2月14日大海第56号により第24航空戦隊用の航空機トラックへ輸送するよう命じられる。2月20日を出発して横須賀に回航。2月25日に出発し、3月3日トラックへ入港。2日の滞在を経て、3月11日に帰投する。3月28日大海第74号が発され、台南の人員と航空機ラバウルまで輸送するよう下3月31日を出発し、翌日横須賀へ寄港。物件を積載し、4月3日に出発する。4月11日ラバウルへ入港するが、さっそく敵の襲に巻き込まれる。翌日も爆撃を受けたものの、幸い被害皆無だった。4月12日に出港し、4月20日横須賀へ到着した。休む間もなく4月25日に出港、今度はマーシャル諸島クェゼリン方面に向かった。5月3日、クェゼリンの入り口で潜水艦ガトーから5本の魚雷を撃たれる。命中こそしなかったが、1本は命中寸前だった。護衛艦艇や一式陸攻の攻撃により追い払われた。同日中にルオットへ寄港する。この日に大海第93号が発され、第25航空戦隊戦闘機ラバウルに移送するよう命が下った。春日丸は戦闘機を積み込み、翌日出港。5月8日ラバウルへ到着して積み荷を揚陸した。翌日に出発し、5月16日へ入港。5月21日から25日にかけて入渠整備を受ける。6月9日から瀬戸内海西部で訓練に従事し、6月26日へ帰港。ここから空母装に向けた準備を始める。25mm機爆雷手動投下台1組、九五式爆雷8個を新たに装備し、官房機密第7162号訓により13mm四連装機2基を25mm三連装機2基に換装。

8月1日海軍省が春日丸を購入するとともに消火装置を搭載。これにより海軍管轄となり、日本郵船に戻ってくる可性はくなった。8月7日アメリカ軍ガダルカナル島とツラギに上陸し、ソロモン戦線が形成。急遽航空機が必要になり、大鷹に輸送任務が下された。8月16日を出港し、大分戦艦大和駆逐艦、潮、と合流。翌17日に出発し、前線基地となっているトラックに向かう。中の8月20日機関機軸の故障により最大速が20ノットに低下。8月27日駆逐艦を伴って分離し、行き先をタロに変更する。8月29日タロアに到着。艦爆4機、戦闘機4機、搭乗員及び整備員を揚陸、代わりに戦闘機10機を積載して翌日出港。トラック方面に向かう。航行中の8月31日、内1625号により軍艦大鷹に名。佐世保鎮守府に編入されるとともに連合艦隊に属し、正式に航空母艦へ艦種変更となった。9月4日トラックへ到着し、同日中に出港。パラオダバオを巡航して台南零戦九九式艦爆、人員を収容。

9月27日午前9時カビエンから鹿航空隊の艦戦と第32航空隊の艦爆を発艦させて輸。日を迎える前に入港を済ませようと、20ノットの速トラック急行した。左右30度2000mに駆逐艦潮とを配して対潜警を行わせ、間は2500mに変更。大鷹では艦内第三配備を取り、間は艦戦1機を出して対潜を行った。トラック100里圏内に入ると第二配備に変更、50里圏内からは之字運動を実施。ところが翌28日13時23分、トラック入り口から17.4里の地点で潜水艦トラウトの撃を受け、5本の魚雷が伸びてきた。直ちに取り一杯で回避し、一時艦と魚雷が併走した。総員配置の号が飛び、艦内は慌ただしくなる。その直後、警中の駆逐艦から跡の通報が入り、2分後に左舷から2本、右舷から1本の跡を発見。このうち1本が右舷前部に命中し、機械が停止して航行不能に陥る。防を下するとともに、潮と爆雷攻撃を示。艦内では13名の戦死者が発生し、羅針儀が故障してしまった。13時28分、隣接区画の機や機関に故障がい事が確認された。13時40分、羅針儀故障に伴い、たまたま付近を通った駆逐艦に嚮導を依頼。応急修理により自航行可になり、1分後に14ノットで離脱開始。偶然発生したスコールのおかげで敵潜からトドメの撃を撃たれずに済んだ。15時25分に南を16ノットで通過し、遅くに事入泊した。これが潜水艦による初の空母だった。9月工作明石が横付けして応急修理を受ける。

