山中幸盛単語

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鹿之介といえば88版だろJK

山中幸盛(やまなか・ゆきもり 1545 ~ 1578)とは、日本戦国時代ドM武将。

通称は「山中鹿介(しかのすけ)」だが、講談等で誤って呼ばれた事から「山中鹿之介」とも。

中国地方の雄・尼子に仕え、衰退するを憂いて三日月

「願わくば、に七難八苦を与えたまえ」

と祈った逸話が講談等で良くしられる「山陰麒麟児」と呼ばれた美男子である。 

概要

尼子氏の庶流の出で、一騎討ちで毛利配下の猛将を何人も討ち取っている勇将であり、尼子十勇士の一人に数えられている。(なお尼子十勇士と呼ばれる人物のうち、山中幸盛含む3名以外は架の人物である)

彼の若い頃は資料が少ない上に後世の創作がやたらと多いため曖昧な点も多いが、少なくとも16歳の頃には初陣し、敵の首級を挙げるなど活躍していたらしい。
また彼は山中の次男であったため一度は尼子重臣の亀井氏へ養子に出されているが、当、幸高が病弱だったため呼び戻され督を相続した。

その頃、尼子は名君・経久、久を失い、中がしく動揺していた。
折り悪く先代の久が推し進めていた権握政策により、西日本有数の戦闘集団であった分新宮党や領内の有人衆が相次いで粛清、追放されていた最中であり、若年の義久が当となった中はお世辞にもまとまっているとは言い難かった。(この辺りの経緯は、同じく滅亡した戦国大名である甲斐武田氏に近い)
挙げ句に義久が行った毛利元就との和芸和議」(石見銀山のある石見へ尼子は不干渉とする和議。内容を提案した当の元就は、自軍有利と見るや当たり前のようにこの和議を破棄している)により石見側の尼子勢が崩壊してしまっており、石見銀山も奪われてしまった。

勢いに乗った毛利軍は月山富田城への総攻撃を敢行し、尼子氏前の火となってしまう。

そのため彼は、く手柄を立てて出世しを支えるため、三日月に「に七難八苦を与えたまえ」と願う。

現代に例えるなら、経験値を稼ぐためいきなりハードモードゲームを始めようとするような感覚だろうか。

その後、幸盛はその願いの通り、押し寄せる毛利の大群に対しての如き武勇で立ち塞がり、戦不敗と名高い吉川元春をはじめとする毛利の大軍勢を上久らと共に何度も撃退(つまり元二つ名戦不敗」は誇大広告である)。一騎打ちで武将を複数打ち取るなど、多くの戦果を挙げた。

しかし彼の奮闘もしく、毛利によって月山富田城全包囲された尼子は半年以上もったものの滅亡してしまう。

  • 尼子再軍結成

幸盛は君であった尼子義久に従って毛利へ仕える事はなく、叔父で近習衆筆頭であった立原久綱らと共にの都へ向かう。尼子氏の傍系であり粛清された新宮党の末裔である勝久をの寺より招いて君とし尼子再軍を組織して、のべ三度に渡って出雲の奪回と尼子の再した。

ちなみに彼らは忠臣として名高いが、その忠義はあくまでも「山陰の大名である尼子氏」に向けられていた。
尼子氏戦国大名としては滅亡したものの、生きたまま毛利に降し安芸に移住させられた尼子義久を当とする尼子宗は健在であった。
つまりとしては「再」するまでもなく現存していたのだが、彼らの存在は再軍から全に無視されており、毛利から奪還しようとした形跡もない。
旧尼子領では多くの臣が所領や知行を奪われ「尼子再」に自らの進退がかかった人も多かったため、忠義よりも切羽詰まった理由で参加した者が大半だったのだ。
中をまとめきれずに生きたまま敵の下に入った宗など、最初から必要ではなかったのだろう。

なお、あまりの知名度故に彼を尼子再軍のリーダーや実質的指揮官だった事にする創作が後を絶たないのだが、勇将とはいえ旧尼子臣としてはそこまで地位が高くなかった幸盛は発起人の一人ではあるのもの、少なくとも第一次の頃はあくまで前線指揮官的なポジションであったらしい。
尼子再軍の頭はあくまでも尼子勝久であり、実質的に再軍の幹部だったのは当時の書状などから、立原久綱牛尾弾正中、上久ら旧臣や有人達だったことが分かっている。その辺りの立場の曖昧さも結果として揮系統の乱れや造反による敗北の遠因となったようだ。

軍は毛利に脅かされていた隣の山名氏の後援を得て、毛利軍が九州大友氏との総力戦に挑んだ隙を上手く突くことに成功。
隠岐の島で挙兵すると島根半島へ奇襲をかけ、一時は尼子旧臣や人等を次々と引き入れ6000もの勢となり、出雲をほぼ奪回する勢いを見せた。

