奥羽越列藩同盟とは、かつて日本に存在した、東北地方に越後を加えた、お友達グループである。
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概要
陸奥、出羽、越後の諸藩が、薩長を中心とする新政府に対抗する為に結んだ同盟。奥州の諸藩が会津藩および庄内藩が「朝敵」とされたことに対して、赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)が元であるため、会津・庄内の両藩は参加しておらず、この2藩で会庄同盟を結んでいた。
1868年(慶応4年)5月の成立時点では現在の北海道から新潟までの31藩が参加し、日本列島の約半分が奥羽越列藩同盟の勢力下にあったが、新政府軍との戦いのなかで寝返りや降伏によって次々とその勢力を失い、同年9月には完全に瓦解した。
背景
1868年の奥羽越列藩同盟成立当時、日本はどのような状態にあったかというと、新政府軍と旧幕府軍の間で、お互いを朝廷の敵(朝敵)であるとして争っていた(戊辰戦争)。この戦争は京都で起きた鳥羽・伏見の戦いに端を発し、新政府軍はそこから東へ向けて進軍を続けていた。
会津藩と庄内藩の藩主は幕府の要職にあったため、佐幕派の首魁と見なされ、新政府軍の中心的存在であった薩摩・長州両藩と対立していた。江戸城が無血開城し、江戸幕府が完全に滅亡した後も、旧幕臣の中には、新政府に恭順せず、会津・庄内両藩を頼って北へと逃げてくる者が多かった。そのため、内乱は東北地方へと拡大していった。
同盟結成前夜
公卿の九条道孝が奥州鎮撫総督に任命され、船で仙台入りした。藩主・伊達慶邦に対し、会津を討てという朝廷の命令を伝え、会津出兵を強硬に迫った。この時点で会津藩主・松平容保は既に恭順の意を表していたので、仙台藩の中には会津に同情する意見が多かった。しかし、京都にいて形勢に通じていた仙台藩士の三好監物という人物が、藩論を会津征討に向かわせようと奔走し、その結果もあり、仙台藩主自ら会津出兵の意を固めた。しかし、三好監物はこの時空気を読まない行動を繰り返してしまったため居場所がなくなり、のちに自刃している。
仙台藩兵は奥州鎮撫総督府の催促により会津国境で会津藩兵と数度交戦した。しかし、これらの戦いは全て、お互い事前に申し合わせて、ただ空砲を撃ち合うだけの八百長試合であった。
世良修蔵暗殺事件
米沢藩と仙台藩を中心とする奥州諸藩は白石列藩会議を開き、会津・庄内両藩の罪を免じることを九条道孝に嘆願した。しかし、総督府参謀の世良修蔵は会津征討を強く主張し、彼の意見により嘆願は一蹴された。仙台・米沢両藩は新政府軍のこの態度に激怒している。
このタイミングで事件が起きた。仙台藩士が、世良修蔵の書いた手紙をたまたま手に入れたのだが、その内容に「奥州皆敵」と受け取れる内容が含まれていたのである。これに激怒した仙台藩士は福島藩士を誘い合わせた上、世良の寝込みを襲撃して捕らえ、翌日首を刎ねた。この事件が、仙台藩が米沢藩と協力体制を組む、ひいては奥羽越列藩同盟を結成する直接のきっかけになった。
同盟結成
1868年5月、仙台藩領白石に奥州の諸藩が一堂に会し、新政府から「朝敵」とされていた会津藩・庄内藩を救うために奥羽列藩同盟を形成した。総督は仙台藩主の伊達慶邦・米沢藩主の上杉斉憲であったが、抗戦の原動力は会津藩および庄内藩であった。同盟結成の意を伝えるべく、使者が建白書を持って江戸へ向かったが、提出することはできず捕らえられてしまった。