10月1日竹島飛行場より九六式艦戦3機と九六式艦爆5機を収容。爆弾の揚陸作業を行う。10月4日14時35分、駆逐艦時津風の護衛を受けてトラックを出港。警航行で進む。被した前部ガソリンタンクから気化燃料が漏れ出し、わずかな火気で爆沈しかねない危険な状態での航だった。10月7日、航行中に損傷箇所の応急修理を実施。10月12日午前7時沖ノ鳥島付近を通過。19時15分、豊後で待っていた第46号艇と合流して瀬戸内海に到達。翌13日午前11時、九六式艦戦6機と九六式艦爆5機が大鷹から飛び立ち、岩国基地へ向かっていった。その後、第46号艇と別れ、18時広島湾で仮泊。10月14日午前7時に出発し、2時間後にへ入港。海軍に入渠して修理を開始。舷側電路を修理しつつ、21号電探を装備した。2日後、第4渠に移動して艦底保護用の亜鉛塗装する。10月27日修理了、糧食と重の搭載を行う。翌日を出港して横須賀に回航、第252航空隊の航空機を搭載して再び輸送任務に身を投じる。11月1日、出港。横須賀トラック間を往来して物資や航空機を運び続けた。ガダルカナル島争奪戦が化するにしたがって航空機の損耗も増え、大鷹の輸送任務に終わりが見えなかった。

12月15日横須賀を出港。12月21日トラック、24日にカビエンへ物資を届け、12月31日横須賀へと帰投。年内の輸送任務を了させた。

1943年

1943年1月1日横須賀を出発。ニューギニア方面に進出する陸軍208飛行戦隊九九式双発軽爆撃機36機を雲鷹とともに輸送する。賀から出港してきた第52号駆潜艇の護衛を受けて西通過した。2月7日トラック着、陸軍機を揚陸する。4日間の滞在を経て出港し、2月17日横須賀へ帰港。休む間もなく次の輸送任務のため機材を積載、2月24日出港。3月2日トラックへと入港した。3月6日駆逐艦の護衛を受けながら出港。雲鷹と一緒に横須賀し、3月12日帰着。

4月4日午前9時30分、陸軍第68戦隊の三式戦約30機を積載して横須賀を出港。商改造空母冲鷹重巡鳥海駆逐艦親潮黒潮とともにトラックす。4月7日サイパン潜ハドックを遭遇するが、攻撃は受けなかった。間もなく中継地のサイパンに寄港し、同日中に出発した。4月9日20時49分、潜水艦タニーから撃を受ける。距離800mから4本の魚雷が大鷹の右舷掛けて伸びてきたが、いずれも爆する幸運に恵まれた。爆発音を聴音したタニーは4本命中を確信し、今度は冲鷹に向けて6本撃したが、こちらも不成功に終わった。21時55分、「撃を受けるも被害し」と報告している。4月10日午前11時トラックに到着。撃を受けた時に僅かな損傷を負っていたが、修理が必要になるほどではなかった。連合艦隊作第530号により横須賀への帰投を命じられ、4月16日冲鷹とともに駆逐艦に護衛されて出港。翌日時雨が護衛に加わり、サイパンを経由して4月21日横須賀へ到着した。5月1日からの航空機輸送は南東ではなく、南西方面になった。マニラ、スラバヤ、シンガポールを巡航。5月29日に佐世保へ入港し、佐世保工修理開始。泡消火装置を搭載し、艦首錨甲及び艦尾短艇甲上にフラットを設け、その上に25mm三連装機2基と機射撃装置を搭載。7月14日修理了。翌日佐世保を出港し、特設駆潜艇威の護衛を受けながら横須賀に回航。大峡で威と分離し、7月17日横須賀へ到着。輸送任務のため横須賀を出港、7月28日トラックへ入港した。便乗者431名と零戦3機、艦攻3機、戦1機、発動機5機等を積載し、8月4日午前4時15分に出港。駆逐艦舞風と大波が護衛についたが、17時45分に舞風トラックに引き返したため、護衛は大波1隻のみとなった。大波は大鷹の後方1000mを続航し、2隻は之字運動A法を行いながら対潜警を実施。

