航空母艦・天城(あまぎ)とは、日本海軍の軍艦である。静岡県に位置する天城山に由来する。
航空母艦の<天城>としては、
の二隻が存在するが、この記事では双方ともに扱う。
なお、「天城」の艦名を持つ軍艦としては他に木製スループ<天城>が存在する。
1.天城型
航空母艦としての同型艦は<赤城>。巡洋戦艦としては<赤城>のほかに<愛宕>、<高雄>。
概要
1907年、帝国国防方針によって策定されたいわゆる八八艦隊計画の一環として計画開始。大正六年(1917年)度計画において八八艦隊に先立つ八四艦隊計画で建造される天城型巡洋戦艦二隻の一番艦として計上され、翌年の八六艦隊計画で確定した。建造費は八四艦隊で一隻あたり約2470万円、八六艦隊時には物価騰貴で同約3240万円。
そのスペックは全長252m、常備排水量41200t、機関出力13万1200馬力、最大速力30kt。武装は41cm45口径連装砲を五基搭載、巡洋戦艦ゆえに高くないはずの防御力も長門型戦艦に並ぶ舷側254mm(長門型305mm)、甲板95mm(同75mm)と、総合的には金剛型巡洋戦艦どころか長門型にすら匹敵する超弩級巡洋戦艦だった。
<天城>は大正九年(1920年)12月16日、二番艦<赤城>に10日遅れて建造開始。しかし建造中の大正十一年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されると、条約に抵触する天城型巡洋戦艦の建造は中断されてしまい、建造中の<天城>も横須賀海軍工廠の2号ドックで未完成状態で放置されることになった。
紆余曲折の後、<天城>は<赤城>とともにワシントン海軍軍縮条約の戦艦・巡戦改装空母枠として航空母艦に改装されることが決定し、年もかわった大正十二年(1923年)に未進水のまま空母に設計を変更、航空母艦<長鯨>とする予定で建造が再開される。しかし、一年も経たないうちに<天城>を不幸が襲うことになる。
大正十二年九月一日、十一時五十八分三十二秒、相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震、大正関東地震が横須賀をも襲ったのである。関東大震災の発生であった。横須賀で建造途中であった<天城>はまさにその直撃を受け船台から滑落、左舷側に傾いて大破し、ドックに無残な姿を晒すことになってしまったのである。復旧は絶望的であり、<天城>の建造は中止を余儀なくされた。
そして代わりに神戸で進水したまま解体を待っていた未成戦艦<加賀>が抜擢され、空母に改装されることとなる。建造中止となった<天城>は哀れ解体の憂き目に・・・・・・
と思いきや
この<天城>、大破とはいえその資材は高品質なものを使っている。それをそのままスクラップにするのはもったいないということで、解体して出た鋼材の一部で作業用の浮き桟橋を作ったのである。その浮き桟橋は横須賀港でせっせと役目を果たし、原子力空母停泊に伴い撤去された後はIHIに払い下げられ未だ現役で使用されている。
2.雲龍型
雲龍型航空母艦の二番艦。同型艦に<雲龍>、<葛城>、他未成艦13隻。
最初から空母として計画されたにも関わらず、本来一等巡洋艦に割り当てられていた山岳名をとっているのは、昭和十八年(1943年)に 命名基準に山岳名が追加されたため。
概要
太平洋情勢の急迫を受けた1941年、昭和十六年度戦時艦船建造及航空兵力拡充計画(マル急計画)によって策定された中型航空母艦建造計画を大元とし、ミッドウェー海戦の大敗を切っ掛けに15隻の建造が予定された雲龍型航空母艦の一隻である。
中型空母の傑作であった<飛龍>の設計を元に、戦況の変化にともなって大型搭載機に対応するなど改良・再設計を加えており、艦橋も左舷から標準の右舷に移されている。要目も全長227m、公試排水量20450tとほぼ<飛龍>に匹敵し、15万2000馬力の機関出力によって生み出される速力は最大34ktを誇った。搭載機数は51機+補用2機。搭載機数が<飛龍>より少ない(飛龍73機)のは、想定される搭載機が零戦(幅12m)他から烈風(幅14m)他へと大型化したためである。
ミッドウェー海戦の四ヶ月後、昭和十七年(1942年)10月1日に三菱長崎造船所において建造が開始。
翌昭和十八年(1943年)には進水し、更に翌年の昭和十九年(1944年)8月10日に竣工した。しかし、その頃すでにレイテ沖海戦すら敗北に終わっており、戦況の悪化は取り返しの付かない域に達していた。仮にも日本海軍に残された数少ない正規空母である<天城>は<雲龍>とともに第一航空戦隊を編成したが、そもそも搭載すべき艦上機はもはや無く、また燃料すら不足していたため、出番もなく軍港で無聊を託つことしかできなかった。
