概要
「恥の多い生涯を送って来ました。」
本名は津島修治。青森県出身の小説家。
坂口安吾などと共に無頼派、戯作派と称される。
東京帝国大学文学部仏文学科除籍。
在籍時、人妻と心中を図って海に身投げするが未遂に終わる。(相手は死亡)
その後作家を目指して井伏鱒二(『黒い雨』の作者)に師事する。
雑誌、同人誌などへの作品発表をを経て第1回芥川賞候補に挙がるが落選。
相当なショックだった模様で選考委員の川端康成を批判する文章を書いている。
以下引用。
「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。
小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。
刺す、さうおもった。大悪党だと思った」
また、この時選考委員に対して「芥川賞を下さい」という内容の手紙を送っている。
芥川賞(というよりも芥川龍之介)に対しては相当な思い入れがあったようである。
以下引用。
「佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。
私はすぐれたる作品を書きました。
これからもっともっとすぐれたる小説を書くことができます」(佐藤春夫宛書簡)
「何卒 私に与へてください。一点の駆引ございませぬ」
「私を見殺しにしないでください」(川端康成宛書簡)
続いて第3回芥川賞にも候補に挙がったがまたも落選。
この時の禍根で選考委員の佐藤春夫に暴露話で絡む。
対する佐藤は井伏鱒二と相談して薬物中毒と言う口実で太宰を精神病院送りにする。
この間就職に失敗するなど他の不運が続き、自殺未遂を2度起こしている。
また、処女短編集として『晩年』という題名の本を出版。
戦時中(日中戦争含む)は『富嶽百景』や『お伽草紙』『走れメロス』等比較的穏やかな内容の作品を書いている。
ちなみに真珠湾攻撃の一報を聞いた後の太宰の感想が残っている。
以下引用。
「十二月八日。…どこかのラジオが、はっきりと聞こえてきた。
…しめ切った雨戸のすきまから、真っ暗な私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。
…日本も今朝から、違う日本になったのだ」
戦後、退廃的な作風へと変化し、『斜陽』『人間失格』といった没後に太宰文学の象徴と見なされる作品を書く。
昭和23年(1948年)女性と心中を図り死亡。享年39歳。
その作風や生き方から2ちゃんねるやニコニコ動画のユーザー的な皮相的
な目から見ると中二病の魁のような存在であったと言えるのかも知れない。 もちろん文学的才能や業績は否定されるべきではない事を付け加えておく。
代表作
コロンビアの太宰治
ハーツオブアイアンIIにおいて、コロンビアの閣僚の画像をネットで探していたParadoxの開発チームがコロンビアの総合参謀総長候補カミロ・ダーサ・アルバレス氏の画像を検索中に名前の表記が近いことで引っかかった太宰治の画像を精査せずに使っている。 しかも、太宰先生はIIIでも元気に活動しておられるようである。
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リビジョン番号: 1392832
読み:ダザイオサム
初版作成日: 08/12/21 09:05 ◆ 最終更新日: 11/12/28 20:33
編集内容についての説明/コメント: 糸色望を追加(太宰がモデルとなっているため)
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