8月6日午後12時50分、高教練射撃のため隊形を変更。5分後に射撃教練を開始した。13時2分、艦右舷の三番見り員が「潜望確実」と報告。艦長と当直将校が確認しようとした間、魚雷発射音らしき音を探知。潜水艦パイクから撃を受け、6本中4本が大鷹に向かってきていた。取り一杯と前進一杯の号が下り、回避運動に移る。右90度に確認された潜望に向けて機や高が火を噴くと、潜望はすぐに中へ引っ込んだ。次に機群は右舷側から伸びてくる4本の魚雷撃。3本までは回避に成功したが、1本が右舷中央部に直撃。あわや撃沈かと思われたが、弾頭が脱落。なんと不発で済んだ。大波もパイク攻撃に加わったが、逃げられている。大鷹は速20ノットに上げて離脱した。8月9日横須賀に到着。

9月16日連合艦隊作第712号により冲鷹ともども横須賀への帰投を命じられる。便乗者840名と零戦6機等の託送品を積載し、駆逐艦島風の護衛を受けて9月21日に出港。9月24日、この日は悪に見舞われていた。島風冲鷹、大鷹の順に単縦を組み、20ノットで航行していた。午前6時58分、父島の74度210里で潜水艦カブリラから6本の撃を受ける。日本側はカブリラの存在に気付いておらず、跡が右舷500mにまで迫ってから初めて気付いた。く間に右舷艦尾、前部火庫、爆弾庫に命中してしまうが、起爆したのは艦尾に当たった魚雷だけだった。たちまち大鷹は中破し、機械室故障により航行不能に陥る。高と機群が火を噴き、カブリラからの更なる撃を防ぐ。被衝撃で乗組員数名がへ投げ出されてしまったため、第2カッターを降ろして溺者救助を実施。2名がカッターに、8名が島風に救助された。悪は大鷹側にも利し、カブリラトドメを刺す事が出来なかった。連絡を受けたジャックも大鷹を狙ったが、こちらも失敗している。一度は域を離脱した冲鷹だったが、大鷹を助けるべく反転。敵潜が遊する危険な域に舞い戻り、航作業を始める。冲鷹艦首錨鎖を艦尾まで運んで固縛し、これに航索の大・中・小を結んで大鷹のカッター艇に渡し、大鷹の艦首部に固定。14時17分、冲鷹による航を開始。最初は最微速で前進し、途中から8ノットに上げた。9月25日16時、第27号掃海艇が駆けつけ、護衛開始。また横須賀から緊急出動した駆逐艦白露も護衛に加わっている。翌26日午前7時30分、哨戒機が敵潜を発見したため第33号掃海艇が対潜攻撃を行った。16時30分、命からがら横須賀に入港。さっそく横須賀修理が行われた。損傷は予想以上に大きく、長らく戦線から離脱する羽に。10月1日、第5渠に移動。11月18日にひとまず出渠。12月15日上護衛総部に転属となる。12月22日横須賀を出港して三菱重工横浜所へ回航、修理を続行する。

大鷹が献身的に運んだ航空機の一部はラバウル航空戦に投入された。空母艦載機も投入されているとはいえ、毎日戦にまとまった数の機が迎撃に上がれたのは紛れもく大鷹のおかげである。

