- 鉄道省(のち日本国有鉄道)が保有した砕氷貨客船。北海道・稚内と樺太・大泊(現・コルサコフ)を結ぶ稚泊航路に就航していた。
- 東日本海フェリー(現・ハートランドフェリー)が保有したカーフェリー。第一宗谷丸から第十一宗谷丸まで。稚内と利尻島・礼文島を結ぶ利礼航路に就航していた。
- 第一宗谷丸
- 第二宗谷丸
- 第五宗谷丸
- 第七宗谷丸
- 第八宗谷丸
- 第十宗谷丸
- 第十一宗谷丸
がある。本稿では1について解説する。
概要
宗谷丸は1932年、北海道・稚内と樺太・大泊(現・コルサコフ)を結ぶ稚泊航路に就航し、僚船の「亜庭丸」とともに北海道~樺太間の交通を担った。稚泊航路は流氷が覆う冬の宗谷海峡を行かなければならず、砕氷船として建造された。
太平洋戦争を無傷で生き延びた数少ない鉄道連絡船の1隻であり、終戦直前から直後にかけてのソ連軍の樺太侵攻に伴う緊急疎開でも大泊~稚内間を往復し、多くの樺太島民を救った。
戦後は5年ほど青函連絡船として働き、後に国鉄事業用炭を運搬する石炭運搬船となった。1965年に解役、解体された。
なお、同時期に活躍した砕氷船に南極観測船として活躍した日本海軍特務艦・海上保安庁巡視船の「宗谷」があり、名前も同じ「宗谷」を含んでおり、同じく南極観測船の候補として挙がったことから混同されることがある。宗谷は元貨物船、後に軍艦・巡視船であり、宗谷丸は貨客船で全く別の船である。ちなみに宗谷丸のほうが大きく、性能も良い。
稚泊航路の宗谷丸
宗谷丸は稚泊航路に就航していた壱岐丸(1代目)の老朽化に伴う代船として横浜船渠で建造された。1932年(昭和7年)12月5日竣工。5年前(1927年)に竣工した稚泊航路の僚船・亜庭丸の経験を活かし、より強い砕氷能力を備えた砕氷貨客船だった。12月22日就航。
壱岐丸は船齢20年の老朽船であり、もともと砕氷構造ではなかった。1931年(昭和6年)の1、2月に壱岐丸は流氷に接触し、大きな損傷を受け、5月に運航を停止した。その為、宗谷丸の建造が決定された。亜庭丸と宗谷丸の就航により、冬季の運航時間が9時間から8時間に短縮された。
当時としては日本最大の砕氷船であり、海軍の砕氷艦「大泊」よりも大きな船であった。1942年(昭和17年)に日本郵船の「高島丸」、大阪商船の「白陽丸」が竣工するまで日本最大を保ち続けた。
公室の内装は現代フランス風で、食堂の壁面には熱帯地方の植物が描かれていた。
最新の宗谷丸でも、流氷には苦労した。
1937年(昭和12年)2月15日、宗谷丸は流氷により推進器を破損し、稚内港に閉じ込められた。一方、亜庭丸は15日に大泊を出港していたが、流氷のため稚内港に近づけなかった。亜庭丸は7日間にわたり沖合に仮泊し、2月20日に稚内入港を断念し、小樽に向かった。亜庭丸は24日まで小樽と大泊を往復した。宗谷丸は17日、稚内港を脱出し、23日より、函館ドックで修理を受けた。
1939年(昭和14年)2月6日、宗谷海峡を厚さ3~4mの流氷が襲った。稚内港は封鎖され、亜庭丸が出港できなくなった。宗谷丸は函館ドックにて修理中であったが、この知らせを聞き、稚内へと向かった。ところが流氷に阻まれ、小樽に引き返した。
宗谷丸は代替として2月25日まで小樽~大泊間の運航に就いた。28日に亜庭丸が稚内港から脱出し、通常運航に戻った。
この通り、冬期間は宗谷海峡の流氷と闘いながらの運航であった。宗谷丸は晴れの日も吹雪の日も稚内と大泊を往復した。