その後、小千谷談判での新政府軍との交渉に決裂した長岡藩、さらに北越6藩が加わり、ここに軍事同盟としての奥羽越列藩同盟が成立した。
奥羽越公議府が設立され、皇族の輪王寺宮公現親王が迎えられた。親王は当時御齢22歳であったが、東武天皇として即位していたという説もあり、列藩同盟は大きな後ろ盾を得ることになる。ここでは会津・庄内・米沢各藩に対する追討の命令が、「朝廷を欺く姦徒の所為」であるとされ、新政府軍に対する抗戦の気運がいよいよ高まってくることになった。しかし、同盟に加わっていた全ての藩が積極的な態度をとっていたわけではない。これについての詳細は、下の「それぞれの奥羽越列藩同盟」の項を参照のこと。
同盟結成後、九条らは仙台藩脱出を試み、行く先々の藩で冷遇を受けつつ、ようやく7月に、同盟から離反する色を見せ始めていた秋田藩に受け入れられ、そこに転営した。
それぞれの奥羽越列藩同盟
ここからは、同盟に加わった全ての藩が辿る運命を見ていこうと思う。概要の項で触れた通り、この31藩のいくつかの藩は新政府軍に寝返ってしまう。戊辰戦争は、新政府軍の勝利に終わるので、この同盟に加わっていたということは、すなわち「朝敵」であったことになり、戦後その罪を問われることになるのだが、「裏切り」の仕方やその他の手段によって罪を免れた藩も存在するのである。
越後諸藩の戊辰戦争(北越戦争)
1. 長岡藩(藩主・牧野忠訓)の場合 7万4千石→2万8千石
家臣に河井継之助というすごい人物がおり、彼は戊辰戦争開戦直後に家宝や江戸の藩邸を売却してガトリングを購入した。新政府軍が小千谷まで迫ると長岡藩は河井の主張により「武装中立」を宣言。しかし、河井の主張を新政府側の岩村高俊は時間稼ぎだとして全く無視し、会津討伐の先鋒になることを強要した。これがきっかけで長岡藩は列藩同盟に加盟することになり、長岡藩は決して大きな藩でないにもかかわらず、この後戊辰戦争最大の戦いといわれる北越戦争を孤軍奮闘することになる。
2.三根山藩(藩主・牧野直泰)の場合 (所領安堵)
3.新発田藩(藩主・溝口直正)の場合 (所領安堵)
勤皇の伝統がある藩だったが、米沢藩・仙台藩の軍事的圧力を受けて同盟に参加した。しかし、参加した一日後には江戸へ密使を発たせ新政府に事情を説明するなど、勤皇の志が変わったわけではなかった。藩士も農民一揆を組織し、会津・米沢からの圧力による出兵を遅らせたりするなど、あの手この手で列藩同盟としての行動をサボタージュしていた。
無論、列藩同盟側も新発田藩兵に督戦隊を付けるなどして新発田藩の行動を警戒していたが、新発田藩兵は奮戦することによってその疑念を散じさせている。藩兵が奮闘してる間も新政府軍と連絡を取り、藩の帰順を確約していた。そして、新政府軍が太夫浜に上陸すると即座に列藩同盟から脱退、前線に派遣されていた藩兵も新政府軍に参加する。
新発田藩の帰順は米沢藩の長岡藩に対する補給線を分断し、新潟戦線での列藩同盟の敗北を決定づけた出来事であった。
4.村上藩(藩主・内藤信民)の場合 (所領安堵・ただし家老1名処刑)
庄内地方諸藩の支持で抗戦を続けたが、長岡陥落ののち藩主が病死(自殺とも)し、前藩主は勤皇派であったので藩論は二分した。村上城の戦いで抗戦するも不利になり、抗戦派が城に火をつけて庄内藩へ逃れた。恭順派が降伏し開城した。
5.村松藩(藩主・堀直賀/堀直弘)の場合 (所領安堵・ただし家老1名処刑)
藩内部は恭順派と抗戦派に分裂していた。藩主・堀直賀を中心とする抗戦派は同盟に参加して城下を焼き、米沢藩へ逃れた。残された恭順派は新藩主の堀直弘を立て、すぐさま新政府軍に帰順した。