1944年

1944年に入ると、戦況はより一層悪化した。ソロモン諸島アメリカ軍に制圧され、南東方面の要衝ラバウルは孤立寸前、2月17日にはトラック大空襲を受けて基地機を喪失した。トラック方面への航空機輸送の必要性は急速に薄まりつつあった。一方、内地と南方地帯を結ぶ航路も潜水艦の跳梁で被害が続出。輸送任務がくなって宙に浮いた大鷹には、新たに団護衛の任務が与えられた。

4月13日修理了。同時に装工事を受け、九七式艦攻を問題なく扱えるよう飛行甲を10m延伸。13号電探、零式水中聴音機(パッシブソナー)、信儀(アクティブソナー)を装備した。4月19日横須賀で第931航空隊の九七式艦攻12機を搭載。この艦攻は対潜哨戒機で、左右の下に1発ずつ爆弾を搭載。高度1000m以下の低を飛び、搭乗員3名による視で敵潜水艦を捜索する。レーダー等は装備しておらず、潜航中の敵潜の捕捉は困難を極めた。4月22日へ回航、第1上護衛隊の揮下に入る。4月30日、輸送団護衛のため門へ回航、現地でヒ61団と合流する。5月3日、輸送11隻からなるヒ61団と出港、海防艦5隻と駆逐艦3隻とともに護衛する。5月6日、仁栄丸が機関不調を訴えたため、海防艦2隻の護衛を伴って高雄に向かった。5月8日午前6時18分、潜ホーの撃によりあかね丸が小破。大鷹から飛び立った九七式艦攻が対潜制圧を行った。その後は何事もく、経由地マニラへ入港。燃料との補給を行う。「あ」号作戦のためタウタウイ方面に向かう駆逐艦電、、建丸、日栄丸、あづさ丸と別れ、残りを率いて出港。5月17日シンガポールへ到着。5月23日、物資を満載した輸送8隻からなるヒ62団を護衛してシンガポール出港。往路と同じく5月29日にマニラへ寄港、6月8日に門に到着して往復に成功した。翌日に回航、海軍修理を受ける。6月27日取機と所の修理を実施。7月7日修理了。

戦列に復帰した大鷹は海鷹神鷹とともに航空機輸送任務に復帰。ヒ69団に加入(護衛する側ではなくされる側)し、マニラの第1航空艦隊向けの航空機124機を輸送する事に。7月12日、門合いの六連を出港。7月20日にマニラへ到着し、物資を揚陸した。任務を了させた大鷹はシンガポールに向かう海鷹神鷹と別れ、マニラに寄港していたヒ69団とともに内地帰投をする事になった。他にも陸軍徴用貨客安芸丸や、マモ01団で任務を終えた陸軍特殊2隻と徴用輸送3隻、修理のため内地に後退する特設給油厳島丸が加わった。7月24日午前6時、マニラを出港。団で最も足が遅いTMタンカーに合わせて11.5ノットで航行する。経由地である高雄の左栄向かったが、翌フラッシャー、クレヴァル、アングラーからなるウルフパックに捕まってしまう。午後には速クレヴァルから撃があったが、狙われた安芸丸と東山丸は回避に成功した。だが、恐怖は始まったばかりだった。7月26日未明から再度襲撃が始まり、まず大鳥山丸が被。積み荷のガソリンに引火して爆沈してしまった。フラッシャーからの撃で安芸丸と東山丸も被損傷し、午前5時アングラーの魚雷聖川丸が損傷。クレヴァルの追撃で、手負いの安芸丸と東山丸が沈められた。3隻撃沈、1隻損傷の損を受けながら、7月27日に左栄到着。低速のTMタンカーと損傷した聖川丸は編制から外され、新たに輸送1隻が加入。7月28日20時、左栄を出港。台湾峡を通過して北上する。ここからの航不気味なくらい穏で、敵襲はかった。8月3日に佐世保へ入港した。