そして昭和二十年(1945年)7月、呉軍港空襲によって大破。浸水しそのまま左舷方向に傾斜し着底。10月には除籍された。 終戦後もそのまま放置されていたが昭和二十二年(1947年)に引き揚げられ、函館で解体された。
「ストライクウィッチーズ」における<天城>
アニメ『ストライクウィッチーズ2』および『ストライクウィッチーズ劇場版』では、『ストライクウィッチーズ』の同型艦<赤城>に続き<天城>が登場している。
艦型概要
「ストライクウィッチーズ」世界においては、扶桑皇国海軍によって建造・運用された天城型巡洋戦艦の一番艦、ならびに赤城型航空母艦の二番艦。同型艦は<赤城>、<愛宕>、<愛鷹>(史実天城型<高雄>の計画名) 。艦影は<赤城>とまったく等しいが、上空からは甲板の識別記号「アマ」によって判別を可能としている(赤城は「ア」)。搭載機数は常用75機・補用16機あるいはウィッチ8名、艦戦16機、艦攻8機。
史実と同じく45口径41cm連装砲塔を搭載する高速戦艦として設計された。ストライクウィッチーズ世界においてはワシントン軍縮条約は存在しないと思われる[1]ものの、第一次ネウロイ大戦の戦訓として航空戦力の重要性が増したことから同型艦ともども空母改装が決定する。
横須賀での地震の影響で<天城>の建造が遅れたことで艦型が「赤城型」となるようなハプニングもあったものの、無事三段甲板を有する空母として就役し、扶桑海事変の直前に大改装をうけて全通甲板空母となった。この大改装は(史実の<加賀>同様)<赤城>に先立つ平和な時期に受けたため、より徹底した完成度になっているとされる。なお、空母改装にともなって宙に浮いた45口径41cm砲はのちの紀伊型戦艦<紀伊>、<尾張>に流用された。
扶桑海軍の主力艦として活躍したのち、第二次ネウロイ大戦中盤以降は蒼龍型、大鳳型といった後続の新鋭空母の就役もあって<赤城>に次いで一線を退き、ストライクウィッチーズ本編の時期には個艦ごとに護衛艦艇のみを伴って欧州援助のための輸送任務を主としている。
また、同型艦のうち三番艦<高雄>、四番艦<愛鷹>の二隻は進水直後に帝政カールスラント海軍に売却されてそれぞれ<グラーフ・ツェッペリン>、<ドクトル・エッケナー>と改名、改装未完ながら欧州撤退時に避難民輸送のため活躍した。前者はそのさなかに戦没し、ゲーム「白銀の翼」においてネウロイ化して再登場している。
登場
1944年の欧州派遣任務に際し、第504統合戦闘航空団戦闘隊長の任につく竹井醇子大尉が便乗。欧州では解隊後の第501統合戦闘航空団とともにカールスラント方面に進出して作戦行動をとった(ゲーム『白銀の翼』)。
1945年春には、戦艦<大和>のネウロイ化によってヴェネツィア上空のネウロイの巣を破壊する「オペレーション・マルス」発動時に<大和>の遠隔操作を担当し、同時に上空援護を担当した501部隊の着艦母艦としての役目を果たす(『ストライクウィッチーズ2』)。
同年夏、欧州から戻ってすぐ駆逐艦の護衛とともに欧州への輸送任務を遂行。医学生としてヘルウェティアに派遣される宮藤芳佳海軍軍医少尉およびその随行員服部静夏軍曹が同乗した。旅程半ばの喜望峰沖で氷山の衝突により機関室が損傷し、一時は弾薬庫に火が迫る寸前に至ったが、注水直前に宮藤少尉が救援に突入し消火弁を開いたため大事には至らなかった。この時、最古参の結城兵曹長が負傷している。その後航行を続け、無事ガリア共和国のバ・ド・カレー港に入港した(『ストライクウィッチーズ劇場版』)。
補記
乗組員総数は2000名。上記の最古参の結城修二兵曹長のほか、艦長・長崎義雄大佐(海兵48期。オペレーション・マルス後に着任)、艦偵操縦員・富田鎮中尉(海兵68期)など。オペレーション・マルス発動時には<大和>艦長杉田淳三郎大佐なども乗艦して艦隊指揮を執った。
また余談ながら、双方の<天城>自体不運にも活躍のない艦であったためか、『2』放送時には「(CGは赤城だが)雲龍型の天城か」という反応も見られた。ちなみに<赤城>と艦影が変わらないのはどう考えても<赤城>のCGを流用しているからである。このため45年時に至っても電探設備などが外見から見受けられなかったりする。
関連動画
双方ともに雲龍型航空母艦の<天城>。天城型の動画は実質存在しないと思われる。
『ストライクウィッチーズ2』における天城型<天城>登場回(有料)と『ストライクウィッチーズ劇場版』予告の<天城>。
関連商品
関連項目
脚注
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