6.黒川藩(藩主・柳沢光昭)の場合 (所領安堵)
同盟に加わるも、終始消極的な立場で降伏した。
南東北諸藩の戊辰戦争(白河戦線・平潟戦線)
7.棚倉藩(藩主・阿部正静)の場合 10万石→6万石
消極的な立場から同盟に加わっていた。白河口の戦いに参加するとともに棚倉城で防戦するも、新政府軍の圧倒的な兵力になす術がなく、城に火を放って退却、完全に占領された。
8.三春藩(藩主・秋田映季)の場合 (所領安堵)
小藩であり、会津藩の圧力で同盟に参加したものの、藩首脳部に、のちに自由民権運動で活躍する河野広中などの勤皇家がいた。新政府軍が北上し三春に迫る中、河野らは板垣退助と会談して、全く被害のないまま土壇場で降伏することに成功した。しかし、これにより他の同盟諸藩からは非常に恨まれることになった。
9.湯長谷藩(藩主・内藤政養)の場合 1万5千石→1万4千石
小藩であったが、新政府軍に対して徹底抗戦した。僅か12歳の藩主であったが自ら戦場に立ったという。湯長谷は攻撃を受けて陥落し、旧幕府軍は平に逃れた。
10.泉藩(藩主・本多忠紀)の場合 2万石→1万8千石
同盟成立以前に新政府に恭順したが、仙台・米沢両藩の勧めで加盟。新政府軍に対して抗戦するも、泉陣屋を落とされて降伏。
11.磐城平藩(藩主・安藤信勇)の場合 (所領安堵・ただし新政府に7万両献金)
坂下門外の変で襲撃された元老中・安藤信正が藩政を握り、常陸平潟から北上して攻めてきた新政府軍と交戦。しかし泉城を占領され平城下に退却した。米沢・仙台両藩の援兵により戦うも、平城への3度の攻撃により城を焼いて退却した。一方、藩主の安藤信勇は早い段階において京都で新政府に恭順している。
12.二本松藩(藩主・丹羽長国)の場合 10万石→5万石
藩兵のほとんどが、白河・米沢方面へ救援に向かっており、ほとんど老兵と少年兵しか残っていなかった。降伏しようという意見もあったが、執政の丹羽一学は「同盟の信義を死を賭して守る」ことを主張。これにより多数の藩士が徹底抗戦し、壮烈な最期を遂げた(二本松城の戦い)。特に、白虎隊ほどの知名度はないが、二本松少年隊の悲劇は今なお語り継がれている。藩主は米沢藩に逃れた。
13.下手渡藩(藩主・立花種恭)の場合 (旧領の三池藩へ転封・石高は変わらず)
14.福島藩(藩主・板倉勝己)の場合 3万石→重原藩2万8千石に転封
二本松城落城の知らせを聞いて、藩主は僅か数名とともに米沢藩の領内に逃れた。そのため、福島城下は無政府状態になった。藩主は米沢において、仙台藩降伏と同日に降伏書を提出した。
15.守山藩(藩主・松平頼升)の場合 (1000両の賞金)
水戸徳川家の分家であったが、藩論はなぜか勤皇論が強かった。それなのになぜか同盟に加わったものの、なぜか一度も出兵することがないまま降伏。
16.相馬藩(藩主・相馬誠胤)の場合 (所領安堵・ただし新政府に1万両献金)
仙台・米沢両藩の援兵を受けて新政府軍に対し抗戦した。しかし、要衝である浪江が落ちると両藩の兵士は相馬藩を見捨てて退却。同日、藩主は降伏した。しばらくは降伏したことを仙台藩に隠したが、仙台藩は相馬藩の様子を不審に思い警戒した。
北東北諸藩の戊辰戦争(庄内戦線・秋田戦線)
17.秋田藩(藩主・佐竹義堯)の場合 +2万石
九条道孝に庄内藩討伐を命じられたが、藩論が定まらなかった。伝統的に尊王論が強い藩だったので、議論の末、「仙台藩の使者を斬ろう」というとんでもない結論に至り、仙台藩士が休息しているところに集団で襲い掛かって斬殺、その首を晒した。この出来事に仙台藩がマジギレしたのは言うまでもない。
