宗義智(そう・よしとし 1568 ~ 1615)とは、対馬国の戦国大名である。宗家20代当主。対馬府中藩初代藩主。宗将盛の五男。兄に宗茂尚、宗義純、宗調国。子に宗義成。
概要
1577年に足利義昭から偏諱を賜り昭景と名乗り、のちに豊臣秀吉から偏諱を賜り吉智と名乗る。のちに義智に改名している。
12歳の若さで義純より家督を継ぐが、若年すぎるために一族の宗義調の後見を受ける。
九州征伐で一時的に義調に家督を返上するが、義調の病没で再度家督を相続する。
この時の宗氏は秀吉の外征の野心による朝鮮服属の要求を朝鮮に通達役目を負った。
しかし、宗氏の所領である対馬は朝鮮半島とは最前線に位置しており、簡単に服属を要求すれば滅亡の危機は明らかであった。
そこで義智は13代・宗義盛から続く宗氏90年のお家芸である偽使戦法を使い、誤魔化して朝鮮出兵を回避しようとした。
しかしそんな嘘が簡単に通用するはずもなく、双方にバレて秀吉にも叱責を受けた。
朝鮮出兵では一番隊に配属され、松浦氏や有馬氏より多い5千の軍で渡海した。(三浦の乱でも援軍として出兵して現地の日本人とあわせても4500だったため、宗氏の負担がいかほどだったのか。)
文禄の役ではヒャッハーと突き進み、一月足らずで首都を陥落させる。
講和交渉ではまーた嘘を考え、国書の内容を改竄するなどやりたい放題したが、矛盾が続出となって各国に混乱を招き問題解決とならなかった。
慶長の役でも活躍した。
関ヶ原合戦では西軍について大津城攻めに参加するも勝者である徳川家康からは罪を問われずに許された。
対馬というとても遠い場所であり、長年朝鮮と関わりある宗氏に朝鮮との関係を修復してもらいたい意図もあった。
当初は難色を示していた朝鮮も何度も交渉を続けていった結果、1609年に己酉約条(慶長条約)という和平条約を成立させたことで国交をなした。また、この功もあって家康より幕府から独立して朝鮮と貿易することを許可されている。但し、幕府・朝鮮の国書双方を偽造しまくっていたことを柳川調興に暴露されるまで隠蔽していた。
補足
過去3作登場。しかし近年は壱岐と対馬の未実装により登場できていない。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 67 | 戦闘 | 50 | 智謀 | 51 | 政治 | 70 | 野望 | 53 | ||||
天翔記 | 戦才 | 100(C) | 智才 | 106(B) | 政才 | 148(A) | 魅力 | 67 | 野望 | 55 | ||||
将星録 | 戦闘 | 44 | 智謀 | 79 | 政治 | 83 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
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関連項目
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