ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(1848~1916)とは、ドイツ帝国の軍人である。
出自
ドイツ帝国成立に大きな功があったヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800~1891、大モルトケ)の甥。伯父と区別して小モルトケと呼ばれる。
モルトケ家はメクレンブルク地方の古い貴族であり、小モルトケも同地方のビエンドルフに生まれる。
普仏戦争に従軍、士官学校を出て1880年にドイツ帝国参謀本部に勤務、1882年に伯父の大モルトケの副官となる。
アルフレート・フォン・シュリーフェンの後任として、時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の「自分のモルトケを持ちたい」という強い希望で、1906年よりドイツ帝国参謀総長に任命される。
シュリーフェンは、協商を結んでいたフランスとロシアが同時にドイツに戦争を仕掛けてきた時の作戦「シュリーフェン・プラン」を残しており、小モルトケはこれの修正を行っている。
第一次世界大戦
1914年6月28日、サラエボ事件が発生するとオーストリア=ハンガリーはセルビアに強引な宣戦布告をする。
この時、同盟国ということで相談をもちかけられたオーストリアに対し、小モルトケはセルビアへの強硬論を支持し、結果ドイツはシュリーフェン・プランに基づく総動員を発動しロシア、フランスに宣戦布告した。
シュリーフェン・プランは簡単に言うとこんな二正面作戦である。
- まずフランスを全力で攻める。カギは中立国ベルギー経由でフランス領を大きく迂回してフランス軍主力を攻めるドイツ軍右翼で、これを手厚くサポートしてやれば瞬く間に左翼と仏軍包囲殲滅する。1ヶ月半で制圧予定。
- いっぽうロシアは国土が広くて、未発達の交通事情があるからどうせ総動員だけで6週間かかる。フランスを制圧したドイツ軍主力をロシアに差し向ければ、さしものロシアも白旗待ったなし!
さていざ戦争が始まると、ドイツ軍が想定していなかったことが次々と起きる。
まずベルギーの予想外の抵抗はドイツ軍右翼の進撃スピードと兵站に大きな影響を与えた。さらに中立国ベルギーへの侵攻はイギリス参戦の口実となった。
さらにロシアの戦争準備が予想外に早く(ドイツの宣戦布告より先に総動員令をかけていたのもある)、東プロイセン失陥の可能性が出てきたので慌てて小モルトケはドイツ軍右翼から2個軍団を引き抜き東部戦線に派遣。東部戦線はタンネンベルクの戦いでドイツ軍が勝利したことによりなんとかなった。
しかしドイツ軍右翼がやはりというべきか兵站が伸びきって疲弊してしまい、兵力が減らされたドイツ軍右翼に対し対峙するフランス軍やイギリス軍が増強されたこともあり、マルヌ会戦でドイツ軍の進撃は食い止められ、以降西部戦線は泥沼の塹壕戦に突入する。
余生
マルヌ会戦の敗北を受けて「陛下、この戦争は負けです!」と電報を打ったといわれる小モルトケは同年9月に参謀総長を辞任。1916年、コルマール・フォン・デア・ゴルツ元帥の国葬に参列中、脳卒中を起こして病没。
「小モルトケがシュリーフェン・プランをいじったから戦争に負けた」という論調が第一次大戦後いわれるようになったが、そもそも原案も補給の問題を全く無視しており、どちらにせよフランスに侵攻したドイツ軍右翼は兵站の限界を迎えていたといわれる。さらに中立国ベルギーを攻めたらどうなるか考えていなかったこと、ロシアの軍備を過小評価していたことなどは原案でも修正案でも批判されている。
小モルトケは哲学書や音楽が好きで、いっぽう夫婦ともどもクリスチャン・サイエンスを信仰しており、神秘思想家のルドルフ・シュタイナーとの親交があった。
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