しかし九州攻めを諦め体制を立て直した毛利軍に物量、資量、人材など全てに劣る再軍は苦戦。揮の乱れや造反を止める事が出来ず劣勢に立たされる。そして毛利に接収された堅月山富田城を奪回する事がついに出来ず、毛利軍お得意の軍も出撃し日本海沿の制権も奪われてしまい、再軍は敗退してしまう。

敗北して毛利に初めて捕縛された際は、幸盛は赤痢を装って繰り返し厠へ入り見りを油断させ、汚物に塗れながらも脱出してのける執念を見せた。

  • 七難八苦の苦闘

その後、各地の反毛利から支援を受けて再軍は抵抗を再開。鳥取を攻め落とし一時は3000程の勢因幡の大半を手中にするなどしたが、鳥取を担当した旧因幡山名氏や後ろだった隣の但山名氏が相次いで毛利に調略され寝返る、対毛利で協調していた三村氏三浦氏、上氏などが壊滅するなどしてまたしても劣勢に。
そして小早川吉川の両率いる毛利軍が47000もの大軍勢で総攻撃を実施し、二度出雲奪回も失敗した
なお、この総攻撃は再軍の奮戦と、当時破の勢いで西に進軍していた織田の脅威により了しないまま撤退となった。

そこで再軍一党は上京して織田に接近し、その客将として織田軍の下に入り毛利打倒をす。
近畿地方での緒戦で幸盛は繰り返し手柄を立て、名を挙げた。

しかし、羽柴秀吉下に入り宿敵の毛利軍と戦った際に別所長治の裏切りで織田軍の前線が崩れ、尼子一党が拠点とした上が孤立してしまう。
最後は織田信長に見捨てられるかたちで残党軍は壊滅。尼子勝久は自し幸盛は毛利によりまたしても捕縛された。その果てしない執念を恐れられ、毛利臣の福間元明らにより護送中に謀殺された。

憂き事の 尚この上に 積もれかし 限りある身の 試さん

この句は幸盛の辞世の句と言われていたが、明治期の定教材によるもので実際は異なる。

その後、死を悼んだ同僚や子孫らによって各地に多数の墓などが建立されている。

  • 子孫など

息子山中幸元は、武士をやめて摂津にて造業を始めて清酒の醸造に成功し、鴻池財閥の元を築いた人物である。三菱東京UFJ銀行ルーツの1つでもある。(「山中幸盛」の詳細はWikipediaの該当記事exit参照の事)
また、幸盛と共に再軍の一員として戦った亀井茲矩(幸盛の戚とも言われる)は尼子再軍の崩壊時にたまたま別働隊を率いて羽柴秀吉に従っていたため難を逃れ、生き残った者たちをまとめ上げて羽臣として活躍、後に因幡鹿野、そして石見の和野として山陰の地に戻っている。

  • 後世の評価など

その忠義と悲劇の結末が評価され、江戸時代以降には(戦国武将達の色々と盛った逸話の出典として名高い)「名将言行録」などで取り上げられる。その過程でやたらと活躍が誇されたり「鹿之助」と間違って名が広まってしまったり、大半は実在も怪しい「尼子十勇士」なる同僚がセットになったりしたが、これは真田幸村」と同じような流れである。

幕末には尊皇攘夷思想の元祖とも言える思想の頼山陽山陰麒麟児」として高く評価され、その後も勝海舟板垣退助ら名立たる人物に高い評価を受けてすっかり忠臣として名が知られるようになる。戦前楠木正成と並んで君愛国の教材にも使われた。

山陰麒麟児」ゆえ、コーエーの「信長の野望シリーズでも戦闘系としては高めのが設定されている。
しかし隣がよりによってどの作品でも異常なまでに優遇された最強の一である毛利一家のため、大体の場合は物量と知略で苦戦する羽に。

また、ニコニコ動画架空戦記等では、「願わくば、に七難八苦を与えたまえ」の言から「ドM」「M男」キャラ扱いされる事が多い。

関連動画

 

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける山中幸盛の力一覧。   

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 87 政治 85 84 野望 76
武将風雲録(S1) 戦闘 83 政治 64 72 野望 70 教養 55
覇王 采配 78 戦闘 85 智謀 23 政治 59 野望 10
戦才 174(A) 智才 148(B) 政才 92(C) 73 野望 90
将星 戦闘 87 智謀 84 政治 45
烈風 采配 61 戦闘 79 智謀 57 政治 21
世記 采配 73 智謀 52 政治 14 野望 90
統率 73 知略 44 政治 13
下創世 統率 72 知略 37 政治 14 教養 54
革新 統率 74 武勇 85 知略 67 政治 16
統率 76 武勇 85 知略 67 政治 16
創造 統率 77 武勇 91 知略 66 政治 30
大志 統率 76 武勇 97 知略 70 内政 33 外政 46