1938年(昭和13年)11月11日、大泊を出港した宗谷丸は稚内沖にて強風にあおられ、座礁。乗客や貨物は応援に駆けつけた汽船に移乗した。救難船「三保丸」が救助したが、宗谷丸を離礁させることは出来ず宗谷丸は26日間も船体の自由を失っていた。12月6日、時化により船体が動揺を始めたので、離礁作業を行い宗谷丸はようやく脱出した。損傷は長い間の座礁にもかかわらず、船底が擦れただけだった。
事故を起こし、救助されれば宗谷丸が救助することもあった。
1936年(昭和11年)7月3日、近海郵船の「弘前丸」が能登呂半島宗仁岬沖にて座礁した。宗谷丸は弘前丸のSOS信号を受け、救助に急行。波が高く危険であったが、弘前丸の乗組員たちを収容した。弘前丸は座礁したまま放棄されたが、弘前丸の乗組員や船主の近海郵船は宗谷丸の乗組員に感謝した。近海郵船から宗谷丸の乗組員に賞状と金一封、船長には金縁の時計が送られた。
宗谷丸は亜庭丸とともに「北海の女王」として稚泊連絡船利用者に親しまれた。稚泊航路の輸送実績も1941年(昭和16年)まで増加し続けていた。
太平洋戦争
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が勃発した。宗谷海峡にはしばしば浮遊機雷が流れ着いていた。
また、1942年(昭和17年)秋ごろには米潜水艦がオホーツク海に出没し、稚泊連絡船の夜間航行が禁止された。これにより運航時間が乱れ、運航回数も減少することになった。輸送実績もこの年を境に落ち込み始めた。1943年(昭和18年)9月24日には海軍により連絡船の夜間航行が全面的に禁止された。その直前には宗谷丸と亜庭丸に対空砲・機銃・爆雷が装備されていた。そして、海軍兵が乗り込んだ。
10月11日には宗谷海峡において、陸軍・宗谷臨時要塞と海軍・大湊警備府が共同で米潜水艦「ワフー(Wahoo SS-238)」を撃沈した。ワフーは日本海において関釜航路の連絡船「崑崙丸」などの多くの日本船舶を撃沈していた。これにより、宗谷海峡にもある程度安全が確保されることになった。
冬季、北方の海域には流氷が流れこむ。米潜も流氷の時期には姿を表さなかった。しかし、春になるとまた跳梁することが予想された。1944年(昭和19年)には米潜はオホーツク海でも出没していたものの、稚泊航路に被害が及ぶことはなかった。
しかし、1945年(昭和20年)になりいよいよ日本が劣勢に追い込まれると、多くの日本船舶が空襲や潜水艦の攻撃により撃沈されていった。宗谷丸にも危険が迫っていた。
危機一髪・宗谷丸
1945年(昭和20年)7月5日(乗組員の手記では6月12日)、宗谷丸は所定より1時間早く、午前7時に大泊を出港した。樺太・亜庭湾沖を航行していた。9時55分ころ突然、近くに停泊していた「第十一札幌丸」(大阪商船)が大きな音を立てて爆発・沈没していった。米潜水艦の雷撃を受けたのである。
宗谷丸はこの朝、海防艦に護衛される予定であったが、海防艦が急遽稚内に急行しなければならなくなったため、宗谷丸が1時間早く出港し、海防艦が後から出発し、危険水域で落ち合う事になった(海防艦のほうがスピードが早いため)。
潜水艦の正体はガトー級潜水艦「バーブ(Barb SS-220)」。バーブは1944年(昭和19年)9月に護衛空母「雲鷹」を撃沈し、直前の昭和20年7月2、3日には浮上し、樺太・海豹島、敷香町に艦砲射撃を仕掛けた歴戦艦であった。
宗谷丸はこの強者に狙われることになってしまったのだ。
第112号海防艦の犠牲と宗谷丸・決死の離脱戦
