宗材盛(そう・きもり ? ~ 1507)とは、対馬国のポケモン大名である。宗家12代当主。宗貞国の次男。兄に宗茂明。弟に宗右馬。子に宗義盛、宗盛家がいる。
人物
初名は宗盛貞(もりさだ)。生年は不明。
※父・貞国が1422年生、子・義盛が1476年生なので、1440~50年代の人と推定される
1492年に父の隠居により家督を継ぐ。同時期[1]に10代将軍・足利義材より偏諱を賜り材盛と改名した。この時、嫡男に対しても「義」の字を賜っており、宗義盛と名乗らせている。
なお父の時代に宗氏は少弐政資と義絶したが、その政資は1497年に大内義興に攻められて自害し、北九州方面は大内氏の影響力が強まっていった。
彼の頃の対馬は非常に土地が痩せ細っており、人口が増えると食料不足の危機を招いてしまい、多くの餓死者を出す恐れもあったため、強制的に島外へ追放するという苦肉の策を採っていた。ちなみに江戸時代のデータを見ても、対馬の石高は1万石にも満たない[2]。それより100年以上前の話、しかも戦乱の時代であるから、農業力がもっと弱かったことは想像に難くない。
よって、長年にわたり対馬の基幹産業は李氏朝鮮との貿易だったのだが、これに暗雲が立ち込めていた。李氏朝鮮のメイン輸出品は木綿だったが、その在庫が底を尽きそうになってきたため、1488年にレート引き上げや制限措置を敢行してきたのである。そもそもの話、李氏朝鮮はあまり貿易に旨味がなかったのだが、倭寇対策の一環[3]として、貿易で宗氏らとの関係を築いていた。最低限の交易さえ行っていれば十分だったのだ。
続いて1498年には銅の貿易禁止も通告されたが、材盛ら宗氏一族はこれに困惑した。何故ならば対馬にはいらない銅が大量に余っていたのだ。むしろ在庫処分一斉セールを実施しなければいけない状態であったのに、貿易停止でこの不良在庫の山に頭を抱える羽目になる。銅の放出という名の処分を朝鮮に試みるも、交易制限を盾に不調に終わる。
貿易の利益が減ると、前述のように対馬のキャパシティは低いために人が外へと溢れ始める。こうして朝鮮南部、釜山周辺の三浦(サンポ)へと移住する者が増加の一途を辿っていった。また貿易制限によって再び海賊(後期倭寇)が現れ始め……。この一連の軋轢が子の義盛の時代に爆発するのであった(三浦の乱)。
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関連項目
脚注
- *足利義材は1490年に将軍就任、1493年に明応の政変で追放されている。詳しい改名時期はよく分からないが、少なくともかなりピンポイントなタイミング。
- *1633年の「寛永国絵図」で8163石、1644~1651年の「正保郷長」で6270石、明治5年時点でも5818石
- *前期倭寇の被害を抑えるべく、彼らを貿易の担い手にすることで懐柔した。
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