 

  関連コミュニティ

関連項目 

その他関連項目 尼子十勇士(後太平記 尼子十勇士(立川文庫) 尼子十勇士(常山紀談

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山中幸盛

109 ななしのよっしん
2018/07/13(金) 19:18:24 ID: /4ljkAtrRj
>幸盛は発起人の一人ではあるのもの、あくまで前線指揮官的なポジションであったらしい。
>実質的に再軍の幹部だったのは当時の書状などから、立原久綱副久盛、上久ら旧重臣達だったことが分かっている。

この記事は本当かなあと思う。
当時の書状からなら勝久の書状の袖判に名を連ね、数多くの書状を残しているんだけど。
また、の覚書(造火継旧記)でも再軍の大将山中鹿介介と記してるし、他の覚書や専門書でも鹿介が中心人物としてるんだけどなあ。
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110 ななしのよっしん
2019/05/06(月) 09:50:05 ID: E8AzizXYfK
最大の不幸は播磨の別所氏
鉄血拗らせて反抗したせいで
織田の援護が断たれてしまったこと
でいいのだろうか?
播磨が織田側なら最悪そちらに
逃れて再起という手も取れた

若いが最後は責任取った別所長治
あくまで織田にいた別所重宗はともかく
叛乱の実質的な首謀者なうえに
最期は意地はりすぎて玉砕したら
殺された別所賀相は色んな所から
ヘイト集めた結果佞人扱いされてるし。
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111 ななしのよっしん
2019/06/02(日) 14:57:37 ID: rX+9T41Vwr
幸盛の功績こぼれ話

 幸盛の菩提寺は、戚である亀井茲矩として治めた鹿野近辺に位置していたが、亀井は治世僅かで和野へと転封する事になった
 したがって、幸盛の〇〇回忌などの法事を行う際には、臣を派遣し、他の領内にあるその菩提寺で執り行う形となった
 この任にあたったのが筆頭家老の多胡氏であり、画人を多く輩出する一族でもあったため絵心もあって、和野から鹿野に向かうすがら絵日記を描いた
 一冊の和の和本に、左ページにその日旅した地域の絵図、右ページに日々の日記を記したそれは、何て事のない、武士のお絵かき出張日記となるはずだったのだが
 実は江戸時代因幡近辺の地理土をまめに記した記録史料はそんなに現存していないらしく、意外と重な史料として、後世の研究資料として役立っているのであった

まあ、他地理を絵日記とはいえ簡単に記すのも憚られるご時世であったのだが、先のからの使いの立場、戚の法事で何度も行き来する間柄、筆頭家老の地位、などなど様々な事情が筆を軽くさせた結果と
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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112 ななしのよっしん
2021/02/19(金) 12:53:48 ID: kIYEOHeD+S
二次は本当に凄い
周りが全部敵になってようやく因幡から追い出せることが出来た
信貴山攻めとか丹波攻めとかにも参加してしっかり武功を上げているし、個人的な采配を疑う余地なんてないだろう
三次の終わりは正しく運が尽きたという感じだ
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113 ななしのよっしん
2021/03/01(月) 23:26:33 ID: r5bDlk2c4M
辞世と言われた「憂きことの」の歌の本当の作者江戸時代の儒学者の熊沢蕃山だそうだ。
明治以降に結びつけられてしまったみたいで。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000112366exit
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114 ななしのよっしん
2021/03/24(水) 21:48:02 ID: KxgLMqKKWd
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115 ななしのよっしん
2021/03/24(水) 22:23:52 ID: S+/3QgkaFB
史実でも美形だったらしいしイケメンでも問題いな
ライバル吉川元春とかも来たりして
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116 ななしのよっしん
2023/02/08(水) 20:16:24 ID: xU6CxcY4bO
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117 ななしのよっしん
2023/05/16(火) 16:40:21 ID: mjjqU5YXLc
「願わくば、に七難八苦を与えたまえ」って言った逸話が、
ドラえもんにも出てくるくらいだから昭和の頃までは一般常識レベルの有名人だったんだろうな。
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118 ななしのよっしん
2023/10/24(火) 07:42:16 ID: 0ln3JC3B+V
まあ方面軍指揮官である元と1将の幸盛が直接やりあうことは考えづらいしそこら辺はモロに軍記物よなぁ
大将なのに先切るタイプじゃなかったし
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