1945年(昭和20年)7月18日、宗谷丸は約700名の乗客を乗せて午前8時に大泊を出港した。宗谷丸の前方に駆潜艇、後方には「第112号海防艦」が護衛としてついていた。第112号は駆逐艦「響」が旗艦を務める第105戦隊に所属していたが、海防艦「笠戸」の大破によって手薄になった第104戦隊の増援として北方で活動していた。
大泊を出港し、3、4時間ほど経ち、亜庭湾・孫杖沖に差し掛かった頃であった。突然、112号が爆発し、沈んでいったのだ。112号は黒煙を上げ、瞬く間に沈んでいった。112号は宗谷丸に向かう雷跡を発見すると、それに向かって宗谷丸をかばうように突っ込んでいったのだ。続けざまに宗谷丸に向かって海面に雷跡のようなものが襲いかかった。バーブの襲撃であった。
宗谷丸はこれをかわしたが、魚雷ははるか後ろにあった岩礁に当たり、爆発を起こした。
そのころ、宗谷丸上甲板では宗谷丸に乗り込んでいた砲兵が自衛のために宗谷丸に据え付けられていた12cm単装砲を潜水艦に発射するところだった。ところが大砲は砲弾を発射することなく爆発し、大砲の破片が突き刺さった砲兵2名が犠牲になった。なんと、大砲は膅発(砲弾が砲身内で暴発すること)を起こしたのである。大砲には普段使用しない時はキャップがはめられていたが、宗谷丸乗組の砲兵は実戦経験に乏しかったため、キャップを付けたまま砲弾を発射してしまい、筒発を起こしてしまったのだ。
この暴発を聞きつけて、偶然乗客として乗り込んでいた海軍軍人瀬戸哲男中尉、田代軍寿郎兵曹、阿比留昇一兵曹が甲板に駆けつけた。田代の手記『米潜水艦バーブに挑んだ宗谷丸離脱戦』によれば、宗谷丸乗組の水兵は真っ青な顔になり、「爆雷だ、爆雷だ」と叫びながらも慌てふためいていた。田代は水兵に「落ち着け! 私の命令に従え!」と怒鳴りつけ、爆雷を投下させた。
宗谷丸は蛇行しながら必死にバーブから逃げた。福井銈喜船長は宗谷丸を潜水艦から逃すのに必死であった。
爆雷を投下させると、水兵たちも落ち着きを取り戻した。田代は宗谷丸の船員によばれ、船首の機銃側に移動した。船員によれば、25mm機銃から弾がこぼれてでなくなってしまったというのだ。田代が機銃を見ると、故障していた。田代が右銃の故障を直すと、海面に潜水艦の潜望鏡が突き出ていた。潜望鏡の方向に向かって、田代は機銃を放った。
その時、またもや雷跡が目視された。田代は「船長取舵、船長取舵」と叫びながら、魚雷に向けて機銃を撃った。田代によれば、水上艦艇乗り組み時(田代氏は重巡洋艦「鳥海」、戦艦「長門」に乗り組んでいた)、接近する魚雷を、機銃によって爆発させた経験があるということだった。
宗谷丸は右に左に転舵を繰り返し、向かってくる魚雷8本をかわし、座礁覚悟で浅瀬に逃げ込んだ。やがて魚雷の発見報告がなくなると亜庭湾を抜け、午後4時に稚内港に到着した。まさに、命懸けの航海であった。ともかく、約700名の乗客は福井船長はじめ乗組員の必死の操舵、乗り組んでいた水兵、そして、第112号海防艦の犠牲によって、救われたのであった。
宗谷丸が稚内港にたどり着くと、まず、大砲の暴発によって死亡した水兵の遺体と負傷者が下船させられた。
海軍の稚内司令部はすぐさま海防艦「占守」を112号轟沈現場に急行させたが、112号艦長・石渡俊一郎中佐以下152名が戦死した。生存者はわずか4名であった。
宗谷岬には第112号海防艦を始めとした太平洋戦争の戦死者を追悼するための慰霊碑が現在も残っている。
緊急疎開・樺太16万人を救え
危機一髪で米潜バーブの襲撃をかわした宗谷丸であったが、僚船の亜庭丸が1945年(昭和20年)8月10日に青森湾で撃沈されるという事件が起きた。