8月7日、ヒ71団が待つ万里湾へ移動。ヒ71団にはルソンに配備される陸軍第26師団3万5000名や便乗者2600名が分乗しており、タンカー陸軍輸送、貨物からなる20隻の重要大団であった。論護衛も勢で、駆逐艦波、夕凪海防艦戸、倉、御蔵、昭南、第11号、そして大鷹が担当。8月10日、ヒ71団を護衛して万里湾を出発。優秀船舶が集結しているだけあって15ノットでの航行が可だった。輸送は四列縦隊を組み、その外側を護衛艦艇が警護する。大鷹と駆逐艦2隻は団後方に配置されていた。出港から半日足らずで陸軍特殊吉備丸が機関不調となり、長崎に引き返した。団は東シナを横断し、中国大陸沿に沿って南下を開始。大陸沿いの航路は航空隊の支援が受けやすく、敵潜の出現率を抑えられた。8月15日夕刻、に寄港。輸送4隻がここで別行動となり、代わりに駆逐艦朝風海防艦4隻が護衛に参加。8月17日午前6時に出港した。出港から2時間後、二洋丸が機関不調で反転

しかし8月18日未明、ヒ71団は潜水艦レッドフィッシュに発見されてしまう。さっそくレッドフィッシュ撃を行ったが、幸い命中しなかった。敵潜は付近のピクーダとスペードフィッシュを呼び寄せ、追跡を開始する。ヒ71団は最も危険とされたルソン峡を日中に突破しようと試みた。午前5時30分、レッドフィッシュ撃により永洋丸が被荷だったため沈没こそしなかったが団についていけなくなり、駆逐艦夕凪に付き添われて高雄に引き返した。敵襲を受け、大鷹は九七式艦攻を発進。上を旋回する九七式艦攻の存在は潜を中へ押し込め、日中撃を全に防いだ。しかし日を迎えて哨戒機を収容せざるを得なくなると、再び鋭利な牙を剥いてきた。になるとヒ71団は16ノットに増速。ルソン北西して走る。何とか北西に手が届きそうになったその間、が急変して風速12mの暴風雨に見舞われる。団はバラバラになり、視界不良で対潜監視をも困難になった。1番波丸から「団は敵潜水艦に包囲されつつあり、各を厳重にせよ」との信号が送られ、団を凍りつかせた。

最期

1944年8月18日22時15分、聴音機室では右舷45度方向に敵潜水艦を探知。大鷹は第五戦速に上げると同時に回避運動を取ろうとした。その間、右舷15度から4本の魚雷が伸びてくるのが見えた。右へ転を試みる大鷹だったが、1本が右舷後部に直撃。航空燃料のタンク付近で爆発が起こり、誘爆300mもの火柱が上がった。続いて格納庫火災が発生、弾薬庫に誘爆して大爆発が発生。体が右舷へ傾斜していく。左舷側への注が試みられたが、22時30分に左舷後方の燃料タンク誘爆。あまりの衝撃に、新たな魚雷が命中したと思われたほどだった。この時点で応急班の多くは戦死、消火機器も破壊された。もはや右舷への傾斜を止める事は出来なかった。間もなく総員退艦が出された。22時48分、ラオアグ西方25kmの地点で大鷹は沈没。乗組員及び便乗者5478名中2654名が死亡した。1944年10月1日、除籍。

大鷹の沈没はヒ71団に大きな動揺を与え、散り散りになって逃走を図る。しかし強による視界不良、ルソン西の存在による座礁の危険性、そして潜の待ちせという三重苦が待っていた。潜水艦は1隻ずつ輸送に襲い掛かり、生き残ったのは輸送5隻と護衛艦艇4隻のみだった。

大鷹は姉妹艦と合わせて約2000機の航空機を運び、崩壊寸前の航空戦を踏みとどまらせた。敵艦をやっつけるような勇敢な功績こそいが、戦線の維持に一役買ったのは間違いない。皮にも大鷹の活躍は敵側のアメリカ軍に評価された。

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