18.庄内藩(藩主・酒井忠篤)の場合 ※列藩同盟には加わっていません 17万石→12万石
譜代の名家・酒井家が治める庄内藩の藩政は家老の松平権十郎が握っており、藩論は佐幕で統一していた。当主は僅か16歳であった。当初はそれほど朝敵とは見なされていなかったが、庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件で薩摩の恨みを買い、その上旧幕府領で米の略奪を行うという事件が知られてしまい、それがきっかけで秋田・弘前両藩を敵に回すとともに新政府軍からも完全に目をつけられることになってしまった。
酒田を本拠とする「日本一の大地主」本間家の莫大な献金があって、庄内藩はスナイドル銃など最新の武器を持っており、庄内戦線では連戦連勝であった。秋田藩の領内に侵攻し、横手城を落とし、秋田城の目前まで迫ったものの、同盟の瓦解と米沢藩の勧めにより降伏した。
19.天童藩(藩主・織田信敏)の場合 2万石→1万8千石
織田という苗字から想像できるかもしれないが、藩主はあの織田信長の子孫である。しかし、戊辰戦争当時は小藩で、かつての黄金期の面影はなかった。庄内藩を攻撃するが、反撃にあって城下をことごとく焼かれ、その後同盟に無理やり加入させられた。
20.新庄藩(藩主・戸沢正実)の場合 6万8200石→8万3200石
同盟に参加したが、秋田藩の呼びかけにより亀田藩・本荘藩・矢島藩とともに同盟を脱退した。これが庄内藩の怒りを買い、新庄の街はことごとく焼き尽くされた。藩主は命からがら秋田藩に逃亡した。
21.亀田藩(藩主・岩城隆邦)の場合 2万石→1万8千石
同盟に参加したが、秋田藩の呼びかけにより本荘藩・新庄藩・矢島藩とともに同盟を脱退した。その後新政府軍の先鋒として庄内藩と戦ったが、新政府軍が亀田を見捨てて退却したので藩主が庄内藩に内応し、再び同盟側について戦うことになった。
22.本荘藩(藩主・六郷政鑑)の場合 2万石→3万石
同盟に参加したが、秋田藩の呼びかけにより亀田藩・新庄藩・矢島藩とともに同盟を脱退した。その後庄内藩による攻撃を受け、本荘城は落城した。
23.矢島藩(藩主・生駒親敬)の場合 8000石→1万5200石
過去にいろいろあって生駒家は大名の資格を失っていた。同盟に参加したが、藩主が藩論を勤皇にまとめ、秋田藩の呼びかけにより本荘藩・亀田藩・新庄藩とともに同盟を脱退した。その後庄内藩と交戦して大敗、矢島陣屋を占領されるが、戦後官軍についたことが高く評価されて、大名の資格が復活することになった。
24.上山藩(藩主・松平信庸)の場合 3万石→2万7千石
25.弘前藩(藩主・津軽承昭)の場合 +1万石
秋田藩が藩論を同盟脱退に決定づけたことにより、藩論が覆された。同盟から離反し、庄内征討に出兵した。以後、新政府軍として箱館戦争などで大きな役割を果たすことになった。
26.松前藩(藩主・松前徳広)の場合 1万石→3万石
藩主は病弱かつ精神を患っており、佐幕派の重臣が藩政を掌握していた。しかし、同盟に加わったのち、勤皇派家臣によるクーデターが起こり、新政府軍に帰順した。以後、箱館府に従って蝦夷地の警備にあたった。
27.米沢藩(藩主・上杉斉憲)の場合 18万石→14万石