亜庭丸は函館ドックでの定期検査を終えると、7月14日の青森大空襲で壊滅した青函航路の応援として7月23日から青森~函館間での運用についていた。8月10日午前1時半に青森を出港した亜庭丸は空襲から逃れるため、大湊に避難する予定であった。しかし、夜が明け始め、大湊への避難を諦めて青森沖にて停泊していた。6時半、米空母艦載機による空襲を受け、亜庭丸は自衛用の大砲・機銃で必死に反撃したが、力及ばず19時半に沈没した。
宗谷丸は就航以来ともに稚泊航路を支えてきた大切な僚船を亡くしたが、当時稚泊航路関係者で亜庭丸の沈没を知るものは少なかった。
8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄し、樺太への侵攻を開始した。ソ連対日参戦である。
樺太庁はかねてより、樺太侵攻があった場合の住民疎開を計画していた(ただし、この時想定されていたのは米英の侵攻であった)。ソ連対日参戦後の10日、大津敏男樺太庁長官の命で樺太庁は緊急疎開を決定。疎開開始日を13日とし、樺太の各支庁、市町村、警察に疎開要項を通達した。南樺太中の人口約40万人の内、婦女子、老人、病人など約16万人を15日間で北海道に疎開させるという計画であった。
この時、海軍所属の艦艇を始め、民間の商船・漁船など、大きな船から小さな船、たくさんの船が樺太の住民を北海道へと運んだ。もちろん宗谷丸も疎開船として働いた。宗谷丸は北方に存在する艦船の中では大型であり、輸送力が期待された。「亜庭丸もいれば……」と思う人もいたが、亜庭丸が沈没したことはまだ多くの人が知らなかった。
8月13日、緊急疎開の第1船として宗谷丸は大泊を出港した。定員790名に対し、この時の搭乗者は約680名であった。これは引き揚げ準備が整わなかった家庭が多かったためと言われる。
しかし、宗谷丸はこれ以降定員の2倍、3倍の引揚者を乗せて何度も何度も大泊と稚内を往復した。当初は引揚者と荷物の同時輸送を計画していたが、ソ連軍の侵攻が早く、そんな事は言っていられなくなったのである。引揚者は船室だけでなく船員室、調理場、通路、階段、上甲板、救命艇、デッキ非常用発電機の格納庫まであらゆる場所に乗せられた。
8月22日、樺太からの引揚者を載せた「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」の3隻の船が国籍不明の潜水艦(ソ連艦と言われている)に雷撃を受け、沈没・大破した三船殉難事件が発生した。、また、同日宗谷海峡で本斗に向けて引揚者収容に航行していた貨物船「能登呂丸」がソ連航空機に空襲を受け、撃沈された。8月15日に昭和天皇のボツダム宣言を受諾した旨を伝えた玉音放送が放送されたにも関わらず北方海域では未だ潜水艦、空襲、浮遊機雷などの危険と隣り合わせであった。宗谷丸はその危険な宗谷海峡を大勢の引揚者を乗せてひたすらに往復した。
8月23日、宗谷海峡はベタ凪であった。宗谷丸に続々と引揚者が乗り込んでいった。輸送司令部では三船殉難事件の発生により、船に定員以上の引揚者を乗せることに難色を示していた。しかし、福井船長は引揚者の輸送が先決であるとして、多くの引揚者を宗谷丸に乗せた。ところが、まだ大泊港には続々と引揚者が集まっていた。また、人々が密集した船内の蒸し暑さで倒れる引揚者もおり、やむなく乗船中止を命令した。乗船者は、約4500名。定員の約8倍であった。
三船殉難事件の発生、能登呂丸の撃沈により、乗組員にもソ連からの攻撃を受けるのではないかという不安があった。しかし、福井船長は「ソ連側は8月24日18時まで定期船の運航を認める」と言った事、宗谷丸が能登呂丸の近くを航行していたにもかかわらず攻撃を受けなかったことを理由として出港に踏み切った。
23日午後22時、宗谷丸は春日丸など数隻の船とともに大泊を出港した。宗谷丸は乗船者の重みで右に左に傾きながら宗谷海峡を進んだ。引揚者たちは長い間大泊港で待たされ、疲れきっていた。身動きも取れないような船内であったが、安堵感も広まっていた。
8月24日午前4時、宗谷丸は無事に稚内港に到着した。これが樺太からの緊急疎開の最後の船舶輸送であった。
こうして8月24日、宗谷丸の「太平洋戦争」はようやく終結した。そして、それは事実上稚泊航路の消滅も意味していた。
青函航路の宗谷丸
樺太はソ連軍に占領され、稚泊航路は事実上消滅してしまった。宗谷丸はしばらく稚内港に係留されていた。自分の家とも言える稚泊航路を失った宗谷丸ではあるが、戦後の船舶不足は無傷で健在していた宗谷丸を放っておかなかった。
米軍の回航許可を得て、宗谷丸は10月に函館へとやってきた。そして、11月29日より青函航路に就航することになったのだ。
当時、青函航路には戦争を命からがら生き延びた船たちがチャーターされ、就航していた。いわば、寄せ集めであったこの頃の青函連絡船にあって、宗谷丸は大きく、最初から鉄道連絡船として作られた船であり、異彩を放っていた。宗谷丸の乗組員は稚内からの出張扱いであったが、1948年(昭和23年)11月1日に定係港を函館に変更し、乗組員も12月2日に函館船舶管理部に移管した。
しかし、徐々に青函航路にも新造船が就航することになり、宗谷丸の出番も減っていった。1950年(昭和25年)10月3日、宗谷丸は函館第5岸壁に係留された。このまま、宗谷丸は解体されるものと思われた。
石炭運搬船・宗谷丸~そして引退
ところが、宗谷丸にまた陽の目が当たった。1952年(昭和27年)9月1日付けで宗谷丸は広島鉄道管理局に移管された。宗谷丸は石炭運搬船に改造され、室蘭~川崎~戸畑間の国鉄事業用(主に火力発電所に用いる)石炭の運搬任務に付くことになったのだ。
1954年(昭和29年)9月26日、台風15号(いわゆる洞爺丸台風)により連絡船「洞爺丸」などが沈没し、死者1155名を出した洞爺丸事故が発生した。宗谷丸もこの時、一時的に貨客船に戻り、10月14日から12月24日まで洞爺丸台風により多くの船を失った青函航路に応援として就航している。
1955年(昭和30年)には砕氷能力を買われて、日本の南極観測における観測船の候補に選出された。しかし、宗谷丸は国鉄所属の船であり、買収・改造の費用がかさみ、観測までの日時が近づいていたことから、宗谷丸ではなく、同じそ「宗谷」の名前を持つ海上保安庁の灯台補給船「宗谷」に決定された。宗谷より宗谷丸のほうが砕氷能力は勝っており、「宗谷丸がもしも南極に行っていれば……」と想像するファンも多い。
宗谷丸はその後も石炭運搬船として室蘭、川崎、戸畑と行ったり来たり、忙しく働いた。1957年(昭和32年)11月には洞爺丸事故をうけて連絡船乗組員のための訓練船を兼ねるようになった。
宗谷丸は訓練と輸送の2つの重要な仕事を務めたが、1965年(昭和40年)8月11日、老朽化のため、運行を休止。下関港に係留され、10月13日三菱商事に売却され、解体された。
宗谷丸はその33年にも及ぶ長い波瀾万丈の生涯を終えたのであった。
現在も稚内市の開基百年祈念塔にある北方資料館には宗谷丸の模型が展示されており、稚泊航路の往時の姿を知ることが出来る。
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