関が原の戦いの後、大幅に領地を削られて米沢に移された上杉家が領主であったため、幕府に対する感情は必ずしもよいものではなく、むしろ徳川家なんてどうなってもいい、という立場だった。戊辰戦争では越後に進軍したが、あわよくば旧領の回復を願っていたともいわれ、当初から消極的な姿勢が見え隠れしていた。特に会津藩に対しては、白河口の戦いにおける惨敗から不信感を抱くようになった。土佐藩・山内家と縁戚であり、その勧めに従って降伏した。その後会津・庄内へ出兵したが、同時に同盟諸藩に降伏を勧めて回り、ほとんど負けなしだった庄内藩の降伏は米沢藩の働きかけによるものが大きかった。
28.山形藩(藩主・水野忠弘)の場合 (朝日山藩へ転封・石高は変わらず・ただし家老1名が処刑)
戦意は薄かったが同盟に加わった。幼少の藩主は江戸にいたため、藩主不在の山形藩では家老の水野元宣らが実権を握った。米沢藩の降伏に伴って降伏し、水野元宣は処刑された。
29.盛岡藩(藩主・南部利剛)の場合 20万石→白石城13万石に転封(さらに家老1名が処刑)
藩論は二分し勤皇思想が強かったが、家老の楢山佐渡が主導権を握っていたので、同盟への加盟は彼によって決定された。楢山佐渡を総指揮官として庄内藩に加勢して秋田藩・弘前藩を攻撃し、領内へ侵攻するものの、秋田藩の援兵により次第に劣勢になり、逆に領内に侵攻されてしまう。その頃、同盟を構成する藩のほとんどは降伏・帰順していたので、盛岡藩も空気を読んで降伏することになった。楢山佐渡は責任をとって切腹した。
30.八戸藩(藩主・南部信順)の場合 (所領安堵)
盛岡藩の支藩ではなく、独立した関係であったため、藩主が薩摩出身のこの藩は同盟に加わらないだろうと思われていた。実際、列藩同盟成立以前に新政府に恭順しているが、その後なぜか同盟に加わることに。その後もあいまいな姿勢をとり続けたが、結局終戦後、藩は存続することになったので、うまく立ち回ったのだろう。
31.仙台藩(藩主・伊達慶邦)の場合 62万石→28万石(さらに家老4名が処刑または切腹)
仙台藩を治めているのは伊達家である。藩主の伊達慶邦は優柔不断な性格だったといわれているが、列藩同盟の実質的な盟主として指揮にあたり、兵力としても仙台藩は主力であった。しかし、白河・平潟の大きな戦いでいずれも敗戦し、相馬藩の寝返りがあったため、新政府軍が北上してまさに仙台に迫っていた。ここに至って藩論は降伏に傾き、宇和島の分家の藩主・伊達宗城の周旋で降伏・帰順した。この時、輪王寺宮も謝罪した。しかし、藩内の抗戦派は榎本・大鳥・土方らとともに脱出し、以後戊辰戦争の舞台は北の大地に移ることとなる。
32.一関藩(藩主・田村邦栄)の場合 3万石→2万7千石
仙台藩の支藩であり、秋田藩領に侵攻したが、仙台藩の降伏に伴って降伏した。
会津藩の戊辰戦争(会津戦争)
33.会津藩(藩主・松平容保)の場合 ※列藩同盟には加わっていません 23万石→斗南藩3万石に転封(さらに家老1名が処刑)
藩主の松平容保は京都守護職という幕府の要職についていたため、朝敵とされた。白河口の戦いで多くの優秀な幹部を失っている。官軍の圧倒的な兵力で領地を囲まれ、母成峠・十六橋の要衝を怒涛の勢いで攻め落とされた。松平容保・定敬兄弟が指揮をとって決死の防御にあたるも若松城を包囲され、籠城戦の間、城下は混乱を極めた。この時、飯盛山における白虎隊の悲劇や、会津藩士の家族の壮烈な自害が起こっている。この頃には既に奥羽越列藩同盟はほとんど壊滅状態にあった。戊辰戦争の終結後も、会津の人々は苦難の道を歩むことになるが、それはまた別の話である。
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